054話 雪★
二人の少女がルカの救援に駆け付けた同時刻。
移住したての住処にて小さな耳をピコピコと揺り動かし、マシュロは都市の不穏な喧騒に耳を澄ます。
「この騒ぎは一体……?」
彼女等の現在地は廃工場地帯を三キロメートルほど南下した場所にある狭い路地裏のカフェのような店。窓ガラスは割れ、看板が傾き、随分と昔日に店を畳んだことがわかる隠れスポットのような場所だった。周囲は廃れた建物ばかりで寄り付く人など滅多にいない。しかし数十メートル表に出ればそこは大通りで様々な露店商が列をなしている。
身を隠すにも、物資の調達にも絶好の隠れ家を見つけたとマシュロは鼻高々であった。
「姉ちゃん~飯にしようぜ。引っ越しにかかりっきりで腹減ったよ」
「……お姉ちゃん?」
道具を手際よく片していくゼノンの傍ら、クゥラは窓の外を眺める姉の姿に難色を示す。
何故か嫌な予感が胸から抜けきらないマシュロは尾を萎れさせながら握った拳を胸に宛がう。
日没後にこうまで騒ぎが起こるというのは、最近の事件性から鑑みても都合のいい騒ぎではないのは明白だった。
「……二人は先にご飯を食べてて。私は少し出てきます」
外套を素早く身に纏い、仕込傘『アストラス』を手に携え、新居を後にしたマシュロを二人は呆然と見送った。
「この胸騒ぎが当たらなければいいのですが……」
暗い夜道を一人歩く。影よりも影なマシュロとすれ違う者がいたら思わず悲鳴を上げるだろう。
小径を何本か抜け、光華やかな大通り間際で聴覚を研ぎ澄ませて騒ぎの真相を窺う。人とすれ違ってもいいように蹲り、顔は伏せていた。
『大将、酒追加だ! がっはっは!』
――違う。そんな暢気な情報なんてどうでもいいのだ。
『いいのかい? 夜に出歩いてたら例の指名手配犯に殺られちまうぜ? なんだっけ? マシロ・キメラ? だっはっは!』
――うるさい。失礼だな。マシュロ・エメラだ。間違え方にも程があるだろう。
『って、おいおい、さっきから廃工場地帯で暴れてるって噂の小熊猫達……こっちに向かって来てないか? 追われてるのは……人族ぅ!? マジでこっちに来るぞ! 逃げろ逃げろ!』
人族。その単語を聞いただけでマシュロの体温は一気に沸騰した。
魔界のリフリアに居を据える人族は何万といるのに、だ。
その人物が己の知る人物だと悟るには、どうしてか疑問を持たなかった。
少ない悲鳴が通り過ぎていく大通りにマシュロが飛び出ると、案の定そこには。
「ルカさんっ!?」
「はっ、はっっ! マシュロっ!? どうして出てきた!?」
「えっ!? えっっ!?」
自分を求めての襲撃であることを知らず、まんまと姿を現したマシュロは困惑の縁に追いやられる。
外套を被っても目立つ空色の髪は、追走する小熊猫達からもしっかりと認識でき、息切れを始めていた後続達が途端に元気を取り戻した。
「おい、エメラもいるぞ!! 絶対逃がすな!!」
声を張り上げ背後を追蹤されるルカは、悲鳴が上がる方へと流れに乗じて駆けていく。マシュロも追手が自身と同じ【夜光騎士団】の団員であることを認め、ルカと並走を始めた。
「くぅ……マシュロに会いに来たのは間違いないんだが、こんなタイミングで会わなくても!?」
「あ、会いに来てくれたんですか!?」
「元の住処にな! とにかく今は逃げるぞ!」
「ぴぃっっ!? る、ルカさん、またこのタイセ……」
ぷしゅ~、と顔から煙を吹くマシュロ。その姿は二度目のお姫様抱っこであった。
