014話 出来る事を試してみよう
空は迷っていた。
重苦しい膜が人々の視界から蒼穹を奪い、白とも黒ともとれない半端な世界を広げている。
そんな中、たった一人だけ蒼い世界に身を置く少年がいた。
「また飛ばされたか……」
黒髪の隙間から上空を眺めるルカ。秘境の天候は下界と同じく曇天。しかし前回転移した時と同じく、水中都市と比喩すべき澄んだ蒼一面の世界に泡沫がふよふよと漂っている。
「しかしまぁ、やっぱりあの音は転移の前触れみたいだな」
――ピチャンッ――
目的もなく都市内を歩んでいたルカに、反響した水音。
雲行きが怪しく、雨がいつ降り出してもおかしくのない天気に響いた水音は、ルカに現実の雨音よりも先にかつての転移を想起させた。その予想は的中し、ルカの任意とは関係なく再び秘境に足を踏み入れる事となった。
前回、幻獣との遭遇には逃走しか手段がなかったことを思い出し、周囲を見渡して身を隠せる場所を詮索する。
しかし、ピクリと。
ルカの脳に埋め込まれた、僅かな知識。電子情報や文献で得たものではない、まるで初めから知っていたかのような確かな知識が、ルカの脳内から逃走という判断を希薄にする。
「創造……?」
そんな心当たりのある単語に、ルカはバジリスクの舌撃を防いだ盾を思い返す。
虚空より出現した謎の盾は、幻視ではなく物理的な攻撃を事実防御していた。
更に一撃にて蛇尾を粉砕、もとい消滅させるに至った極彩色の光を放つ剣。
そしてその頃から残り続ける、胸の蟠り。
違和感と創造に何の因果関係があるのかはルカには判然としなかったが、対抗手段を持ち得ていることは確かに理解出来た。
防衛は可能。しかし、もう一つの懸念がルカの戦闘に挑む決断を肯定しようとしてくれなかった。
『首を突っ込むつもりなら相応の覚悟を持たなきゃ、取り返しのつかないことになるからね』
天空図書館でココに警告された言葉。
今、自分がどうしたいのか截然としていないままに戦闘行為に及んでいいのか。そもそも秘境にいることが首を突っ込んでいるのではないか。そんな思索が頭をぐるぐると回っている。
錯綜する思考に、しかし現実は甘さなど無用だと。判断の猶予など与えないとでも言うかのように、正面から巨大な影がルカの前に姿を現した。
「否が応でもって訳か……」
四足歩行の肩高四メートルに及ぶ巨牛。
禍々しく前方にうねり突き出す極太の二角と、根本には何本もの小角。山脈のように尖った背部は、紅蓮を彩り、山火事を彷彿とさせる。
不気味な光を灯した四つの眼。全身には閉眼した数えきれないほどの眼が毛深い黒毛に覆われている。
巨牛クジャタ。
『ンボオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』
耳を劈く咆哮が大気を揺るがす。ビリビリと震動する空間で、真っ先に巨牛が動いた。
その一蹴りは地を砕き、爆発的な加速力でルカとの距離を縮める。
「ッ!?」
横へと飛び退き、すんでのところで躱す。横手に逸れたルカはすかさず通過した巨牛に首を向けると、巨牛は微塵も速度を緩めることなく建物へと突撃した。烈々な瓦解音を放ちながら倒壊する一軒家。その後ろに続く借家、店舗、全てを貫通、倒壊させながら突き進む破壊の獣。
「無茶苦茶かよ。建物が玩具みたいだな」
荒唐無稽な破壊力。破壊するためだけに生を授かったかのような破壊獣は、紆曲しながら次々と建造物を薙ぎ倒し、再びルカへと急迫する。
「くっ……!」
石造りの家屋を破壊し、飛び出てきたクジャタにルカは何とか反応し回避する。
綿々たる衝突音と倒壊音が足元から伝播し、敵の位置を把握することが出来ない。
見通しの悪い場所は分が悪いと判断したルカは、頭の中に地図を展開した。
「秘境の構造は下界と酷似してるのなら、障害物が少ない開けた場所は近くに無い……なら、比較的開けていて、周囲が倒壊した大型の交差点、か?」
