001話 転移は突然に★
「ルカあああああ! あたしの全部を受け止めてぇえええッ!!」
「ぅぐっ!?」
喜色を含んだ呼名と共に腹部への衝撃を認める少年ルカ・ローハートは気が付けば美少女に押し倒されていた。
放課後、教室の扉を開けた瞬間の出来事。ルカの黒髪の間から覗く黒眼に飛び込んだのは、光差す窓際、恵風に揺られるカーテン、最後席で頬杖を突き窓の外を俯瞰する一人の少女。
涼風との円舞に靡く金髪のツインテールは財宝に劣らない輝きを有し、絵描きがその光景を見たのであれば矢庭に目に焼き付け、飲食も忘れて描画に勤しむ事となるだろうか。
大衆が絶句するほど美しい、まるで天使が現実世界に顕現したかのような映える佇まい。
それが僅か二秒の内に崩壊した。
彼女の突進、もとい砲弾頭突きによって。
ルカの入室を瞬で察した少女は人間大砲と化し、目標へと突っ込んだ。
少年は呻吟を漏らして体をくの字に曲げながら吹き飛び、少女は砲撃の勢いのまま空中で華麗な前転を決めて流れるようにルカの上に組み敷く。吹き飛ばした先の廊下で押し倒す形となった少女は、ルカに馬乗りになりながら歓呼した。
「おっかえりぃ! まぁ、ほーちぷれーは嫌いじゃないんだけど、待たせすぎると爆発しちゃうよぉ? 物理的に」
「どんな体の構造してんの!?」
「あたしの命運はルカが握ってるんだからぁ!」
「それラヴィが脅せる台詞じゃないよなっ!?」
無邪気を顕現したかのような少女の碧眼は吸い込まれそうなほどに透き通り、ルカの帰還に喜びもひとしおな様子。衝突を悪びれることも無く直上で諧謔を排する少女を、ルカは双眸を細め半眼で見据えた。
「……で、一体全体ラヴィは俺の席で何してたんだよ」
「妄想」
「年頃の女の子から堂々と出る単語じゃないな!? 少しは自重しろ!?」
ラヴィリア・ミィル。
ニコニコと笑う彼女の風姿は丸い顔と柔和な頬によって幼女と少女の中間を彷徨う小悪魔的顔立ち。スカートから覗く白皙の腿は直視に難く、小柄でありながら主張が激しい胸元は白のキャミソールと着崩したカーディガンによって秘境を強調している。
体位関係も相まって健全な男性であれば羞恥に狼狽し、手で顔を覆うも指の隙間からつい覗いてしまい、邪まな雑念を抱くこと間違い無しの嬉々的状況に、ラヴィは瞑目し両手を胸に添えて続ける。
「ルカの目線に座って何考えてるのかなぁ~とか、思春期男子が考えそうなあーんなことや、こーんなことを、ね」
「…………」
女子校生とは思えない耳を疑う返答の連続にルカは固まり、二の句が脳から伝達しない。もうやだ~、と一人盛り上がるラヴィは頬を赤く染めニヤニヤ、ルカの胸をバシバシ。
真顔で時が過ぎるのを待つルカの眼前で、羞恥に悶える彼女のツインテールが照れ隠しのように左右に揺れる。
『おっ、ミィルがまたローハート押し倒してるぞ』
『俺も押し倒されてぇ~……ローハート役得すぎんだろ』
『相変わらず情熱的だね……』
先に述べたように完璧な容姿を誇る彼女だが、突撃の奇行や脳内は残念な構造となっている事は学園内で有名だった。
故に、他生徒も既にこの光景は周知の事実であるかのように素通りする。羨望や苦笑、抱く思いは様々ではあるが。
そんな天真爛漫の少女についた俗称が『恋する天使』。恋を成就させる天使の名ではなく、自身が恋する天使と称された通り名だ。
誰が呼び始めたのか的を得ていると、名の象徴になるべくしてなった弓矢の両端(本弭と末弭)にハートが付いた髪留めがきらりと光る。
ルカとの身体接触に満足がいったのかご機嫌な微笑でラヴィは立ち上がり、繊細で綺麗な手を差し伸べる。ラヴィの手を取り立ち上がったルカは服装の乱れを直し、二人で無人の教室に踏み入った。
「サキノももう帰ってくるかなぁ~?」
「ん、まだ帰ってきてなかったのか?」
「ルカが武芸部に行ってる間に帰ってくるかなって思ってたんだけどなぁ~」
「サキノが依頼に行く前に何か言ってたか?」
「うーん……強いて言えば『私は依頼を遂行してる時に生を実感出来るの。止めないで。いずれは信者達で私の王国を作り――』」