禁足地へ向かう時の走力を知っているルカは、共に走るより自身が抱きかかえたほうが早いと咄嗟に判断してのけたのだ。
危機感から余裕のないルカの心を知らずか、マシュロは嬉しさと同時に気恥ずかしさを抱きそれどころではなかったが。
「はっ、はっ、マシュロ、俺はこの都市の土地勘が全くない! どうすれば逃げ切れる!?」
「ぴぃぃっ!? か、駆け落ちなんて、そんな、こ、子供達もいますのに……でもルカさんがいいのなら――」
「何寝惚けたこと言ってんの!? 土地勘の話をしてるんだぞ!?」
「す、素敵な廃屋なら、いくつか見つけてあります……ルカさんのお目に適うといいのですが……」
「逃亡生活のオマケつき!? 違う、そういうこと言ってんじゃなくて……っおおっ!?」
物凄い形相で神速の一歩を踏み出した男小熊猫の攻撃を間一髪跳躍で躱し、屋根伝いを走っていく。
「す、すみません! 少し高揚していました……えっと、二百メートル程先にある細径に入ってください。あの細径はかなり入り組んでいて土地勘がない者が追ってきているのであれば恐らくは逃げきれます」
「マシュロ……頼むぞ」
ルカは疲労を押しながらマシュロの指示に従い、全力で小径へと足を駆動させた。
長期の逃走劇により疲労が溜まっていたのはお互い様であったが、最後の命運を分けたのは土地勘。細径に踏み入ってから小熊猫達を撒くのは大して労力を使わなかった。
「おいどこに行った!? この辺りにいる筈だ探せ!!」
「駄目です! 気配すら感じません!」
「この先に逃げたという証言を聞きました! 追いましょう!」
激昂した声々が遠くで木霊する中、細径から抜け出た二人の位置は現在大通りの二本手前。意図的に猥雑な場所に逃げ込み、目を盗んで逃げ戻ってきていたのだ。街灯自体は林立しているが薄暗い街路をマシュロが見張り、ルカの息が整うのを待っていた。
「はぁっ! はぁっっ! マシュロ、助かったよ……」
「いえ! そ、それよりも私のせいでルカさんを巻き込んでしまったみたいで……本当にごめんなさい」
遠吠えさえ遠くへ消えていき、周囲の安全を確保出来たマシュロはルカと同じように小径へと身を潜めた。耳は落ち込み、尾は身体に巻き付き、その悄然とした姿はまた無関係なルカに迷惑をかけてしまったという負い目から。
時間をかけて次第に息が整い始めたルカは己の無警戒から招いた自業自得だと返答しようとするが、その言葉が空に流れ出ることはなかった。
責任の被り合いはルカの求めるところではなかったのだ。
根本が変わらなければ、きっとマシュロはいつまでも自分を責め続ける。
ルカがどれだけ自分の不甲斐なさからだと弁明しても、マシュロは雪を被り続ける。
だからルカは返答を変えることにした。
「一体全体、過去に何があった?」
いつぞやは聞きそびれたルカの問いに、マシュロはビクっと小さな体を震わせた。
踏み込んではいけない部分なのかもしれない。
けれど踏み込まなければならない。
マシュロが全ての重責を振り払うには。
マシュロが深雪の連続から這い出るためには。
「…………」
少女は暫時瞑目した。風の音だけが辺りを席巻する静かな空間。
マシュロはまるで溜息のように小さく長く息を吐くと、手に持っていた『アストラス』の先端をルカの頭部へと突きつけた。
「私は自派閥【夜光騎士団】の団長を殺害した第一級犯罪者マシュロ・エメラです」
三度目の傘の突きつけと同時に泰然と放たれた言葉は真っ直ぐにルカへと。
まるで自分の悪行に恐れ慄けと言わんばかりの豪雪と態度を乗せて。