ルカはクジャタが自分に二度襲いかかり通過した、四本の轍を四顧した。
脳内の地図と照らし合わせたルカは、すぐさまその内の一つの轍に向かって駆け出す。
「始まってしまったもんはしょうがない。サキノには悪いが色々と試させてもらうぞ」
両足を交互に加速させながら、両手に漆黒の二刀短剣を『創造』した。
その瞳は紫紺。
ルカは自分の能力についておおよそ理解していた。
己の中に刷り込まれていた知識を反芻しながら、二刀短剣を消失させ、長剣を創造、続いて長剣を消失させ、短機関銃――トンプソン・サブマシンガン――を創造した。
「よし。想像したものは差異なく創造可能」
想像に伴う創造。武器、防具、道具、ありとあらゆるものの創造が可能。ルカが武器の創造を繰り返し行ったのは、己の想像品と実物の差異を確認するためだった。
既存知識の能力を試し、問題なく能力を解放できたことに得心を漏らす。しかし、創造は何も全てにおいて万能というわけではないようだ。
一つ目の難点は複数の同時創造不可。二刀短剣のように例外はあるようだが、新たに武器を創造する際、顕現している武器は消失する。武器の交換、戦術の転換を行う際は武器の消失という過程を挟まなければならない。
『オォオオオオオオオオオオオンッ!』
背後から接近してくる叫声にルカは身を反転させ、短機関銃の照準を巨牛の前肢に合わせる。迫りくる猛威に対して引鉄を引くルカは、反動を制御し弾丸を収束させていくものの、剛毛に阻まれどうにも効果は見られない。
奇襲ではない突撃をひょいと躱したルカは、再び漆黒の長剣を手に創造して追走を始めた。
「銃はコスパが悪いか……想像に応じてなんでも創造出来るのは凄い能力だけど、やっぱり俺の基礎能力があってこそか」
創造に伴う第二難点。創造の執行には都度魔力が必要となり、銃であれば弾丸の創造にも魔力を注ぎ込まなければならない。長剣などの近接武器であれば創造した時点で魔力の消費は抑えられるが、銃弾ともなると際限なく消費することになってしまう。広範囲の攻撃は可能だが、標的によっては全てを直撃させられるわけではなく、外せばその分消費もかさむ。
魔力の消費速度は戦闘を行う上で肝要となるとルカは踏んでいる。
使いどころを間違えれば首を絞めることになりかねない銃に、難儀だな、とルカは駆けながら辟易した。
ルカの追従の気配を感じ取った猛牛は、地面を削りながら急制動をかけ、転進する。直撃すれば一突きで体が貫通することは必定の巨角を振り回しながら、巨躯を反転させたクジャタは再四ルカへと突進を仕掛けた。
「はあぁッッッ!!」
クジャタの暴れ狂う角を左手に交わし、すれ違いざまに両手に握った黒剣を一閃する。
黒い軌跡を宙に刻みながら剛毛を切り裂き、肉に刃が食い込む。鮮血が噴き出し、剣身を紅く着色するが。
「っ!?」
峻烈な突進の勢いに長剣どころか両手もろとも弾かれ、振り抜くことを許されなかった。高威力に腕を取られ、後方に吹き飛ばされるルカだったが、すぐに起き上がり本来の目的地へと全力で走った。
痺れを通り越す、腕に残る嫌な痛覚が腕全体を責め立てる。ルカは安易な反撃の返報に唇を噛んだ。
「いってぇ……加速しきる前の突進でこの威力かよ……だけど攻撃は直線的」
単調な攻撃に回避は苦ではないことを悟る。馬鹿げた破壊力であっても、被撃しないことには馬の耳に念仏もとい、牛の角は捻物であった。脅威にはなり得ない。
だが、己の一撃に傷痍を被った巨牛は苦鳴も漏らさなければ堪えた様子も見られず、ただただ破壊を続けている。
ルカの攻撃は、巨牛にとって塵芥に過ぎなかったのだ。
「今の一撃で腕もまずいな……下界の能力値だったら腕も吹き取んでるだろ」
両手の握力を確認するように拳を作っては開くが、痙攣する手が短期決戦を訴えていた。戦闘が長引けば長引くほど、劣勢という砂時計は積もっていく。
