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修羅を征く  作者: 青木 航
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修羅を征く the second

 摂関家の策謀により、安和の変で皇嗣となった守平親王はやがて即位して円融天皇となる。円融帝は即位時はまだ数え十一歳だったため、大伯父にあたる太政大臣・藤原実頼(ふじわらのさねより)が摂政に就任、実頼が薨去すると、外舅(がいしゅう)藤原伊尹(ふじわらのこれただ)が摂政を引き継ぐ。しかし、その伊尹も早逝した。伊尹の後、権力を掌握しようとした兼家であったが、犬猿の仲である兄・兼通(かねみち)に謀られて長い間冷や飯を食わされる事になる。

 高明(たかあきら)追い落としの時には、小聡明く動き回った兼家も、その後は負け続けの人生である。出世争いで兄・兼通に負け続け、策士としての一面はその影も無く、すっかり、負け犬としての評価が定着してしまった。兼家の台頭を期待して寄って来ていた者達も、徐々に離れて行く始末。だが、不思議な事に利に敏いはずの満仲(みつなか)は、何故か兼家との関係を保っていた。

 そんな時、兼家に取っても満仲に取っても幸運が舞い降りた。兼通が薨去したのだ。兼通は兼家憎さの余り、死の直前、頼忠に関白の座を譲っていた。またもや兼家は死せる兼通にしてやられてしまったのだ。

 兼家との確執が続く中、円融帝は嫌気が差して帝位を投げ出してしまう。円融帝の後を継いだ花山(かざん)天皇は十七歳で即位したが、有力な外戚を持たなかった。関白には、兼通に後を託されていた藤原頼忠が留任となったのだが、実権を握ったのは、(みかど)外舅(がいしゅう)義懐(よしかね)乳母子(めのとご)藤原惟成(ふじわらのこれしげ)であった。人事も、帝を含む四者の駆け引きの中で行われることになる。

 

 花山(かざん)帝は、『内劣(うちおとり)の外めでた』などと評される性格の持ち主で、乱心と思える振る舞いも多く、好色で移り気。情緒不安定な面もあった。その一方で、絵画・建築・和歌など多岐に渡る芸術的才能に恵まれ、独特な発想に基づく創造は度々人の意表を突いた。 

 やがて、権力は義懐、惟成、頼忠、兼家の間で分散されて行く。手が届きそうになっては、その度に、するりと兼家の手を抜けて行く権力と言う魔物。兼家は屈辱感に苛まれていた。しかし、兼家を敵に回したく無い頼忠は天元元年、兼家を右大臣とし取り込もうとした。


 そんな頃、花山帝が寵愛していた大納言・為光の次女で女御(にょうご)藤原忯子(ふじわらのきし)が妊娠中に死亡した。(みかど)の哀しみ方は尋常では無い。忯子の(みたま)を弔う為に仏門に入るなどと言い出す始末。

「一時の気紛れとは思いますが、お(かみ)にも困ったものです」

 蔵人(くろうど)を務める兼家の三男・道兼が溜め息混じりに兼家に訴えている。

「この不忠者め!」

 いきなり一括されて、道兼は驚いた。見ると、この処ずっと鬱々としていた父の目が、爛々と輝いている。

(みかど)の望まれることは、何であろうと叶える為に全力を尽くすのが、臣下としての努めであろう」

「はあ、しかし」

「まだ分からんのか。戯け。懐仁(やすひと)親王様は己の何に当たる」

 皇太子・懐仁親王の母・詮子(せんし)は兼家の三女であり、道兼の妹である。花山帝が仏門に入ると言う事は、懐仁親王が帝の位に就き、兼家が帝の外戚として絶対的権力を手に入れられると言う事なのだ。父の腹の内を知って道兼はたじろいだ。


 一方満仲は、遠隔地に飛ばされても、兼家に対する貢物(みつぎもの)を欠かしてはいなかった。計算高い満仲が、負け続けの兼家になぜ臣従を続けていたのか? 