「そしてここ最近の夜間暗殺騒動の犯人も私です。ストレス発散の為、少々夜道で襲わせてもらいました」
丸く可愛い筈の金眼は凛冽に細まり、ルカの無言の黒瞳とぶつかり合う。
「住処に行ってもいなかったでしょう? 本当はもう二度と会うつもりもありませんでしたが、こうまで出会ってしまっては仕方がありません。口封じのために始末してもいいですが、子供達を救って貰った恩がありますから、ルカさんだけは見逃してあげます。いいですか、私にこれ以上関わらないでください」
瞳の応酬は続く。暗闇に映える綺麗な金色は決意の塊で。
しかしルカは見逃さなかった。その瞳が一瞬揺れ動いたのを。
「撃てよ」
「……っ!?」
「名前も姿もどのあたりに潜伏しているのかも俺はもう知ってる。このまま逃すと俺は直ぐにマシュロのことを言い回る。だから撃って始末しろよ」
「い、いいんですね!? この距離からだと最悪吹き飛びますよ!?」
「ああ、いいぞ。それでマシュロの気がすっきりするならな」
傘がカタカタと震える。
傘の先端に青の魔力が充填されていくが、対照的にマシュロの顔面は蒼白。
顔は引き攣り、呼吸は乱れ、歯はカチカチと奏し、心臓が痛いほどに高鳴っている。
そんな暗闘が数秒続き。
「……ごめん、なさい……」
仮初の悪天が降り止んだ。
力なく腕は落ち、魔力は収束し、マシュロは項垂れる。
似合わない悪人気取りを諭す事もせず、ルカはマシュロへと向き直った。
「何を怖がっているんだ?」
「怖がってなど、いません……私と縁を切る、それがルカさんにとっても最善なんです……」
「俺が身を引けば満足か?」
「私達は陽と陰ですよ……太陽の下を歩けるルカさんと、穴倉の中で生きる私は生きるべき世界が違い過ぎます……」
「陰にいることが本望か?」
「……っ、そんなわけがありません! 私だって太陽の下を羈束なく歩きたい、です……子供達だって……」
「もう一度聞く。何をそんなに怖がっているんだ?」
「……怖、いに決まってます……私に関わった人達が皆不幸になっていくんですから……両親も、団長も、ゼノンも、クゥラも……現にルカさんだって……」
積雪が溶けだす。
深く高く積もった雪が僅かに雪解け水として流れ出る。
少女は自分のせいで周りを巻き込んでしまうことを恐れているのだ。
これまで己に関与した人物達が軒並み不幸に苛まれたように。
だから己を悪人に仕立て上げ、ルカを突き放そうとした。
嫌われようと、愛想を尽かされようと、これ以上ルカに迷惑をかけないように。
自分を信じて何度も救ってくれた少年をこれ以上傷付けさせないために。
「本当のことを教えてくれ。団長殺しも、暗殺もマシュロが犯人じゃないんだろ?」
しかしルカは傷付くことを恐れない。未来に待ち受ける傷付く可能性を厭わない。
少女が初対面のルカを信用したがっていたのは、きっと救いを求めていたからだと感じたから。
日に日に降り積もる降雪に身も心も凍えきって、拠り所を探していたのだと感じたから。
だからルカは応えなければならない。善人でも聖人でもない、ただのお人好しのルカは。
「やっぱりルカさんはずるいです……」
詰問にて追い詰められたマシュロは、少し表情を崩し呟いた。
一面雪景色の中を掻き分けながら行方不明者を探すルカの姿に、少女は遂に真実を打ち明ける決意を秘めた。
「そうです、違います。私の無力が団長を死に追いやったのは事実ですが、団長を手にかけたのは【夜光騎士団】副団長です。副団長のラウニー・エレオスさんに謀られたのです……夜間の暗殺が始まった時期は、私の失踪と同時期で濡れ衣を着せられているようで……恐らくは失踪を好都合と受け取り、誰かが狼藉を働いているのかと」