「ラヴィ? 私をどんなキャラにしたいのかな? そのようなこと一言も言っていないけれど?」
「ぴぃやあぁあああああああああああああああ!?」
迫真の物真似から一転、絶叫を上げるラヴィに後方扉から凛冽な視線と反論が飛ぶ。そこには若紫色の短浴衣を羽織った少女が腰に手を当てながら悠然と立っていた。
健康的で女性らしさを秘めた色白の玉の肌、淑やかでありながら色香を漂わせるしなやかな肩は空気に晒され、長いおみ足が白い長脚布に包まれている。
帯にくびられた腰はモデル顔負けのプロポーション。豊かな形の良い双丘が要領よく、衣類の中で容量を誇っている。
切れ長の透き通るような紫紺の瞳は見る者を見惚れさせてしまうほどに端麗。天然の長い睫毛に優しくも凛々しい柳眉、桜色の小振りな唇の上部には整い過ぎた鼻筋。くっきりとした顔の輪郭に全てが寸分狂わず配置されていた。
そんな女神でさえ嫉妬するような美貌を引き連れた少女は艶然と笑い、廊下と教室の境界を越える。毛先が若紫色に染まる純白過ぎる純白の長い髪を背後に流しながら、二人の元へと歩み寄った。
「サ、サキノもおかえり……えへへ」
「ふふっ、ただいまっ。信者なんて人聞き悪いじゃない? ――でも人生何があるかわからないし、ラヴィにはメイドの練習でもしておいてもらおうかな?」
冗談だよぉ、とばつが悪そうに苦笑するラヴィに、くすくすと表情を緩めながらおどけてみせる少女。
サキノ・アローゼ。
正式名称『ミラ・アカデメイア』、通称『学園』にファンクラブが存在するとまで言われている眉目秀麗の少女。欠点の見当たらない容貌に、人柄の良さが相まってここまで完璧な人間が存在するのかと、性別を問わずに多くの生徒を虜にした事実がある。
「お疲れ、サキノ」
「ルカもお疲れ様。武芸部に顔を出していたのでしょう? 本当、武芸部の部長はルカと戦うのが好きみたいね。それで今日は何の武器使ってきたの?」
ラヴィの自爆に遅れて心労を労うルカに、どこか興味ありとばかりに問いを重ねるサキノ。
「毎度お馴染みの長剣と、二刀短剣。後は体術だな」
「今日は近接主体だったんだね。戦績はどうだったの? 勿論勝ち越しよね? 勝ち越しじゃないと王女の側近には置かないからね?」
「何気に王国の事気に入ってんの!? ……四勝一敗だったよ」
「ルカは何しても上手いもんねぇ。部長が弱い訳じゃないのに毎回カチコミみたいになってるし」
「カチコミは違うと思うけれど……でもルカの実力を知っている身からしたら、逆にその一敗がどうしてなのか気になるのよね……」
ラヴィがそよ風も引き起こさない正拳突きをしながらルカへ称賛を談ずる。
そんなルカの実力を知るサキノは雅やかに顎に手を当てて、自分の事のように敗戦の理由を模索し始める。
唸るサキノの隣で呆けていたラヴィだったが、脳天に雷が落ち、はっ、と声を上げた。続けて突如の含み笑い。
「サキノ……勝負だよぉ!」
「え?」
「ルカの敗戦理由を答えて、どっちが正解に近いか、露店のクレープを賭けてあたしと勝負だよぉ!」
人差し指をサキノに向けて宣戦布告するラヴィに対して。
ややあって全てを理解したサキノは口端を上げ不敵に笑った。
「何を突然……でも、いいよ。乗ってあげる」
「待て待て待て、勝負の仕掛け方が強引過ぎないか!? 意味がわからないんだけど?」
「「意味なんてないんだよ」」
「打ち合わせでもしてた!?」
ラヴィから突発的な勝負が考案されるもサキノも女の子、甘味の欲望には勝てなかったらしい。
二人の美少女の視点が僅かな正答の痕跡も見逃さないとばかりに、一人の男子生徒の体を舐めるように隅々まで追っていく。
たかがクレープ、されどクレープ。女子校生にとって、これは絶対に負けられない戦争なのだ。
暫しの黙考、先行して想念に結論付けたのは白髪の美少女。
「私は……そうね、ズボンの裾を踏んで足を取られた隙に、とか?」
サキノが着眼したのはルカに変化が見当たらないところだ。体力の限界はルカの表情から読み取れる疲労度から除外、腕前を信じて止まないことから読み負けも除外。消去法から残るはハプニングとの予想だった。