 安和(あんな)の変までの満仲は、兎に角、貴族に成ることだけを考え、必死だった。何でもやったし、誰に何と言われようと気にもならなかった。だが、安和の変の際の働きを評価されて念願の貴族と成ってから、徐々に心境に変化が表れて来たのだ。

 何としても貴族に成ると言う強烈な欲求が満たされると共に満仲の願いは、一族の繁栄へと変化して行き、経基(つねもと)流・清和源氏の繁栄を齎した偉大な祖として、子孫から崇められる存在と成りたいというものに変わって来ていた。そして、その繁栄は何に因って齎されるかと考えれば、答はやはり財である。 

 満仲は蓄財と勢力の拡大に更に重きを置くようになっていた。蓄財には、地方の国司と成る方が都での昇進より都合が良い。それも、畿内の裕福な国、出来れば気に入った摂津の国守(くにのかみ)に返り咲きたかったのだ。

 満仲は一度摂津守に任じられていた。ところが、兼通(かねみち)が権力を握った途端に任期途中で越後に飛ばされた。兼家憎しの人事のとばっちりを受けたのだ。


 満仲はもはや、都での政争に感心は薄くなっていた。遠隔地の受領(ずりょう)を歴任していたが、兼家が右大臣と成ると、すかさず摂津守(せっつのかみ)再任を願い出た。兼家は関白・頼忠に満仲の再任を進言してくれた。関白・頼忠に取ってはどうでも良い人事なので、聞いて置けば、他の事で兼家の譲歩を引き出せると考えた頼忠の了承も簡単に得られ、満仲の思惑通りとなったのだ。

 なぜ兼家から離れなかったのだろうかと、満仲自身も思う。もし、貴族の地位を得る前であったら、間違い無く見限っていたに違い無い。それだけ必死だった。だが、叙爵(じょしゃく)に因って満仲の中で何かが変わった。ぎらぎらした必死さが薄れた。


 摂津守に復帰してから満仲は国内の巡視を始めた。その目的のひとつは税収を上げることである。新田開発可能な土地を探したり、隠し田を見付けたりすることが増収に繋がる。決められただけの物を都へ納めれば、残りは堂々と自分の懐に入れることが出来る。つまり、増収は国の為では無く己の為に必要なことなのである。

 欲ばかり深くて能の無い受領(ずりょう)は、ひたすら搾取する。[受領(ずりょう)とは実際に任地に赴任する国守のことだ]搾取に変わりは無いが、少しましな受領は、全体の収量を増やし、手元に残る分を増やすことも併用していた。

 当時、受領に権力が集中し、百姓(ひゃくせい)による受領に対する訴えや武力闘争(国司苛政上訴(こくしかせいじょうそ))が頻発していた。『百姓(ひゃくせい)』とは農夫では無く、地方の富裕層、国人のことである。

 そんな世情の中満仲は、この地を本拠地としようと考えていたので、過酷な収奪は控えていた。あちこち見て歩いた結果、結局、多田盆地に入部。摂津国(せっつのくに)川辺郡(かわべごおり)多田庄(ただしょう)(現・兵庫県川西市多田周辺)を所領として開発することにした。

 更に満仲は、山本荘を兼家に献上、摂関家の荘園とした。そして、郎等の坂上頼次(さかのうえのよりつぐ)荘司(しょうじ)とすると共に、摂津介(せっつのすけ)に任じて貰うよう兼家に願い出、成功した。頼次は、一族を率いて山本荘に入った。


 満仲の関心は私領となった多田荘の経営に移っていた。そんな生活の中、三年ほど経った頃、兼家から突然の呼び出しが有った。

「或る警護を頼みたいので、郎等十名ほど率いて上洛せよ」

と言うものであった。

「はて、家人(けにん)従者(ずさ)はいくらでも居るのに、麿に警護せよとは何であろうか」

 何か胡散臭いものを感じた。又、正直、今更面倒であった。しかし、摂津守への復帰、頼次を摂津介に任じて貰うなど、兼家にはこのところ色々と世話になっている。断ることは出来無い。

 寛和二年六月二十二日、満仲は指示通り十名の郎等を率いて上洛し、午刻(うまのこく)過ぎ、兼家の舘に入った。


 一方、父・兼家の覚悟を知った後の道兼である。花山帝が出家し、結果、退位することになれば、次の(みかど)は甥であり、父・兼家からすれば孫の皇太子・懐仁(やすひと)親王になる。父・兼家は、右大臣であり帝の外祖父と言うことになるので、頼忠を引きずり下ろし、即、摂関と成ることが出来る。