「ということは都市に出回っている情報は誤情報だってことだ。マシュロが声を上げて間違いを正すべきだろう?」
情報が錯誤しているのなら正しい情報を流布すればいい。聞く耳を持たない者がいたとしても、噂話好きの人間というのは喧伝したがる傾向にある。皆が皆、真実と判断せずとも『可能性』として流布することで、マシュロは少なからず味方を得ることが出来る筈だ。
しかしマシュロは首を横に振り、ルカの正論を理不尽で相殺する。
「弱者に真実を訴える力はありません。全ては強者が決定権を握っているんです……」
「そんなの間違ってる」
「それがこの世界……弱肉強食の世界なんです。副団長は歴とした実力者なので、私程度が愚策を巡らせても一蹴されるだけです。私には変える力はないんです」
話を聞いている内にルカは理解が及んできていた。
『私が犯した過ちは都市を敵に回しても穏当なほどに罪深く、劣悪なのです』
初めて住処に訪れた時のマシュロの発言は、自身の非力によって団長を見殺しにした自責だ。直接手にかけていなくとも、自分を卑下するマシュロは自身のせいで団長が命を落とすことになったと責任を感じているのだろう。
何よりも抗うことさえ許されない力の壁がマシュロを縛っている。
事件の根元、そしてマシュロの不幸の一端は副団長とやらにあると。
圧倒的実力を誇る副団長という人物をどうにかしないことには、マシュロはずっと罪悪感に降られ続け、積雪の中で凍え尽きてしまう。
魔界の状勢やシステムに疎いルカはどうしたものかと頭を悩ませる。
己のことのように懊悩してくれるルカに、剣呑な雰囲気は抜けきって自然と眉が下がってしまうマシュロ。
そんな二人の元へ、一つの足音。
トットットットッ。
ただの住民の可能性もあるが、先程まで追いかけっこを繰り広げていた地帯だ。追手の可能性も否定は出来ないルカ達は息を潜める。
トットットッ――ドッッッ!!
靴音が――心音が跳ね上がる。
(コイツはマジでヤバい!!)
今までに感じたことのない激烈な警戒心は、ルカの心臓を破裂寸前にまで殴打した。
「マシュロ逃げろ!!」
「え? でも……」
「いいから早く!!」
「はっ、はいっ」
禁足地でも至って冷静を貫いていたルカの張り詰めた疾呼に、マシュロは肩を飛び跳ねさせルカに背を向けて逃走を開始する。
逃げるのならば一緒に。マシュロが続ける筈だった言葉を一瞬でも鵜呑みにしようものなら両者とも未来はなかっただろう。
対峙すらしていないのにじんわりと浮かぶ嫌な汗、自然と戦闘態勢に構えさせられる重圧感。
マシュロに逃走を命じたものの、己に足止めが務まるのかという疑問。
足音は一歩、また一歩と接近を止めることはない。
「参ったな……ついこの間ミュウ戦したばかりだってのに……」
ルカは今日、初めて己の運命を嫌悪した。
街灯に照らされルカの前に姿を現したのはファーコートを羽織った長身の男。追手達の風貌の類似点から小熊猫と判断出来るが、類を見紛うほどに全てを見下している鋭い三白眼。橙黄色の長髪は殺気に塗れ、手首や首の堅牢な鎖のアクセサリがまるで畏怖の象徴のように揺れる。
「てめェがここ最近エメラのお守りをしてるって野郎かァ?」
周囲の重力を懐柔させたかのような重低音が圧という圧としてのしかかる。
割れた腹筋から想像出来る屈強な筋骨は既に臨戦態勢。ほとほと面倒臭そうに眼前のルカを見下す男は脚を止め、首をゴキゴキッと鳴らす。
