006話 ようこそ異世界
一瞬の出来事だった。
夢から引き上げられるような覚醒を覚え、第一の変化としては賑々しい声々が耳を打ったこと。それは言外に無人の秘境からの脱出に成功し、戦場を後にしたことをルカに伝えていた。
妖精門は見た目の想像に違わず、異次元へと転送させるものなのだとルカは理解する。
光明の調節のためゆっくりと眼を開き周囲を見渡すと、見覚えのない路地裏に佇んでいた。紫色に灯るランタンのような照明器具、歪な印の描かれた木扉や暖簾、足元に広がる幾重もの石畳。
下界の光景が脳に染みついたルカの想像とはかけ離れた路地裏を薄く照らすのは、日の入りを間近に控えた茜色の空。
路地裏の先、喧騒のする方に目を向けると、後ろ手を組み待機していたサキノがちょいちょいと手招く。
サキノの招来に従い、通りへと出た瞬間、下界の普通とは打って変わった世界を目撃する事となった。
「はっ……一体全体どうなってんだ……世界の分断なんてもんじゃないぞ。完全に別世界じゃないか」
露店で客引きをしている怜悧な風貌のエルフ、工房で汗を流しながら鍛冶を行うドワーフ、サーカスのような妙技で客を笑顔にする獣人、道行く者、目に入る者の大半が亜人族、亜人族、亜人族。ルカやサキノ、ラヴィ達が生活を営んでいた世界とは、種族割合が逆転した亜人族達の世界。
「ここは『魔界』。私達の住んでいる『下界』とは対照的に、亜人族が大半を占めて生活している、異世界共生譚記述通りのもう一つの世界だよ」
「分断されたって割に世界観というか、発展の仕方が違うんだな。あれとか典型的じゃないか」
隣に並ぶサキノが概要を説明するが、現実にはありえない異世界ぶりがルカの視線に重鎮する。ルカの指差す先に眺望できるのは、まるで王城のような広大で荘厳な建造物。その指の方角は斜め上。
つまり浮遊しているのだ。
原理? 重力? 安全性? 理屈を覆す堂々っぷりは見る者に圧倒的な格差を認識させる。
「魔界は下界とは異なって『魔力』あってこその世界なの。魔力って言うのは魔法を撃つための原動力にもなるし、バジリスクを仕留めた私の『紫電重閃』も魔力によって斬撃を具現化させていたのよ。あの王城もそう、魔力によって浮力を上げて高位を取っているに過ぎないの」
指を下ろしたルカはバジリスクとの戦闘で意図せずに防御した大盾、そして極彩色の長剣を想起し、あれも魔力によるものだったのかな、と自問する。
視線を左右に振ると、その他にも天衝く高層の建造物であったり、半透明の球体に覆われている豪邸のように目を疑うようなものはいくらでも見つかった。
唯一下界と全く変わらないのは壮麗な様相を見せびらかす幸樹だ。相も変わらず都市の中央で厳粛に屹立している。
「元々は同じ世界であっても住民の性質によっては発展の仕方も違う。魔力も使いようによっては至便ってわけか」
「そう。ただ魔界で魔力が必要な理由は別にあるんだけれどね」
「?」
「魔界には下界とは違って『魔物』が生息しているのよ。それも相当数ね。それらから自衛、討伐するためには少なからず魔力を用いて戦えなくちゃいけない」
サキノの顔に少しの陰が落ち、憂うかのように周囲に視線を飛ばした。そんなサキノの横顔を見たルカは先程のバジリスクが魔界を、街人を蹂躙する光景を想像する。
「魔物? さっきみたいなやつがこの魔界に蔓延ってるって言うのか?」
「ううん、一般的な魔物はもっと力が弱い個体のこと。ゴブリンとかオークとかなら聞いたことあるかな? さっき秘境にいたのは『幻獣』って呼ばれる魔物の上位個体だよ」
「……っ」
ルカの心配は良い意味で裏切られることとなったが、次には言葉を詰まらせる。己が普通だと信じてやまなかった下界で暮らしている間にも、サキノは上位だと言われる危険な幻獣と死闘を繰り広げていたのだと悟ってしまったのだから。
胸に違和感が去来するルカを他所に、サキノは言葉を繋いでいく。
「魔界のリフリアには結界が張られていて魔物が都市に侵入してくることは無いし、基本的に幻獣も魔界には存在しない。……けれど極稀にこの都市にも、より強力な幻獣が産み落とされる事があるのよ」
