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修羅を征く  作者: 青木 航
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貴族への道

 勧善懲悪は絵空事の物語の中か、勝者によって都合良く作られた御用歴史書の中にしか存在しないのか?

 悪人と言われた者が名門を作ることが有る。ジョセフ・P・ケネディ。JFKの父である。株価操作、会社の強引な買収などによって一代で富を築き、富豪となったが評判は至って悪い男だった。しかし、大恐慌の直前に株を売り抜け、荒稼ぎした財産を守る事が出来た。その先見の明が名門ケネディ家の基礎を築いたのだ。  

 千年ほど前の日本にも、同じように評判の悪い男ではあったが、名門の基礎を築いた男が居た。源満仲(みなもとのみつなか)。誰もが知っている源頼朝、義経の祖先であり、鬼退治で有名な源頼光(みなもとのよりみつ(通称らいこう)の父である。 


 時代小説は古臭いと言う人も居る。今とは、その瞬間から、一秒一秒、一日一日古くなって行くものだ。新しさとは瞬時に消えるもの。過去が有って今が有り、今が有るから明日が来る。千年前も今も、そして未来も、人の心にさほどの変わりは無い。 


 良くぞここまで来たものだと、満仲(みつなか)は思う。多くの者達の恨みを買った。満仲への恨みを晴らす為、館に押し入って財貨を強奪して行った者も居たし、二度に渡って館に火を掛けられもした。一度などは近隣一帯を焼き尽くす大火になり、それが為、貰い火で屋敷を焼かれた貴族達の恨みを買う事になった。命を狙われた事も、一度や二度ではない。正に綱渡りの人生だった。

 だが、他にどんな生き方があっただろうかと満仲は思う。父は六孫王と呼ばれた元皇族で、臣籍降下した後は源経基(みなもとのつねもと)と名乗っていた。

 臣籍降下とは多くなり過ぎた皇族を養い切れなくなって、桓武天皇の時代から行われるようになった謂わば皇族のリストラである。由緒正しき家柄ではあるが、清和天皇から数えて四代。満仲は三世源氏となる。親王が臣籍降下した一世源氏と違い、(みかど)の孫である王の更に子となるとその地位は低く、貴族でさえ無い地位から出発しなければならない。

 おまけに父・経基はその人生に於いて大失態をやらかしていた。

 武蔵権守(むさしのごんのかみ)興世王(おきよおう)と足立郡司・武蔵武芝(むさしのたけしば)との間に起きた争いを調停しようとして、平将門が武蔵に入った際、将門らに館を襲われたと勘違いして慌てて都に逃げ帰り、将門と興世王、武蔵武芝がグルになって謀叛を起こしたと朝廷に訴え出たのだ。

 しかしこれは、手打ちの宴が盛り上がり、酒に酔った兵達が、経基の配下の者達を誘おうと松明を手に介の国司舘に押し掛けたのを、経基が襲撃と思い込んだものであって、全くの事実無根であった為、経基は虚偽の訴えをしたとして投獄されてしまった。そして、未熟者、臆病者と世間から嘲られる事となってしまった。この時の将門には謀叛の意思など全く無かったのだ。後に将門が実際に謀叛を起こした為、経基は許され名誉回復することが出来たのだが、満仲の修羅の人生は、父が投獄された正にこの時から始まった。


 父・経基が初めて得た職は武蔵介(むさしのすけ)。位階は従六位下(じゅろくいのげ)だった。既に子の満仲が二十歳を過ぎての事である。貴族と呼ばれるのは五位からなので、未だ六位の経基の子である満仲が貴族になれる可能性はほぼ無い。

 降下した者の多くが、次の代には庶民の身分にまで落ちて行くことになる。この時代、子等は妻の実家で育てられた。しかし、二十歳を過ぎていた満仲は、そういつまで母の実家の世話になっている訳には行かない。母の実家からは、他家の家臣となることを強く勧められた。

 出世を目指し官職に就く為には、無報酬で公卿(くぎょう)と呼ばれる上級貴族の従者(ずさ)となり、(あるじ)の推薦を受ける順番を待たなければならないのだ。推薦を受ける為には、何年も貢物を贈り続けなければならない。家計にそんな余裕は無かった。朝廷が認めた家臣と成れば俸給が貰える。家計のことを考えれば当然そうすべきなのだが、満仲は、貴族への道を諦めたくはなかった。将来得るであろう子や孫への、己の責任を感じていた。一旦他家の家臣となってしまえば、未来永劫、子や孫もその身分から浮かび上がることは出来なくなってしまう。

『このまま終わってたまるか! 何としても貴族に上ってやる』

 満仲は強くそう思っていた。そんな訳で母の実家に居づらくなった満仲は、父の赴任に随行して武蔵に移っていた。父・経基は府中に有る国司舘に単身で住み、満仲と母は比企郡に建てた私邸に住んでいた。


 或夜、寝入っていた時刻、騒がしさで目覚めると、血相を変えた父が馬で駆け込んで来ていた。何事が起きたのか聞き糺す間もなく、母と共に支度をして付いて来るよう命じられた。

「父上! 何が有ったのかお聞かせ下さい。こんな夜中に母上まで同道して何処へ行こうと言うのですか?」

 そう聞いた。

「謀叛じゃ! 平将門が武蔵武芝と図って謀叛を起こした」

 父はそう喚いている。足立郡司・武蔵武芝と国府の間に争いが起きている事は知っていたし、将門が武蔵に入ったと言う噂も耳にしていた。

「父上。落ち着いて下さい。将門が武芝と結んで謀叛を起こしたとして、国府の兵はどうしたのですか? 国府の兵を以て将門らと戦う事は出来ないのですか? 権守(ごんのかみ)興世王(おきよおう)様は何処に居られるのです」

「興世王殿は将門に尻尾を振って、将門の調停を受け入れた。麿は、それに反対して引き上げ、国司館に戻っていた。それに腹を立てた興世王殿が、将門と謀って館に兵を差し向けて麿を討とうとしたのじゃ。ここへも間も無く攻めて来る。急げ! 一刻も早く都に戻ってこの事を報せねばならん?」

