136話 本心
「ん……」
意識の途絶から回帰したルカの眼前には白い天井。ぼやける視界と頭を緩慢に起動させていき、ルカは自身が下界に逃げ帰った直後気を失ったことを思い出す。
「サキノは――っ」
体を包む寝台から跳び起きようとした時、手に軽い抵抗を覚えてルカの双眸が誘導された。
「ラヴィ……」
「すぅ、すぅ……」
金髪の少女の小さな手が、レラによって斬り落とされた右腕から続く右手を優しく握っていた。現在は安らかな寝顔を晒すいじらしい様子だが、己が気を失い倒れた事で介抱してくれていたのだと悟るには時間はかからなかった。
そういえば気を失う直前に誰かが話しかけてきた気もするな、とルカは天井を仰ぎ思考するも、サキノを救う事、そして重傷から精神を崩されかけていた弊害によって思い出す事は叶わなかった。
改めて周囲を見渡すと白い部屋に大きな窓、微かに漂う消毒液のような独特の匂いに、病院に担ぎ込まれたのだと理解に至る。
窓の外には落ちかけの月。自身が何日眠っていたのかは判然としないが、時間が残されていない事はバウムから話を窺った時から感じている。
柔らかくて暖かい小さな手を優しく解き、ルカは寝台から下りる。親身に見守ってくれていたであろう少女の頭をそっと撫で「ありがとな」と呟いてルカは部屋を出た。
薄暗い病棟を四顧しながら彷徨い、見つけた階段を登っていく。
ルカは悩んだ際に高所へ登る癖がある。自身の視点では見つけることの出来ない懊悩の先を、少しでも高所から俯瞰する事によって脳と視点を切り替えるのだ。
サキノの現状を整理し、路頭に迷っていた思考と打開策を模索しながら辿り着いたのは病棟の屋上。
扉を開き涼しい夜風が身体を打った。同時に優しい花のような芳香も。
「ルカ、起きたんだね。良かった」
「サキノ! 無事だったのか!」
月を背後に、後ろ手を組み佇む白髪の美女。夜風に梳かされる白銀の髪は優雅に踊り、月光が後光として少女を引き立て、もの寂しげな表情に翳を作る。
己が気を失っている間に制限時間が来てしまったのではないかと憂慮を抱いていたが、サキノの存命にルカは一先ずの安堵と共に駆け寄った。
「戻ってくるつもりはなかったけれど、こうでもしないとルカ無茶しちゃうでしょう? だから団長にお願いして最期に話しに来たの」
不穏な単語にルカの心臓が小さく跳ねた。
そしてそれを認めてしまっているサキノの表現に、跳ねた心臓が握り締められているようだった。
「最期って……聞いたぞ人柱の事。本当なのかよ?」
「うん、本当。だって私一人の命で沢山の命を救えるんだよ? 名誉なことだと思わない?」
「思わない! 下界の住人であるサキノが犠牲になることないだろ!」
「ううん、違うよ。これは私にしか出来ないこと。そもそも私は半亜人、下界側に居ていい人間じゃないの。言ったでしょ? 『私が本来軸足を置くべきは魔界』だって。私の使命を果たす時が来たんだよ」
聞いた記憶がある。秘境に初めて巻き込まれた日。魔界に連れられ、世界の仕組みを告げられ、幸樹の下で聞いた言葉。当時はサキノが戦闘可能という魔界でしか必要のない独自に背負う責務のようなものだと感じていたが、両世界の種族に対する隔たりや自身の負を理解したルカにはこの言葉の真意がわかってしまう。
『魔界で生きていくべき存在』ではなく『魔界の為に命を使う』という意味だ。
それもサキノは納得の上で、命を差し出すことを良しとしているのだ。
「それに、ルカは知ってる筈だよ。サキノ・アローゼという人間はここで逃げ出したりなんてしない。種族調和の為に命を懸けられる人間だって」
自分自身の存在証明という形を持って、魔界リフリアを救うことを認めてしまっている。
理解が出来ない。深慮すれば簡単にわかるサキノが命を献上する理由を、脳が理解しようとしない。
「……命はそんな軽いものじゃないだろ」
「そうだね。だから私が犠牲にならなくちゃいけないの。数が形成する世界を存続させていくためには、私一人と魔界の不特定多数の人達、命の重みは比にならないでしょう?」
