115話 遠い背中を追いかけて
「帰って、これたね」
「あぁ。全員無事で何よりだよ」
白髪の少女の感嘆の声音が西門をくぐり抜ける。
時刻は十五時。魔物との遭遇も数える程度しかなかった一団は、何事も無くリフリアの敷地に踏み込む事に成功した。
初めての護衛任務に大きく息を吐き出したルカは緊張感を手放し、ポアロがなはははと笑う。任務の達成という特別な実感はなかったが、手元に残された手形と疲労感が全てを物語っていた。
門を通り抜けるなりにマシュロは『タルタロス』へと足を急き、凱旋の旨を伝えに走った。
三人も回復薬など世話になったゼノンとクゥラに礼をするため、マシュロに続き薬舗へと向かう。ゆっくりと歩みを進めていると、先行したマシュロが二人を外へと連れ出してきた。大きく手を振るマシュロの横で安堵感を落とすクゥラ、薄く笑いを浮かべるのはゼノンだ。
「おかえり、皆」
少々気恥ずかしそうに凱旋の戦士達を迎えた。
その後薬舗を開いたままクゥラ主導による慰安会の準備が進められていく。魔法を使ってクゥラの補助――どちらかと言えばクゥラが補助――をこなしていくのは女小熊猫のティミスだ。火や水を器用に使いこなして着々と料理が作られていく様に、クゥラは時折パチパチと拍手を送った。
マシュロ達の笑い声が店内に響き、ゼノンは店番をしながら彼女達の武勇伝を聞き、姉の楽しそうな姿を眼に焼き付ける。
(変わったな姉ちゃん……)
まるで死人のように覇気の無い姉はいない。
常に下を向き、外套を頭まで被り、陰を探す姉はいない。
そんな出会った頃から見続けて来た姿を見られないのは少し寂しくもあったが、今の明るい姉の方がよっぽど姉らしい。これまでの姿は仮初の姿であり、本来の姉は目に映る明朗な姿なのだろう、と。
己達では何も変えられなかった姉を、たった数日の間で変えてしまった眼前のルカに、ゼノンは感謝と同時に畏敬を僅かな身震いと共に感じる。
そして己達も。
ルカとの出会いが無ければどうなっていただろうか。終わらない日陰暮らし、逃亡生活、挙句の果てには――。
そこまで考えたところでゼノンは思考を放棄した。
考えたところで益体のない話だ。未来は変えられたのだ。一人の英雄によって。
(きっとルカ兄ちゃんは人の不幸を救える存在なんだろうな。すげぇよ本当に)
人族への嫌悪を感じていた己が恥ずかしい。種族の枠組みだけで判断していた自分が愚かしい。
今や小集団の中心人物になりつつあるルカを見てゼノンは笑った。
その様子にマシュロは顔を綻ばせ、姉貴風を吹かせてはゼノンに論破されていった。
何組かの武装した戦士達が来店しゼノンが対応していく。どの客も慌てたような素振りで入店しては足早に去っていく様を見て、微かな違和感をサキノは覚えた。
「何だか皆慌てているような……?」
小首を傾げるサキノとは別角度から違和を感じ取ったのはマシュロ。
「それに今日はやけに来客が多いですね……いえ、いつもが繁盛していないと言う訳では無いのですが……」
コラリエッタの宣伝効果もあって知名度は右肩上がりではあるものの、来客の数が近日の比ではない。繁盛するに越したことはないのだが、それにしても来客頻度が異を唱えるに値する。
と、そこで多忙に気を取られ、抜け落ちていた記憶の断片をゼノンは掬い上げた。
「そう、言えば……【夜光騎士団】副団長の仲間みたいな執事が今日の朝薬舗に来て薬を買っていったんだ……! その時に副団長の狙いはもう俺達じゃなくてルカ兄ちゃんだって言って――ルカ兄ちゃん?」
「…………」
今朝の無音の事件とラウニーの狙いを伝えるゼノンだったが、標的であるルカは腕を組みながら窓の外を眺めていた。
途轍もない胸騒ぎ。サキノやマシュロの違和感やゼノンの警告が耳に入らないほどの。
言葉の行方を失うゼノン。そんなゼノンの背後から料理を持ったティミスとクゥラが表の部屋へと出てくる。
「ティミスさん、この慌ただしさ、団長から何か聞いていますか……?」
不安そうな声音で確認するマシュロだったが、期待を裏切るかのようにティミスは口を軽く引き結ぶ。
「私、昼に一度騎士団に戻ったんだけど……合同任務に出た三人が帰ってきてないのよ……」
「えっ……? 帰ってきてない……? 出発は昨日の夜、ですよね……?」
漂う暗影にマシュロは言葉に覇気を伝えられなかった。
耳を疑う事実にマシュロと同じ憂慮を覚えたのはサキノだ。【クロユリ騎士団】も同じく合同任務に出ており、三人の安否が気にかかった。
疑いようもない手練れ達が集結した合同任務で、万が一がある筈がない。しかし昨夜に出立した一団が夕刻になっても帰還していないと言う明確な異常。薬舗へ飛び込み、慌てるように準備を整えていく戦士の数々。
全てが繋がった気がした。
「私、クロユリに戻って状況を確認して――ルカっ!?」
「ルカさんっ!?」
「どないしたんやルカりん」
真っ先に飛び出したのはルカだった。『タルタロス』に会する全員が抱く胸騒ぎとは別の違和感を抱いたルカが。
脇目も振らず扉を乱暴に開け放っていったルカの後を追って、全員が外へ飛び出した。