「……お守りをしてたつもりはないが、差し出せって言うのなら断固拒否だ」
男の目論見を先読みしたルカがビリついた空気の中返答する。下手な誤魔化しや探り合いなど無益だと本能が警報を上げていた。
ルカはあらゆる事象に対応可能な視野広角――未来予知を発現、二人が対峙する閑散とした闇夜の中に橙黄色がぼんやりと光を灯す。
そんな小細工を巡らすルカに男は失笑し、
「誰が雑魚に決める権利を与えた? 自惚れてんじゃねェ!」
暴虐の突風が吹き荒れた。
(速――っ)
瞬間的に姿を消した男の突貫にルカは反射的に身を反り返らせる。
躱した筈の頬に裂傷を残したのは男の右裏拳。ルカの橙黄眼の双眸が痛痒に歪む。
「くっっ!?」
「あァ?」
よもや初見の一撃が躱されると思っても見なかった男は怪訝な声を上げるが動揺は一毛も無く、間断も攻撃の手を緩めない。裏拳の流れを味方につけ、遠心力を纏った渾身の独楽蹴りをルカの腹部に叩き込んだ。
「があッッッ!?」
油断はなかった。いや、油断など出来ようもない。
寧ろルカの判断は正しく、視野広角による予知まで行っていたのに、だ。速過ぎる初撃は辛うじて擦り傷に抑えたものの、俊敏過ぎる連撃は予知が出来ても身体が動かなければ意味を成さないと。
骨が悲鳴を上げる音を内耳に捉え、追い討ちのように壁に叩きつけられたルカは背中を強打する。
「がっ……っ!? っは、!?」
煉瓦造りの壁がバラバラと崩壊を余儀なくされる高威力に呼吸すらままならず、倒れ伏しながらルカは喀血する。
下界よりも身体能力が向上しているとはいえ、翠眼の身体強化を施していない生身のルカにとって、遠心力を加えた男の渾身の一撃はあまりにも激烈過ぎた。
「エメラの奴、この先に逃げやがったか……無駄手間かけさせてんじゃねェぞ面倒臭ェ」
気だるげに一歩を踏み出しマシュロの追尾を図る男に、ルカは歯を食い縛り立ち上がる。
口の端から溢れ出る血を乱暴に拭い、再び男の正面に躍り出た。
浅い呼吸に眩む視界、痛む腹背は既に戦闘を継続出来る状態ではない。
しかしルカはこのまま素通りさせてしまえばマシュロが捕らわれるのも時間の問題であると感じ、危うげに立ち塞がった。
「ま、待て……」
「雑魚に選択肢はねェ。どけ」
「……行かせ、ない」
既に決した戦闘の敗者を無感情に放逐する男だったが、ルカは譲れない。
「おい――」
瞬間、声音も空間も男の圧も何もかも全てが変容した。
顔面に広がる圧迫、宙に浮く身体、背部に走る激痛。
気づけばルカは顔面を握られ、男の渾身の力によって叩き伏せられていた。
「ぐあぁぁあッッッ!?」
ルカは、一度見た。
男の肉体が黄金色に包まれた瞬間、消えたと錯覚するほどの速度と異常な程の膂力が解放されたことを。
地を割り、更なる血液を口と後頭部から垂らすルカへ男は苛立ちを滲ませる。
「言葉の意味が理解出来ねェのか? 俺様は『どけ』と言った筈だ。従えェ!」
「はっ、はっ、はっ……」
未だ頭部を握り締めたまま怒号を放つ男の姿に、ルカは瞬間的に右手に長剣を創造。反撃を試みる。
しかしバキィッ!! と。
「~~~~~~~ッッ!!」
振り上げようとした右腕は全力の踏鳴によって踏み折られた。
瞬間的な激痛は苦鳴を上げることすら叶わず、上部から男の蔑視がルカを突き刺す。
「あァ、もういい。学習能力すらねェ雑魚は――死ね」
あまりもの『傲慢』。度を越した暴力癖がルカの喉元に牙を剥く。
男は腰の後ろに提げた鞘から短刀を抜き、なんの躊躇もなく振り下ろした。
