197話 自覚してしまった大病
「ぅゆぅぅぅぅ……ゆぅぅぅぅっっ……」
「ラヴィ、何しているの?」
登校日。夏休みとは言え学生には登校日がある。強制ではないものの、下界に住む者として将来の事を考えれば登校しておくに越したことは無い。
アスファルトに落ちた汗が数分を待たない内に蒸発する真夏日に、涼しい校舎でラヴィは扉の陰に隠れて教室の最後方窓際で考え事をしている一人の少年の様子を窺っていた。普段ならば久しぶりの再会――ラヴィは二日と持たずルカエネルギーが不足する――に抱き着き、離れず、愛を振り撒き、惚け、暴走する筈が、どうしてか近付こうとしないラヴィを不審に思い、学園での依頼を終えたサキノは汗を湛えながら声をかけた。
「ルカの観察」
どう見てもそうだろうと、誰から見ても丸わかりな答えが返って来た。意外も意外なルカとラヴィの距離間に、周囲のクラスメイト達は「痴話喧嘩?」「離婚調停?」など好き勝手言いたい放題だが、それさえも懊悩しているルカの耳には入らない。
サキノにはルカが悩んでいる原因に思い当たりがあり、大方活発化してきた騎士団の運営について悩んでいるのだろうと判断出来たが、そのことを部外者であるラヴィに伝えるわけにもいかない。そのため珍しく周囲が見えていないルカにラヴィが辟易したのだろう、と思ったが。
「夏休みに入ってあたしも忙しかったからルカをストー――管理出来てなかったのも悪いんだけど、ルカからオンナの匂いがするのっ!」
「ストーカーって言おうとした?」
ラヴィがルカの様子を窺っているのは、言葉の通りルカから他のオンナの匂いがしたからだとラヴィは鼻をすんすんさせながら断言する。久しぶりの再会にルカに飛びつこうとしたラヴィは一瞬でその匂いを感知し、大いなる衝撃を受けた。己の眼の届かない所でまさか進展があるとは、自分より恋愛においてリードしている女がいた、何より自分以外の匂いを付けられるとは屈辱も屈辱だと、普段は考えもしないような強迫観念がラヴィを襲い、恋の病を悪化させていたのだ。
しかし魔界で【零騎士団】を設立してから行動を共にすることが多くなったサキノは、ルカの行動は大方把握している。帰結としてラヴィに他言出来ないサキノは「うーん」と思い悩むふりをして誤魔化すことにした。
「気のせいじゃないかな? 私も夏休みはバイトで忙しかったけど、ルカが誰かと出歩いてたなんて話聞いたこと無いけど……」
「サキノ。ルカの事どれだけ考えてるの?」
「ふぇっ!? な、なんでそんな事聞くの!?」
「あたしは三百八十六日二十九時間常にルカの事考えてるの。たかだか数日会えなかったくらいで、変化に気付かない程あたしの感覚は狂ってないんだよ」
「あ、愛が凄すぎて色々超越しちゃってるよ……」
まるでミクロの変化も逃さないとでも言うかの如く、可憐な顔が取調官のように険しくなるラヴィに、唐突な質問に挙措を失いかけたサキノは苦笑する。
「あの匂いは今までに嗅いだことの無い匂いだよ。これまでにない強敵の匂い!! うゆぅぅぅ! 何者なんだぁ~!?」
頭を抱えるラヴィは黄金のツインテールをぶんぶんと振り回す。ぺちぺちと鞭のようにしなる二本の髪の襲撃を受けながら、サキノは苦笑の裏側でチクリと胸が痛むのを感じた。
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その夜。薄い明かりがついた自宅の寝台で目を瞑り、就寝しようとしていたサキノは。
(き、気になる……)
眠れずに既に二時間が経過していた。カチカチと鳴り響く時計の音、耳を澄まさなければわからない程の寝台や壁が軋む音、風の音。普段ならば気にもならずにすんなり眠りに入れるはずが、ラヴィの一言が原因で頭の中を、心中を渦巻き、一人憂悶していた。
それがラヴィが発した『強敵』という言葉だ。ラヴィに強力な恋敵とまで言わせるほどの存在に、自身の気持ちに気が付いたサキノが受け流せる筈が無かった。
(ルカに女の子の匂いって……一体誰なの!?)
ルカに限って恋人なんてあり得ない。恋愛にも心の機微にも疎いルカが。
だがしかしルカを好いている女性は確かにいる。下界では一番の有力候補ラヴィが。そして魔界では気持ちを隠そうともしないマシュロが。そして自覚はしているが、未だ素直になれない己が。
(あーもぅ! さっきから同じ事しか考えていないじゃない!? 寝る! もう寝るんだから!! もう考えない! ぜーったい考えないからぁ!!)
ともぞもぞと体勢を変え、無心を決め込む。
しかし。
(騎士団の活動が増えてきてるからマシュロさんの可能性あるよね……それをラヴィが嗅いだことの無い匂いって勘違いして……いやでもマシュロさんと行動するようになって日が浅い訳じゃないし、あのラヴィが嗅いだこと無いって断言するかなぁ……?)
駄目である。
気が付けば頭を支配するのは恋敵のことばかり。
サキノの頭は既に人生初の乙女モードに入っていた。
(接点がある人と言えばラヴィとマシュロさんと私と……)
と、無心など眠気に封じ込めて飛んでいったかのように、頭がルカと接点のある女性の列挙を始める。
そして。
「あーーーーーーーーーー!!」
飛び起き、大絶叫が小さな口から飛び出た。
「まさかみーちゃん!? ここ最近で一緒に行動するようになったし、あの美貌だし、芸能人だし、モデルだし、色気凄いし……ラヴィに強敵って言わせるのも納得できる……え、まさか下界でも会ったりしてるの!?」
下界の男女問わず人類の憧れであるミュウなら可能性はある。正体見破ったりと言わんばかりに次々と嵌っていく欠片に、サキノの眠気などもう帰ってくる筈も無く。
「何がきっかけ!? やっぱりヒンドス樹道の戦闘!? ネアとの戦いじゃみーちゃん大活躍だったし……うう~~~……でもリキッドドラゴンの時は私も少しは頑張った、よね……?」
答えが返ってくる筈の無い自問を虚空に乗せる。
だが頭をぶんぶんと振り払い、邪気が憑りついた悪い憶測を吹き飛ばす。
「でもでもあのルカだし!? 恋愛に無頓着だし!? みーちゃんの魅了にも効果が無かったらしいしぃ!? なんならラヴィのあの猛アタックに落ちないくらい女の子に興味が無くて――」
必死に自分を納得させる言い訳を探す。しかしそこまで言って、ルカの数々の言葉を思い出すサキノは徐々に言葉の勢いを失っていく。
「でも最近のルカは感情も表情も豊かになってきて……」
初めて共闘しミュウを退けた後の天空図書館の拙い笑顔を思い出す。
略奪闘技の地下隧道で凛とした勇ましい顔を思い出す。
略奪闘技の後に下界の親友達――ルカとラヴィとアランと行った海での心からの笑顔を思い出す。
昔の表情も、今の表情も、全てが愛おしくて。
ぽすんっ、とサキノは枕に頭を落とし、枕元にあるセリンちゃんの人形を抱きかかえた。
「駄目だ……私、完全にルカの事……」
言葉には出せない。あまりにも恥ずかしくて。
そしてこの逸る鼓動の落ち着け方をサキノはまだ知らない。
夜は長い。この日、サキノは一人で悶々とし、中々寝付くことが出来なかった。




