003話 「また明日ね」★
通りの向こうから袋小路へと歩を進める異質の象徴――幻獣バジリスクに、ルカは整い始めた息を潜める。
「…………」
不幸中の幸いと言うべきか、居合わせたのは偶然とばかりに袋小路に進入したバジリスクは辺りをきょろきょろと見回しており、どうやらルカの的確な位置を把握しているわけではないらしい。
絶望路線まっしぐらであったルカに極細の希望の糸が垂らされ、横目で窓の奥から相手の動きを見張る。
停止する歩調、四顧する鶏頭、咽ぶ大気。
翻る体躯、動き出す時間、解放されるルカの吐息。
――かち合う、視線。
「っ!?」
大蛇と視線が、交わされる。いや、大蛇は最初からルカを捕捉していた。
蛇という生物はピット器官という赤外線で熱を感知できる特性を持ち合わせており、それがルカの存在を見逃さなかった要因だった。故に、熱が存在しないこの空間において逃げ切ることは元から不可に等しかったのだ。
そんな蛇の尾が、動いた。
蛇尾は去ろうとする本体とは裏腹に伸長し、ルカが潜む建物を豪快に貫通する。
「うっ!? 常識なんて全然当てにならないな!?」
重砲もかくやというただの驀進に、レストランの三階は足場が崩壊を迎える。崩落に巻き込まれることを嫌ったルカは窓から身を乗り出し、正面に構えられていた庇へ、そして地面へ着地した。
「ぁぐっ!?」
痺れるような足の痛みと、削片による全身打撲がルカの双眸を狭窄させる。
「最悪……」
飛び降りた先は当然袋小路の中。蛇尾の攻撃によって再度背後へと目を向けた鶏頭は気炎を吐き、ついに追い詰めたとその場で何度も軽く飛び跳ねる。
ルカを窮鼠へと仕立てた大蛇は元の長さへと戻り、本体の横で揺れながら二対と一対の瞳が対峙する。
絶体絶命の窮地に、ルカは動く限りの思考を高速回転させた。
(この袋小路から出るにはどうにかして掻い潜らないといけない。蛇の攻撃に注意しながら本体をあの場から引き離せれば……)
ルカは冷静だった。蛇の尾の独立行動は本体の意思との食い違いから推測できるが、対面時も、追走時も、主動は本体であること、あくまで大蛇は最終的な行動を取っていると感じていた。故に、重きを置くべきは本体の動きであることを自ずと理解していた。
しかしながら伸長にも注意しなければならない。毒を携えた攻撃は一度掠るだけでも何らかの痛手を被ることは推して知るべしだった。
結論。本体の突撃を何とかして躱し、出口に隙が出来た際に全力で駆ける。ここにはいない誰かが聞けば根性論かと噴飯ものの策だが、それ以外に選択肢は思い浮かばない。
生温かい風が袋小路内を螺旋し、半壊したレストランから一つの欠片が地に音を立てて落ちた。
最初に動いたのは蛇尾。追い詰めた余裕からか獲物に向かっての突撃ではなく、左壁に沿うように迂回する行動を取る。
「本体が主動だって、今読み切った筈なんだけど!? ……尽く裏をかきやがる!」
間髪ない推理の裏切りに遭い、大蛇に視線を取られる。早急に対応優先順位を大蛇に組み直し、巨大な本体を視界の端にぼんやりと認める。本体が動けばあの巨体だ、嫌でも目に入る、と。
そう、視線を蛇尾に奪われてしまった。
視界の端で本体が動けば、一気に……。そう決然と敢行を意気込むも。
それが悪手だったことに気が付いたのは、鶏頭の舌撃による激痛を憶えた後だった。
「がッッ――――」
舌の射出。蛇の陽動に一瞬の隙を晒したルカの腹部へ突き込まれた渾身の一撃。
ルカは吹き飛び、石材の壁に背を打ち付ける。
「っぐぁ……っ!? ぁあっっ――」
焼けるような激痛が腹背から圧迫しながら臓腑を襲い、呼吸を鷲掴みにする。喉が喘ぎ、酸素を求め眼前は明滅、骨は軋み、筋肉は痙攣を起こしたかのように継続的な危険信号を出し続けていた。
それでもルカは体を起こしそうと試み――失敗。ぐったりと壁に背を預けて項垂れる。
(はぁ……)
体中の痛哭、意識の混濁にルカは心の内で溜息をついた。
(逃走は無理、仮に上手くここから逃げられたとして、いつまで同じことを繰り返せばいい?)