 俄には信じられない事ではあったが、父を疑う訳には行かない。国府の兵までもが敵となって攻め寄せて来ると言うなら、もたもたしていたら命を失う事になる。満仲は母に事情を話し支度を急がせる一方、父の換え馬を含めて三頭の馬を用意させた。郎等(ろうとう)二人に松明を持たせ、夜の武蔵から都に向けての辛い逃避行であった。しかし、逃避行と思っていたのは経基側の思い込みなのだから、実際には追手など掛かっていなかったのだ。


 父が投獄され都中の笑い者になってしまった為、母は恥ずかしくて街も歩けず、寝込んでしまった。

 父・経基は元皇族であり人付き合いも良い方だったので、臣籍降下した後もそれまでは、貴族達との付き合いは続いていた。その伝を辿って何とか解き放ちをしてもらえないかと、満仲は連日父との付き合いの有った公家達を訪ねて回った。苦しい家計の中から工面して手土産も用意した。しかし、大方の者は居留守を使い、偶に会ってくれる者が居ても、

「気の毒とは思うが、お上の決定を覆す事は、我等の力では出来ぬ。公卿方に働き掛けてみるつもりではあるが、余り期待せぬが良い」

などと言う返事が殆どだった。『公卿方に働き掛けてみるつもりではあるが』とは謂わばお愛想で、実際には何もするつもりは無い事は見て取れた。何事も無い時には親しく付き合っていても、いざとなると世間は冷たいものだと満仲は思い知った。


 父の浅薄さには腹が立ったが、それでなくとも遠い貴族への道は、最早絶望的となってしまった。流石に強気な満仲も、出世を諦めかけていた。

 そんな時、図らずも満仲を救った人物が居た。他ならぬ平将門である。天慶二年十一月将門は、常陸の国府を占拠し、国司の権威の象徴である印鑰(いんやく)を奪い、国司を追放した。謀叛である。

 その為、朝廷は経基を拘束して置く事が出来なくなり、経基は放免された。そればかりではない。『将門に叛意が有ることを早くから見抜いていた』として、功を称されて五位に叙せられたのだ。思わぬ事から父は貴族となった。と言う事は、満仲が貴族に成れる可能性が出て来たと言うことなのだ。貴族は完全世襲制ではないので、父の位階をそのまま引き継げる訳では無い。しかし、貴族の最下位である従五位下の者の子でも、二十一歳になると従八位上となる事が出来るので、父が更に出世を重ね、満仲自身も努力すれば貴族となる道が開けた。


 満仲は、又別の意味で人の本性を見る事になる。手の平返しである。

 居留守を使った者も、気の毒と同情する振りはしたものの実際には何もしなかった者も、経基が解き放たれ、その上、功を称されて貴族に列せられたとなると、我もわれもと祝いの品を持って押し掛けて来た。

「いや、麿も随分と貴公の解き放しをお願いしていたのじゃ。何れにしても良かったのう」

などと、やってもいない事を恩着せがましく言う者ばかり。父は、その者達が満仲の願いを冷たくあしらった事など知らない。その者達の態度を苦々しく思うどころか、

「あの将門と言う男が叛意を抱いている事はひと目見て分かった」

などと能天気に法螺を吹いている。将門がやって来る前に興世王と対立して、腹を立てて引き上げてしまっているので、実際には将門とは対面していないのだ。父も含めて『何なのだこの連中は』と満仲は思った。


 解き放ち後・経基は副将軍の一人となって将門追悼に向かうが、将門が藤原秀郷(ふじわらのひでさと)、平貞盛らに寄って討たれた事を知り、已む無く帰京する。その後、まだ瀬戸内で暴れていた藤原純友追討の軍にやはり副将軍として参加し、手柄を立てる事を目指した。しかし、ここでも既に小野好古によって乱は鎮圧されてしまっており、経基の働きは、純友の家来・桑原生行を捕らえるにとどまり、大した手柄とはならなかった。


あつものりてなますを吹く』と言う諺では無いが、投獄されたことが余程応えたと見えて、その後の経基は無難に役目を果たすことばかり考えるようになった。

 と言うのも、投獄された遠因を辿れば、正任(しょうにん)の武蔵守が着任する前に一儲けしようと企んだ権守・興世王に誘われてそれに乗った事なのだ。搾取に反発した武芝との間で争いとなり、力で押さえ付けようと兵を出して武芝の財産を略奪し、民人達を率いて山に立て籠った武芝を国府の兵を以て包囲した。武芝は、その頃身内との戦いに連戦連勝し名を挙げていた上総(かずさ)の平将門に仲裁を依頼した。その将門の仲裁に応じるかどうかで、経基と興世王は対立し、腹を立てた経基が館に籠もった事が原因となって誤解が生じたことが間違いの全てだ。

『興世王の誘いに乗って欲を出さなければあんな事にはならなかった』

 今の時代であれば真っ当な生き方に目覚めたと評価してしかるべきではあるが、この時代、立場を利用し搾取や横領を重ねて私財を蓄えて、それを貢物として上級貴族に贈り続けなければ、早い出世は望めなかった。


 私欲と保身に塗れた貴族達の本音を満仲は見てしまった。父が貴族の端くれに成れたからと言って、手を拱いていて自分も貴族に成れる訳では無い。父の出世を願っているだけでは、自分の一生はせいぜい下級官吏止まりだろう。出世する為には財が要る。満仲は、そう強く思った。


 三位(さんみ)以上の位に在る公家(くげ)公卿(くぎょう)と言う。左右の大臣や大納言、中納言などである。彼らは、俸給や荘園からの上がりで多くの収入を得る一方、朝廷から認められた家臣の他に只で使える多くの従者ずさを抱えていた。従者の多くは地方豪族の子弟で、(あるじ)の推薦を得て位階を得る為に公卿達に無償で奉仕していた。生活費ばかりでなく、(あるじ)を始め、家司けいしや女房達にも貢物を贈らなければならないので、それら全てを親元からの仕送りに頼っている。