 外戚では無い頼忠とは違って、絶対的な権力を手に出来るのだ。長年、望んでも望んでも得られなかった摂関の座。それが目の前に有る。道兼には父・兼家の気持ちが痛いほど分かった。


 帝が本気で仏門に入りたいと思っているなら問題は無い。だが、花山帝がいかに移り気であるか、道兼は良く知っている。重臣の誰かに話して止められれば、簡単に諦めてしまうに違い無い。それどころか、好色であるから、妃の誰かと(とこ)を共にした際、そのことを口にし、泣かれただけでも気が変わってしまう可能性が有る。要は、一時の感情で言っているだけと言うことが、道兼は良く分かっているのだ。

 兼家と違って、道兼には帝を畏れ憚る気持ちが少しは有る。

『孝ならんと欲すれば忠ならず、忠ならんと欲すれば孝ならず』と言う処か。親孝行と忠義の硲に道兼は陥ってしまった。

(みかど)のお供をして、麿も落飾(らくしょく)しようと思います」

 そう兼家に告げた。怒鳴り付けようとしたが、兼家はぐっと堪えた。

「道兼」

と静かに呼び掛ける。

「仏を謀る気か。そなたの仏心がそれほど厚く無いことは、仏はお見通しじゃ。仏を謀ってはいかん」

 逸る気持ちを制して・重々しそうに言った。

「それは、お(かみ)も同じでは」

と道兼が言葉を返す。

「黙れ。臣下が帝の御心(みこころ)を疑うなど有ってはならん。

綸言(りんげん)汗の如し』と申す。天子には戯れの言葉は無いと言うことじゃ」

 己を省ず、他人(ひと)には平気で綺麗事を言えるのは、良からぬ政治家に必要な資質のひとつと言える。

「良いか。そなたが剃髪(ていはつ)するなど絶対に許さん。父の心裏切るなよ」

 暫しの沈黙の後、道兼は黙って頭を下げた。


 翌日の内裏に話は移る。花山帝は、西廂(にしびさし)から中渡殿(なかわたどの)に出て、物思いに耽るように空を見上げている。いとおしい寵姫(ちょうき)を失った帝としての自分に酔っているかのようである。周りに他の者が居無いことを確かめて、道兼は帝の側に寄り、足許(あしもと)に座った。

「お(かみ)

と呼び掛ける。

「何か?」

 花山帝が答える。

(おそ)れながら、ひとつお伺いしても宜しゅう御座いましょうか」

「良い」

「御出家されたいとの御心(みこころ)にお変わりは御座いませんでしょうか」

(たれ)も本気で耳を貸さぬ。悩ましいことじゃ。(たれ)(ちん)の心を解さぬ」

(やつがれ)は、御心(みこころ)痛い程お察し申し上げております」

(まこと)か?」

御意(ぎょい)(やつがれ)にお任せ頂ければ、必ずや、御心に添うよう手配致します」

「うん?」

と花山帝は何かに気付いたような表情を見せた。その様子に道兼は、花山帝が一瞬甘い夢から覚め、現実に戻ったのでは無いかと言う不安を覚えた。

「お(かみ)が仏門に入り、亡き弘徽殿(こきでん)女御(にょうご)(忯子(きし))様の(みたま)を弔いたいと言う御心(みこころ)(まこと)で御座いますれば、この道兼共に仏門に入り、来世迄もお仕え申し上げる所存に御座います」

 すかさず、そう申し上げる。

「真ならば? (ちん)の心、疑うか」

「滅相も御座いません」

「ならば、(ちん)に従って仏門に入ると申すか」

御意(ぎょい)

「道兼、嬉しく思うぞ」

「お言葉、勿体無き限りに御座います。全て(やつがれ)が手配、段取り致しますが、お(かみ)にもお願いしたき儀が御座います」

「何か?」

「ご重臣方に知れれば、事は不首尾に終わることとなります。あの方々は本気にはしておりませんが、それでも、万一を考えて、密かにお上のご様子を見張らせております。このこと、お(きさき)様方を含め、決して(たれ)にも漏らされぬようお願い申し上げます」

「分かった」

 道兼は低頭すると共に大きく呼吸した。


 寛和(かんな)二年六月二十日、右大臣・兼家の舘。満仲が兼家邸に呼び出される二日前のことだ。母家の西隣の塗籠(ぬりごめ)で、兼家、長男の道隆、三男の道兼、そしてもう一人、尋禅(じんぜん)と言う僧が額を寄せて話している。