命の重みの話ではない。
犠牲を出す事がおかしいと言う話をサキノは理解しようとしない。まるで犠牲が正義だと思っているかのように。
だが全てを丸く収めるための具体的な策が無いルカには反論が出来ない。
「大丈夫。あれだけの多くの人達がいれば、きっと種族調和のために動いてくれる人は現れるよ。ね? 私が守る事で、私の遺志は誰かがちゃんと継いでくれるんだよ」
理解が出来ない。込み上がってくるこの感情が何であるのかが。
「……あと何日の命なんだ?」
「四日、かな。全てが終われば魔界で亡くなった私の事は下界の皆はきっと忘れちゃうけれど……これが正しいんだよ。出来ればルカだけには忘れて欲しくはないけれど……言っても仕方が無いよね。私の最期の役目、見届けてね」
終わりの足音がする。二人の間を分かつような鮮明な足音が。
「ありがとうルカ――今まで楽しかったよっ」
極上の笑顔を作り、サキノは礼を告げた。
何も言えないルカの横を小走りで走り去っていくサキノ。
足音に雫が落ちる音が混在したが聞き取れる訳も無く。誰もいなくなった屋上でルカは柵へ腕を置き、体重を預けながら瞑目した。
「くふふ、フラれたのう。想いが伝わらんもどかしさに黄昏る男子。仇敵の傷心とは何とも愉快なものじゃ」
あわよくばサキノが迷っているのであれば魔界へ行かせないなど手はあったかもしれない。魔界の根本的な解決にはならないがサキノの命を守る事には成功すると。
しかしその間に結界を再構築可能な手段を模索することも出来た筈だ。三人寄れば文殊の知恵ということもあり、協力を仰ぎ打開策を絞り出す事も出来たかもしれない。易々と思いつくような策であれば【クロユリ騎士団】が既に実行しているだろうが。
「なんじゃ、反論も出来んほどに心がやられたか? 存外繊細な心の持ち主で呆れるわ」
だがルカには【シダレ騎士団】団長のバウムの話を聞いた直後から渦巻く疑念が幾つかあった。証拠も根拠もないため断定は出来ないが、妙に繋がる一つの疑念。
だが優先事項としてはサキノを救う事が先決だ。そのサキノを救う策が今のルカにはない事が八方塞りの状況だった。
「……いつまで無視しておる? いくら軽口とは言え何の反応もなければ妾とて傷付くぞ?」
そして何より問題であるのがサキノ自身が死を認めてしまっていることだ。
それではいくら説得しようと、サキノを隔離しようとも帰結は同じだ。
サキノ自身を認めさせる動機が、今のルカには必要だった。
「ふぇぇ……ごめんってぇ……私が悪かったから反応してよぉ……傷付いてる君に変な事言ってごめんね……?」
謝罪がすぐ背後で耳を揺さ振り、ルカが振り返る。そこにはうっ、うっ、と半泣きの嗚咽を漏らしながら秀麗な顔を歪めるミュウの姿があった。
「ん? あぁ、ミュウか。いやもう既にリアミュウが出てるな……悪いな、悩んでて全然気が付かなかったわ。どうした?」
「っ!? な、な、何でもないわ!! ばーーーーーか!!」
「何で俺が急に罵倒されてるのか理解が追い付かないぞ?」
余計なことを勘繰ってしまったとミュウは背を見せ目元をぐしぐしと拭う。
そして振り返り、大きな胸を張っていつもの強気の態度でルカとの対面に勇み出た。
「はっ! なんじゃなんじゃ、折角妾が心配――なぞしておらんが、フラれたお主を嗤いに来てやったのじゃよ!」
「なんだそんなことか。悪いがまた今度にしてくれるか。今凄く忙しいんだ」
忙しい、と言いつつも柵に背を預け対面するルカ。
限られた時間の中での思考を中断させられ腕を組みぶつぶつと呟くルカを見て、ミュウは眼を丸くした。
「――お主、泣いておるのか?」
「え?」
心底不思議そうにミュウを見つめ返すルカの目下には一筋の水滴痕が。指で顎に垂れた水滴を払い、痕を腕で拭うルカの心境は困惑一色だった。
(感情が希薄とは言え、救いの手を拒絶され、友の失命宣告に悲しいものは悲しいと言う事か……?)