 満仲には公卿に無償奉仕をする余裕など無かった。父を当てにすることは出来なかった。必要な財は、全て己で稼ぎ出さなければならない。


 満仲は偉丈夫である。幼い頃から鍛錬を続けて来たので、誰にも負けない丈夫な体と強い意志を持っていた。(えら)の張った顎、太い眉、しっかりと座った鼻。初対面の者でも満仲を甘く見る者はまず居ない。黙っていても威圧感が有る。満仲自身は、己の顔立ちに満足感を覚える一方、人に警戒される顔だなとも思っていた。それが好都合な場合もあるが、裏目に出る場合も有る。人を脅すには都合が良くても、人に取り入る為には不都合な顔立ちだ。そう思った。それから満仲は鏡を見ながら色々な表情を作り、己の顔が他人にどう見られるかを考えるようになった。そして、強面のその顔を一瞬にして愛嬌の有る笑顔に変える(すべ)を会得したのだ。


 満仲は己の持つ威圧感を利用して稼ぐ事を思い付いた。不足した警護の人数を補う為の日雇いから、貸付の取り立て、揉め事の力に寄る解決など、汚れ仕事も厭わず何でもやった。そう言う種類の仕事は満仲に頼めば、嫌がらずに何でもやってくれる。そんな評判が公卿達の間に徐々に広まっていった。

 或る公卿の家司に呼び出された。庭に控える満仲に、(きざはし)の上の家司が独り言のように呟く。

「〇〇卿を存じておるか?」

「はっ」

と庭に膝と拳をついた満仲が返事をする。

「事情が有って、我が主は〇〇卿の事をご不快に感じられているようでな。なに、独り言じゃ」

一切(いさい)承知」

と答えて、満仲は姿を消す。

 その日の夕刻の事である。〇〇卿と名指しされた男の牛車が賊に襲われ、〇〇卿は裸足で烏帽子も脱げる散々な姿で命からがら逃げ出した。翌日、この噂で都は持ち切りとなった。賊を装った満仲の仕業であった。この時代の男、中でも公家達に取って人前で烏帽子を脱がされることは、これ以上無い屈辱であった。


 手際の良い事、口の固い事で、満仲は益々公卿達の信用を得てゆく。荘園で揉め事が起こったと相談されれば、郎等達を連れて乗り込み力づくで収めて来る。証拠を残したり表に出ては絶対にまずい事ではあったが、暗殺さえも引き受けた。そうして稼いだ財で、満仲は郎等を増やして行く一方、有力公卿達との繋がりも作って行った。


 穢れを嫌う公卿達に代わり汚れ仕事を熟して行く満仲は、彼らの秘密も多く握る事になった。小悪党なら、それをネタに小遣いをせびるような真似をするのだが、満仲は、約束の報酬さえ貰えば、そのことを知っている素振りさえみせない。口が固いと言う事で裏の仕事での満仲の評判は益々高くなり、実入りが増え郎等も増える事で、満仲は都随一の(つわもの)へと成長して行った。


 この満仲の躍進振りに注目している公卿が居た。源高明みなもとのたかあきらである。高明は故・醍醐天皇の皇子であり、朱雀(すざく)天皇、村上天皇の腹違いの兄で、自身が臣籍降下した一世源氏である。七歳で臣籍降下したが、十七歳で従四位下、天慶ニ年には若干二十六歳で参議に任じられ公卿に列していた。同じ源姓とは言え満仲とは天と地ほどの身分の違いが有る。

 高明の出世が早かったのは、単に前帝の子であるからだけでは無い。一世源氏の尊貴な身分に加えて学問にも優れ、朝儀にも通じていたからである。

「同じ源氏として、麿に力を貸してはくれぬか」

 呼び出されて何を依頼されるのかと思ったら、そう言われた。この時代、源氏などゴロゴロ居るのだ。仕事を依頼されるにしても、通常は家司などを通じての事で、公卿本人から言葉を掛けられた事など一度も無かった。帝の皇子から『力を貸してくれ』と言われて満仲は震えた。財を得る為に何でもやって来た。それを止める訳には行かないが『この方の為に働きたい』と言う気持ちが湧いた。


 稼がなければならないので従者として勤める事は出来なかったが、以後、満仲は高明派のつわものと見られるようになった。しかし、当時実権を握っていた藤原氏の公卿達の元にも顔を出し、相変わらず闇の仕事にも手を染めていた。高明も、そうした満仲の行状に付いてとやかく言う事は無かった。


 稼ぐ為に汚れ仕事を続ける一方で、満仲の心は高明へ夢を託そうとするようになった。本来、帝の家臣の身分であるべき藤原一族がのさばり(まつりごと)を独占し、帝さえも思うように口出しが出来ない政情が続いていた。


 父・醍醐(だいご)天皇の後を受けて、朱雀天皇は七歳で即位した。当然、(まつりごと)は出来ないから、母方の叔父・藤原忠平が摂政として実際の政を行った。しかし、朱雀天皇が成人しても忠平は実権を手放さず、関白と立場を変えて政治を執り続けた。

 この時代、富士山の噴火や洪水などの災害が多く発生し、その上、承平天慶の乱(平将門、藤原純友が起こした乱の総称)が起きるなど政情不安が続いていた。忠平は、その責任を天子に徳が無い為として、成人して扱いにくくなった朱雀天皇に押し付けて退位させてしまった。朱雀はまだ二十四歳の若さだった。

 後を継いだ村上天皇は朱雀とは同母弟。二十歳での即位であるから朱雀が飾り物にされた上使い捨てられた経緯をしっかりと見ていた。忠平の権力が確立してしまっている現状で策も無く対立する事の危険性を熟知していた。

 高明は朱雀、村上両天皇の異母兄である。村上天皇は藤原摂関家から実権を取り戻し、帝親政(みかどしんせい)を復活させることを願っているに違い無かった。それを実現する為には高明の出世を待ち、藤原を排除して源氏が親政を補佐する体制を作り上げる必要が有る。そう読んだ満仲は、

「同じ源氏として力を貸してくれ」

と言う高明の言葉を重く受け止めていた。単に貴族の地位を得るだけではなく、将来、高明の側近として政の中枢で活躍出来るのではないかと言う夢が生まれたのだ。


 財を貯め余力の出て来た満仲は、公家達との人脈を生かし官職に就き、出世の階段を上がり始めた。しかし、裏の仕事も含めて雑用の多い身。毎日役所勤めばかりしていたら捌き切れない。必要に迫られれば、病と称して狡休みをしたりしていたが、それくらいでは追い付かない。そこで、弟の満季(みつすえ)に雑事を手伝わせるようになった。満季は兄弟の中でも一番、兄・満仲を敬っており忠実だった。

