復讐屋~リヴェンジャー~
はじめまして、コーヘーと申します。小説を書きたいと思い立ち、一筆させていただきました。執筆するにあたって色々考えましたが、ジャンルのテーマとして「非日常」を描きたいなと。至らない点は多いでしょうし、半分以上自己満足の意味合いが大きい作品ですが、楽しんで読んでいただければ幸いです。
復讐屋—リヴェンジャー—
序章「旅立ちの日に」
「とりあえず、俺から教えられることは何もない。卒業おめでとう。」
そう言って差し出された青年の右手を、彼と向き合う一人の少年は握り返す。
「はい。今までありがとうございました。」
二人の間を、どこからか翔んできた桜の花びらが舞う。あたかもそれは、これから始まる少年の新しい旅立ちを祝福しているかのようだった。
二人の間柄は実にシンプル。
教師と生徒。
先生と教え子。
桜吹雪が美しく目に映える今日、少年は今目の前に立つ青年教師から、そして三年の時間を過ごした学び舎から卒業するのである。
少年は手を解くと、一礼して青年に背を向けた。
「大河。」
ふいに名を呼ばれた少年-蘭堂大河-は肩越しに振り向く。そんな彼に、青年は一つの包みを手渡す。何が包まれているのか、ひどく重さのある包みだった。
「これは…」
「餞別だ。持っていけ。」
困惑気味に問う大河に、青年はそれだけ言うとその顔に笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、太一先生。」
大河は、青年-三枝太一-に再度頭を下げた。
太一は照れ隠しにポリポリと頬を掻きながら。
「元気でやれよ。そして見つけてみせろ。お前なりの幸せを。」
大河を待つ新たなステージへと、彼を送り出した。
一章「無感情な新入生」
1
冬の寒さが和らぎ、心地の良い暖かさに新しい生命が芽生える季節。人々が別れと出会いの季節だと謳う、春の訪れである。
テレビやラジオで桜のニュースを聞きながら、大河は春と言うには些か暖かすぎる並木道を歩いていた。
とは言え、今日の日付は4月7日。暦の上では春真っ盛りであり、桜も見頃という時期である。
しかし、大河の住むこの高知県はその数少ない例外に当てはまる。四国地方の最南部に位置するこの県は、日本トップクラスの日射量と降水量を誇り、一年を通して高温なのだ。
故に桜の散る足も速く、今大河が歩いている並木道に植えられている木々も、すでに大半が葉桜と化していた。
「もうこれは夏でいいだろ…」
極度の暑がり屋で、暑さに弱い大河はそうぼやかずにはいられない。
それでも大河がこうして外に出て歩いているのにはもちろん理由がある。
「確かこのあたりだったよな。」
木漏れ日の中を歩くこと10分。大河は目的の場所にたどり着いた。
周囲の建物とは明らかに大きさが違うその施設こそ、大河の目的地である。
「今日からここが俺の母校か…」
「土佐中・高等学校入学式」と書かれた看板を掲げた門を抜け、大河は新たな一歩を踏み出した―――
同時刻。土佐中・高の駐車場に停車していた一台の車から、一人の少女が降りた。
色の濃い茶色の髪の毛を風にたなびかせ、凛と佇むその姿は思わず見入ってしまうような美しさを従えている。
その顔が、形の整った端整な美顔だというのだから、尚更だろう。
側を通ったものは皆、一人の例外もなく彼女の美しさに目を奪われていた。
少女は校舎を一瞥すると、運転席に座る父親に一礼する。
「では、行って参ります。」
「ああ。」
少女の父親はぶっきらぼうに応えると、視線を移した。
少女は校舎に向かう。その足音が奏でるのは、これから始まる新しい日々への不安と期待-ではなく、沈鬱な音だった―――
「ただいまより、土佐中・高等学校の入学式を挙行いたします。」
開式の辞に始まり、入学式が進行していく。新入生紹介、式辞、祝辞…そして、その時がやってきた。
「新入生代表挨拶。新入生代表、蘭堂大河。」
「はい。」
きわめて淡白な返事で立ち上がる。そして、レッドカーペットを歩き始めた刹那。
一人の少女と目が合った。
しかし立ち止まるわけにもいかず、大河はそのまま足を進める。ステージに登壇すると挨拶文を読み上げた。
「春の眩しい光と温かさに、すべての生命が目を覚ます、別れと出逢いの季節になりました―――」
その声は、期待と緊張で強張ったものなどではなく。聞いている人々に、圧を感じさせるような声音だった。一言で言うならば、正しく「無感情」な声である。
「―――この入学式に携わってくださったすべての方にもう一度感謝申し上げるとともに、私たち新入生の学校生活が良きものになることを願い、新入生代表の挨拶とさせていただきます。2018年4月7日、新入生代表、蘭堂大河。」
ステージから降壇する大河。それから自分の席へと変える道すがら、大河はまたも目にした。
終始頭から離れなかった、少女の視線を。
2
「それでは、今日は解散とします。」
新担任の一声で、一人また一人と席を立っていく。しかし大河は、座り込んだまま考え込んでいた。
言うまでもなく、入学式にて目を合わせたあの少女のことである。そんな大河に、近づいていく人影が一つ。
「大河。」
はっと息を震わせ、大河は振り向く。そこに立っていたのは、一人の少年。ほどよく焼けた肌を惜しげもなく晒し、大河を見つめていた。
「久しぶりだな。」
焼けた肌とは対照的な白い歯を見せて笑う少年には、ニカッ、という効果音がよく似合う。そんなことを考えながら大河は、今この土佐高校における唯一の知人に笑いかけた。
「ああ。久しぶりだな、暢。」
少年の名は橘暢。大河とは、中学の頃からの付き合いである。とは言え、中学校が同じであったわけではない。高校生に絡まれていた暢を、大河が助けたというのがきっかけだった。(主に暢の押しで)意気投合した二人は、それからもしばしば一緒に遊びに行く仲になったのである。
「まさか土佐で暢に会うことになるとはな。」
「俺が、バカそうに見えていたって言いたいのか?」
暢の冗談めいた言葉に、大河は少しだけその雰囲気をやわらげた。
この土佐高校は、高知県最難関高校である。そんな土佐高校で―いくら世間が狭いとは言え―再会できるなど、考えられぬのも無理はない。
「しかし、久しぶりに顔を見たと思ったらまさかここに首席入学とは。ますますわかんねぇ奴だ。」
「こっちこそ、頭が悪いなんて言った覚えはないぞ。」
だいたいどこの学校も、首席入学者に新入生代表挨拶の権利を与える。そしてそれは、この土佐高校も例外ではない。つまり、さきほど代表挨拶をした大河は、土佐高校首席入学者だということになる。
「違ぇねぇ。」
それからしばらく、談笑する二人。そこへ、一人の少女がやってきた。
「暢、時間よ。」
女性のものにしては、かなり低めの声だった。声の主に目をやると、そこに立っていたのは長身の少女。端整でありながらどこか幼さを感じさせるその顔は、艶めく黒い短髪も相まって、活発そうな印象を受ける。
「あれ、ひょっとしてだいぶひよりを待たせた感じ?」
「かなり待たされた感じね。」
暢がひよりと呼んだその少女は、少し呆れ気味に答えた。暢は大河に向き直ると、少女を紹介する。
「紅花ひより、小学時代からの幼馴染だ。」
よろしくと頭を下げると、ひよりは手を差し出す。
「ひより、でいいわよ。蘭堂大河くん。」
新入生代表ということで名前と顔を覚えられたのだろう。初対面にもかかわらず大河の名前を言い当てた目の前の少女に、大河は驚くこともなく言葉を返すとその手を握り返す。
「なら俺も大河って呼んでくれ。よろしく頼む。」
互いにあいさつを交わすと、手を解いた。
「じゃ、私達はこれで。」
「じゃあな、大河。」
「ああ。」
二人を見送ると、大河も帰宅するべく準備を始める。そんな大河の背中に。
「あの…」
暢のものでも、ひよりのものでもない声がかけられる。はっと振り向くと、そこに立っていたのは。
入学式にて目を合わせた、あの少女だった。
3
少女は立っていた。毅然と、あるいは凛然と。さりとて優雅に。受け取れる印象は人それぞれだろうが、きっとその美しさには見惚れてしまうに違いない。
それほど、少女は美しかった。
小顔ながら大人びた顔つきは、大和撫子という言葉を彷彿とさせる。長く茶色がかった髪の毛は、時折吹きすぐる風に弄ばれるさまがより一層少女の美しさを引き立てていた。大河は知る由もないが、この少女こそ駐車場にて注目を集めていた人物である。
しかし、そんな美麗な容貌が大河に与えるイメージは、美しさとは縁遠いものだった。否、今大河の目の前に立つ少女は、それさえも美しく魅せているのかもしれない。
一言で言い表すならば、それは儚さ。指先で触れただけでも崩れ落ちそうなほど脆く、少し動かしただけでも倒れてしまうかもしれないほど弱々しそうで。それでも堂々としている様子が、儚さという言葉を以って大河の目に映る。
「君は…」
言葉にしたいことが多すぎて、うまく整理できない。
なぜそんなにも弱々しそうなのか。自分に語り掛けてきた理由は何か。そして、その目で見つめる先には何があるのか。
しかし、そんな疑問を大河が言葉として紡ぐよりも、少女が口を開くほうが速かった「あなたは。」
だが、それきり少女は口をつぐんでしまった。何を言うべきか、悩んでいるようだった。が、それも一瞬のことで、真っ直ぐに大河を見据え、少女は再度口を開く。
「あなたは…一体何者なの…?」
「え…」
大河の首筋を、一本の線を描いた汗が伝う。少女が放った一言は、大河を大きく動揺させた。
一つは、質問の奥底にある少女の意図を図りかねたから。
もう一つは、大河が、他人には絶対に見られたくない顔をもっているから。
どのような考えがあって少女がそんな質問をしたのかはわからない。それでも、大河の狼狽を招くには十分な一言だった。
「…それはどういう意味かな。」
どうにか平静を装い、大河は問い返す。
「土佐高校の入試で満点を取るなんて、あなたは一体何者なの?」
そういうことか、と大河は胸を撫で下ろす。ひとまず、考えうる最悪の状況にならなかったことに、大河は安堵の息を漏らした。なぜ大河の結果を知っているのかは疑問だが、そこは目を瞑ることにする。
「何者かと聞かれてもな…」
改めて答えるとなると、かなり答えに窮する問いだった。
「…俺はだいたい(・・・・)普通の高校生さ。俺を指導してくれた先生はバケモンだったけど。」
その言葉には、何一つとして嘘偽りは無かった。大河自身の素直な胸の内である。ただ一つ食い違いが生じるとすれば、大河の言う「普通」とはあくまで彼の中の基準であること。満足げに一足す一が二と答える人の「普通」と、五の三乗が百二十五であると瞬時に答える人の「普通」は、全く違う。
「…、そう…」
少女は目を伏せた。その脳裏にどのような思惑があるのか、大河にはわからない。しかし少女の中では何かしら折り合いがついたのか、次に開けられた彼女の瞳には決意の炎がきらめき立っていた。