「ちょっと! 何して――」
聞き覚えのある凛麗とした声がこの時ばかりは逼迫した危機感に塗れるが。
その声が刃に届くより先に、翡翠の影が爆発的加速力を持って飛び出していた。
「チッ!」
正面から急迫した影に短刀は制止、舌を弾きながら彗星の蹴撃を回避した。
身軽な動きで何度かバックステップを踏み、纏っていた黄金の外包を霧散させ、後方に着地した男は短刀を鞘にしまいながら侮蔑の言を排する。
「おいおい、人の喧嘩にしゃしゃり出てくんじゃねェよ【楽戦家】」
「喧嘩ってレベルじゃないでしょうが!? ルカ君のこと本気で殺すつもりだったでしょ!? あんたの殺気本物だったよ!?」
「雑魚をどうしようが俺様の勝手だろ」
看過出来ない男の傲慢にレラが険しい尖鋭な視線を飛ばす。
初めて見るレラの本気の激昂に守られ、駆け寄るサキノがルカを支え起こした。
「ルカっ、大丈夫――」
「ふっ、ふっ……」
返答が出来ないほどに痛めつけられた凄惨なルカの姿に、サキノは心臓が猛烈な震えを覚えた。
レラの背後でまるで猛獣のような眼光を男へと向けるが、既に火花散る猛獣同士の睨み合いに入り込む隙間などない。
「これ以上やるって言うならウチが――クロユリが相手になるよ」
ステラⅡに分類される【クロユリ騎士団】のある種の『脅し』。幹部という役職からある程度の決定権を持つであろうレラが放つ言葉は、対個人ではなく騎士団としての衝突も辞さないと。
「てめェの独断で全面戦争かァ? 俺様は構わねェが、てめェんとこの団長はどう思うだろうなァ?」
「っ!」
しかし男は微塵も動じない。
抗争には多大な罰則が付き物だ。特に派閥階級が高ければ高いほどに罰則は重くなり、それは力を持つ騎士団が目の上の瘤を排除したり、独裁国家を作らないための予防措置である。【クロユリ騎士団】団長ソアラ・フリティルスがサキノへ忠告したように、ステラⅡの階級である騎士団が格下相手に自発的に抗争を始めたとなれば、総員百名を超える騎士団としては致命的だ。
脅しをかけているつもりが、一転逆手に取られる状況にレラは臍を噛んだ。
しかし毛頭引くつもりはないレラは男を睨み付ける眼光を収めない。
生温かく不穏な風だけが周囲を吹き抜け、二人の暗闘が続いた。
「……まァいい、今日はそいつを始末しに来たわけじゃねェからな。エメラも完全に見失ったが……おいそこの雑魚、覚えておけ。次にラウニー・エレオス様の邪魔をした時がてめェの最期だってこと、その足りねェ頭に擦り切れるほど刻み込んどけ」
鼻を鳴らして男は――ラウニー・エレオスは自身を恐怖の象徴としてルカに最終通告をした。
強がりすらも吐けないルカに本日一番冷たい視線を浴びせ、ラウニーはファーコートを翻して闇の中へと消えて行った。
徐々に張り詰めた空気が日常を取り戻していき、戦闘態勢を解除するレラ。
ルカを保護するといった目的は達成したものの、レラは解消されない不本意を、そしてサキノは今後への一抹の不安を胸に抱いていた。
± ± ± ± ± ± ± ± ± ± ± ± ±
一方、ルカ達の追手が駆け抜けていった細径、その高層の建物の上。
気紛れによりとある少年達の逃走の手助けを終え、目を凝らしながら一方的な暴虐を傍観していた赤髪の少女――ミュウ・クリスタリアは妖艶に脚を組みながら膝の上で頬杖を突く。
「だから妾は逃げろと申したのに……全く、利かん坊じゃの」
溜息と辟易を漏らし、都市の趨勢に目を配りながら暇を潰していた。