「麿の夢はな、我等・清和源氏の名を世に轟かすことじゃ。決して、己が出世のみを考えている訳では無い。(なれ)達兄弟も、そして、我等の子や孫も胸を張って生きられるようにしたいと思うておる」

「済まぬ。兄者にばかり苦労を掛ける」

 満季は、神妙な面持ちで、満仲の話を聞いていた。

「まずは、麿が貴族に成ること。それが出来れば、(なれ)達も必ず引き上げてやる。だが、そう簡単に貴族には成れぬ。指を加えていれば、我等の身分は、代々下がる一方じゃからな」

「全くその通りだ。父は元王、爺様は親王と言うのに、今の我等は何なのだ。公卿共に顎で使われてよ」

 満季は、日頃の不満を口にした。 

「三郎。そんな繰り言を一生言い続けて朽ち果てて行く者が、どれくらい居ると思う? 目を瞑って石を投げても当たるくらいおるわ。皆、伸し上がろうとする覇気も無ければ才も無い連中だ」 

「そう言われてもな。どうにもならぬことも多いではないか」

 満季の言い分は大方の者が同じように思うそれだ。

「皆がどうにもならぬと思っていることをどうにかせねば、前には進めん」

と満季の目を見詰めて満仲が言う。

「どうすると言うのだ」

と満季。

「力有る者の力を借りる。だが、それをするには莫大な財が必要となる。並の者は『無理だ』と思い、そこで考えが止まってしまう。後は、愚痴と繰り言の人生よ」 

「確かに」

「なぜか? 皆、腹を括ることが出来ぬからだ」

「言うは易いが、なかなか難しい」

「財じゃ。財が有れば出来る」 

「うん」

「綺麗事では行かん。他人(ひと)のやらぬことをやる。誰もやりたがらぬことをやる。それで財は得られる」 

「ふん。ふん」 

「それからが肝心。どう生かして使うかだ。財を得るのに巧みな者は居る。だが、使い方を知らぬ。使わねば、意味が無い。惜しげも無く使うことだ。使い方を間違えなければ、必ず、二倍三倍になって戻って来る。その繰り返しじゃ」

「兄者の言うことは分かるが、中々難しいのう。いざ、やるとなると」 

「まあ、任せておけ。人の真価は、能書きを言うだけか、実際行えるか。その差じゃ。麿はやる。例えひとがどう評そうともな。能書きを言うしか能の無い連中には言わせて置けば良い」

 少しの間、考えている素振りを見せていた満季が、決心したように満仲を見た。

「決めたぞ、兄者。一生、兄者に付いて行く。兄者のように色々考えることは出来ぬが、腕だけは兄者にも引けを取らん。兄者が我等一族の為にすることであれば、麿ばかりではなく、次郎兄も弟達も、きっと同じように思うはず。我等を手足として使ってくれ」

 満仲が両の手で満季の手を取った。そして、満季の顔を見詰める。

「三郎。良くぞ言うてくれた。他の弟達も頼らねばならぬが、中でも麿は(なれ)を最も頼りにしておる。宜しく頼むぞ」

 満仲の目が、いくぶん潤んでいるようにも見える。満仲と言う男、実の弟でさえ演技で足らし込もうとする。

「宮仕えとは窮屈なものでな。適当に(いとま)を取ってはいるが、それにも限度が有る。時が足らぬ。これからは、代わりに(なれ)にやって貰わねばならぬことは増えるぞ」

「任せてくれ。荒事なら(むし)ろ胸が躍る思いじゃ」

「頼もしい。(なれ)の先のことも考えておるぞ。何とか検非違使に押し込もうと思っておる。数年待て」 

 満季の顔が上気する。

「本当か? 実は、もし官職に就くなら、是非とも検非違使をやってみたいと思うておったのよ」

「そうか。麿は出来ぬ空約束(からやくそく)はせぬ。楽しみに待っておれ」

 弟のことを思ってと言うのが嘘と言う訳では無い。だが同時に、

『身内を検非違使にして置けば何かと便利だろう』

との計算が有ったこともまた事実だった

 

 財を成して郎等も増やし、力を付けると共に、官職を得て出世の階段をも上り始める。 

 やがて(あるじ)・高明は従二位・大納言にまで出世し、夢を叶える日が近付いているように思えた。そんな或日満仲は、藤原千晴(ふじわらのちはる)と言う男が新たに高明の従者となった事を知る。単に従者が一人増えたと言う事では無かった。藤原千晴は将門を討って大出世を遂げた下野(しもつけ)の豪族・藤原秀郷の嫡男で、相模介の任が明けた後、大勢の郎党を引き連れて上洛して来たのだ。 


 これには少々経緯が有る。秀郷と言う男、本来朝廷に反抗的で将門以上に朝廷が警戒している存在だった。しかし、将門の勢いに恐れを成した朝廷は、背に腹は変えられず、秀郷を押領使(おうりょうし)に任じて、将門追討の宣旨を与えざるを得なかった。そして秀郷らが将門を討ち果たした為、朝廷は秀郷を称せざるを得なくなった。そして、将門を討った事により勢力を増した秀郷が造反するのを恐れて破格な昇進をさせたのである。

 朝廷には一つの思惑が有った。従四位下(じゅしいのげ)と言う破格の昇進をさせて京へ呼び付け、勢力を張る下野(しもつけ)から引き離そうとしたのだ。ところが、秀郷は病と称して上洛に応じなかった。再三の上洛命令を無視し遂に上洛しなかった為、太政官は秀郷に上洛を強く迫った。

 秀郷は応じなかったが、代わりに嫡男の千晴を上洛させると言って来た。嫡男を都に置く事で、謂わば人質代わりとして秀郷の動きを封じられると読んだ朝廷は、この条件を飲んた。ところが秀郷は、多くの郎等を千晴に付けて上洛させ、高明の従者としたのだ。

 将門を討った功を決める詮議の席で、高明は、秀郷に有利な献策をしてくれていた。多くの郎党を付けて上洛させることと、大納言・源高明の従者とすることで、秀郷は、藤原摂関家の策謀から千晴を守ろうとしたのだ。高明も受け入れてくれた。