「私は草道サラ。一応、入試は二位通過よ。サラって呼んでくれて構わないわ。」
「じゃあ、俺も大河って呼んでくれ。…んで早速だけど、一つ質問していいか?」
少女―草道サラ―が何者であれ、大河にはどうしても確かめたいことがあった。
「私に答えられることなら。」
「それじゃ、遠慮なく。…なぜ俺に話しかけようと思ったんだ?別に迷惑ってわけじゃないんだけど、純粋に気になってな。」
どうでもいいことかもしれないが、大河にとっては重要事項だった。さきほどの言葉に、サラの心の中のすべてが含まれていたわけではない。そして大河には、絶対に知られたくない一面がある。故に、大河は問うた。サラの言葉の真意を探るために。
「ただ単に気になったの。あなたという人間が。」
「………」
大河はサラの目をじっと見つめる。そこに陰はなかった。今の言葉が、正真正銘の彼女の本心なのであろう。つまりサラは、興味本位で大河に接触したというのだ。
「そうか。つまらないことを聞いてすまなかった。」
「謝ることじゃないわよ。」
そう言ってサラは、初めて笑顔を見せた。満面の笑みではないが、それは確かに大河が初めて目にするサラの笑顔だった。本当ならば先刻までの雰囲気についても言及したかったのだが、
(ま、今日のところはチャラでいいか。)
ひとまずは流すことにした。
「いけない、もう時間ね。」
サラは、心底名残惜しそうに時間を確認する。そして再びその顔に影を作った。
「それじゃ、また明日ね。」
「ああ。」
心なしか声のトーンも幾分か下がったように感じられた。
サラは大河に背を向けると、どこか物悲しい雰囲気そのままに教室を後にする。その後姿を、大河は見えなくなるまで見送った。
4
一日の暑さのピークを終え、若干日が傾いてきた穏やかな昼下がり。大河は今、おそらくこの高知県で最も知名度が高いであろう商店街を歩いていた。帯屋町と呼ばれるこの商店街は、大河の自宅から徒歩20秒の距離にある。今住んでいる家に引っ越してからまだそれほど時間は経っていないが、大河はよくこの帯屋町に足を運んでいた。そして、時間をかけてゆっくりと店を開拓していく。それが、大河のささやかな楽しみだった。
「ふう。いい豆屋が見つかってよかった。」
ちなみに今日はすでに一つ開拓した。今大河が手に持つ袋に入っているのは、珈琲豆。珈琲通な大河は、珈琲を飲む時間を一日で最も大切にしていた。
満足そうに路地へ出る大河。その時、すぐ近くで聞き捨てならない会話を耳にした。
「ねぇ君さぁ、俺らと一緒に遊ばね?」
「いえ、あの…」
声音と言葉の内容からして、ガラの悪い男たち数人が一人の女性に絡んでいるようだった。しかし、もっと重要なことが一つ。その女性の声に、大河は聞き覚えがあったのである。
「やれやれ…」
大河はとりあえず現場へと赴く。そこでは案の定、見覚えのある人物が絡まれていた。大河は男たちに近づくと、わざとあどけない口調で声をかけた。
「あのー、」
「あん?なんだてめぇ。」
いかにもヤンキーといった語調で、男たちは言葉を返す。だが、大河はひるまなかった。
「なんだと言われてもな…、通りすがりの高校生、とでもしておくか。」
「はぁ?たかが高校生のガキンチョが、調子に乗るなよ。」
すごむ男たち。しかしそれにも大河は臆することなく言葉を続けた。
「調子に乗った覚えはない。そっちこそ、大勢の人の眼の毒になっていることに早く気付いた方がいいぞ。」
「ふざけるなぁぁぁぁ!!!!」
激昂し、襲いかかってきた男たちの中の一人の手首をつかみ、大河はそれを軽く一回転させる。
「ぐえっ!」
手首を軸に、空中を舞った男はそのまま背中から地面に激突する。
「こいつ!」
「やっちまえ!」
それを合図に、一斉に跳びかかってくる男たち。
多勢に無勢。その場を見たものは皆、そう思うに違いない。しかし、あまりに一方的だった。男たちが、ではなく、大河が。
ある者は足をかけられ、ある者は完全に避けられ、またある者はカウンターを食らい。30秒とかからずに、全員が地に伏した。
「なんなんだ、てめぇは…」
弱々しく呻く男に、大河は冷たく言い放つ。
「通りすがりの高校生だと言ったはずだ。…悪いが、あんたらと話すことは何もない。俺はこれでお暇させてもらうぞ。」
それ以上男たちに目もくれることなく、大河は絡まれていた女性のもとへ向かう。
「大丈夫か?」
「はい…って、大河?」
「ああ。とりあえず歩けるか?サラ。」
そう。絡まれていた女性は、草道サラその人だった―――
「―――とりあえず、ありがとう大河。」
近くの喫茶店にて。何か礼をさせてほしいというサラの申し出を受け、大河は彼女とともにお気に入りの店に来ていた。
「別に、礼を言われるようなことじゃないさ。」
言いながら、大河はショートケーキを頬張った。少し甘めのクリームと、ほどよく酸味が効いたイチゴの組み合わせは何度食べても癖になる。引っ越してきてからというもの、大河は毎日この店にショートケーキ目的で来ていた。
「でも、大丈夫なの?」
「何が?」
食べる手を止め、大河は不安そうに問うサラに目をやる。
「あんなに豪快に撃退しちゃって。」
ああ、そんなことかと大河は笑いかける。
「大丈夫。俺のほうからは一切手出ししてないから。」
そう。先のいざこざにおいて、大河は何一つ自分からは手を出してはいない。全て、相手の攻撃を受け流したに過ぎないのだ。それを説明すると、サラは目を丸くした。
「あの人数相手に、そんな器用なことしてたの!?」
「まあ。あっちが100パーセント悪いとはいえ、こっちから手ぇ出してたら同罪だからな。俺はあくまで、自分の身を守っただけさ。」
平然とそう言ってのけ、大河はケーキを食べる作業に戻る。サラはしばらく唖然としていたが、美味しそうにケーキを口に運ぶ大河につられて表情を崩した。
大河は気づいていない。大河を見るサラの視線が、より一層好気の色を増したことに。
二章「天才高校生の裏の顔」
1
サラと別れた後。大河は、すっかり日の落ちた家路を急いでいた。サラには言ってなかったのだが、今日はこれから大事な用があるのだ。足早に路地を抜け、大河は自宅にたどり着く。時間を確認すると、18時半を示していた。
「よし、十分間に合うな。」
ひとり呟くと、大河は身支度を整える。手早くシャワーを浴び、迅速に体を乾かすと慣れた手つきでスーツを着込む。そして珈琲と菓子の準備をすると、その時を待った。すると、それから数分と間を置かずにインターホンが鳴り響く。
「…来たか。」
大河は玄関に赴くと、スピーカー越しに一言。
「お名前と番号をどうぞ。」
「154208、加藤です。」
返事を聞き、大河は鍵の近くにあるキーボードを操作する。幾桁かの番号を入力すると、鍵のロックが解除された。そのまま鍵とドアを開けると、そこには一人の男性が立っていた。
「え…」
男性は、大河を見るなり驚嘆の息を漏らす。しかし大河は気に留めることなく、男性を招き入れる。
「ようこそいらっしゃいました。お話は中で伺いますので、どうぞお上がりください。」
男性は困惑もほどほどに、大河の言葉に従う。大河は男性が完全に玄関へ入ったことを確認すると、ドアと鍵を閉めた。
「さて、お話の前に少し失礼さていただきますね。」
言うと、大河は男性に向けて両手を突き出す。すると白い光が現れ、男性を包み込んだ。
「これは…」
戸惑う男性だったが、次の瞬間には光は消えていた。
「まずはご安心してください。そして、失礼をお詫びします。今のは探知魔術。一応、怪しいものを持っていないか確認させていただきました。さあ、こちらへ。」
生物の体内に魔力が確認されてから、急激に魔術は普及していった。内的営力だけでなく、外的営力、つまりは自分以外にも影響を及ぼすことができる力。それが魔力の定義である。そして、そんな魔力を使った技術たる魔術は、科学の発展とともに人々の暮らしに定着してきた。今しがた大河が使った探知魔術は、その一例である。
今や、どこでも目にする魔術。故に男性は大河の言葉に安堵し、大河の後についていった。
「さ、おかけください。」
大河に促され、男性は大河と向き合うようにしてソファに腰掛ける。大河は、先刻用意した珈琲と菓子を差し出す。
「どうぞ。」
男性は一口啜ると、改めて大河と向き合った。その顔は、かなり憔悴しきっていて。だが、目だけは光を失ってはいなかった。大河のもとにやってくる者は皆、少しの例外を除けば似たような顔つきをしている。大河は男性の目に宿る強い光を一瞥し、話を切り出した。
「まずは、自己紹介といきましょう。私が、今回お話を伺います、復讐屋の蘭堂大河と申します。以後お見知りおきを。」
復讐屋。それこそが、他人には絶対に知られたくない大河のもう一つの顔である。正式名称は、復讐代行サービス業者。殺し屋と並ぶ、裏社会の代表業種だ。とはいえ復讐屋という職業は、一応法律で認められている。かなり厳しい制約が付きまとうが、私的報復基準法に基づいてさえいれば、その行動は合法化されているのだ。そして、その概要自体は極めてシンプル。
「若輩ではありますが、それは依頼を遂行する分には問題ありません。ですので、どうかご安心ください。では、前置きはここまでにしましょう。まずは、お話をお聞かせ願えますでしょうか?」
最初に、相談を受ける。
男性は、疲れ切った表情のまま語りだす。
「私は、一児の父でした。共働きの妻との間にできた、可愛い娘がいたんです。」
話は、全て過去形であった。何があったかは概ね想像がつくが、大河は黙って男性の話に耳を傾ける。
「幸せな毎日でした。…あの日までは。」
そこで、一気に男性の表情が変わる。疲れ切っていたものから、やがて激しい怒りへと。きつく歯を食いしばりながら、男性は話を続ける。
「普段は妻が先に帰るのですが、あの日は残業で少し遅くなるという連絡を受けていました。そのため、私はできるだけ早めに仕事を切り上げて帰宅したんです。…しかし、帰宅した私が目にしたのは、地獄という言葉でも言い表せない光景でした。私の家は、私が帰った時にはもうすでに原型がなかったのです。」
「………」
段々と、男性の口調が強くなっていく。怒り、悲しみ、そして無力感。様々な感情でいっぱいになりながら、男性の話は続く。
「全焼でした。小学校帰りの娘も含めて…!」
帰宅した男性が目にした、この世の地獄。それは、全焼した自宅と愛する娘だった。しかし、悲劇はそれだけにとどまらなかったのだという。
「それが原因で弱った妻は、いくつもの病を患って死んでしまいました…私は、あの事件がきっかけで大切なものをいくつも失ったんです…!」
ついに、男性の目から涙があふれた。それを見た大河は、依頼を受けることを決めた。大河は、相談を持ち掛けられたからと言っておいそれと依頼を受けることはしない。どうでもいいことを根に持つ者や、便利屋だと勘違いしてくる者がいるからだ。しかしこの男性の依頼ならば、大河は受ける所存だった。