抗い続けた心が、闘争心ならぬ逃走心が折れた音がした。
『ギャギャアァァァッ!』
バジリスクは舌も尾も手元に戻し、再度ルカへ止めの舌を射出する。
ルカの心を砕いた攻撃が、最大威力にして命を奪うために伸ばされていく。
(諦めるなという方が無理だろ。もう、十分だ――)
進展がない以上、これ以上の抵抗は不毛に過ぎないと。
不条理に殺されるのは納得いかなかったが、抗うだけ長く苦しむだけだと。
脅威に無力は道理。至って不可思議なことなど何もない。
誰も自分を責めたりなどしないだろう。
――敵わないのが普通なのだから。
迫りくる舌撃にルカは諦念を知覚した。
そう、いつも自分は普通に縋り、生きていただけだっただろう。
最期に他者と遜色なく死ねるのならば。
そういった運命ならば、訪れる死でも甘んじよう。
ルカは掠れた瞳をゆっくりと瞑目した。
――『また明日ね』――
ズキンッと。
鼓動の律動が乱れ、現実に叩き起こされる。
ふと脳裏を一過した、それとない別離の言葉。
走馬灯と呼ぶには短く、追憶というにはあまりにも儚い一言。
何気ない『日常』の約束。
そんな約束を破ってしまったなら。
明日、姿を現せなかったとしたら。
彼女達はどんな顔をするだろうか。
どのような感情を抱くのだろうか。
わからないわからないわからない。
けれど。
しちゃ、いけない気がする。彼女達がそんな顔を。
させちゃ、いけないと思う。彼女達にそんな瞳を。
少女達の花のような笑顔を、失わせてはいけない!
不明瞭なりの『不快感』をルカは明瞭に知覚した。
「ッッッ!」
瞬間、紫紺に染まった瞳を見開き、ルカの意志が意図せず手を前にかざしていた。それが防衛本能だったのか、生存本能だったのか、あるいは抵抗の手立ての萌芽だったのかは与り知らないところではあるが。
かざした手の正面に突き立っていたのは漆黒の大盾。
自身の精神を瀕死にまで追いやった化物との対峙を一時遮る遮蔽物は、繰り出された舌撃を難なく防ぐ。
困惑と怒気が渾然となった怪物は力を誇示するかのように、苛立ちを発散させるかのように舌の連撃を盾へ見舞う。
ガンガンと鳴り響く衝突音に委細構わず、ルカは追懐と定められた死を堰き止めた心の不快感に入り浸る。
「……こんな時に二人を思い出すなんて、ラヴィの解答もあながち的外れだとは言い切れないみたいだな」
――『ルカがあたしの事を考えてて負けたに一票!』――
甘味争奪戦時にラヴィリア・ミィルが放った奇想天外の解答は、奇しくもルカの再起の促進剤となろうとしていた。
死期間際に想起すべきことではないと認めつつ、それでも。
諦念と決裂させてくれたことに多大な感謝を心の内で告げた。
「いいわけないよな……俺が普通を求めて、二人の普通を奪われるなんて」
咽ぶように疼く胸の違和感。身体的痛痒とは異なるその違和感。
初めて抱く、謎の不快感。
少女達の、己が亡命することで誘発する負の日常を嫌って。
ルカは確かなる【嫌悪】を抱いた。
逃走心を着火材に、闘争心に火をくべる。
――痛い。痛い痛い痛い、けれど。まだ動く、まだ動ける。
ルカは精疲力尽の体を叱咤し立ち上がった。
――苦痛に負けて奪われてたまるか。彼女達の約束届かず失ってたまるか。
深く息を吸い、決意とともに力強く吐き出す。
――彼女達が気付かせてくれたこの不快感はきっと、普通であるために特別なものだから。
消失させた大盾から姿を現し、撃ち倒すべく脅威に想いを解き放つ。
「返してもらうぞ。俺達の日常を――ッ!!」
漆黒の瞳に八芒星を刻み、極彩色の長剣を右手に宿し。
ルカ・ローハートは生まれて初めて真に願った。