 高明の従者である限りは、摂関家と(いえど)も、千晴に手出しすることは出来ない。高明が政治的に千晴を守ってくれる以上、高明の身辺の警護をするのが自分の役目。そんな想いで、千晴は高明に仕えた。

 

 千晴が仕えるようになり、高明の身辺警護は、更に強化されることになった。

 満仲も千晴も、共に源高明を私君とする言わば朋輩である。しかし、高明に対する仕え方も、性格も考え方も、両極端と言って良い。

 まず千晴は、御所への行き帰りはもちろん、高明が外出する時は、牛車(ぎゅっしゃ)の傍に付いて、片時も離れない。そればかりでは無く、自らの郎党を指揮して、常に高明邸の警護に当たっている。 

 一方の満仲はと言えば、時々やって来ては高明の機嫌を取って行く、至って気儘な仕え方をしているのだが、命じられたことは、どんな汚れ仕事であろうと、嫌な顔ひとつせず(こな)す。それでいて、藤原摂関家の公卿(くぎょう)達の館にも平気で出入りしている。

 何かに付けて高明は千晴を頼るようになるのは当然である。しかし、面白く無いのは満仲である。(あるじ)の手前、角突(つのつき)き合わせて居る訳にも行かない。表面上は親しそうにやっているが、本音は水と油なのだ。

 千晴の忠勤振りが気に入って、高明は、「小藤太(ことうた)、小藤太」と、何かに付けて千晴を頼りにするようになった。だが、満仲には千晴のような真似は出来ない。下野藤原(しもつけふじわら)氏と言う裕福な背景を持つ千晴とは、置かれた環境が違うのだ。


目障(めざわ)りな奴だが、当分、辛抱であるな』

 千晴に付いて、満仲は(おのれ)にそう言い聞かせていた。

 館に戻った高明が奥に姿を消すのを見送って、千晴が満仲の方に歩いて来た。

「いや~、いつもながら、大したお勤め振りでござるな、千晴殿。麿には真似が出来ぬわ」

と満仲が声を掛ける。腹の中には嫉妬が渦巻いていた。

「いや、大納言様は、同じ源氏として満仲殿をいたく頼りにしておられる。麿に出来るのは、雑用くらいですから」

 千晴は、満仲と対立する事を避ける為、如才無く応じる。

「ご謙遜召さるな。千晴殿の姿が見えぬと、小藤太は何処(いずこ)じゃ、と直ぐ仰せになるほど、御前は(みこと)を頼りにされておる」

「何の。満仲殿のご指導あってのこと。どうか、今後ともご鞭撻を頂きたい」

と千晴は、先輩である満仲を立てる。

 外から見れば、高明邸の庭でふたりは、一見、屈託無さげに笑い合っている。


 満仲は苦悶していた。父の受牢で消えかけた出世の夢が復活し、更には高明に目を掛けられる事で将来の夢を大きく膨らませて居ただけに、この藤原千晴の出現により、その夢が壊れ掛けている事を感じざるを得なかった。


 強烈な出世欲の陰で、高明の寵愛が千晴に移っているのではないかと言う不安が広がっていた。普通の者であれば、何とか高明の寵愛を取り戻そうと必死になるところではあるが、満仲は違った。人の心などと言うものの移ろい易さを満仲は見て来た。高明は、自分を使い捨てにするつもりかも知れないと言う疑念が生まれた。高明の側近として活躍出来ると言う夢が壊れかけていると見るや、次の策を考え始めたのだ。高明への忠誠心などは出世欲と比べれば小さい。満仲の判断基準は、如何にしたら早く出世出来るかだけであった。

 満仲が藤原摂関家の公家達の館に出入りするのを、高明は容認していた。と言うのは表向きで、実は、満仲を通じて摂関家の動きに付いての情報収集をしていたのだ。

 では、摂関家の方は、高明派と見られていた満仲を警戒していなかったのかと言うと、していた。しかし摂関家の中で、

「満仲は確かに便利な男ですが、大納言様(高明)の手の者でもある。用心せねばならんのではないですか?」

「なに、一応、大納言の手の者と言う事になって居るが、利に敏い男だ。いざとなればどちらへも転ぶ。現に麿は、あ奴を通じて大納言の動きを見ておる」

 こんな会話が交わされていた事も事実なのだ。


 その後満仲は、本来五位の貴族が任じられるべき武蔵権守(むさしのごんのかみ)に任じられた。母方の祖父に当たる武蔵守・源敏有が僅かな任期を残して死亡した為、次の武蔵守が決まるまでの中継ぎとして異例の抜擢を受けたのだ。短期の中継ぎなど受けたがる者も居ないところにもってきて、藤原摂関家の公家達への日頃の貢物が効を奏したと言う訳だ。


 楽あれば苦あり。武蔵権守(むさしのごんのかみ)の任を無事終えて都に戻った満仲を、間も無く災難が襲う。舘が強盗団に襲われたのだ。

 都で評判の(つわもの)である満仲の舘を襲うとは、強盗団も大した度胸だ。屈強な郎等達が大勢居る満仲の舘を襲えば、多大な犠牲が出る可能性が有るし、下手をすれば頭目自身が捕らえられてしまう可能性も有る。物盗りだけが目的なら、誰も、こんな割に会わない仕事はしないだろう。確かに物は盗って行ったが、真の動機は恨みであろうと誰もが思った。多くの郎等達を連れて、満仲が不在だった処を狙われたことも、行きずりの盗賊の仕業などでは無いと見られる理由だ。留守居の郎等達の何人かは傷を負い、多くの財貨が奪われた。満仲の悔しがり方、腹立ちは半端では無かった。

 そんな中、怪しい人物が浮かび上がって来た。倉橋弘重(くらはしひろしげ)という男だ。満仲邸から持ち去られた盗品の中のひとつを持っていた。満仲の舘に出入りしている者のひとりが弘重の知り合いで、弘重が満仲邸で見た物を持っているのを見て、自分まで一味と疑われては堪らないと思い、慌てて訴え出て来たのだ。