そして相談が終わると次は、具体的な依頼内容を確認する。
「…お話は分かりました。それでは、具体的にどのような復讐をお望みになりますか?」
すると男性は、鞄から一枚の写真を取り出した。そこに映っていたのは、いかつい見た目をした一人の男だった。
「この男を…この男を、殺してください…!それだけが、今の私の望みです…!」
精も根も尽き果て、それでも今あるすべてを絞り出すかのような男性の願い。大河は、それを聞き入れた。
「…殺しとなると、相場は高くなりますがよろしいですか?」
「あの男を殺してもらえるならば、この身で出せるすべての金をなげうってもかまいません。」
そう言って男性が差し出した金額は、八桁に手が届くほどのものだった。大河はそれの三割ほどを受け取ると、残りを男性に返す。
「え…」
困惑する男性に、大河はそっけなく応える。
「私は高校生である身。私にとって、これだけあれば十分に高い相場であると言えます。」
「…、ありがとうございます…!」
何度も頭を下げる男性に照れ臭さを隠しながら、大河は「それに」と付け加える。
「あなたの妻や娘さんはきっと、彼女らの分まで生きることをあなたに望むはずです。それほどあれば、十分にやり直せるでしょう。もっと言うならば、私が復讐を代行することで依頼者が心置きなく再スタートを切ることができる。それが、この仕事をする上での私のポリシーであり願いなのです。ですから、その金でどうか新しい人生を歩んでください。あなたの妻や娘さんの願いとともに。」
それを聞いた男性の顔に、光が差した。深い絶望の中にあった心が、希望で満ちていく。
「ありがとうございます、ありがとうございます…!」
本来ならば、ここで報酬の話になる。しかし今回は、その必要はなかった。すでに二人の合意ができたからだ。
ここまでが、依頼を受けるまでの流れだ。今回のように依頼受託が決定した場合は、次なるステップとしてターゲットの詳細確認が待っている。
「では次に、ターゲットについてです。何か、ターゲットの身元が分かるものをお持ちですか?」
すると男性は、鞄から一つのクリアファイルを取り出した。
「これを。」
受け取ったファイルの中には、男性が探偵に頼んで調べ上げた、ターゲットについての詳細なデータが並んでいた。そこからして、男性の執念が窺える。
「間違いはありませんね?」
最後の確認をする大河に、男性は即答した。
「はい。」
「わかりました。この依頼、引き受けましょう。」
そして大河は、依頼受託のための最後の手続きをするべく立ち上がる。
「正式な依頼受理をするための書類を持ってきますので、少々お待ちください。」
そう。書類手続きである。両者の合意があることを示す契約書へのサインと調印を経て、正式な依頼受理となるのだ。
一分と待たせることなく、大河は一枚の紙きれと印鑑を持ってソファに腰を下ろす。
「ではここに、ご自身のお名前を記入してください。」
男性は、大河が指定した欄に自分の名前を書き込む。それを見届けた大河は、次なる指示を出す。
「では次です。こちらに、ターゲットの名前とお望みの復讐内容を簡単に書いてください。」
書面が、徐々に文字で埋まっていく。
「最後に、もう一度ご確認の上ここに印鑑をお願いします。」
男性は最後に記載内容を見返し、そしてためらうことなく印を押した。
「あとは私が必要事項を記入して契約成立となります。お手数ですが、どうかもう少しだけお立会いください。」
大河は自身の名前と報酬金額を書き込むと、男性に確認を取る。
「何か間違いや訂正事項などはありませんか?」
男性は今一度契約書を見直し、静かに頷いた。
「最後に私が判を押して成立となりますが、そうなると契約内容を変更することはできません。本当によろしいですか?」
男性は迷うことなく、しっかりとした口調で返した。
「はい。それでお願いします。」
「わかりました。…それでは、これにて契約成立です。」
大河の調印を以って、契約は成立した。礼を言って立ち去る男性の背に、大河は忘れていたことを告げる。
「ああ、すみません。もう二つだけ確認させてください。」
振り向く男性に、大河は指を一本立てた。
「まず一つ、報酬金のお支払方法についてですが、前払いと後払い、どちらにいたしますか?」
男性は、迷わず答える。
「前払いでお願いします。」
大河は、契約書にそれを書き込む。そして、二つ目の確認を取る。
「依頼完了の際には原則、依頼者に通知することになっています。よろしければ連絡先をお教え願えますか?」
男性は、これにも無条件で応じた。大河が渡したメモ用紙に、自らの連絡先を記入する。
「いただいた連絡先は、依頼完了の際に依頼者の立会いの下、返還及びこちらの端末から消去されることになっております。また、依頼者の連絡先を無断で複製または無返還することは法律で禁じられておりますゆえ、ご安心ください。」
玄関のドアを開け、大河は男性を送り出す。
「それでは依頼が完了しましたら、またこちらから連絡させていただきます。」
「はい、お願いします。」
何度も頭を下げる男性を見送り、大河は玄関のドアと鍵を閉めた。スーツを脱ぎながら、ターゲットの資料に目を通す。
「…なるほど、救いようのないクズ野郎ってわけか。」
そこには、その男が過去に起こした不祥事が、書面いっぱいに書き綴られていた。
2
翌日。大河は、土佐高校への通学路を歩きながら思考を巡らせていた。もちろん昨日の依頼の件である。資料によるとその男は、普段は会社に勤めているらしく。それが終わると帰宅する、という行動パターンがほとんどのようだ。それだけ聞くと一般的なサラリーマンなのだが。
「…『月に三度、決まった日にとある場所へ通っていることが判明』、か…」
その、場所というのが厄介だった。
「『共同ビル』、ねぇ…」
(表向きはいくつもの企業が一緒に働いている場所。だが、その実はテロリストの集団だと聞いたことがあるな…)
裏社会に通じている大河だからこそ知っていた情報だった。それも併せて、改めてどうするかを思案する大河。
(安全を考慮するなら自宅に帰るタイミングだな。だが…)
依頼を遂行するにあたって、大河はいくつか自分の中でルールを作っていた。その中に、実際に復讐代行をするのは原則現行犯であると認められる場合。というものがある。つまり、ターゲットに間違いないかを確認して初めて、大河は復讐を代行するのだ。
(現行犯を押さえるなら…危険度は高くなるが、ビルのほうがよさそうだな…)
結局のところ、問題はそこであった。危険を承知で安定策をとるか、安全を考慮して賭けに出るか。
「ま、今日一日じっくり考えるか…」
「何をじっくり考えるの?」
「………」
不意に後ろから聞こえてきた声に、大河は小さく肩を震わせた。声の主は分かっている。大河は振り向くと、そこに立っていた予想通りの人物に挨拶を投げた。
「…、盗み聞きとは感心しねぇな、サラ。」
「えへへ…」
少しきまり悪そうに笑いながら、サラは大河の隣に並ぶ。少なくとも、その顔に悪意はなかった。大河はやれやれと肩をすくめつつ、歩き出す。
「それで、何をじっくり考えるの?」
流せるかどうかをかけた苦肉の策だったが、どうやら失敗に終わったようだ。仕方なく、誤魔化すことに。
「いや、どうでもいいことさ。今日の晩は何にしようかって話だよ。」
ちなみに言うと、それも頭の片隅で考えていた。したがって、嘘を言ったわけではないのである。するとそれを聞いたサラは、目を丸くしたのちに笑い出した。それも微笑や笑みの域を超えた、俗に言うところのツボに入った、というレベルである。
「おい、勘弁してくれよ…、注目浴びてるじゃねぇか。」
「いや、だって…、くすくす。」
なおも笑い続けるサラと、周囲からイタイ視線を集める大河。入学二日目にして、ほぼすべての生徒に顔を覚えられたのは言うまでもない———
「———はぁ、笑った笑った。」
「笑いすぎだ、まったく。」
どうかするとまだ腹を抑えるサラに、大河はむすっと返す(彼女曰く「大河という人間が夕飯のことをじっくり考えることがおかしかった」)。そこに、暢がやってきた。
「おっす。」
「…ああ。」
どう見てもぐったりしている大河と、なおも小刻みに笑い続けるサラ。暢は、何があったのか、目で大河に問う。
「…俺が知りたいんだが。」
「…まあ、暗い顔されるよりかはいいだろ。」
「そうなんだけどよ…」
早くも疲れ切った様子の大河の肩に手を置き、暢は教室へと入っていく。それからほどなくして、登校時間を告げるチャイムが鳴り響いた———
3
その日の放課後。大河はグラウンドに立っていた。
「…どうしてこうなった。」
「まあまあ、気にするなよ。」
呑気にそう言うのは、この状況を作り出した元凶でもある暢。大河は今、暢に連れられて陸上部の見学に来ていた。
「言っとくけど、部活はやらないからな。」
「そう言うなよ。意外とハマるかもしれないぞ?」
「ハマるハマらない以前の問題なんだが。」
大河には、復讐屋という裏の顔がある。ただでさえ学校生活と仕事とを抱えているというのに、そこへ部活動に割く時間などまずない。
「…なあ、わかって言ってるだろ。」
「さあな。」
実はこの暢という人物のみ、大河の裏の顔を知っている。それには二人の馴れ初めが関係しているのだが、しかし今は別の話だ。
「口止め料ってことでどうだ?結構重要なこと内緒にしてるんだからさ。」
「…毎日は顔出せないぞ。」
「じゃ、それで交渉成立だ。」
暢には敵わない。それは、出会った時からそうであった。大河にとって、一番の謎と言っても過言ではないのかもしれない。大河が流されやすいわけでもなければ、暢にそれほど強い押しがあるわけでもなかった。なぜか、暢の言うことはすんなり受け入れる大河だった。
「お疲れ~」
と、そこに間延びした声が割って入る。男子特有の低い声だが、威圧感はない。マイペースな調子が、声からうかがえる。
「いやー、暑は夏いねぇ。」
滴る汗を拭きながら、スポーツドリンクを一気飲みする少年。いかにも運動部といった様子だが、その発言にはツッコミどころしかない。
「天、今は春だぞ。」
「あれ~、そうだっけ?」
「ちなみに、単語の順番もおかしいぞ。」
天と呼ばれた少年は、真剣に間違っているようだった。とはいえ、大河自身も春とは思えぬ暑さに参っているところである。どこか共感してしまう大河であった。
「ああ、こいつは薊野天。見ての通り、かなり変わったヤツだけどよろしくしてやってくれ。
「お、君が件の蘭堂大河か。かなりのやり手なんだって?」
暢がどう大河の話を吹き込んだのかは知らないが、大河を見る天の視線は好奇心に満ちていた。
「そんなことはない。だいたい普通の高校生さ。」
