005話 異世界共生譚(ファンタアリシア)
薄蒼の世界は日常ではありえないほど凄惨な破壊の傷跡を刻んでいた。
死者はゼロ。街人の迅速な避難や創作物で使われる防御結界などといった特別な処置は行っていない。何故ならこの世界には命あるものは本来存在しないからだ。
そんな無人である筈の世界に、一人の手負いの少年と凛然と佇む少女の姿があった。二人が見据える先には都市破壊の原因の怪物。暴虐の限りを尽くした怪物は事切れ、巨体を地面に横たわらせていた。
その姿形は徐々に透明色へと透過し、まるで空へ還るように光の粒子へと分解されていく。周囲に漂う泡沫と同等にゆっくりと。
少女は納刀した刀の柄を握って万が一の事態の為に臨戦態勢を維持していたが、モンスターの分解を実見すると肩の荷を下ろして踵を返した。
ルカの黒瞳に映し出される可憐な少女は紛れもなく、あのサキノ・アローゼだ。今日も学園で会って、帰り道に洋菓子を食べて幸福に懐抱され、明日の再会を望んで別離したあのサキノ・アローゼ。日常の中にしかいる筈の無い彼女が何故ここに、とルカが改めて疑問を抱えていると少女は眼前で歩みを止める。
「ルカ、体は大丈夫?」
「五回程死にそうだったけどなんとかな」
「ここはそういう場所だからね。でも死んじゃ駄目だよ、絶対に」
眉根を下げ思考に暮れていたルカへ、憂い顔をしたサキノは尋ねた。
そんなサキノの問いに、身体の損傷を真偽の曖昧な事実で誤魔化そうとしたはずが返って来たのは肯定の言葉。危険であることも否定しない真っ向からの警告に、益々サキノがこの地に居る理由が混然としてしまう。
何はともあれ命を救われた事は確かで、ルカは頬をやや引き上げ礼を口にする。
「サキノありがとう、助かったよ」
「ううん、私は私に出来る事をしただけ。まさかルカがいるなんて露ほども思わなかったから、びっくりしちゃったけれど」
「お手本のような二度見だったもんな」
「あれは仕方ないでしょうっ!? 誰だって二度見するよあの状況!」
まるで日常に戻ったかのような平穏な会話が飛び交い、サキノの顔が羞恥に塗れる。赭面した頬を膨らませ、ぷりぷりと怒りを露わにしてルカを睨み付けていた。
「ごめんごめん。それにしてもここは一体全体何処なんだ? 何が起こってる? サキノがいることもよく理解出来てないけど……やっぱりここは異世界ってことだよな?」
「違うよ?」
「まぁ、そうだ――違うのかよ!」
完全なる前振りに肩透かしをくらった気分でルカの声が思わず荒ぐ。逃走、戦闘を繰り広げる中、ルカの中では十割方異世界だと方向性が固まりつつあったのだが、まさかの否定によって白紙に戻された。
「んー、現実とは異なる世界、って見れば異世界だって表現に間違いはないけれど、本当の異世界は別にあるよ。ここは私達が暮らす『下界』と、そのもう一つの世界『魔界』の狭間にある空間。名を秘境と言うの」
「下界に魔界、ね……」
両眼を眇め、腕を組んだルカは人差し指で何度か腕を弾き、脳裏に浮かんだ一つの懸念の正答を確認するように弾き出す。
「『異世界共生譚』、か?」
『異世界共生譚』。
古来より伝承されてきた人族と亜人族にまつわる一つの仮説、又は実話。何度も学者達が論争を繰り広げ、未だに決着がつかない言い伝えである。
元々世界は人族と亜人族が同数ほどで共生し、互いの得手不得手を理解し補い合う、そんな友好的な関係だった。人族が知恵を絞り、狩猟をエルフがこなし、ドワーフが建築や力仕事などを担当する。そんな微笑ましい日常がこの世界に存在していた。
しかしとある戦乱時代。亜人族が戦争のために当時噂になっていた『神の力』を利用しようとし、神の逆鱗に触れた。亜人族の蛮行の結果、世界は二つに分断され、人族と亜人族は共生の道を断たれてしまったのだという。