そんな中、秘境での身体能力の向上をルカは実感し始めていた。下界の耐性のままではバジリスクの舌撃に胴体は貫通、よしんば原型を留めていたとしても粉砕骨折による意識喪失は免れなかっただろう。クジャタの超突進への反撃の見返りはルカの想像通りであり、前回含め二戦とも五体満足であるのは肉体の強度が上昇していたための結果だ。
疾駆する現在も例に漏れず、脚力、速度、過ぎ去る背景が下界とは異なる域を辿っている。
『ブゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』
並走する破壊音と雄叫びに、黒瞳が右方に向く。命を狩り盗る巨角がいつ現れるのか、回避の時機を見誤れば想像は容易い。
水中のような薄蒼の景観も相まって、まるで暗澹とした海中で獲物を追跡しながら機会を窺う捕食者と、逃げ惑う被食者のようだった。ルカは常に首もとに鋭利な歯牙を添えられている感覚を強いられる。
一触即発ならぬ一触即死の現状、脳裏に蘇るのはサキノとバジリスクの交戦。華奢な体で懐に踏み込み、果敢に斬り付けていく勇姿は記憶に新しい。
「サキノも常に死と隣り合わせで戦っていたんだ。来るなら来い!」
死が伴わないことなどありえない。この世界に踏み込んだ時からそれは、一切変わることのない絶対条件だった。
そんな決意が聞こえたかのように、石壁を突き破り巨角を有した暴牛が右方から飛び出す。
前方に目的の交差点を捉えたルカはクジャタの鯨波を前方に転がるように回避。前転の勢いを殺さずに目的の交差点に踏み込んだ。
クジャタの紆曲によって荒らされた交差点の周辺には視界を遮るものが少なく、突撃の進路が手に取るようにわかる開けた場所だった。
中心で足を止めたルカは、大きな弧を描きながら突進してくる巨牛を見据える。
「一撃で決める」
失敗は死。ルカの黒瞳に敢行の炎が灯った。
『ブモォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』
鼓吹の猛り声を上げて動きを止めたルカへ、渾身の猛牛強襲。愚直なまでの突撃一本しか知能を持たないクジャタは、破壊力に物を言わせて加速度を増していく。
そんな牛突猛進のクジャタに、なんとルカは素手で突っ込んだ。
急速に喪失する両者の距離。全てを破壊する驀進にルカは微塵の躊躇も迷いもない。
クジャタの角が獲物を捉える瞬間、ルカは体を沈め、スライディングの要領で前方へと滑り込んだ。
巨角がルカの左肩を裂き、鮮血を撒き散らす。だがルカはそんな裂傷に委細構わず、巨牛の前肢が接地するより一瞬早く、左足真下へ羽の生えた巨柱を出現させた。紫瞳が巨柱出現と同時に顕現する。
「大人しくしとけ」
創造。民族柱『トーテムポール』はクジャタの体重が前肢に乗り切る前に瞬間的に高度を上げ、平衡を奪う。
『ブルォオッ!?』
弩級の地震を引き起こし転倒する暴牛と、滑り込みによって位置関係が逆転したルカ。
通りすがりに出現させたトーテムポールと、更に後方で転倒するクジャタへ向け速攻反転する。つま先で石片を踏み砕き、瞬間的爆発力でトーテムポールの羽に跳躍、着地、脚をバネの様にしならせ、上空へと飛び上がる。
飛び出したるはクジャタの直上。狙うは斬首。
トーテムポールを消滅させ、虚空に刃渡り三メートルの長剣を創造する。
ルカの創造の最大の特徴『規模の自由化』。
大小長短に比例して魔力の消費は増減するが、小型化や大型化、ルカの想像に伴って創造が可能である。威力の不足であれば武器の巨大化、敵の攻撃範囲が広ければ盾の巨大化など、場面に応じて対応することが出来るのだ。
ルカは考えていた。巨大な敵をどうすれば一撃で葬ることが出来るのかを。
猛進する巨牛の動きを止めることが第一段階。陥穽を張ることは容易に出来た。しかし創造の特性上、武器を創造するには陥穽を解除する必要がある。瞬間的に消えた穴は、体勢が整わなくとも抵抗するには十分だ。破壊獣に抵抗されるとあれば、ルカも致命傷も覚悟しなければならない。よって転倒させ、動きを鈍らせることが最適だと判断したのだ。