 塗籠とは物置で、普通、こんな所で話すことは無い。この頃の舘に壁は無いのだが、唯一塗籠だけは壁も天井も有る。人を近付けぬようにしてこんな所で密談をするのは、それだけの大事であるからだ。

 尋禅は、山科(やましな)に有る元慶寺(がんぎょうじ)の住職であり、天台座主(てんだいざす)でもある。そして何より、師輔(もろすけ)の十男、即ち、兼家の異母弟に当たる。

 先代の天台座主・良源は師輔の財政的支援を受けて比叡山を再興し中興の祖と成った。しかし、それは一方で叡山の世俗化を招き、師輔の子の尋禅が跡を継ぐことになったのだ。つまり、ここに集っているのは、全て摂関家・九条流(師輔の家系)の者達である。


 数日前、尋禅は

「折り入って相談したいことが有るので、忍びで訪ねて貰いたい」

との(ふみ)を、兼家から受け取った。それでこの日、洛中に用事を作ってそれを手早く済ますと、密かに兼家の舘に入った。

()るお方が、仏門に入りたいと強く願っておられる。だが、それぞれの思惑から、周りの者達がそれを阻止しようとしておってな。麿としては、是非ともご希望を叶えて差し上げたいと思っておる。事は密かに且つ迅速に行わねばならん。手筈はこちらで整えるので、貴僧の手で是非」

『然るお方とはどなたで?』

などと馬鹿なことは、尋禅も聞かない。全てを察した。後は淡々と段取りを確認して行く。

 六月二十二日、午刻(うまのこく)過ぎ、満仲が到着する。

「お召しに寄り摂津守・満仲、御前(おんまえ)(まか)り越しまして御座います。右大臣様には、日頃、事の外お目を掛けて頂き、ご厚情に常々、深く感謝致さぬ日は御座いません」

と日頃の礼を述べ、丁寧に挨拶する。

「うん。今まで良う付いて来てくれた。麿もその方を頼りにしておるぞ」

 上座で僅かに頷いた兼家が、満仲に言葉を掛ける。

「勿体無きお言葉。満仲、万感の喜びに御座います」

 挨拶が済むと、兼家は尋禅に話したのと同じ言い方で事態を説明する。満仲もそれだけで全てを理解した。事の重大さに、さすがの満仲も息を飲む。しかし、『迷いを見せる訳には行かぬ』と腹を決めた。

「で、いつ?」

と兼家に聞いた。

(うし)の刻に事を起こす。洛中は目立たぬよう少人数で進む。三条通りから鴨川を越えた辺りで待て」

(かしこ)まって(そうろ)う」

 夕刻になって、満仲と郎等達は、目立たぬよう数人ずつ兼家邸を出た。


 ()の刻。兼家と道隆は紫宸殿(ししんでん)の東に有る詰所に入った。今宵、蔵人の道兼は宿直(とのい)の番に当たっている。

 兼家は道隆に諸門の閉鎖を命じた。道隆は家人(けにん)数人を率い、諸門を回り、右大臣の(めい)として門を閉鎖するよう命じる。

 道隆は、当時、右近衛中将(うこんえのちゅうじょう)兼春宮権大夫(とうぐうごんのだいぶ)であり、衛門府(えもんふ)とは無関係である。

 右大臣の(めい)とは言え、本来、衛士とすれば右衛門督(うえもんのかみ)左衛門督(さえもんのかみ)にそれぞれ確認すべきことである。職掌違いの道隆の(めい)に従う(いわ)れは無い。しかし、この時代、公的な立場と私的な立場の区別は曖昧なのだ。右大臣の嫡男の(めい)に敢えて逆らおうとする者は居ない。


 (みかど)の身支度は、他の者達を遠ざけて、道兼がひとりで整えた。予定通り、日付が変わった(うし)の刻には、出発の準備が整う。道隆の家人が確認に来て、直ぐ戻って行った。