 弘重は、さる公卿の家人(けにん)だったが、不始末を犯し放逐されていた。その際、その公卿邸に出入りしていた満仲が、公卿の依頼で、放逐前に弘重を打ち据えており、弘重はそのことを深く恨んでいた。

 満仲はと言えば、そんなことは余り覚えていない。満仲自身が乗り込み、弘重を捕らえて来て、痛め付けて吐かせた結果、主犯格ふたりが判明した。何と、ひとりは王と言う身分を持つ者であり、もうひとりは、満仲と同じ清和源氏であった。  

 さすがの満仲も、皇族を自身で捕らえることは憚られた為、弘重を検非違使に引き渡し、事情を説明した。検非違使が弘重を再吟味した結果、ふたりの容疑が固まり、検非違使別当(長官)・藤原朝忠(ふじわらのあさただ)に伺いを立てた。従三位(じゅさんみ)・参議でもある朝忠でさえ、即答は出来なかった。

 朝忠は、大納言・高明と左大臣・実頼に相談する。二人の同意を得、太政官の裁可を得た上で、朝忠の指示の許、検非違使が捕縛に向かった。 

 主犯とされたのは、醍醐天皇の第六皇子・式明(しきあきら)親王の次男・親繁(ちかしげ)王である。さすがに検非違使別当も自身での判断を避け、太政官に諮ったと言う訳である。

 強盗の容疑で親繁王を捕縛吟味すると太政官から通告された式明親王は、狼狽した。親繁王は痢病(下痢)を患っており、とても吟味には耐えられないと申し立てるが、認められなかった。

 捜索の結果、親繁王の納戸から、満仲邸盗品の殆どが発見された。親繁王は元より、式明親王も『男を進めざる』ゆえを以て罪を科せられた。

 もうひとりの主犯格は、満仲と同じ清和天皇の皇孫・源蕃基(みなもとのしげもと)である。蕃基は貞真(さだざね)親王の子で、元は王の身分にあった。自身が臣籍降下した二世源氏であり、満仲の父・経基(つねもと)と同じ立場にあったのだ。特に、蕃基の置かれた立場の厳しさが分かるだけに、満仲といえども、その心境は複雑だった。首謀者三人の内二人は、身分の有る者だ。

 なぜ、こんな身分の有る者が強盗など働いたのか? 一口に言ってしまえば、そんな時代だったのだ。


 盗まれた物は全て戻って来た。だが、下手人の正体が分かってみると満仲は、何か複雑な気持ちにもなった。普段、強引なことをやって来ている満仲にも、情緒的な面が有り悩むことも有った。

   

 武蔵権守を退任して都に戻り、満仲が就いた官職は左馬助と言う官職である。左馬助の相当位階は、正六位である。臨時的な権官(ごんかん)とは言え、貴族にも成っていなかった満仲が、武蔵権守の職に在ったのは異例と言って良いだろう。

 ところが正六位上である満仲が、帰京後、格下の正六位下相当の左馬助をなぜ熱望したか。最も大きな理由は、帯剣出来るからだ。

 馬寮(めりょう)官人(つかさびと)は武官とされて帯剣を許されていた。(つわもの)に相応しい官職と思った。建前はそうだが、実は、ひとに恨まれる覚えが数々有る。朝廷での公務とは言え、丸腰で過ごすような職務には、余り就きたくないのだ。

 職務に就いてからも、利点は有った。上司に当たる左馬頭(さまのかみ)の官位は従五位上である。本来の武蔵守と同等なのだ。(さきの)武蔵権守。こんな経歴の部下を、嘗て一度も持ったことが無い。権官であったし、位階は五位の壁を挟んで二段階も下なのだから、本来、気にするべきほどのことでは無い。だが、気になるのは、満仲の人脈だった。多くの公卿達と繋がっていると言う噂が有る。異例の武蔵権守への就任も、この人脈を駆使した結果と言われている。しかし、誰とどの程度繋がっているのかは分からない。

 官僚は人脈を大事にする。そして、最も恐れるのも、この人脈なのだ。そう言う意味で、左馬頭に取って、満仲はかなり使い難い部下と言うことになる。実際、勤め始めると満仲は、病と称して度々休む。厳つい体型、健康そうな外見からして、病に罹るようなタマでは有るまいと思うのだが、余り煩く言うことは出来ない。気後れするのだ。

 言いたいことを我慢していると、人の心には、不満と憎しみが蓄積して行く。だが、満仲はその辺も心得ていて、公卿達への貢物と比べればほんの些細な物だが、物を贈って、鬱積したものを解消してしまった。時の左馬頭もそれを突き返す程の硬骨漢ではなかった。


 そんな中、満仲は各方面への根回しの効果が有って、左馬助在任中の康保二年、貴族に手が届く官職である帝の身近に侍る事もある鷹飼に任じられる。そして、弟・満季をも検非違使に押し込む事が出来た。


 関白・藤原忠平が薨じた後は、息子の実頼(さねより)師輔(もろすけ)が政権の中枢を担っていた。当初兄弟は牽制し合っていたが、兄の実頼は実力では弟の師輔に敵わず、人望も師輔の方が有った。しかし、師輔は官職の上で兄を追い越そうとしたことは無い。実頼も実力では師輔に叶わない事を悟り、二人は協力して政を進めるようになった。また、父・忠平ほど権力欲が強くはなかったので、関白の職には就かず、村上帝にも譲歩し、形の上では帝親政が実現した。しかし、飽く迄形の上であり、朝議と称して帝の御前で会議を持つが、前夜に決まったことを奏上して形の上で勅許を受けるだけで、決定権は藤原兄弟に有った。

 源高明は、弟の師輔とは気心が知れた中であり、師輔の力を借りて出世して来たと言っても良い。しかし、その師輔が早く薨去してしまった。その後も高明は摂関家と表面上は対立する事無く上手くやっていた。上に左大臣・実頼が居るが、外戚(がいせき)でも無く実力者でも無い。その上高齢であるから、数年待てば高齢、或いは病を理由に致仕(ちし・引退)を申し出て来る可能性は高い。

 村上天皇と高明の悲願である真の『(みかど)親政(しんせい)』を実現し、摂関制度を完全に廃し、藤原氏の権力基盤を消失させて、源氏が政を補佐する体制を作る大改革を行う日は目の前に近付いているのだ。