第二段階は巨剣の創造。一撃で討伐するには通常の長剣、ないし大刀では威力も攻撃範囲も不十分だ。自分の倍以上もある身体に半端な攻撃では致命傷にならない事実確認は、腕を代償として支払っている。
何よりもルカが最も味方につけたかったもの。
「重力に逆らうなッ! 押し込め!」
重力。
正面から斬り付けたところで両断できる保証はない。腕への後遺症が残る現在では尚更のことだ。
巨牛を一撃で葬るためには最大火力で斬り下ろすしか手段がなかった。故にトーテムポールで足元を崩し、かつ直上へと位置取る必要があったのだ。
背景が上方に加速し、地面と横転した巨牛が見る見るうちに接近する。
気炎を吐き、重力の助力を借りたルカは、巨大剣を震える両手で力一杯握り締めた。
「あぁああああああああああああああああああああッ!!」
縦一閃、特大の黒剣を振り下ろす。
『ンボァア――――――――ッッ!?』
怪物の断末魔が一瞬にして黒閃によって掻き斬られる。
漆黒の軌跡は極太の首へと侵入し、肉を突き進む。
押し跳ねる肉厚も、反発する骨も、力で押し切る。
勢いよく振り下ろした黒剣は地を割り、肉骨を完全に断った手応えを剣身から響かせた。
盛大な血飛沫が終幕の雨を降らせ、振り下ろした体勢で固まるルカを祝福する。
「はっ、はっ……」
巨大化した長剣を消して立ち上がる。想像以上に魔力を消費して息を切らすルカは、前部で骸と化した巨牛を眺めた。
「何とか、なったか……」
クジャタの外形と大量に溢れ出る血液は、徐々に色を失い粒子となって浮遊していく。
周囲は無残な瓦解地帯となって破壊獣の脅威を現していた。
「結局極彩色のあの力はわからなかったな……」
バジリスクの蛇尾を吹き飛ばした極彩色の剣。ルカの知識として確かに存在はするのだが、創造の範疇ではないようだった。
何か引鉄があるのかと己の内に眠る謎の力に思考を割くが、勿論答えは出る筈もなく。
クジャタの完全消滅後、左腕の裂傷を押さえながら空を仰ぐ。
(一雨来そうだな……)
空模様を見て、そう思った。
秘境からの迅速な退避、及び下界での雨を凌げそうな場所へ移動しなくては、と脳が危険信号を発した矢先。
猛烈に寒冷な突風がルカの身体を穿った。
「ル・カ・?」
遅かった。
本能がその声の先を見てはいけないと全力で叫んでいた。しかしルカはそんな抑止の声を払いのけ、倒壊した石片群の先に顔を向ける。
果たしてその先にいたのは、可愛らしい怒りマークを側頭部に張り付けた白髪の美少女だった。
「サキノ」
背後でどす黒い幻炎がうねりをあげるサキノの名をあっけらかんと呼んだ。
見慣れた若紫色の浴衣を身に付けたサキノは、後ろ手を組み瓦礫に背中を預けた体勢でニコニコと。笑顔の中に隠れた悪魔のような存在は、もはや小悪魔などと可愛らしいものではなかった。
「何で、ここに、いるのかな?」
幻炎が暴牛など比類ないほど暴れ狂っている。天高く突き上がる禍々しい瞋恚の炎は、天候すらも変えてしまいそうだった。
「何でと言われてもな……悪いが俺にもわからん」
事実その通りであり、無為に都市を歩き回っていたところ転移に巻き込まれたのだ。ルカにも説明し難い状況であるのは間違いなかった。
それを能動的に秘境に駆け付けたと受け取ったサキノは、反対側の側頭部に同じ紋様が増殖する。
「関わらないでって言ったよね……?」
「あぁ、言われた。けど、サキノ――」
「素直に言うこと、聞いてくれないかな?」
まるで子供を正しい方へ導くように、強引に言葉を被せ先を許容しない。
空がゴロゴロと重圧を含んだ泣き声を上げ始める。
(あぁ、これは駄目だ)
心を閉ざしきった者に何を言っても響かないことはルカの中で既に普通として認識されている。
何より、罅割れる何かの音がルカには聞こえていた。