「だいたい、ねぇ…」
まずいところに食いつかれたと一瞬焦る大河だったが、天の二言目は予想だにしないものだった。
「ここに首席入学しときながら、謙虚なもんだねぇ。」
しきりに感心している天。一方で、深く言及されなかったことに大河は安心していた。
「ウチに入部するんだろ?さっきも紹介されたけど、俺は薊野天。これからよろしく。」
そのつもりはないんだが、という言葉を、ひとまず飲み込み。
「ああ、よろしく。」
大河は、天の手を取った———
その日の夜。大河は、いくつもの書類とにらめっこしていた。何の書類かというと、それはもちろん今回の依頼のターゲットについてのものである。
「毎月10日と20日、30日に共同ビルか…」
今日は4月8日。つまり。
「明後日だな。」
一日考え込んだ結果、大河はビルに突撃する方を選んだ。リスクはかなり大きくなるが、現行犯で押さえるためには効果的である。虎穴に入らずんば虎子を得ず。太一の教えだ。
と、大河の携帯電話が鳴った。
(この着信音は…)
大河は二つの携帯電話を常時携帯している。一つは依頼者の相談を受ける、復讐屋としてのもの。もう一つはプライベートで使用する、高校生としてのものだ。そしてそれらは、着信音と機種と二種類の要素で判断できるようにしている。今鳴っているのは、後者だった。見ると相手は。
「…、先生…」
恩師である三枝太一だった。
「もしもし。」
「おお、大河か?」
少し前まで、毎日聞いていた太一の声。久しぶりに耳にしたが、どうやら元気にしているようだ。
「俺じゃないヤツだったら不味いでしょう…」
「ははっ、それもそうだな。」
太一のテンションは合わないと常々思っていた大河。しかし、今はどこかそれが懐かしいように思う大河だった。
「それで?なんでまた急に電話なんてしてきたんですか?」
太一がわざわざ連絡をよこした意味を図りかね、早速大河は問うた。何が起こったのかと斜に構える大河だったが、太一の返事で一気に毒気を抜かれた。
「なんでってお前、うまくやってるかどうか気になったに決まってるじゃないか。」
「…絶対それだけじゃないでしょ。」
気にしていた分、肩透かしを食ったような気分だった。
「まあそう言うなよ。高校生になって初めての依頼受けるんだろ?」
「…やっぱり先生の紹介だったんですね。」
依頼人が来た時から、薄々それは感じていたことである。復讐屋としての大河の師でもある太一は、依頼が来るとまれに弟子に流すことがあるのだ。そして、狙ったようなタイミングで依頼が来たことで、大河は確信を得たのである。
「わかっていたか。さすがは俺の一番弟子だな。」
「俺なんかより、あの二人の方が一番弟子だと思いますが。」
太一が抱える弟子は、大河だけではないのである。他にも何人かいるのだが、大河は自分が太一の一番弟子などと考えたこともない。
「そういうところさ。実力だけじゃ一番弟子とは名乗らせてやれねぇ。」
相変わらずだな、と電話越しに微笑む太一。大河は、先生もですよと返す。これも、もう何度目のやり取りになるだろうかと考えながら。
「ま、なんにせよ元気そうならそれでいい。それじゃ、また連絡する。」
「はい、先生もお体に気を付けて。」
「ああ。そっちもな。」
その言葉とともに、通話が終わった。少しの名残惜しさを感じながら、大河は書類に目を戻す。その頭の中は、早くも依頼遂行に向けて切り替わっていた———
4
この世界でもっとも移ろいやすいもの。それは春の空模様である。一説(大河説)ではそう言わしめるほどの、春の空。息をするかのごとく天気が移り変わるこの時期は、一週間同じ空を拝むことは難しい。それは、今日4月10日という日も当てはまった。昨日は疑いようのない快晴。そして今日は。
「…、雨か…」
天はこちらに味方した、という言葉は口には出さない。それでも、心の中ではほくそ笑む大河。というのも、大の暑がりである大河は、基本的に太陽を嫌う。曇天あるいは雨天にこそ、大河は真価を発揮できるのである。
スマホの画面を開くと、「雨降ってよかったな。」という、太一からのメッセージが目についた。本当に、どこまでも親(?)バカである。ちなみに一昨日は、太一から土佐高校に、大河の安否確認の電話があったらしい。さらにもっと遡れば、一人暮らしを始めたその日に、「一人暮らしマニュアル」という分厚い本が届いていた。どう考えても太一の直筆で。気になる厚さは、なんと20センチ。寸分のブレもない、見事なまでの20センチだった。そんなことを思い返しながら、大河は夜に向けての最後の準備を始めた———
———18時30分。大河は、いまだ雨が降りしきる中で、ターゲットの来訪を待っていた。情報によると、ターゲットはこのビルへ19時に足を運ぶらしい。少し早い時間だが、作戦開始2、30分前には現場に張り込む。それが大河の流儀である。そして、張り込むこと30分。ピッタリ19時に、その男は現れた。
(間違いねぇ、ヤツだな…)
依頼人が見せた写真に写っていた男。その人物が、今ビルに入っていった。作戦開始である。裏手に回ると、用意していた金属棒で開錠に取り掛かった。カチャカチャといじるうちに、カチリ、という渇いた音が響いた。
「さてと…」
息つく間もなく、大河はさらに棒を操る。そう、2段式の鍵だったのだ。だが、大河にはお見通しである。そしてその2段目も、あっけなく開いた。所要時間は2分弱。ピッキング、それも2段式のものを開けるにはあまりにも短い時間である。つまるところ、大河の開錠スキルはそこまでのレベルだということだ。
続いて、ドアノブに手をかける。しかしそこで大河は手を止めた。腰に下げたホルスターへと手を伸ばす。銃を握ると、息を整えた。
「んじゃ、いくか。」
大河は一気にドアを開け、こちらに先を向けている赤外線センサーに向けて銃を撃ち放つ。センサーが反応するより速く、大河の放った弾丸がセンサーを破壊した。もちろん、銃声は出ないように細工してある。潜入はひとまず成功だ。
ばっちりとスーツを着込んだ大河は、目的の階へと駆け上がる。使うのは、非常階段。下調べによるとこの時間帯は、非常階段しか機能していないらしい。通常の階段はシャッターで仕切られるとのこと。すると、足音が近づいてきた。普通なら逃げるところなのだが、大河は堂々とすれ違う。が、特になにか起きるわけでもなかった。これも下調べの結果なのだが、ここでは皆がスーツに身を包むらしく。しかも個の集まりであるため、新入りになればなるほど顔は知られない。つまりスーツさえ着用していれば、新人のテロリストを装うことができるのである。
こうして大河は、難なく目的の部屋の前までたどり着いた。耳を澄ますも、中の会話は聞こえてこない。そこで大河は、魔力を耳に集中する。魔術の一つ、身体強化。体のいずれかの部位に魔力を集めることで—その部位にはかなりの負荷をかけることになるのだが—身体能力を限界以上に引き上げる。この場合は聴力だ。
『—計画は順調に進んでいるようだな。』
『—次の標的はどこに?』
『—そろそろデカいのをいこうか。』
等々。テロの計画を立てているのが確かに聞こえる。だが、それ以上の決定打がない。あとは証拠を押さえるだけなのだが、それができなければ動こうにも動けない。どうしたものかと考え—大河はすぐに一つの方法に行き着いた。大河としてはあまり気の進まない手段ではあるが。
大河は、すぐ近くにあった火災報知機を鳴らした。大きな鐘の音が轟き、まだ建物内に残っていた者たちが騒ぎ出す。それは、テロの計画を立てていた者たちも同様だった。間もなく、部屋から出てくる数人の男たち。何事かと慌てふためく男たちは、やがて散り散りに去っていく。その中の一人、今回のターゲットを確認する大河。
(炙り出し成功だな。)
最大限気配を殺し、走る男を追いかける。無論、男には気づかれていない。やがて、完全に人気のないところまで来たところで。
「おい。」
大河は冷たい声を発した。振り向く男。その男の眼前に、大河は一枚の写真を突き付けた。それは、全焼した家の無残な有様を収めた写真。
「これをやったのは貴様で間違いないな?」
瞬きするような速度で抜いた銃を男に向け、大河は問う。すると男は、不敵な笑みを浮かべた。
「だとしたらどうする?」
間違いない。そう確信した大河は、ためらうことなく引き金を引いた。だが。
「甘いな。」
男は、大河の放った弾丸をかわす。照明の光もほとんど届かない薄暗い空間の中で、大河の挙動をしっかりと視認していたということだ。
男は、一挙に大河の懐へと潜り込む。
「死ね!」
スーツの内ポケットから取り出したナイフを、男は大河の顔面へと突き出す。写真と銃で両手がふさがっている大河は、なす術がない。はずだった。
「な…」
あまりに衝撃的だったのか、言葉を失う男。それもそのはず。なんと大河は、突き出されたナイフを口で止めたのである。上顎と下顎とで、しっかりとナイフを挟んでいた。今度は大河が笑う番だった。
「ふん。」
ぐっと顎に力を込めると—
バキィン!
そのまま大河は、ナイフを嚙み砕いた。呆然と立ち尽くす男をよそに、大河は口の中に残った残骸を吐き出す。
「さぁ、どうする。」
ぐう、と唸り、男は二丁の銃を取り出した。二刀流ならぬ、二丁流である。しかしそれすら、大河には見透かされていた。引き金を引く男。だが、大河には当たらなかった。大河が抜き払った刀が、銃弾を逸らせたのである。
「ぐ…!」
悔し紛れに、乱発する男。それでも、弾が大河を捉えることはなかった。そのままいけば命中していたであろうものだけ、大河が弾いたのだ。やがて、銃声が止む。弾切れである。
またも絶句する男。だがそれも無理はない。何せこの薄暗い中で、自分に当たる銃弾と当たらない銃弾を見分け、なおかつ当たるものをすべて刀で弾いたというのだから。当然だが、誰もができる芸当ではない。超人的な動体視力と、同じく超人的なしなやかさがなければできないのだ。およそ人のなせる業ではない。まさしく神業だった。
「…もう終わりか?」
「ふざけるなぁぁぁ‼」
半分ヤケになった男が突っ込んでくる。大きく拳を振りかぶり、鋭いストレートを繰り出した。大河は落ち着き払って、その手首に手刀を打ち込む。男の拳が逸れた。しかしそんなことはお構いなしとばかりに、男はなおも追撃する。
「…、やれやれ…」
心底面倒臭そうに、さりとて確実に。男の一撃一撃を、すべて手首を打つことで逸らしていく大河。
見る間に疲弊していく男。対する大河は、息切れ一つせずに捌いている。実力の差は明確だった。そしてついに、男は手を止めた。それを機に、一気に肉薄する大河。しかし男はにやりと笑うと。
「残念だったなぁ!」
懐からもう一丁の銃を取り出すと、大河に照準を合わせた。続いて響く発砲音。ほぼゼロ距離で放たれた銃弾。それでも倒れない大河。
「…はぁ⁉」