 異様な雰囲気の中帝は、冒険に出掛ける前の子供のように興奮している。輿(こし)を担ぐ者の他、護衛は道隆の家人と従者合わせて五人。目立たぬよう最低限にした。

 道兼が先導し、夜御殿(よるのおとど)の北に有る部屋、后妃が参上した時の控えの間でもある“藤壷の上”を通り、小戸から北廂(きたびさし)に出る。そこから西北渡殿(わたどの)を通り切馬道(きりめどう)に着けた輿(こし)に帝が乗り込もうとする。

「暫し待て」

と花山帝が立ち止まった。

「いかがなされました」

と道兼が不安そうに尋ねる。

弘徽殿(こきでん)女御(にょうご)(忯子(きし))からの(ふみ)を置き忘れた。取って参る。待て」

 普段、肌身離さず持ち歩き、繰り返し読んでいた亡き忯子からの手紙を出掛けに置き忘れたことを思い出したのだ。戻ることに因り気でも変われば大変と、道兼は焦った。

「今が過ぎれば、人目を避けることに支障が出て参るに違い有りません。お心お察し致しますが、堪えて下さいませ」

 そう言って道兼は泣き真似をした。尚も心惹かれる素振りを見せながらも、花山帝は仕方無く輿に乗った。

 道隆が先導し、輿は、北に飛香舎(ひぎょうしゃ)(藤壷(ふじつぼ))南に後涼殿(こうりょうでん)を見、その間を通って陰明門(いんめいもん)に至る。道隆が開門を命じ、

「このこと、他言無用」

と門衛の兵に厳しく命じる。


 一行は内裏(だいり)の築地塀に沿って北に進み、右折、玄輝門(げんきもん)の前で左折する。左側が蘭林坊(らんりんぼう)、右側は桂芳坊(けいほうぼう)である。蘭林坊(らんりんぼう)桂芳坊(けいほうぼう)と共に、大嘗会(だいじょうえ)釈奠(せきてん)などの儀式の際の用具を始めとする御物(おもの)(しょ)などが納められている倉庫のような建物だ。従って、深夜に人気は全く無い。真っ直ぐ進むと朔平門(さくへいもん)に至る。同じようにして門を抜ける。大内裏の北寄りは、倉庫や官庁が並び、夜間の人気は無い。東に行くと官人(つかさびと)の通用門である上東門に当たる。

 上東(じょうとう)門は、大内裏の東面、陽明門(ようめいもん)の北。大宮大路(おおみやおおじ)に面し、土御門大路(つちみかどおおじ)に向かう。他の門とは異なり、単に築地(ついじ)を切り開いただけのもので屋根が無い為『土御門(つちみかど)』と呼ばれている。

 帝一行が大内裏(だいだいり)(官庁街)を出るのを見届けると、道隆は、兼家の待つ詰所に引き返した。

「無事、大内裏から出るのを確認致しました」

 道隆が兼家に報告する。

「うん、ご苦労。したが、これからじゃぞ。気を抜くな」

と兼家が道隆を戒めた。

「はっ」

と返事をし、道隆は気持ちを入れ直した。

 二人は先ず温明殿(うんめいでん)内侍所(ないしどころ)(賢所(かしこどころ))に行き、八咫鏡(やたのかがみ)が納められていると言う箱(実態は(みかど)(自身も含め、誰も中身を見ることは出来ないとされている)を接収。続いて清涼殿(せいりょうでん)に向かい、草那芸之大刀(くさなぎのたち)(草薙剣(くさなぎのつるぎ))の形代(かたしろ)八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が入った箱を持ち出す。形代(かたしろ)とは、模して造られ(みたま)を降ろしたもので、単なるレプリカでは無い。

 天皇の践祚(せんそ)に際し、この神器(じんぎ)のうち、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)並びに鏡と剣の形代(かたしろ)を所持することが皇室の正統たる(みかど)(あか)しであるとして、皇位継承と同時に継承される。いわゆる『三種の神器』である。

 因みに、ヤマトタケルの死後、草薙剣(くさなぎのつるぎ)は伊勢神宮に戻ること無くミヤズヒメ(ヤマトタケルの妻)と尾張氏に寄って尾張国で(まつ)られ続けたと言われる。これが熱田神宮の起源であり、現在も同宮の御神体として祀られている。