多様な解釈や、尾鰭が付いて回り、文献には異なった形で書かれていることも多いが、下界に住む全ての者が知る異世界共生譚の内容。根も葉もない言い伝えだが、亜人族が下界に少数存在するという事実が、牽強付会の原因となってしまっている。
そんなルカの推測をサキノは首肯した。
「そう、異世界共生譚は実話だよ。……それにしてもルカ、驚かないのね?」
「人の想像力ってのは無から有を生みだすのは不得手……いや、不可能らしいからな。作り話にしろ神話にしろ実際に見たり体験した者がいる。それを周囲と不調和にならないよう面白おかしく、または崇拝対象に祀り上げ伝播された結果だと捉える方が説得力に足る、と俺は思う。だから異世界共生譚が実話だと言われても得心の方が強いかな」
世の話譚は奇人による妄想ではなく、史実のものだと。実際に起こった出来事を、民衆に気が狂乱したと思われぬよう脚色を加え、武勇伝に仕立て上げたのだとルカは談ずる。
「ルカって本当、適応性高いよね……常識外のことなのにさ。びっくりして絶叫でも聞けるかと思ったけれど残念」
「二度見の件まだ根に持ってるだろ!?」
「ふふっ、どうだろうね?」
白髪の少女は少しいじらしそうに微笑むが、二度見の不覚は忘れてはいなかったようだ。
こんな秘境の地でも艶やかに笑うサキノはうんっ、と自決すると数歩後退しルカを誘った。
「ルカ、着いてきて」
痛みを押し殺しながらルカは先導するサキノに続き袋小路を抜け、バジリスクが蛇尾を引きずった轍を辿る。海中のように蒼に澄んだ空間で辺りをきょろきょろと見回しながら歩くサキノは、都市で繰り広げられた逃走劇を察し、ルカの生存に安堵した。
「それにしても、ルカが生きていて良かったよ……」
ちらちらと背後を顧みて、ルカの歩調を気にかける。
「逃げ回るので精一杯だったけどな」
「命あってこそだよ。私も最初はよく逃げ回っていたよ」
「……サキノでも逃げることあるのな。サキノはいつからこうして戦ってたんだ?」
純然過ぎるほどに真っ直ぐな稟性からは想像に難いサキノの逃走劇の過去に、ルカは言葉を持て余す。同時にサキノの戦闘の姿を脳裏に思い返すルカは、決して短期間のものではないと確信を得ていた。
「私も大して長いわけじゃないよ……っと、あったあった」
心配は不必要、詮索に危惧の念を抱いているかのように、ルカの質疑ははぐらかれた。
異空間の中を歩くこと数分、サキノは一つの路地裏へと足先を転ずる。その先に待ち受けていたのは、おそよ直径二メートルほどの淵を多彩な光柱が立ち昇る円型の空間。まるで光が差し込む鍾乳洞のようで、周囲の景観と相まって神秘的な様相を呈している。
「これは……?」
「これは妖精門。私は門って呼んでるけどね。秘境と各世界を繋ぐものだけれど、行く先は……まあ、百聞は一見に如かず。行ってみたらわかるよ」
サキノは安心して、と笑顔で大雑把に説明すると何の躊躇もなく、妖精門の中に足を踏み入れた。ルカが見守る中、間を置かずサキノの身体が精彩な光膜に包まれ、その姿を消失させた。
「分断された世界だろうな、きっと。……普通ってのは、一体全体どこまで行けば普通なんだろうな」
独白を漏らしたルカはサキノに倣い、同様に光立ち昇る円柱に身を捧げる。
確かな熱量を感知出来る温かな安心感、優しい光量に全身が包まれたかと思うと、僅かな浮遊感がルカを誘った。妖精門では不安や緊張という概念が存在しないのではないかと見違うほどに一切の不快感なく、刹那的にその姿が消失する。
こうして秘境には人の一人、異質の生物一体すら姿を消し、静謐だけが取り残されたのだった。