平然と立ち続ける大河に、男は素っ頓狂な声を上げた。その隙に大河は、男の銃を弾き飛ばす。同時に、男の鳩尾に強烈な蹴りを入れた。なす術なく、男は膝を落とす。
「三丁目の銃、か。隠し玉としては悪くないな。」
慄く男に、大河は言葉を続ける。
「加えて、この視界の悪い中で正確に眉間を狙える腕。中々の手練れだな。…だが、そこまでだ。」
言いながら大河は、指で挟みこんでいた銃弾を投げ捨てた。
「…、なぜわかった。予期していなければ防げるはずがない。」
「さっきからあんたのスーツが不自然な揺れ方をしていたからな。中に何か重さのある物が入っているかのように。」
大河はすべて見抜いていた。正確に男の攻撃を捌きながら。そこに何が隠されていて、どこを狙ってくるかまで。
「まさか、三丁も銃を持っているはずがない。たいていはそう思われがちだ。そしてその盲点を突く隠し玉。普通なら今ので死んでいただろうな。そう、普通なら(・・)、な。」
それともう一つ、と大河は話を加える。
「心臓じゃなく眉間を狙っていた。悪くないセンスだ。…だがあいにく俺は心臓よりも眉間を警戒しているんでね。」
大抵の認識は、心臓を狙えば殺せるとなっている。それ自体に間違いはない。しかし、心臓の場合は死に至るまで10秒ほどの時間がある。日常生活では瞬きのように過ぎ去っていくその時間は、裏社会、特に戦闘の場においては状況を覆すに十分な時間なのだ。故に、できれば瞬殺したい、というのが、裏社会で生きる者たちの魂胆なのである。そして大河は、師である太一から口を酸っぱくして教えられてきた。いついかなる時も、眉間は警戒しておけ、と。
眉間、正確にはその奥に存在する脳幹。この部位を損傷すると、人間は痙攣の一つも起こすことなく即死する。だからこそ裏社会に生きる者は、大抵がこの部位を最も警戒しているのだ。
肩をすくめてそう答える大河。そんな大河に、男は残された最後の力を振り絞って跳びかかる。
「このガキィィィィ‼」
しかしその程度、大河には見通されていた。
「…甘い。」
大河の右手に、魔力が集まっていく。そのまま握り拳をつくると、男に突き出す形で集めた魔力を解き放った。
「『破壊光線』。」
「がっ…!」
大河が放った白い魔力の線。それは、男の手が大河に届くよりわずかに早く対象を捉えた。直撃を受けた男の腹部は小さな爆発を起こし、廊下の端まで吹き飛ぶ。そして壁に強く打ちつけられ、男は崩れ落ちた。
「…、化け物め…!」
「なら俺の先生は怪獣だな。」
男の眉間に銃口を向け、大河は引き金に手をかける。
「…何か言い残すことは?」
「…貴様一体何者だ。」
大河は無感情な声音そのままに、答えを口にする。
「ただの高校生さ。…だいたい普通の、な。」
男は目を閉じた。すぐそこまで迫っている死を、受け入れたのである。
「…終わりだ。」
それを見届けた大河は、引き金を引いた。パンッ、という音とともに、男が倒れ込む。
その場で手を合わせると、大河はそこを後にした———
雨が降りしきるビルの屋上。絶え間なく落ちてくる水滴を浴びながら、大河は脱出の準備を進める。とはいっても、特に変わったことをするわけではなかった。ただ一つだけ必要なものが、ポケットの中に入っているかを確認する。それだけだ。そしてそれはしっかりと入っていた。
「…よし。」
たっぷりと助走をつけ—
フェンスに跳び乗ると、大河は全力で跳躍する。わずかな時間空を切り、7メートルは優に離れた隣のビルの屋上に跳び移った。続いてポケットからワイヤーを取り出す。跳び移ってきたビルとは反対側まで走ると、今度はフェンスにワイヤーを引っかけた。そしてそのまま、夜の闇へと体を預ける。つまりは、落下。ぐんぐん速度を上げて落下していくが、地面に足がつくギリギリのところでワイヤーが完全に伸び切った。それにより、大河の体も静止した。もちろん、大河の計算通りである。
「………」
大河はワイヤーにぶら下がったまま、銃を屋上に向ける。そして発砲。大河が放った弾丸は、フェンスのワイヤーを引っかけた部分に命中した。大河の手に、ワイヤーが戻ってくる。同時に、少しだけ浮いていた体が完全に着地した。あとはこっそりとずらかるだけ、というわけだ。こうして、大河の、高校生としての初の依頼が完了したのである——
三章「復讐者は高校生」
1
四月も終わりを迎え、いよいよ初夏、つまりは夏の訪れがやってきた。全国的に見ても気温の高い高知県の初夏は、もはや夏と言っても過言ではないほどの暑さである。加えて連日の雨で湿度も高く、大河に言わせてみれば軽く地獄にいるような気分だ。それでも周囲を見渡すと、所々立ち上る鯉のぼりが、気持ちよさそうに時折吹きすぐる風に煽られていた。対照的に、大河の足取りは覚束ない。暑さと湿気に、早々にダウンしてしまったのである。
「………暑い。」
もう何度目になるかわからない言葉を、大河は呟く。そこまで口数の多くない大河は、この時期は基本的に口を開けばこの言葉が出てくる。ちなみに太一の統計によると、五月から九月の間に大河が発する単語のうち、暑い、は実に全体の七割を占めるらしい。もっとも、大河自身は自覚がないのだが。
そんな大河が今歩いているのは、もちろん通学路である。昨日までの雨が嘘のように晴れ渡った空には、文字通り雲一つもない。朝も早くから容赦なく照り付ける太陽は、すでに多くの体力を大河から奪っていた。そしてついに耐え切れなくなった大河は、木陰の多い公園のベンチに腰を下ろす。木の葉一つ一つに新しい水滴が、太陽の光を浴びて眩しく輝いていた。
「………暑い。」
言いながら、さきほどコンビニで購入した珈琲を煽る。容器の表面は早くも汗をかいていた。ストローを通して、茶色い液体が大河の口の中へと吸い込まれていく。
「…ふぅ。」
ある程度飲み終えたところで、大河はストローから口を離した。さっぱりとした余韻をかみしめ、大河は腰を上げる。気乗りはしないが、日の当たる道を、まだ通学路は続くのだ。気を取り直し、大河が前を向いたその時。
「お、大河じゃねぇか。」
背後から、大河にとって聞き慣れた声がかけられた。声自体は一人分だが、足音は二人分。大河が振り向くとそこには、二人組の男女が立っていた。身にまとう制服は、小津高校のものだ。
「お久しぶりです。和史さん、一花さん。」
「おうよ。」
少年の名は、咲多和史。少しばかり暗そうな雰囲気をまとう大河とは違い、快活な印象を与える顔立ちである。童顔でありながら形の整ったその顔は、女子と間違われることもあるらしい。
「元気そうね。」
一方の少女は、青柳一花。和史とは異なり、いかにも淑やか、といった風貌である。長く伸ばした黒い髪の毛は、太陽の光を反射していた。手入れの行き届いた、艶のある綺麗な髪の毛だ。年不相応な顔、というのは和史と同じだが、受け取る印象は全く違う。というのも一花の顔立ちは、かなり大人びているのである。世間一般でいうところの、和風美人だ。
「ええ。お二人も変わりなさそうですね。」
「大河もな。聞いたぜ?土佐に首席で入ったそうだな。どういう頭の作りしてるんだ?」
「ほんと、つくづくあなたって人間は底が見えないわね。」
二人と、何気ない会話に花を咲かせる大河。その中でも、常に大河は敬語だった。それもそのはず、この二人は二年。大河よりも一つ年上なのだ。
「いや、小津で首席とったあなたが何言ってるんですか。」
「土佐に比べりゃ見劣りもするさ。」
和史も、首席入学者だった。高知県立小津高校。和史と一花の通うその高校は、高知県の公立高校最難関である。土佐には及ばないが、それでも公立高校の中では追手前高校と並んで高知県トップの偏差値を誇る(土佐は私立)。そこに首席入学とくれば、和史もまたかなりの実力者であることが窺えた(一花はその時二位だった)。
「ま、そんなお前も暑さには勝てないか。」
「そんなところですね。」
真顔で答える大河の顔には、早くも汗が滲んでいた。
「汗、拭いたらどうだ。」
「………」
大河は答えない。代わりについーと顔を反らせた。忘れてきたのだ。その様子に、二人は思わず苦笑してしまう。
「ふふ、大河らしいわね。はい、タオル。」
一花はバレー部に所属している。故にスポーツタオルを常備していた。その中の一枚を、大河に差し出す。しかし大河は受け取らなかった。
「俺の不手際ですから。悪いですよ。」
「もう、私がいいって言ってるのに。」
それでも頑なに受け取ろうとしない大河に、一花は業を煮やした。
「ほら、汗も滴るいい男っていうけど、汗が乾くと臭うわよ。」
そう言って、一花はやや強引に大河の顔にタオルを押し付けた。そのまま大河の汗を丁寧に拭き取る。
「これでよし。」
一花は大河の手にタオルを持たせた。
「せっかく恵まれた容姿なんだから、こういうところに気を使わなきゃ勿体ないわよ。」
「ありがとうございます。」
「よろしい。」
良くも悪くも、先輩には素直な大河だった。そんな二人のやり取りを見守っていた和史は、頃合いを見計らうと会話に参加する。
「まったく、大河はどこか抜けてるところあるよなぁ。」
「いや、こんなに暑くなると思わないじゃないですか。」
「前々から思ってたんだが、大河ってどうしてそんなに暑がりなんだ?」
今はちょうどいい気温だろうにと付け加える和史。それが、どうしても大河には理解できなかった。
「まぁいい。俺らはそろそろ行くよ。」
「はい、じゃあ俺もこれで。」
「体には気を付けてね。」
二人と別れる大河。和史と一花も大河とは反対方向へと歩いていく。タオルの返却に関して聞くことを忘れていたことに大河が気付くのは、始業のチャイムを聞いてからのことだった。
2
放課後。部活動に勤しむ時間帯。もっとも今日は、大河の所属する陸上部は自主練習。本当ならば大河は真っ直ぐ帰宅したかったのだが、暢に引っ張られて今に至る。
練習も終わり、一番最初に身支度を終えたのは大河だった。バッグを肩にかけると、その場を後にする。その道すがら、一人の女子生徒と出くわした。服装からするに、彼女も陸上部のようだ。
「あ、蘭堂君だね?」
「ああ、そうだ。」
ひよりとは雰囲気が違うが、彼女並みの長身である。サラと同程度まで伸ばした髪の毛は、照明の光を浴びて艶めいていた。その顔は一言で言い表すならば、まるで人形のよう、だ。何よりその所作一つ一つに、品性が見て取れる。家の敷居の高さも窺える、というものだ。
「私は、榊輝夜。輝夜って呼んでね。」
「なら、俺も大河でいい。」
互いに握手を交わし、輝夜は大河が来た方向へと歩いていく。大河は、輝夜の透き通るような声の余韻そのままに玄関に向かう。靴を履くと、校門に出た。そこには、見知った人物がいた。
「奇遇だな、サラ。」
「そうだね。」
彼女も制服であったが、明らかに頬が紅潮していた。その頭髪は、少しばかり水気を帯びている。極めつけに、彼女の肩にはタオルがかけられていた。どうやらサラも、部活でひと汗かいてきたようだ。