 いずれにせよ、兼家は、皇位継承を正当化する為、三種の神器を皇太子の居所(きょしょ)である凝華舎(ぎょうかしゃ)(梅壷(うめつぼ))に移したのだ。


 一方、(みかど)の一行は、道隆の従者(ずさ)松明(たいまつ)の灯で辺りを照らしながらも、ひっそりと深夜の大宮大路(おおみやおおじ)を下り、三条大路(さんじょうおおじ)に折れて東に進む。偶然一行を目撃する者が有ったとすれば、『物の()』の一団と思ったかも知れない。


 鴨川の東側の堤、三条大橋の袂に十人ほどの男たちが身を伏せている。叢雲に見え隠れする月の光だけが僅かに照らしている。その薄明の中、洛中の方角から三条大橋に向かって輿(こし)が近付いて来た。

『気乗りはしなかったが、他に方法は無かった』と満仲は思う。十四年もの間、兄・兼通に干されて出世に見放されていた兼家に従って来た。その兼家がやっと浮かび上がり、絶対的な権力を手中にする為の大博打に打って出ているのだ。この大博打に兼家が勝てば、満仲自身も更に出世するに違いない。貴族に上がる前の満仲であれば、体中の血が湧き上がって、何としてもやり遂げるという強い意志を以てこの任務に臨んでいたに違いない。だが、貴族としての地位を得、望みの摂津守に再認され、多田荘(ただのしょう)という私領をも手に入れた満仲の中で、強烈な出世欲は影を潜めてしまっていた。満仲は私領の経営に専念していたかった。だが、その地位を得る為に世話になった兼家の(めい)を断る事は出来なかった。それが本音だった。


 出立する時は雲間に隠れていた月がはっきりと姿を現し、辺りは明るさを増していた。

「止めよ」

と花山帝が声を上げた。先を急ぎたい道兼だったが、仕方無く列を止める。満仲達は不足の事態に備えて周囲に気を配る。御所から警護して来た者達は三条大橋から引き返してしまっているので、警護は、道兼の他には満仲とその郎等達のみである。

「いかがなされました」

と道兼が尋ねる。

「見るが良い。このように月が明るくては目立ち過ぎることよ。いかがしたものかな」

 自分に酔っていた帝が我に帰り、剃髪することが億劫になって来たのだと道兼は感じ取った。

「そう仰っても、お取りやめなさることは、もはや難しゅう御座います。神璽(しんじ)や宝剣は、既に東宮(皇太子)様の許にお渡りになりましたので」

 花山帝は、一瞬絶句する。これは現実なのだと始めて悟ったかのようである。そうしているうちに、再び月に叢雲(むらくも)が掛かって、辺りは少し暗くなった。

(ちん)の出家は成し遂げられるのであるな」

 観念したかのようなひと言であった。


 深夜に輿(こし)で内裏を発ったが、山科(やましな)元慶寺(がんぎょうじ)に着く頃には、夜は明け始めていた。

 帝は輿を降り、寺の回廊に立った。見上げると西の空に“有明(ありあけ)の月”が浮かんでいる。『有明の月』とは、夜が明けても尚空に残っている月のことを言う。陰暦の十六日以後、特に二十日を過ぎてからの月である。

「夜が明ければ、もはや出番では無いと言うに、未練な月よのう」

 花山帝は自らの未練を嘲笑うかのように、そう呟いた。

 出迎えた尋禅が先導して本堂に入る。本尊・薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)の前に、既に剃髪の支度が整えられている。

「どうぞ、あれへお渡り下さいませ」

 天台座主の正装を身に纏った尋禅が、手を差し伸べて座を勧める。一瞬立ち止まった帝だったが、ひと呼吸すると、意を決したかのように歩を進める。


 (みかど)の頭を剃刀(かみそり)が伝い、一筋の青い頭皮が顕になった時、順を待って控えていた道兼が声を掛ける。

「お(かみ)

「何か」 

「実は、仏門に入ることを父に話しておりません。父に無断で剃髪することは親不孝では無いかと思い至りました。最後になる俗世の姿を見て貰い、ひと言、父に断って参りたいと思います」