そんなサキノの推理を前に、後攻金髪の美少女は。
「あたしは――ルカがあたしの事を考えてて負けたに一票!」
「ん!? どういうこと!?」
推測も憶測も何もないただの願望。奇想天外な解答にルカが言外に不正解の疑問を口走ってしまうが、それでもラヴィの決意は固い。微塵の迷いもない親友の決断に、サキノも反論を嚥下せざるをえなかった。
「本当にいいんだね、ラヴィ?」
「もっちろん!」
バチバチとした視線の応酬が続き、澄んだ紫紺の瞳と清冽な碧眼がルカに会する。
正解を求められていることを悟ったルカは呆れながら告げた。
「いやまぁ、ネタにはなるだろうが……道場に穴が開いて埋まったんだ。すっぽりと」
二人が予期だにしなかった事態に空白を刻み――哄笑が飛び交った。閑散としていた教室に賑わいの熱波が拡散する。
「あはははっ! る、ルカ、勝利の女神様に、大爆笑されて……くっ、あははははっ!」
「ご、ごめんルカ、ふふっ、ごめ……っ!」
「身動き取れないのに問答無用で斬りかかられたんだぞ? 流石に無理だったわ」
気が置けない関係の少女達は波濤のように何度も込み上げてくる笑いを心苦しく思いながらも、ただただ身を任せ平穏の時間を享受していく。
そんな二人の少女を見ながらルカも肩を竦めて僅かな微笑を作った。
落ち着きを取り戻しては無様な光景を連想して再び震える腹部に、ラヴィは机に突っ伏しながら涙を湛える。そんな過呼吸気味な彼女に一頻り笑ったサキノは優しく、妖しげに囁いた。
「ごめんねこんなに笑って……ところで、勝負は私の勝ちでいいかな、ラヴィ?」
苦笑いで肩を竦めるルカの正面、大爆笑によって勝利報酬を完全に忘却していたラヴィは言葉の意味を知覚すると、がばっと顔を上げてサキノとルカを交互に見つめる。
「客観的に判断してもサキノの勝ちだろう。どうしてその理由で勝てると思ったよ」
「うゅ……勝負に負けて、愛に勝ったってところだね……」
「愛に勝ったはよくわからないけれど、どちらかというと愛を選んで負けたのだと思うよ?」
ルカも認める勝敗に、ラヴィはがっくしと首を折った。
軍配はサキノに上がり、甘味争奪戦争は終結した。
「ま、いっか。それじゃあ、行こうっ」
二人の少女が咲いたばかりの瑞々しい花のように破顔し、ルカを誘った。
± ± ± ± ± ± ± ± ± ± ± ±
生徒御用達の露店商で戦利品と献上品をそれぞれ頬張り、食べ終えたラヴィが再びふらふらと甘味の匂いに誘われる中、長椅子に座ったルカとサキノは二人で通りに目を向けていた。
獣の耳と尾を持った獣人や尖った耳を持つエルフの麗人といった多種多様な亜人族が都市総数一割弱、人族に混じりながら街路端を足早に進んでいる。まるでファンタジーのように種族入り混じる光景に違和は感じない。
「そうだルカ。明日は依頼が長引きそうだから、ラヴィと先に帰っていいからね」
「お? あぁ、わかったよ。あんまり無理はするなよ」
「うん、ありがとう。あと十件くらいだから大丈夫」
「依頼を残機か何かと勘違いしてない?」
「ふふふ、私が残機ゼロでゲームオーバーになったら悲しんでくれる?」
「皆元々残機ゼロなんだわ。ゲームオーバーになる前に頼ってくれ……」
「ふふっ、ありがとうね。でも依頼は私を頼ってくれているわけだし、私がやらなくちゃいけない」
『依頼』とは十全十美なサキノへの個人的な懇請のことだ。勉強を教えてほしい、行事の人出が足りないから手伝ってほしい、事務作業を手伝ってほしい……そういった生徒から教員の悩みまでをサキノは献身的に受け持っている。
ルカやラヴィ、クラスメイト達は何度も助勢すると伝えてはいるのだ。だが、サキノは「大丈夫」「私がやらなくちゃいけない」と、周囲を当てにすることも頼ることも断固として行わない。それは親交が一番深い二人に対しても。
容姿は端麗、頭脳は明晰といった才色兼備故の人望。完璧過ぎるが故の責任感を彼女は背負っているのかもしれない。