「大河は部活入ったの?」
「ああ、陸上部にな。」
まだ顔に残る汗を拭きながら、横目で大河に問うサラ。疲労感からか少し下がった眦が、一層彼女の妖艶な雰囲気を引き立てている。
「サラも部活?」
「そう。バレー部だよ。」
行こうか、となぜか一緒に帰る流れになり、二人の間に何気ない会話の花が咲く。
「中学からずっとバレー部だったのか。」
「そうそう。それ言うと、よく意外だって言われるんだけど。」
大河はどう思う?と聞かれ、大河は素直な胸中を語る。
「ぶっちゃけると、意外だな。」
「ん~、なんでだろ…」
少しの間思案し、大河は一つの答えへとたどり着いた。
「あえて言うなら、雰囲気、だな。」
「え?」
これはあくまで俺個人の意見だけどな、と前置きし、大河は話し始める。
「見た目が完全に文化部だからだな。何も言われなければ、まず運動部には見えない。淑やかな雰囲気がサラにはあるから、それが原因なんじゃないか?」
それを聞くと、サラは唸る。まあ、無理もないか、と大河はしばらくそのまま彼女の思考が落ち着くのを待った。人は、自分自身の出すオーラや雰囲気には気づかないものだ。
大河としては意外に思うだけで、それ以上は何とも思わない。それよりも、別のことで頭がいっぱいだった。
「うーん、やっぱりわからない…」
「別にいいんじゃないか?」
「え?」
「高校でもやりたいと思うってことは、バレー好きなんだろ?」
「うん。」
「なら、それでいいじゃないか。サラはバレーが好きで、バレー部に入ってる。他の誰が何と言おうが、そんなのは放っておけばいい。」
一瞬だけ呆気にとられるサラ。けれど次の瞬間には、こみあげてきた笑いを我慢できなかった。心底おかしそうに、無邪気に笑うサラ。普段の凛としたサラは美しい。それこそ、年不相応なまでに。しかし、今大河に見せるサラの表情は、年相応の、少女と言うに相応しいものだった。
「ほんと、大河って変わってるね。」
「…よく言われるよ。」
それよりも、と大河は少し話題を変えた。
「中学の頃からバレーしてるんだったら、青柳一花って人知らないか?」
それこそ、さきほどから大河が気にしてやまないことだった。一花も中学からバレーを始めており、その腕前は名門校からスカウトが来るほど。一つ年が離れているとはいえ、サラが知っていてもおかしくはない名前である。
「知ってるよ。でもどうして?」
「実はな………」
大河は自分と一花の関係性に関して、少しだけサラに話した。大河と一花は、旧知の仲であること、双方に縁の深い共通の人物(和史)がいることなど。今朝大河と一花、そして和史が親しく話していたのは、このような理由からだ。そしてもちろん、なぜ三人がそのような関係になったのか、そこにも理由は存在する。だがそれは、今は別の話である。
「世界は狭いね…」
「そうだな…」
しみじみと呟くサラの声は、どこか嬉しさも孕んでいるように思えた。大河は、藍色の空を見上げる。沈みゆく太陽の光と、夜の闇。対照的なその二つが織りなす光景は、田舎である高知県では特に美しく映える。これが高知市内に出ると、そこに建物の照明も加わるのだ。田舎と都会。そのコントラストもまた、乙なものだ。
「別に、俺の言うとおりにする必要はなかったのに。」
帰り道に寄ったコンビニを後にし、近くの公園のベンチに腰を下ろす。何気なくそう呟いた大河だが、幸せそうにブリュレを口に運ぶサラに、それ以上は何も言わなかった。すでに星が眩しい空を見上げ、一口啜る。カフェオレを嗜むには、最高のシチュエーションだ。
(幸せ、か………。)
そっと目を伏せる大河。その瞼の裏に映るのは、思い出したくもない過去だった。大河が今、復讐屋として存在しているきっかけを作った過去。もう二度と戻りたくはないと願う記憶。その過程で、大河は感情を捨てた。当然、『幸せ』であると感じたこともない。
『見つけて見せろ。お前なりの幸せを。』
故に今この時間が幸せなのか、大河にはわからない。だが今は。
「…それでいい、かな…」
「何が?」
思わず口に出していたことに気づき、大河はやんわりとごまかす。
「何でもないさ。ただの独り言だ。」
「………」
納得のいかないサラは、さらに追及しようとして口をつぐんだ。大河の唇の端が、わずかに緩んでいるのを目にしたからである。
「さ、行こうか。」
大河は立ち上がった。サラも腰を上げる。二人はまた歩き出した。完全に太陽の沈んだ星空が、夜の街を煌々と照らしている———
「———なんかごめんね、今日も付いてきてもらって。」
「いいんだよ、この間みたいに変な奴らに絡まれたら殊だし。」
ここ最近、なにかと一緒に帰ることがあった二人。大河にしてみれば、もう慣れたものだ。今も、大河はサラの家の前に立っている。
「それじゃ、俺はこれで。また明日な。」
一つ手を振ると、大河は背を向けて歩き出す。遠ざかるその後姿を、サラはいつまでも見つめていた。
3
週末。土佐高校陸上部は今日、国立春野運動公園に練習で来ていた。高知県で一番大きなスポーツ施設である。中でも陸上競技場の存在感は大きく、かなり目の付きやすい立地にあった。
「ふ~、終わったぁ………」
大河の所属する長距離パートの練習はハードだが、その分時間は短い場合が多い。基本的にロングジョグ以外は、1時間から1時間半程度で終わることがほとんどだ。そして今日も他パートに先駆けて練習を終えた。今日の練習がよほど堪えたのか、終わるなりタータン(陸上競技場特有の、赤いゴムのこと)へと大の字に体を投げだす天。かくいう大河も、かなり体にきていた。
「お疲れ、天。」
暢も水筒を片手にタオルで汗を拭きながら、天の隣に座り込んだ。そして、まるで酒でも飲むかのように水筒を煽る。ちなみに今日の練習メニューは、1000mからの下りインターバルだった。インターバルとは、長距離の練習の中でも主要なものの一つ。初めに距離を、次にタイムを設定する。この時重要なのは、80%程度の力で出せるタイムにしておくこと。そして実際にその距離を走る。そのあとはリカバリーのための距離をジョグで繋ぎ(これも、休みすぎず休まなさすぎない距離を設定することが大切である)、以降はこれを繰り返すのだ。徐々に心肺に強い負荷をかけていくこのトレーニングは、長距離を代表するきつさである。
「いや~、きつかったぁ…」
呟く暢と、寝息を立てる天。
「よくこんなところで寝られるな…」
呆れる大河。天は相変わらずだった。
「そう言えばお前、そのタオル。」
「ん?」
暢に言われ、大河は手にしたタオルに目をやる。何の変哲もない、普通のタオル。ただ一点、それが女子用なのを除けば。
「………」
そう、一花に借りっぱなしのタオルである。
「誰に借りたんだ?うん?」
やれやれと肩をすくめながら、大河は事情を説明した。
「なんだ、そういうことかよ。」
そのあとで、面白くねぇな、と言っていたように聞こえたのは、幻聴だということにしておいた。
「何を期待していたかは知らないが、近々持ち主に返すぞ?」
さすがに返すのを忘れていたとは言えず、さらっと流す。すると暢は、それ以上何も言ってこなかった。
「そんじゃ、俺は先にあがるぞ。」
先にあがるとは言っても、日陰に引っ込むだけではあるが。
「お疲れ様です。」
先輩たちに挨拶しながら、大河は自分の荷物を置いた場所へと向かう。そこにはすでに、先客がいた。艶のある長い髪の毛と、顔と胴以外すべてにおいて長い身体。何より、美しいまでの佇まい。育ちの良さが一目でわかるその少女は。
「お疲れ、輝夜。」
「ああ、お疲れ、大河。」
土佐高校陸上部中・長距離パートの紅一点、榊輝夜だった。実は彼女も、長距離パートだったのだ。
「中々いい走りっぷりだったわね。」
「そうか?」
そうでもなかっただろ、とだけ加え、大河は荷物に手を伸ばした。その中から、涼感スプレー7×5を取り出すと、全力で体にかけた。
「ちょっ…!」
慌てて目を逸らす輝夜。その様子に、大河は思わず手を止める。
「どうした、輝夜?」
「いいから早くしてよ…!」
ついに輝夜は、手で顔を覆いながらその場にかがみこんだ。大きなハテナマークを顔に描き、大河は作業を続行する。
「お、終わった…?」
「そんなにびくびくしながら聞くことじゃないだろ…、終わったよ。」
「そ、そう…」
恐る恐ると言った様子で、顔をオープンする輝夜。その目は、露になった大河の上半身を捉える。見る間に赤面する輝夜。
「ば、ばばばば」
「ん?」
「ばかぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
ビタァァン!
輝夜渾身のビンタが、高らかな音を奏でた———
「———ごめんね…」
「…別に、気にしてねぇよ。」
いまだひりひりと痛みが残る頬を抑えながら、大河は言葉とは裏腹に口を尖らせる。
「…、しかし、あんなレベルの刺激にも弱いとは。よくわかんねぇな。そもそも運動部になると、あれくらい日常茶飯事だろうに。」
「そうなんだけど…」
「ま、責めはしないが。」
言うが早いか、大河は持参していたマウントトレーニアを啜る。知名度という点でムーンバックスには劣るが、大河がこよなく愛するカフェオレのブランド。運動の後は特に美味。エネルギーが体に満ちていく感覚に、大河は何とも言い知れぬ快感を覚えた。
「ねえ、大河。」
「ん?」
ようやく復活したらしい輝夜。大河は飲む口を止め、輝夜へと向き直る。
「ちょっと話したいことがあるんだけど。」
こっちに来て、と手招く輝夜についていく大河。輝夜はしばらく歩き、屋外に出る。人気のない木陰で、輝夜はその足を止めた。
「で、話とは?」
「うん…」
風が、二人の間を吹き抜けていく。木の葉が舞う中、輝夜は口を開いた。
「大河って、復讐屋なんでしょ?」
4
「大河って、復讐屋なんでしょ?」
それは、大河にとって禁忌の言葉だった。土佐高校においては、暢以外知る由もない事実であるはずだった。だが、輝夜は気づいている。なるべく平静を装い、大河は言葉を濁した。
「………さて、どうだろうな。」
「いいよ、隠さなくても。普通の人なら、復讐屋っていう単語を知らないから。」
なるほど、してやられたというわけだ。大河にとってありふれたその単語も、一般の認知度としてはほぼ無いに等しいのだから。
「…なぜ知っている?」
「さぁね。それよりも。」
輝夜はずいっと顔を大河に近づける。そこで大河は違和感を覚えた。輝夜の雰囲気が先程までとはまるで違う。一瞬で雰囲気を切り替えることは決して難しいことではない。しかし、今回は明らかに様子が違っていた。そう、恰も別人であるかのように。少なくとも先刻までの輝夜ならば、これほど近づく前に顔を真っ赤にしているはずだ。
「なんで大河が復讐屋になろうかと思ったのか、気になるなぁ。」
「………悪いが、その質問には答えられない。」
「ふーん、つれないなぁ。」