 帝が不審の眼差しを道兼に向ける。道兼は、床に手を突き、泣いているのか肩を震わせている。

「馬を調達して往復するつもりですので、長くは掛かりません。帝のお供をして出家するとあらば、父も快く許してくれるものと思います」

 そう言って再び低頭すると、帝の返事も待たず、道兼は本堂を出て行ってしまった。

 花山帝は、一瞬、声も出なかった。既に一部剃刀が入っているので、身動きも出来ない。

 遠くからその光景を見ていた満仲は、ふっと溜め息を吐いた。実は、道兼が帝と一緒に、本当に剃髪してしまうのではないかと、兼家が、ひどく心配していたのだ。他人には非情な兼家もやはり親である。

「多少手荒なことをしても良い。絶対に止めろ」

と満仲は命じられていた。満仲は直ぐに道兼の後を追った。


 表門に四人、裏門に四人、そして、(きざはし)の下の両側に一人ずつ。満仲の郎等達は、鯉口(こいぐち)を切って太刀を直ぐに抜けるようにして警戒している。義懐(よしちか)惟成(これしげ)が察知し、(みかど)の出家を阻止する為、人数を繰り出して来ることを想定してのことだ。

 道兼が取り乱した様子で慌ただしく回廊を走り出て来た。

「先にお舘にお連れせよ」

 追うように出て来た満仲が、(きざはし)下の二人の郎等にそう命じる。兼家に与えられた任務を無事済ませたのだから、いつもなら、ほっとする処なのだが、苦い水が胃の府から上がって来るような不快さが、満仲を襲っていた。

「帝を謀る手先を努めてしまった」

 皇孫であることを誇りとし、そんな身が他家の使用人などに身を落としてたまるかと言う想いで必死に生きて来た男である。

(しがらみ)に流され、決して、してはならないことに手を染めてしまったのでは無かろうか』

 そんな考えが満仲の頭を(よぎ)った。


 花山帝はわずかな望みを持って、道兼が戻るのを待っていた。自分ひとり、永遠の闇の中に放り出されたような恐怖が襲って来た。本尊の薬師瑠璃光如来像が、まるで閻魔大王のように背後から迫って来る。尋禅を始めとする僧達の表情も無機質で、この世の者では無いように見えた。

      

 いつまで待っても道兼は戻って来なかった。いつの間にか、満仲達の姿も無い。

(たばか)られたか」

 青く剃り上げられた頭を掌で擦り、花山(かざん)帝、いや法皇は苦悶の表情を見せた。満仲も関わった『寛和(かんな)の変』と言われる事件の顛末である。



 花山帝退位の謀がまんまと成功したことで、苦渋を舐め続けていた兼家は、やっと権力を手中にすることが出来た。そして、手を貸した満仲も兼家の 信頼を更に深め、その地位を高め、権力と富を更に増していた。

 忙しいが、充実した日々である。「やっとここまで来ることが出来た」そう思う。

 血の滲むような努力と強い意志が無ければ、今頃自分は、(つわもの)の郎等か、良くて貴族の家人(けにん)くらいでしか無かったであろう。世間には謗る者も多いが、大抵は、親や先祖のお陰で大した努力もせずに地位を得ている者か、逆に、浮かび上がる望も無く、不満を持ちながらも現状に甘んじることを余儀無くされている者かのどちらかである。己に才覚が無い事に目を瞑り、他人を批判することで憂さを晴らしているだけでは無いか。満仲はそう思う。

 貴族としての地位を回復し、弟達にも恩恵を与えて来た。正四位下(しょうしいのげ)と成った今、子や孫には蔭位(おんい)の恩恵を与えることが出来る。官人(つかさびと)としての道は開いてやった。少しの才覚を持っていれば、参議くらいには成れるだろう。その為に必要な財は十分に残してやることが出来る。数え上げれば切りが無い。満仲は自分の人生を振り返り満足していた。

 そのはずだった。ところが、花山帝出家騒動の直後から、妙に心が疼くことが有る。刺さったことも忘れて、そのまま皮膚表面が治癒してしまったが、皮膚の内側で腐り始めた刺。比喩的に言えば、そんな疼きが満仲の中で芽生えていた。

 そもそも、満仲の出世欲の原点と成ったのは、「皇孫として生まれた身が、このまま地に埋もれてたまるか」という強い意識である。

 高明(たかあきら)に臣従する切掛けとなったのも「同じ皇孫として、同じ源氏として麿に力を貸してはくれぬか」と言われたことである。当時の高明は、若くして出世を重ねる、輝ける源氏の星であった。