「……都市? 魔界に、じゃなくて?」
ルカは広域に及ぶであろう魔界の何処かではなく、都市と限定的に名指ししたサキノの言葉に妙な引っ掛かりを覚えた。
「そう、都市に。以前幻獣が現れた時の被害は死者百名超、重軽傷者は千人を超したらしいの……」
サキノは簫策たる声音で過去の大惨劇を嘆く。一度は否定されたルカの想像は違う形で現実のものであると証明されてしまったのだ。
斜陽の光に向かって元気に二人の横を通り過ぎていく子供達が、仲睦まじく買い物を楽しんでいる男女が、常に命の危険に脅かされている。
下界ではありえない非日常が、魔界では日常なのだ。
「魔界には戦える人達がいるから被害もこれだけで抑えられているけれど、下界ではそうはいかない」
「下界……? これは魔界の話じゃ?」
「秘境に出没する幻獣は下界と魔界、二つの世界の壁を破壊する生物。討伐しないと世界は併合するのよ」
サキノの口から飛び出した事実に、ルカは瞑目し情報を集約させる。
平穏だと思っていた下界での日常は、もう一つの世界では命を脅かす生物が跋扈し、平穏な日常とは隔絶していて。
その脅威は秘境の内部に出現する幻獣を討伐しないと、下界にも魔物が及ぶ。
「魔界がこのまま危険と隣り合わせでいいってわけではないけれど……世界の併合で魔物が、幻獣が下界に雪崩込めば、対抗策を持たない下界の住人達の被害は類を見ないことになる」
「……一概にも無関係の話じゃないって訳か」
双眸を開いたルカの漆黒の瞳が紫紺の瞳とぶつかり、サキノは静かに首肯した。そして一拍、サキノは深めに息を吸い、決然とした空気を纏う。
「だから、さ、ルカ。その……私――」
「サッキちゃーん! 今日もエッロい身体してんねー!」
「ひぅっっ!?」
張り詰めた空気から一変、背後より抱き着かれたサキノは肩を跳ね上げ、線の細い高声が広い目抜き通りに響き渡った。
周囲一帯が何事かと回頭する中、一人の少女がこれでもかというほどサキノの豊かな胸部や腹部、露わになった大腿部、臀部を揉みしだいていく。
「ひっさびさじゃ~ん?」
「れ、レラ!? ちょ、ちょっと止めてよ、こんなところでっ!」
「こんなところじゃなかったらいいのかな~?」
ニヤニヤとサキノを辱めるような表情を浮かべ、耳もとで囁くレラと呼ばれた人物は大胆過ぎるスキンシップを続ける。柔和な女体が大衆の面前で蹂躙される様を、この時ばかりは誰も止めようとする者はいない。
「こんなところじゃなくても駄目に決まっているでしょう!? それに私エロくないよ!」
「自分の美体……いや官能的肉体に気付いてないな~? 無自覚は罪だぞ~?」
男性亜人族の好色の目を歯牙にもかけず、頬ずりをする翡翠色の髪の少女はサキノの抵抗をものともしていなかった。
「そもそも人違いだったらどうするつもりなのよっ!?」
「サキちゃん以上に綺麗な白髪してる子知らないから大~丈~夫~っ……おや?」
バチンッとウインクいい笑顔。そういう問題ではないことは、当の本人からしたら些細な問題なのだろう。頬を押しのけられながら執拗な再会を遂げた少女は、呆気に取られていたルカの存在にようやく気が付いた。
見たことのないサキノの狼狽にぽかんと口を開けていたルカとサキノの横顔を交互に見た少女は「ははーん」と得心の笑みを浮かべる。
「サキちゃんにも遂に彼氏ができたかー! 今日はお二人でデートですかぁ!? 初々しいねえ」
「だっ、誰が彼氏よっ! ただの友達だよ!」
抵抗とツッコミに体力を削がれたサキノは体を守りながら、はぁはぁ、と盛大に呼吸を乱し、少女は頭の後ろで両手を組みケラケラと笑っていた。
一度深い溜息をついたサキノが息を整えると、げんなりした様子で少女の紹介を始める。
「……ルカ、この人はレラ・アルフレイン。私が魔界で右も左もわからない時にお世話になった『騎士団』の先輩幹部だよ」
「レラ・アルフレインでっす! ルカ君、でいいのかな? よろしくねっ」
「ルカ・ローハートと言います。こちらこそよろしくお願いします」