「期待に添えられなくて済まないな。」
大河はいったん輝夜(ここでは輝夜とする)から距離をとる。丸腰だが、いつでも戦闘態勢に入れるように身構えた。
「そう心配しなくても、私には戦闘の意思はないよ?」
くすくすと笑う輝夜。大河は警戒しつつも楽な姿勢に戻る。しかしその眼からは、強い疑念の色が見て取れた。
「ふふ、怖い眼だねぇ。」
「………」
緊張を緩めない大河とは対照的に、余裕のある笑みを崩さない輝夜。両者はしばし睨み合った。しばらくその状態が続いた後、不意に輝夜が口を開いた。
「そうだねぇ、その眼は怖いから一つだけ質問に答えてあげるよ。」
「…それを信じろと?」
「それは君次第だね。」
聞きたいことは二つ。だが、輝夜の指定は一つ。どちらにしようかと考え、大河は一瞬で取捨選択した。
「では聞こう。君は一体何者だ?」
「ふふふっ、おかしいことを聞くんだね。」
心底おかしそうに笑いだす輝夜。対する大河は、いたって真剣な眼差しを向けていた。
「名乗ったはずだよ?私は輝夜。榊輝夜。それ以上でも」
「何者かと聞いている。質問に答えろ。まさか俺の意図が分からないとでもいうのか?」
輝夜の言葉を遮り、大河は一段階声のトーンを下げる。輝夜はふっと笑うと、意外にもあっさりと答えた。もっとも、口調を変えたことを考えるに隠すつもりはないようだった。
「私、いや僕は咲夜。もう一人の輝夜だよ。」
「多重人格者。それが君の正体と言うわけか。」
「わかっていて聞いたんだね、意地悪な人。」
「そうでなければこの業界では生きていけないからな。」
皮肉を返し、大河はようやく警戒を緩めた。
「なぜそうなったか、ここで聞くのは野暮だな。」
「あら、話が分かるんだね?」
「約束は、一つだけ質問することだったからな。気にはなるが、今回は聞かないでおく。………お互いその方がいいだろう?」
「やっぱり君、面白いよ。」
咲夜との口約束を逆手に取り、大河は咲夜の追及を止めた。互いに一つずつ質問に答え、咲夜とは一つだけしかしないと約束している。仮にこれ以上咲夜に問い詰められたとしても、大河は咲夜が答えていないことで黙秘することができるのだ。かと言って約束した手前、それを反故にするという選択肢もない。つまり両者ともに、これ以上の詮索は水掛け論になるだけなのである。
「流石だね。あの三枝太一が一番弟子と評するだけある。」
「俺じゃない奴かも知れないぞ?」
さらりと受け流し、大河は咲夜の瞳を見据える。それは、大河のよく知る瞳。何かしらの決意を秘めた瞳だ。
「安心して。あっちの僕はこのことを知らないから。僕たちの間だけの秘密、ね。」
「…ああ。黙っておくよ。」
「ふふ、本当に話の分かる人。」
咲夜は優雅にほほ笑むと、大河に一礼する。その仕草は、一流令嬢も顔負けなほど美しいものだった。
「それじゃあ、また会う日まで。ごきげんよう。」
言うが早いか、咲夜の体から力が抜けていった。
「ちょっ、咲夜⁉」
倒れゆく咲夜の身体を、大河は間一髪で抱き留めた———
「———うーん。」
「あっ、起きた。」
目をこすりながら体を起こす輝夜。そんな彼女を、心配そうに見守るサラとひより。ちなみにサラが所属するバレー部も、春野運動公園で練習があった。ここは、春野運動公園陸上競技場の医務室。急に倒れた輝夜を、大河がここまで運んできたのだ。
「気分はどう?」
何の気なしにひよりが問うが、返ってきた答えは想像だにしないものだった。
「えーと、私ってなんでここにいるのかな…?」
「「へ?」」
思わず声が重なる二人。しかしそれも無理はない。本人に理由がわからないのだから。それから輝夜は、必死に思い出そうとしていたが結局記憶は戻らなかった。そこへ、ドアをノックする音が響く。
「入っていいか?」
大河の声である。サラは輝夜に、入室の可否を目で問いかける。ゆっくりと頷く輝夜。
「大丈夫よ。」
「失礼する。」
ドアを開ける大河。直後、輝夜と目が合う。特に外傷も内傷も無さそうな彼女の様子を見て、大河はひとまず安堵した。
「少し二人にさせてもらっていいか?」
「…何する気?」
なぜか声を低くして聞き返すサラに、大河は平然と答える。
「何、ちょっとした雑談さ。」
「………」
全く納得していない様子のサラだったが、ひよりに腕を引かれて退室する。二人の気配が完全に消えたところで、大河は輝夜が寝かされているベッドの脇に設えられている椅子へと腰を下ろす。
「…さて。」
大河は改めて輝夜の容態を確認する。本当に、何事もないようだ。
「さっきまでのこと、覚えているか?」
輝夜はゆっくりと首を横に振る。
「…そうか。」
何から話したものかと一瞬だけ考え、大河はとある結論に至った。
「…今から話すことは、誰にも言わないと約束したうえで聞いてほしい。構わないか?」
「…わかった。」
輝夜の返事を聞き、大河は話を切り出した。
「その前にいくつか確認するが、輝夜、君の中にはもう一つの人格があることを分かっているか?」
「うん、咲夜のことだね?」
どうやら輝夜も、自分自身の中にいる別人格の存在は認知しているようだ。
「咲夜と輝夜は、記憶を共有してないんだったな?」
「そうだね。」
ここまでは、咲夜が話していたとおりである。そしてここからは、大河の推測だ。
「これはあくまで俺の憶測だが、咲夜と輝夜は短時間しか人格を完全に入れ替えられない。違うか?」
「…なんでわかったの?」
「話の終わらせ方が少しばかり強引だったからな。」
半分はカマかけだったが、どうやら推測は当たっていたようだ。しかし、大河にとって大切なのはここではない。そう、次が本題なのだ。
「ちょっと前置きが長くなったが、ここからが本題だ。さっきも言ったが、他言無用で頼む。」
輝夜が頷いたのを認め、大河は話を切り出した。
「まずは一つ、俺は復讐屋だ。」
「………そう。」
色々聞き返さないということは、輝夜もまた復讐屋の存在を知っているということだ。序盤の間は、彼女なりの驚嘆なのだろう。
「そしてもう一つ、君がいいなら俺のパートナーになってほしい。」
「………はい?」
想定内の反応に、大河は補足説明を追加する。
「駆け出しの復讐屋は、ペアを組むことが多いんだ。俺はまだアマチュアだから、パートナーがいてくれると心強いんだよ。」
「………」
黙り込む輝夜。大河から視線を外し、思案を巡らせている。てっきり即答で断られるものだとばかり考えていた大河は、意外に思いつつも成り行きを見守った。そして、考え込むこと3分余り。輝夜は答えを口にした。
「いいわよ。」
存外にあっさりとした返事だった。少なくとも大河にとっては。
「どうしたの?」
黙りこくっている大河に、輝夜は当然の疑問を投げる。あまりにすんなりとした返事であったがゆえに、拍子抜ける大河。
「いいのか?」
「おかしな人、ペアを組んでくれと頼んできたのは大河の方でしょう?」
くすり、と笑う輝夜。からかうかのような仕草だが、その視線は真っ直ぐに大河を捉えていた。
「じゃあ、よろしく頼む。」
「ええ、こちらこそ。」
握手を交わす二人。今この瞬間、のちに裏社会で最も恐れられることになるペアが結成されたのである。
だが、この時の大河は知らない。輝夜がなぜ、ここまで何の抵抗もなく大河のパートナーとなることを了承したのか。そこに隠された彼女の懊悩を。
5
「ここが大河の家かぁ。」
広いね、と続けるのは輝夜。ため息をつきたくなるのを我慢しながら、大河はリビングに荷物を置く。
「とりあえずここでくつろいでくれ。俺は風呂の準備をしてくるから。」
今大河の家の玄関には、珍しく二人分の靴が並んでいる。一つは当然、この家の主である大河のもの。そしてもう一つは、輝夜のものだった。結局あの後、特に異常がないと判断された輝夜は帰ることを許された。までは良かったのだが。大河がため息を我慢しているのには、もっと別の理由がある。
輝夜から離れ、風呂場に入った大河はそこでやっとため息をこぼした。
「これからどうするかなぁ………」
ぼやきながら大河は、慣れた手つきで浴槽を洗う。ここまで大河が悩んでいる原因は、さきほどペアを組んだ際に輝夜が付け足した条件にあった。
『条件?』
『そう、私があなたとペアを組むための条件。』
思えば、輝夜がそれを言い出した時から嫌な予感はしていた。そしてそれは、見事に的中したのである。
『…一応聞いておこうか』
『私を、大河の家に置いてほしいの。』
別段難しい条件ではなかった。大河は広い家に一人で暮らしているのだから。しかし大河が一番頭を悩ませているのは、彼女とどう接していいのかわからないということにある。率直に言って、大河は人付き合いが苦手なのだ。それは決して大河だけの責任ではないのだが、なるべくなら人との関わりは避けたいのが本音である。
「はぁ…。」
すべての準備を終えると浴槽に水をため、大河はリビングへと戻る。そこでは、かなりぎこちなさそうにしながら、輝夜がソファに腰掛けていた。
「準備できたぞ。入ってこいよ。」
「え、いいの?」
「いや、今日からここは輝夜の家でもあるんだから遠慮するなよ。」
言いながら大河は台所に立つ。少し遅くなった昼食のメニューを一通り思い浮かべ、一瞬で選択した。冷蔵庫から二人分の食材を取り出すと、大河は包丁を操る。リズムよく食材を刻んでいく大河。そんな大河をしばし見つめたのち、輝夜は風呂場へ向かった。
脱衣所で服を脱ぎ、若干ためらいつつも洗濯機にそれらを突っ込む輝夜。この状況を作り出したのは自分だという自覚はあるが、どうしても緊張してしまう。普通の男子でも十分そうなるだろうが、大河が相手となるとレベルが違ってくる。というのも、大河たち新一年生が入学してから一か月。その間大河は、女子の間でかなりの有名人と化していたからだ。曰く、「イケメン天才高校生」。そして輝夜も、それには無条件で同意できる。だからこそ、余計に緊張してしまうのだ。
そんなことを考えながら、風呂場の戸を閉めるとシャワーのレバーを捻る。温度を調整し、体を流した。と、そこで重大なことに気が付く。
「…体、どうやって洗おうかな………」
体を洗うためのものを持っていない。通常身体を洗う時に用いるのは、スポンジかタオル、もしくは直にボディソープのどれかである。そう思って風呂場を見渡すと、壁に掛けられたスポンジが目に入った。
(大河もスポンジで洗うんだ…)
勝手な偏見だが輝夜のイメージとしての男子は、ボディソープで終わらせそうなものだった。だが、どうやら大河はじっくり洗うタイプらしい。
(って、私ってば何考えてるのよ………)
頭を振って思考を中断すると、輝夜は手始めに頭を洗う。シャンプーを念入りにすると、それだけでかなりの時間を要した。続いてヘアーコンディショナーに移る。適量を手に出すと、それを髪の毛になじませた。そして、身体もすべて洗い終わったところで輝夜は気づいた。
(もしかしてこれ、全部メーカーもの?)