「そんな一人で気負わなくてもいいと思うけどな……バイトもしてるんだろ?」
「うん、でも依頼は依頼、バイトはバイト。『何かを犠牲にした正解は他者の正解とは限らない』から。これは大切な人が私にくれた言葉なの」
サキノは胸中に秘めた想いをまるで忘れてないよと追懐に浸るかのように、赤らみ始めてきた空を仰いだ。
「そんなもんかね……」
「そんなもんなの」
自己とは異なった信念を持つ少女に、ルカは肯とも否ともとれる相槌を打った。
「クレープ見てたらお腹減ってきちゃった」
「食欲に呪わてるんじゃないか?」
「女の子は欲望の塊なんだよ? 女の子は欲望の塊なんだよ?」
「別に大事なことじゃなさそうなのに何で二回言った?」
三人は帰路につく。しばらく進んだ後、ラヴィは軽快な足音を鳴らして二人を追い抜かし、くるりと二本の髪を翻して微笑む。
「あたしはお買い物して帰るから、ここで。また明日ねっ!」
多くの人が往来する四つ辻の一つへ駆け出す。
姿が見えなくなるまで何度も振り向きながら手を振る少女に、サキノとルカも最後まで見送った。
「私もバイト先に用があるから行くね」
「あぁ、それじゃな」
「また明日ね」
ラヴィと同じく普通過ぎる別離の言葉を言い残し、サキノは雑踏の中へと呑み込まれていった。
少女達を送り出したルカは大通りから小径へ進路を転じる。
見慣れた景色、変わらない街並み。人々が前を向き、歩みを重ねる変哲のない一日。
昨日と全く同じ世界が今日も過ぎていこうとしている。
そんな当たり前に続くと疑いもしない日常は――。
――――ピチャンッ――――
一瞬で砕け散ることとなった。
「雨音?」
まるで脳内に直接水滴を落とされたかのような鮮明に響く水音に、ルカは足を止め頭上を振り仰ぐ。
住宅街の形に切り取られた大空には、雨雲どころか雲一つとして無い。
上方に原因は見られず周囲に目を配るも、自分と同じように足を止めて違和を持つ者は見当たらない。
数瞬前と同様の、ただの日常が流れ続けている。
しかし聞き間違いではない、明白に感じた。
一切の波を持たない真水面に一粒の『異常』という雫が落下した音が。
「何だ今の……嫌な予感しかしないんだけ――ど」
嫌な予感が過ぎったのも束の間、都市の賑わいも、往来していた人通りも一切存在しない空間――世界が水没したかのように景色が淡い蒼に染まっている空間にたった一人、ルカは転移していた。
「――は?」
街並みだけは不変を貫いており、どこからともなく発生する白い泡沫の浮揚は夢路の誤認を禁じ得ない。
不気味さを凌ぐ『神秘さ』がルカの視界を支配していた。
明白な未知。
分析も、状況判断も、脳内伝達機能に輪止めがかかっていてはまともに出来る筈もなく、ルカは正解の出ない思考に意識を割く素振りで腕を組むことしか許されない。
「んん……異常だってことはわかるが、だからなんだって話で」
指を緩慢過ぎる頭の回転に合わせて弾ませ、四顧する。
重心を右足へ、左足へ。自然と動きを作らないといられない空気にあてがわれていた。
「……異世界……転移? いや、転移が真っ先に出てくるなんて相当参ってるのかな……」
あり得る筈がない。ここは現実世界の筈だと自分に言い聞かせて暴走しているであろう頭を掻き、ルカが冷静さを取り戻すため一息ついた瞬間。
ズンッ……と。
「…………」
静謐な神秘空間に響く僅かな震動音にルカは足を止めた。
鼓動が跳ねた音だろうか。そうだとしたらどれだけ楽だっただろうか。
生温い希望的観測は捨てろと、全身が知覚している。
ルカの二本の脚の隙間を風が背後から縫っていく。自然発生ではなく、動作によって生み出された突風が距離を以て風力を衰えさせながら運ぶものは――。
――殺気。
直後、爆裂の破壊音がルカの後方上部で轟く。
「ッ!?」
陣風を浴びて振り返った先、並ぶ家屋の屋根を仰ぐと、
『ギギャアアアアアアアアアアアアアアッッ!!』
そこには血走った鶏と蛇の四つの瞳――空想上の生物である鶏頭蛇尾の化物『バジリスク』がルカを見下ろし、耳を劈くけたたましい咆哮を上げていた。