翡翠色のサイドポニーをビシッ、と叩き元気よく敬礼をする少女。身長はサキノよりやや大きく、細身の彼女は魔界の住人ではあるものの、種族は純粋な人族。右腰には花のようなデザインの徽章が烙印されており、絵柄は異なれど魔界に来たなりに見た歪な印と既視感を覚えた。
「やだなぁ~ルカ君、敬語なんてほっぽいて、サキちゃんと同じように接してよ~。一度会ったらウチ等、もうマブダチじゃん?」
「…………」
「レラの距離の詰め方はいつも異常よね……まだ挨拶しかしていないでしょう?」
中々の破天荒ぶりを見せるレラの勢いに圧倒されるルカと、気にしないでと苦笑するサキノ。
レラと呼ばれる少女はルカを一頻り上から下まで、まるで品定めをするかのように凝視すると、不敵な笑みを浮かべ言葉を排する。
「ふぅん……ねぇ、ルカ君。ウチ等の騎士団に入らない? 今ならなんとサキちゃんの彼氏抽選券もつけちゃうっ!」
「勝手にそんな特典つけないでくれる!? 私の意思はどこ!? そんなのないからね!」
ばっ、と周囲の男性達がレラに振り向くのをサキノは知覚し、すぐさま牽制を入れた。
レラの突拍子もない発言に思うところはあったが、ルカは先程から会話に混ぜられている騎士団の詳細について尋ねる。
「さっきから気になってたんだけど騎士団ってなんだ?」
「……騎士団っていうのは、魔物討伐とか都市外に用向きがある人の護衛を生業にしている人達が集まる組織みたいなもので、騎士団の規模によって受けられる依頼とか、依頼主から直接の指名があったりするのよ」
「サキちゃんルカ君に彼氏抽選券反応してもらえなかったの、ちょっと不満気?」
「べ、別に不満なんて持っていないからっ!?」
「ほんとに?」
「ほんとに! 何で疑うのよ!?」
「ふ~ん、まいっか~。そんなわけでどうかな? ルカ君無所属っぽいし、ウチ等の騎士団はそれなりに大きいしね~不便は無いと思うよ」
おちょくるだけサキノのことをおちょくり、レラは本題へと話を戻す。その隣で置いてけぼりを食らったサキノは更に不満気な面持ちでレラを半眼で睨んでいた。
試験も、人柄や戦力の査閲もなく、問答無用でルカを騎士団へ勧誘するレラは、再度頭の後ろで手を組み、にこにこと返答を待つ。サキノが在籍しているのであれば特に懸念することもないだろうと、ルカはその場の空気に合わせ応じようとする。
「わかりま――しゅ」
「待ってレラ、私達の騎士団って男子禁制でしょう……?」
が、ルカの口に手を当てて言葉を遮り、サキノは言葉を挟み込んだ。
「あ」
「完全に忘れてたでしょう……」
舌をペロッと出して何事もなかったかのように平然とするレラに、サキノはやれやれと片方の眉を上げた。
「残念だな~。サキちゃんのいい刺激になるかと思ったのに~」
「私の……? どういうこと?」
「それだけが全てじゃないけどねんっ。ごめんねルカ君、ウチ等のとこ男の子は入れない規則だったみたい。でも、性別変えてでも入りたかったらルカ君ならいつでも団長に推薦するよ~」
おどけてみせるレラにルカは苦笑いを作り、その時はよろしくお願いします、と律儀に対応する。
勿論サキノは本気にしなくていいからと、これまた嘆息を漏らしたのは言うまでもない。
「それじゃあ、ウチは団長に急ぎの買い物頼まれてたからこれで行くねっ!」
明朗な雰囲気のまま走り去ろうとするレラだったが、数歩踏み出したところで立ち止まり、振り向いた。怪訝な表情で言葉を待つサキノへ、レラは先程のおちゃらけた空気を微塵も纏わず真剣な眼差しを向ける。
「サキちゃん、秘境のことお願いね。ウチ等は出入りすらできないからサキちゃんに頼ることしか出来ないけど……んーん、サキちゃんなら一人でも大丈夫かっ! 余計なお世話だったかな。それじゃねっ!」
「…………っ」
そのレラの言葉に一瞬曇ったサキノの表情を、ルカは見逃さなかった。なぜサキノがそのような表情を浮かべたのかはわからなかったが。
小走りで去り行く翡翠色の頭の尻尾がぴょこぴょこと左右に揺れ、台風のような少女の姿が見えなくなるまで二人はその方向をじっと見続けていた。