 なんらかの策を用いて実頼を失脚させ、改革の実現を早めることも可能と思われた。だが、不必要に師尹(もろただ)師氏(もろうじ)を刺激し、結束させてしまうのは得策では無いと思った。摂関家の中で不仲や対立が有ることを高明は満仲を通じて把握しており、好都合と思っていたのだ。

 注目すべきは、師輔の子・伊尹(これただ)と言う男だった。五年前、父・師輔が右大臣在任中に薨去した年の除目(じもく)で、参議に列せられた。

 伊尹には、父・師輔を敬う気持ちは常に有った。だが、才も実力も有りながら前に出ようとしない父の性格に苛立ちを感じていたことも確かだった。凡庸な叔父・実頼に遠慮して先に出ようとはしなかった。村上天皇に遠慮して、曾祖父・基経(もとつね)、祖父・忠平と続いて来た摂関の座を強く要求せず途切らせてしまった。そして何より迂闊なのは、源高明の勢力拡大を援けて来た事と思っていた。

 左大臣である叔父・実頼を始めとして、師尹、師氏の両叔父とも、右大臣と成った高明と比べ、その才気に於いて遥かに及ばない。

 伊尹は、摂関家が消滅させられるのではないかとの危機感を抱いていた。ただ、やっと参議に成ったばかりの伊尹にどうにか出来るような問題では無かった。仮にも左大臣である叔父・実頼が健在なうちに手を打たなければ、手遅れになってしまう。そう思った。 


 伊尹(これただ)の弟のうち兼通(かねみち)と兼家は犬猿の仲であった。伊尹は、屋敷に兼家を呼んだ。直ぐ下の弟である兼通よりも、兼家を可愛がっていた。兼通は我が強く、己の利を優先させる傾向が強い。それに、近頃、高明に近付いているのも気に入らなかった。比べて兼家は兄に柔順であり、高明に対する警戒心を持っていた。同母弟二人が仲の悪いのは好ましいことでは無いが、伊尹は、そこはやむを得ないと思っている。

 伊尹は叔父の左大臣・実頼を訪ねて、関白に就任して摂関家の伝統を継ぐように迫ったが、追い返されていた。

「今が、いかに危ういかと言うことを叔父上に分かって頂こうと思い敢えて怒らせたが、もし、麿の無礼にいつまで拘っておられるようなら、その時はそなたに骨をおって貰うことになる」

と兼家に告げた。

(かしこ)まって(そうろ)う。して、他の叔父上方に付いては、いかが致します?」

と兼家が尋ねる。

「うん。まずは師尹(もろただ)様だが、癖の有る難しいお方だ。ただ行っても、話は聞いて貰えぬであろうな」

「はい。確かに難しいお方です。ですが、上手く取り入っている者がおります。まずは、その者を通して話を聞いて貰える機会を作りましょう」

と兼家が提案した。

「誰じゃ、それは」

「源満仲と言う者です」

「高明様の手の者ではないか」

「一応、そう言うことになっておりますが、あの男、高明様に恩など感じておりません。損得勘定でどちらにでも転ぶ男で御座いますよ」

と言って兼家がニヤリと笑った。

「大丈夫か?」

「お任せあれ」

と兼家は伊尹邸を辞し、屋敷に戻ると満仲を呼び付けた。 

「叔父上の所へ使いを頼みたい」 

(きざはし)の上から言う。

「叔父上様とは権大納言(師伊)様のことですか?」

地に膝と拳を付いた満仲が尋ねる。

「そうだ」

「ご用件は?」 

「麿が一度お会いしたいと申しておると伝えてくれれば良い」

「用件をお伝えしなければ難しいと思われます。あのお方は」  

 兼家が口を少し曲げて考えている様子を見せた。

「一族のことに付いてご相談したいと申せ」

「はい。承りました」

 満仲が、頭を下げる。


 忠平亡き後、摂関家を纏める強力な存在が無かった為、癖の強い忠平の弟達の存在も有って摂関家はバラバラの状態にあった。危機感を感じ、摂関家の団結を取り戻そうと動き出したのが、師輔の子・伊尹であり、弟の兼家を通じて、その意を受けて走り回る事になったのが、他ならぬ満仲であった。

 摂関家に報告すべき事、高明に報告すべき事。その匙加減は緻密な計算の許、満仲の胸三寸にあった。


 伊尹が遂に実頼を口説き落とし、実頼、師伊、伊尹、兼家の間で高明追い落としの謀略が動き始めた。兼通は高明派と見做され、師氏は弟の師伊に官位官職に於いて抜かれた事を恨んでおり、頑な態度を崩さなかった為、それぞれ蚊帳の外に置かれていた。

 満仲は、伊尹が実頼説得に失敗する事態をも考え、両睨みのどっち付かずの態度を取り続けていたが、摂関家の結束が出来たと見て、高明を裏切る事に腹を決めた。


 康保四年五月二十五日、村上天皇が突然崩御し、冷泉(れいぜい)天皇が即位する。関白太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣には藤原師尹が就任した。


 冷泉天皇にはまだ皇子がなく病弱でもあったため、早急に東宮(皇太子)を定めることになった。候補は冷泉天皇の同母弟にあたる為平親王と守平親王だった。

 年長の為平親王が東宮となることが当然の成り行きとして期待されていたが、実際に東宮になったのは守平親王だった。

 その背景には左大臣・源高明の権力伸張を恐れた藤原氏の工作があった。高明は為平親王の妃の父なので、もし為平親王が東宮となり将来皇位に即くことになれば源高明は外戚となる。そんな事になれば、最早、摂関家の者達の出番はなくなってしまう。その危機感が摂関家の者達を結束させた。


 安和(あんな)二年三月二十五日、左馬助・源満仲と前武蔵介・藤原善時が中務少輔(なかつかさしょうゆう)・橘繁延と左兵衛大尉(さひょうえのだいじょう)・源連の謀反を密告した。藤原善時は満仲が武蔵権守在任中に補佐してくれた男だ。

 訴えの趣旨は、洛外の寺で蓮茂(れんも)と言う僧が主催する歌会が行われていたが、それは名目で実は、為平親王を東国に迎えて乱を起こし、帝に即けると言う謀議だったと言う。そして、首謀者は源高明だと言うものだった。その席に高明が居た訳では無い。