接触自体が少なかったがミュウも薄々気が付いていたルカの変化。何かが欠如し、どこか他人とは違う存在だったルカが、時を、経験を経て養われていく感情の変化を感じ取っていた。
涙が次々と溢れてくるということはなかったが、そんな責め辛い感情の顕現にミュウも悪態を衝く気力を削がれていた。
「悪いが話は聞いておったぞ。サキノ・アローゼに拒まれ、どうするつもりじゃ? 素直に諦めるか?」
「…………」
「返答なし、か。お主にとってサキノ・アローゼとはその程度の存在か?」
「諦めてるわけじゃないさ。ただサキノを説得も出来ない、隔離したところで犠牲になる事が使命だと思ってるサキノはどうしたって使命を果たしに魔界へ行く。サキノが諦めてるのなら俺が何をしたって骨折り損だ。そこをどうにかしないことには何をするにしても――」
「たわけ。お主はいつから相手の言葉を鵜呑みにするうつけに成り下がったのじゃ?」
「っ」
眉を下げて弱音を吐くルカへ、笑わせるなと冷罵を浴びせる。
「あのな、世界滅亡をも目論んでおる妾が言うのも変な話じゃが心して聞け」
言うべきか言わざるべきか、少しの逡巡を折り混ぜ、ミュウは溜息を衝いて再度口を開いた。
「心の底から死にたいと思っておる奴などこの世にはおらん。自分を犠牲に都市の平和? 笑わせるな。何故他者の平穏の為に自己が犠牲にならんといかん? そんなもの不承不承に決まっておろう。サキノ・アローゼをそう決断させたのは、己の命の価値と多くの命の価値を天秤にかけた故じゃ。その行為自体が見当外れじゃと言う事くらいお主もわかっておるじゃろう?」
「……っ!」
「そもそもあやつは弱音など吐けん人種じゃろうが。あやつの心の芯まで見たか? 上辺の言葉だけで判断するなど愚人のする事じゃ」
余裕がなかった。ミュウの言うようにサキノは弱音など吐かない。吐けない。
思い返してみれば今までもそうだっただろう。自分の使命を責任として抱え込んで、一人で解決しようとして、仲間に心配をかけないように笑顔を作る。
一手に担う意固地な原因となっていたサキノの母親の遺志を知り、ミュウを退けた後、天空図書館で吐露した弱音。あれこそがサキノの本心だった筈だろう。
サキノ・アローゼという人間は強くて優しくて――頑固な女の子なのだ。
そしてその裏側には必ず本音がある。
そのことを誰よりも一番に知っている筈なのに、ミュウに諭されている自分に悔悟を抱かずにはいられなかった。
「『サキノが失えば俺が拾う』。妾と戦った時の言葉は瞞しか? お主の覚悟なんぞその程度のものか? ここで失ってしまえばもう拾う事なぞ出来んぞ」
「でもサキノを救う方法が――」
「だから妾がこうまでして出て来てやったのじゃよ。お主にあやつを救いたい気持ちがまだあるのならば、騎士団という仕組みの抜け穴を教えてやろう」
「え――?」
一番の難関を打開する策を伝授してやるというミュウの言葉に、ルカは一歩踏み出さずにはいられなかった。
釣り針の餌に喰いついたルカの様相に、ミュウは大波乱の予感を感じさせる不敵な笑みを浮かべた。
「サキノ・アローゼが全てを犠牲にしようとしておるように、お主も全てを犠牲にする覚悟があるのならば、な」
地は濡れていようとも空は快晴。
嵐の前の静けさの中、二人の悪巧みが始まった。