飛び出し立ち止まったルカの視線の先の東方を一同が追うと、主要大路の奥に重鎮するのは普段の色彩豊かな幸樹ではなかった。
「幸樹が枯れ……え……?」
天衝く様相は変わらないものの、剥き出しになった梢。魔力のように漂う胞子ははどす黒く、都市最西端から遠目からでも分かるほどの異様は、まるで全ての魔力が奪われてしまったかのよう。
ゼノンの不安と驚愕が攪拌した声が漏れ、ルカは胸騒ぎの根源である都市北西部の上空へと視界を切り替えた。
「何、ですか……あれは……っ!?」
一早くルカの視線に追従したマシュロが見たことの無い光景に恐怖の声を上げて一歩後退する。
雷のように罅割れる宙空は時空の歪みといって差し支えないだろうか。パキ、パキ、と今も拡大を広げる亀裂はあたかも何かを産み出そうとしているかのようで。
何より幸樹との関連性を感じさせるのは亀裂痕が極彩色である事。
幸樹、亀裂。二つの異常事象に誰もが最悪の想像を思い浮かべた。
「この感覚……幻獣だ……」
想像の先を口にする事を躊躇う一行の中で、真っ先に口したのはルカだった。下界で何度も幻獣の出現に強制召喚されているルカならではの感覚。嫌悪を覚えたルカの、秘境を上回る悪寒に言葉が宙を滑った。
「沫雪による幻獣出現はまだ先の筈じゃっ!?」
過去二度の沫雪による大厄災。その二度ともが沫雪から幻獣出現まで一か月ほどの準備期間を許していることに、今回の事象は異なるものだと現実を受け入れたくないサキノの虚しい抵抗が響く。
しかし受け入れたくはないがサキノも理解していた。
二度という数字は、圧倒的に統計データとして心許ない事を。いつ訪れるかわからない恐怖から一時でも解放されたいと、リフリアの民がたった二度の事実を鵜呑みにしようとしていた事を。先延ばしにしかならない現実から目を背けて。
それに仮に一月経過前に早まって都市に異常が現れたところで、団長格達による討伐が遂行出来る。傑物達による迅速な対応、包囲網で幻獣を仕留める事も可能だと住民誰しもが安堵していた部分だろう。
しかし今回は。
「不味いですよ……団長達が不在ですっ!」
そう、一番当てにしていた筈の上位派閥の戦士達が都市を離れて帰ってきていない。更に上位派閥の団員達も、団長達の帰還の遅延に不審を抱き都市を離れつつある。
重なる。悲運が重なる。
そしてバキィッ! と。
「「「「っっ!?」」」」
亀裂に巨大な指が差し込まれる。亀裂の拡張に拍車がかかり今にも巨大な何かが産み落とされそうな危機的状況に数多くの獣人達は震える。
そして化物との戦闘の先駆者である下界の者達は。
「俺は行くぞ」
「……うん、ルカならそう言うと思ったよ。皆を守らないとね」
「鬼が出るか蛇が出るか……拍子抜けするくらい蛇やと楽なんやけど、そうもいかんか。しゃーないから僕も付きおーたるわ」
物怖じせず決意を表明し合った。
その様子に魔界住みの四人は瞠目し言葉を見失う。
一瞬の笑顔を向け、その場を駆け出す三人の背をマシュロは歯を噛んで見送った。
× × × × × × × × × × × × ×
(何て……強い、人達でしょうか……私は行くと言い出せなかった……)
自身の弱さを思い出す。
ここ最近で少しは変われたと思っていた。ルカさんに感化されたのもあったのだろうが、下を向く事をせず、常に前を向いてきたつもりだ。
しかしそれは上辺だけの強がりであり、本当の恐怖を目の前にした時、全く動く事が出来なかった。
悔しさが充溢する。先程までは死地を共にしてきた筈が、隣を歩いている仲間だと思っていた筈が、置いて行かれた孤独感が押し寄せる。彼等の背中が遠い。
所詮は異端。横を歩こうだなんて烏滸がましかったのかもしれない。
英雄のように耀く彼等と行動を共にする事で、自身もその一員だと錯覚していただけなのかもしれない。
――恥ずかしい、恥ずかしい! 恥ずかしい!!
自分はまだ何も変わっていないのに。
自分はまだ何も変われていないのに!
握り締める拳だけが痛く、隣に立てる資格を有していない事に気付かされる。
そんな無力感に拉がれる中、袖を引っ張られる感覚。
「……クゥラ?」
「……お姉ちゃん、行こう」
誰よりも力を持たない少女が発破をかける。
見つめ合う黄金の瞳は恐怖はあれど一切曇りなく、自身を見上げてくる。
そうだ、ここは魔界。本来ならば先行した彼等は存在しない世界。関係ない筈なのに真っ先に飛び出して、都市を守ろうとしてくれている。
ここで立ち止まっていたら絶対追い付けない気がして。
ここで思い悩んでいたら一生隣に立てない気がして。
決意を灯して凝視するクゥラの頭を優しく撫でた。
「そうね。行きましょう!」
卑屈で愚鈍な自分に英雄になる資格はないだろう。
けれど英雄を守る盾になる事は出来るかもしれない。
自分にしか出来ない英雄の為の英雄。
すぐに変わる必要なんてない。すぐに変われる筈なんてない。
なんたって自分は人とは違うのだから。
積み重ねていこう。
新しい実績を。
踏み出せなかった一歩を、今、皆と一緒に踏み出した。