 高明首謀の根拠は、高明の従者の藤原千晴がその席に居たと言うことだった。探り出したのは、満仲の弟・満季だ。摂関家と満仲が謀ってのでっち上げである。

 右大臣師尹以下の公卿は直ちに参内して諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白実頼に送るとともに、検非違使に橘繁延と僧・蓮茂を捕らえて訊問刷るよう命じた。一方、検非違使の看督長(かどのおさ)・源満季は手下を率いて前相模介・藤原千晴の舘に向った。

 

 早朝、満季率いる検非違使の一団が千晴の舘に突入した。変わらず高明邸に通っていた千晴が、出掛ける支度を終え白湯を飲んでいると、郎等の一人が転げるように入って来た。

「大変です!  け、検非違使に囲まれています」

「何? どう言うことじゃ!」

「分かりません」

 千晴は太刀を手にし、玄関まで走った。門から玄関に掛けて、郎等達が太刀の(つか)に手を掛けて、皆緊張した表情で身構えている。そんな中、満季が手下を従えて入って来る。

「皆の者、手出しはならんぞ。落ち着け!」

 千晴がそう声を上げた。

「藤原千晴。謀叛の疑い有り。吟味致すゆえ手向かいせず、同道致せ」

 満季がそう声を張り上げた。

「謀叛? そんな馬鹿な。誤解だ。……分かった。釈明の為、同道致そう」

 そう言って膝を突き、太刀を目の前に置いた。その姿を見て、郎等達も(つか)から手を離し、膝を突く。

「捕らえよ」

 満季が声を上げると、下役達がぱっと散り、千晴と郎等達を荒々しく縛り上げ、後の者達が土足のまま舘に侵入して行く。やがて、嫡男・久頼も後ろ手に縛り上げられて、引っ立てられて来た。


 その翌日の二十六日。参内前の高明。

「千晴がまだ来ておりません」

 家司がそう報告したが、

「そうか、ならば他の者に代えよ」

 無関心にそう答えただけだった。摂関家の者達が結束して、為平親王の立太子を妨げ、守平親王を東宮としてしまった。高明は実頼に謀られ、実頼を関白・太政大臣とすることに賛成した。為平親王の立太子に実頼が賛成することの見返りのつもりだった。しかし、まんまと欺かれたのだ。もし立太子以前であったなら、

『何? いかがしたのであろう。他の者を待機させ、千晴の館まで(たれ)ぞ走らせよ。遅れるような者ではない。何ぞ有ったに違いない』

 多分、そんな風に命じたに違いない。だが、あの日以来、高明はまるで別人に成ってしまっている。長年待ち望んでいた帝親政の許、高明が力を振るう日は目前に迫っていたはずだった。高明は、充実感と高揚感に満たされた毎日を送っていた。そんな時、今で言う脳卒中で、村上帝が突然崩御してしまった。しかし、帝の急な崩御は大きな衝撃ではあったが、高明の気力を失せさせるようなことは無かった。それどころか、自分が頑張り、何としても、亡き村上帝の悲願であった帝親政を実現させると、強く心に誓いもしたのだ。

 為平親王の立太子に付いては、夢にも疑っていなかった。それが覆されたのだ。それも、摂関家の中では比較的御(ぎょ)し易いと思っていた実頼に欺かれてのことだ。

 実頼に欺かれたことが信じられなかった。なぜ、摂関家が纏まってしまったのか分からなかった。何も出来ない立場に追い込まれてしまった己の無力を感じ、言葉ひとつ出なかった。突然池の底に大きな穴が開き、全ての水があっと言う間に吸い込まれて行くように、高明の気力は失せて行った。それからの高明は、名ばかりの、存在感の無い左大臣に成り果ててしまった。

 摂関家主導で、望まぬ方向に議論が進んで行っても、阻止しようとする気力さえ湧いて来ない。根回しをしようと言う気も無い。ただ、流れのままに採決し、帝の代理である関白・太政大臣・実頼に奏上するだけである。


 千晴が捕縛された日、千晴の身に起きた異変を知らぬまま参内した高明は、実頼に呼ばれた。

今朝(こんちょう)、藤原千晴を、謀叛を企んだ者達の一味として捕縛し、取り調べ中じゃ。左大臣殿には関わり無きことと思うが、従者(ずさ)ゆえ、一応お報せして置く」

 実頼は無表情にそう言った。高明は身体中の血が足許目掛けて落下して行くのを感じた。

『まだ終わっていなかったのか。これ以上何を仕掛けて来るつもりか』

 そう考えながら、倒れそうになるのを必死で(こら)えた。

 

 左大臣・源高明が謀反に加担していたと結論され、大宰員外権帥(だざいのいんげのごんのそち)に左遷することが決定した。左遷とは名ばかりで、七十年ほど前、やはり摂関家の策謀に嵌まった菅原道真同様、実質的には流罪である。

 高明は長男とともに出家して京に留まれるよう願ったが許されず、二十六日日、邸を検非違使に包囲されて捕らえられ、九州へ流された。


 密告の功績により、源満仲と藤原善時はそれぞれ位を進められた。摂関家は高明を、満仲は千晴を、それぞれ追い落とす事が出来た。世に言う安和(あんな)の変である。

 変後、左大臣の席には師尹が就き、右大臣には大納言・藤原在衡が昇任した。一方、橘繁延は土佐国、蓮茂は佐渡国、藤原千晴は隠岐国にそれぞれ流され、さらに源連(みなもとのつらなる)平貞節(たいらのさだよ)の追討が諸国へ命じられた。


 満仲の裏切りにより、この騒ぎは摂関家の完全勝利で終わり、村上帝と高明の目指した帝親政(みかどしんせい)は夢と消えた。古来より他氏排斥を続けて来た藤原摂関家の、最後の他氏排斥である。兼家から二代の後、子の道長の時代に藤原摂関家は繁栄の極みを迎える事になる。

 また、京で源満仲と(つわもの)として勢力を競っていた藤原千晴はこの事件で流罪となり、結果として藤原秀郷の系統は中央政治から姿を消した。こうして、満仲も摂関家も宿敵を除く事に成功した。

次話乞うご期待。

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