故にこれ以上の反論は、後退はあっても前進はありえないと。
ルカは反論も肯定も呑み込んだ。その判断はサキノにとって致命的であるとも知らずに。
「……聞いてくれないんだね」
ポツ、ポツ、と。
無言の瓦解都市が泣き始めた。
瓦礫から体を離し、数歩ルカへ歩み寄る。
怒りと悲しみが渾然となった表情を浮かべ、サキノは声を張った。
「邪魔を、しないで……っ! これは私が一人でしなくちゃいけないことなの! 私は一人で何でも出来なきゃいけない、生きていけることを証明しなくちゃいけないの! だからお願い、ルカ? 私を困らせないで……?」
二人の間を幾本の白い線が落下する。
壁を作り上げるように。二人を隔てるように。
「…………」
ルカはなおも答えない。
空の涙が勢いを増し、二人の頭を、体を、服を徐々に濡らしていく。
一粒の水滴が少女の瞳に当たり涙の道を作った。
「っ!?」
何で何も答えてくれないの、そんな思いが口元まで出かけるサキノだが、理解してくれないルカへの悲憤と自棄が理性を鷲掴みにする。
サキノに残されたのは感情だけだった。
「ルカの馬鹿っ! もう知らない!!」
「おい、サキノっ」
サキノは悪態をつくと、ルカに背を向けて倒壊した建物の間隙へと走り去っていった。
『取り返しのつかないことになるよ』
ココの言葉の重みが、礫となって体にずっしりと纏わりつく。
秘境に取り残されたルカは、ただ一人、勢いを増す雨に打たれ続けていた。
± ± ± ± ± ± ± ± ± ± ± ± ±
(どうして……どうしてどうしてどうして!?)
門をくぐり抜け下界へと帰還した私は、乱暴な足音を立てて水溜まりを踏みつけた。
普段ならば喧騒で溢れる目抜き通りも、今は雨音が全ての音を奪い去っていく。
屋根の下で天気の回復を待つ者も、建物の中から溜息を落とす者も、皆同様に雨を忌避していた。
そんな中、傘もささずに大粒の雨を浴びながら通りを歩く。
(どうして……)
濡れる衣服も、雨が纏わりつく鬱陶しさも、委細構わず。
人目が集まるのも、憂慮の声がかかるのも、頓着せず。
幾重もの波紋を広げ、目的もなく迷子のように歩いた。
冷気が肺を刺激する。
ズキズキと心臓が痛む。
思わず右手で胸部の衣服を、痛いほど握り締めた。
他所に痛みを感じなければ押し潰されてしまいそうだったから。
(どうして、こんなにも不安なの……?)
身体を苛む様々な疼痛と感情。
柄にもなく怒鳴り散らしてしまった悔悟の念と、罅割れた後来。
一人で全てを完璧にこなすと誓った筈だ。
目的のために、証明のために、生きていくと心に刻み込んだ筈だ。
時間を、生活を、大切なものを、失うことも厭わないと思っていた。
思っていた……筈だったのに。
(どうして、ルカを失うのがこんなにも怖いの……?)
意志の対立。決定的な亀裂の原因。
このままだと下界生活でも関係が破綻してしまうことを、何より恐れていた。
ルカが決して好奇心で異世界に関わっているとは思わない。
わかっている。
私の本心は仲間を欲しているらしい。
わかっている。
我儘、我意、我欲、身勝手、利己的、独善的、自己中心的。
全てわかっている!!
それでも私は、貫かなければならない。
たった一人の敬愛する母のために。
母が正しかったことを証明するために。
――そのためにルカを犠牲に?
痛い。
心臓が張り裂けそうだ。
圧迫感が呼吸を乱す。
(何かを犠牲にしなくちゃ……いけないの?)
足が活動を停止させ、視線を足元に落とす。
豪雨で幾重もの波紋が相殺し合う水溜まりでは。
水面に映る自分が泣いていた。
大粒の涙を流し、悲しみと苦しみに拉がれながら。
深く、暗く、濃く、寒い深海の淵のような場所で。
黒い化物に抱きしめられていた。
「どうすればいいかわからないよ……」
顔を両手で押さえて、震える声でぽつりと呟いた。
世界にただ一人だけの無音の世界、孤独感が統制する世界に、堕ちていった。