「この方に着いて行けば、きっと道は開ける」満仲はそう思った。ところが、藤原千晴が、多くの郎等を率いて上洛し、従者(ずさ)として高明に仕えるようになって、状況が変わった。

 当時の満仲はと言えば、やれることは何でもやって財を稼ぎ、やっと郎等達を養っている状態であり、とても、高明にべったり着いている訳には行かなかった。同じ(つわもの)として対抗心も有り、嫉妬心も芽生えていた。

 高明も、次第に千晴を寵愛するようになる。「小藤太(ことうた)はいずこにおる」 そう聞かれるのが不快だった。もちろん、そんな気持ちは微塵も顔に出さなかった。「さて、先程までそこにおりましたのですが。探して参りましょう」そう言って高明の前を離れる。


 高明が将来の側近として考えているのは千晴であり、自分は都合良く使われるだけだ。

 そう結論付けた時、摂関家と組んでの高明追い落とし計画が始まった。当時ばらばらだった摂関家の意思を纏めようとする伊尹(これただ)を助ける動きもした。伊尹の指示を受ける為の窓口となっていたのが兼家であった。

 高明追い落としに付いての後ろめたさは無い。だが、花山(かざん)帝を退位に追い込む手助けをしたことに付いては、事情が少し違う。そもそもの原点である皇孫としての誇り。それとの矛盾が、満仲の深層の中で解消されていないのだ。

 忙しさに(まぎ)れている時は良いが、一人に成った時、突然、何とも言えないやりきれなさが満仲を襲う。


 そのうち悪夢を見るようになった。花山帝とは関係の無い夢だ。昔、殺した者の表情が突然夢に現れ、思わず声を出して、自分の発した声に驚いて飛び起きる。宿直(とのい)の者が慌てて「いかがなさいましたか?」

と声を掛ける。

「いや、何でも無い。宿直は要らぬ。今宵は下がって休め」

「はあ、しかし」

(やかま)しい。(めい)じゃ。下がれと申したら下がれ」

 宿直(とのい)の者は、仕方無く下がって行く。

「何じゃ、この夢は。身の程知らずめが、逆恨みしおって。殺される者は、初めから殺されるべき運命(ほし)の許に生まれ付いておるのじゃ。麿を恨むな 。運命(さだめ)を呪え」


 当時、もちろん、自分の無意識が夢を見させるなどとは誰も思わない。当時の考え方としては、生霊や死霊が何らかの意思を持って、相手の夢の中に現れるのである。

 寝汗をびっしょりかいている。宿直(とのい)の者は下がらせてしまったので、侍女を呼び着替えを持たせ、汗を拭わせる。

 そんな事が何度か有り、落ち着かなく成っていた満仲は、遂に決心をして或る高僧に相談する。ところがその高僧、極楽往生を説く一方で現世利益の話をする。

 小難(こむずか)しい仏教用語を羅列しているが、要は、財を使って功徳を積めば、煩悩から逃れ、極楽に行くことが出来ると言っているだけだ。琴線に触れるところが全く無い。挙げ句の果てには、寺の建立や寄進を盛んに勧める始末。それで全ての悩みは解消され、死霊も夢には出て来なくなると言う。

 取り澄まして説法を語っていた時とはまるで別人のように俗っぽい表情と成って、満仲に、寺の建立や寄進を勧めて来る。満仲が数多く知る、策謀好きで欲の深い者達と何ら変わり無い印象しか受けなかった。

 丁寧(ていねい)に礼を言い、多めの謝礼を渡して、満仲は寺を後にした。

「寺の建立、或いは寄進のこと、是非お考えなされ、煩悩を除くには、功徳を積むことが肝要ですぞ」

 別れ際に高僧はそう重ねた。

「あれは、僧衣を着た公卿(くぎょう)でしか無いな」

 満仲はそう思った。


 満仲は高僧に救いを求めたが、期待は見事に裏切られた。『僧衣を纏った公卿』にしか見えなかった高僧。

『いっそのこと、あ奴にでも聞いてみるか。恥にはならんからな』そう思い付いた。『あ奴』とは、五男のことだ。多くの公家達が子のひとりを僧籍に入れる風潮に成っていた。そして満仲も、(つわもの)にするには頼りない気弱な五男を、叡山に入れていた。今は源賢(げんけん)と名乗る修行僧に成っている。

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