シャンプーもヘアーコンディショナーも石鹸も何もかも、今まで輝夜が使ってきたそれらとは比べ物にならない感覚を彼女に与えていた。一つ一つが汚れと疲労感さえ流してくれるような錯覚と、主張しすぎない香り。そのどれもが、高級感を漂わせていた。
(大河って風呂フェチなのかな………)
今までの認識を改めつつ、輝夜は浴槽に体を浸ける。輝夜の悲鳴が響き渡ったのは、その直後のことだった———
「———もう、びっくりしたわよ。洗い終わって浸かったと思ったら水なんだから。」
「すまん。」
遅めの昼食をとりながら、輝夜は少しずつ落ち着きを取り戻していた。事態は、さきほど輝夜が言った通り。体を洗い終えた輝夜は、水風呂の不意打ちに遭ったということだ。極度の暑がり屋である大河は、基本的に水風呂にしか入らない。練習後の火照った体のことを考えるなら尚のことだ。それを聞いた輝夜は、恐る恐る疑問を口にする。
「まさか冬もそうしてるわけじゃないわよね?」
「してるが?」
さも当然であるかのように、あっけらかんと言い放つ大河。対する輝夜は、開いた口が塞がらない。しかもその本人が、当たり前であるかのように食事に戻るのだから尚更だ。
「ねぇ、大河って実はバカなの?」
「どこがだ?」
どうやら自覚はないようだ。
「いや、百歩譲って夏はともかく冬も水風呂は頭おかしいわよ。」
「そりゃあわかっちゃいるが…そうでもしないと体温が下がらないんだよ。今も本当はシャツを脱ぐのを我慢するので精一杯なんだ。」
大河は基本的に、家の中では上裸でいることが多い。というよりも、服を着ることがまずない。だが輝夜が刺激に弱いため、仕方なく着ているという現状だ。
「なんでそんなに暑がりなの?」
「俺に聞かれてもなぁ………」
大河自身、この体質(?)には手を焼いていた。どれだけ手を尽くしても体が火照ってしまう。
「それより、輝夜はそんな格好して暑くないのか?」
「むしろ寒いくらいね。誰かさんがエアコンをガンガンに効かせるから。」
結果、初夏にもかかわらず輝夜に厚着をさせてしまう程度にはエアコンを効かさなければならない。対する大河は、風通しの良い白く薄いTシャツに短パン。しかも水風呂上がりの体は、あまり拭いていない。有り体に言うと、極限まで風通しの良い格好である。ちなみに現在のエアコンの設定温度は20度だ。
「一回医者に診てもらうことを強く勧めるわ。」
時折がちがちと歯を震わせながら、輝夜はテーブルの上の料理を口に運ぶ。
「それでこんなに料理の腕は一人前っていうのはなんか納得がいかないわね。」
「文句があるなら自分で作ればいいじゃないか。」
「あら、私はあなたの料理に関して文句は言ってないわよ?」
輝夜は素直に口に出しはしなかったが、実際大河の料理はそこらのレストランのシェフより美味い。からかうような口調で言われたからか、大河は少しだけ不貞腐れた。その様子が何とも言えず可笑しく、輝夜はつい唇の端を緩めた。
「独学?」
「いや、知り合いに教えてもらった。」
大河の脳裏には、一花の顔が浮かぶ。大河に料理を教えたのは一花なのだ。ちなみに、和史の昼食はいつも、一花手製の弁当なのだという。
「ふぅん………」
深くは突っ込まず、じっと手元の料理を見つめる輝夜。何やらぶつぶつと呟いているようだが、それをいちいち指摘するほど大河は無粋ではない。食べ終えた大河は、食器を流しに運ぶ。そのまま洗う作業に移行していると、輝夜も食器を持ってきた。
「代わるわよ。」
「そんなに気を使わなくていいぞ。」
「気遣ってないわ。ただ私がそうしたいだけ。」
譲らない彼女に、大河は洗い物を任せることに。代わりに、ミルと豆を取り出した。テーブルでがりがりと豆を挽く大河。もちろん豆は二人分である。皿を洗い流す水の音と豆を挽く音はしばらく部屋中に木霊し、やがて同時に止まった。
「終わったわ。」
「おう。んじゃ、ちょっと待っていてくれ。」
湯を沸かすと、フィルターに敷いた豆(の破片)を経て、温かい珈琲の完成である。そして冷蔵庫から大きな皿を、食器棚から二つのフォークを取り出せば、おやつタイムの始まりだ———
「———呆れた。まさかケーキも作れるなんて。」
「なんで呆れられるんだよ………」
冷蔵庫から取り出した大きな皿、その中身であるチーズケーキは、大河の手作りであった。一花に教えられたのは何も、普通の料理だけではなかった。スイーツや菓子なども仕込まれていたのだ。
「…さて。」
カップを置き、大河は話を切り出す。
「教えてもらおうか、色々とな。」
「そうね、パートナーになるわけだし、隠していても仕方ないわ。」
大河とて、何の考えもなしに輝夜をここへ連れてきたわけではない。そもそも、住まわせてほしいという願いを聞いたら、最初は相手の家族のことを考えるのは当たり前だ。ましてや輝夜はまだ高校生である身。帰る家や家族がいるはずだ。だが大河がそうであるように、この輝夜という少女も何か訳ありなのかもしれない。少なくとも咲夜と言う別人格を創っている以上、積もる話があるのは容易に想像がつく。とあれば、こうして少しでもリラックスしながら話してもらうに限る。そう考えた大河は、輝夜を家に招き入れたのである。
「榊神社って知ってる?」
「ああ、十年前に全焼したあの神社だろ?」
なんとなく、と言うより確信に近いものを感じ取りながら、そこには黙って相槌を打つ。
「私は、十年前に全焼した榊神社の生き残りなのよ。唯一の、ね。」
「でも確か、ニュースだと一家全員死亡って報道されてなかったか?」
あえて否定的に話を進める大河。推測のみで事実を語るのは、それを経験した者からすれば無礼でしかないからだ。
輝夜はどこか遠くを見つめながら、当時の記憶を語りだす。
「私の消息が分からなかったから、結局全員死亡という扱いになったのよ。…あの夜私は、燃え盛る神社から命からがら逃げだしたの。」
十年前と言うと、輝夜はまだ5,6歳の頃の話。幼い少女が目にした悲劇の一部始終が今、明かされようとしている。
「それからは親戚に引き取ってもらって、平穏に暮らしていた。でも、あの日の記憶、あの燃える神社と死に行く家族の光景が頭から離れなかった………」
「だから咲夜が生まれた、ということか。」
頷く輝夜。別人格が誕生する理由はいくつか存在する。その中で最も多くの割合を占めるのは、輝夜(咲夜)のような場合だ。受け入れがたい現実に迫られた時、自分とは違う者でそれを理解しようとする。それが、結果的に別人格を生み出すことへと繋がっている、ということだ。
「しばらくはその生活が続いた。でも………」
輝夜はそこで言葉を切った。見ると、わずかに肩が震えていた。きつく歯を食いしばり、膝の上に置いた手に力を込める。それでも、輝夜は言葉を紡いだ。
「私が小学校を卒業する間際、今度は親戚の家でも火事が起きた。………そして、私以外全員が死んでしまった。」
「………できすぎた偶然だな。」
「………もうわかると思うけど、これは同一犯。犯人はあえて私を生かしているのよ。」
悔しそうに涙をこぼす輝夜。大河はそれでも、黙って輝夜の話に耳を傾けた。
「でも私はまだまだ社会に出られる状態じゃない。保護者が必要だったの。けれど私を引き取ってくれる身内はいなかった………」
「………それ以上は言わなくていい。」
ここでようやく、大河は彼女の話を中断した。と言うより、聞くに堪えなかったのだ。彼女が身内からさけられていた理由は、火を見るより明らかだった。
6
「ど、どうかな?」
「うん、なかなか似合っているじゃないか。」
「そ、そう………」
今大河と輝夜は、大河宅から北に一キロ弱に位置する高知県最大のショッピングモールに来ていた。輝夜の所持している服があまりにもレパートリーにかけるため、その調達である。
「これもいいの?」
「ああ、いいから籠入れとけよ。」
大河が今手にしている籠の中には、ここまで試着したすべての商品が入っていた。しかもこの店は、いわゆる「メーカーもの」の「メーカー」にあたる。つまりは、それなりに値が張る商品が多いのだ。当然、籠にぎっしりと詰められた服の数々はすべてその一例である。
「でも、いいの?」
「何がだ?」
この状況で質問の意図を理解していない大河に、輝夜は呆れかえった。ともすれば、こいつは何を聞きたいんだと言わんばかりの様子の大河。そしてその瞬間、輝夜は悟った。大河の金銭感覚は、常人のそれを完全に逸脱していることを。
「お買い上げありがとうございました~」
値段は総額にして十万を越してしまった(ちなみに買った服は、すべて大河のチョイスである)。ややひきつった表情の店員を気に留めることなく、大河は輝夜とともに店を後にする。
「あの、大河。」
「ん?」
「その、ありがとう。」
「そうか。」
大河はいったん輝夜から視線を離し、そして戻した。その顔は、今まで輝夜が見たことのある大河の顔の中でも、一際柔らかなものだった。
「有意義な買い物だったか?」
「えっと、その…うん。」
初めて見る大河の表情に、輝夜の心臓はその拍動を急速に早めた。結果、輝夜の返事はしどろもどろなものになった。
「ならよかった。」
服を売る店から出てきたというのに、大河の持つ買い物袋はかなりの重さになっていた。輝夜は自分が持つと言ったのだが、結局大河に押し切られてしまったのだ。
「さて。」
ムーンバックスのカフェに入り、腰を下ろす二人。それぞれ注文すると、大河は輝夜に先程の買い物袋を手渡した。
「?」
いま一つ大河の意図が分からず、首をかしげる輝夜。
「いつまでも制服でいるわけにもいかないだろ。着替えてこいよ。」
「うん。」
袋を手に下げ、化粧室へと向かう輝夜。一方大河は、スマホの画面を立ち上げる。そこには、太一からの着信がずらりと並んでいた———
「お待たせ—ってあれ?大河?」
輝夜が戻ってくると、そこに大河の姿はなかった。荷物はあるため、店を出ていったわけではないようだが。
「まったく、どこに行ったのよ、もう………」
その頃大河は。
「———本当ですか?」
『あくまで噂程度の話だがな。』
太一と通話していた。少しのしわを眉間に寄せ、大河は太一の話を聞いていた。
「でも、何の根拠もないのなら、あなたがここまで着信を送ってくることもないでしょう?」
『ま、そういうことだ。…と言いたいが、今回ばかりはそうも言っていられねぇ。相手が相手だしな。そもそも奴らが関わってくるかどうかも怪しいが、一応心に留めておけ。』
「わかりました。」
そこで太一は話を区切った。少しの沈黙が流れ、太一は会話を再開する。
『心配するな。すでにお前は出来るところまで出来上がっているんだ。謙遜するのももちろん大切だが、胸を張ることもまた然り。どんと構えていればいい。』
「…はい。」
『それじゃあ、武運を祈る。』
「………」
通話が終わり、無機質な音をたてたスマホの画面を閉じると、大河は席に戻る。そこには、着替えを終えた輝夜がしかめ面で座っていた。
「なにしてたの?」
「先生から電話がきていただけだ。なんなら、通話の履歴を見てもらっても構わないが。」
「…別に、そこまで詮索するつもりはないわ。」
大河も椅子に腰かけると、改めて輝夜を見つめる。あくまで今は、輝夜の買い出しに付き合っているだけ。太一とのやり取りを伝えるのはまたあとでいい。
「一番似合ってるヤツを選んだな。」
「そ、そうなの…?」
「少なくとも俺はそう思うが。」
ベージュのトップスの下に白いシャツを着込み、少し茶色の入った赤いスカートという装い。輝夜のすらりとした体型と長い頭髪が合わさり、落ち着いた様子の和風美人に仕上がっている。近くを通りかかった人々の視線を、もろに集めていた。
「大河って、センス良いんだね。」
「良くはない。」
「せっかく人が褒めてるのに、どうしてそういうこと言うかなぁ。」
むすっと口を尖らせる輝夜に、大河はきっぱりと言い放つ。
「まあ、悪くもないけどな。」
「謙遜しなくてもいいのに………」
「それは俺の勝手だ。…おっと、来たみたいだな。」
大河の言葉通り、店員がトレーを持ってきていた。その上には、二つのグラスが乗っている。
「お待たせしました、カフェオレグランデお二つになります。」
「どうも。」
大河と輝夜はそれぞれグラスを受け取ると、ストローをさして飲み始める。外では、すでにかなり日が落ち始めていた———
「———ありがとね、今日は。」
「礼を言われることでもないさ。」
大河宅への帰路。19時を回った道行は、夜の帳に包まれている。薄暗い帰り路を、二人は歩いていた。
「ふふっ、あなたが何と言おうが、私は感謝してるわ。」
「そうか。」
相変わらず、大河の態度は素っ気ない。しかし、どこか輝夜は、それを愛おしく思っていた。
「気に入ってくれたなら、何よりだ。」
そして、最後にしっかりとずるいところも。
「———ふぅ。」
夕食も終えてようやく帰宅したときには、時計の針が21時を回ろうとしていた。基本的に早寝早起きがポリシーである大河にとっては、普段なら後は寝るだけなのだが。
「今日くらいはちょっと遅くてもいいか………」
買ったものの整理をしながら、大河はひとり呟く。ちなみに輝夜は入浴中である。そこで大河は、太一の言葉を思い出した。
「『エンタープライズ』、か………」
とはいえ、(大河の基準では)今日はもう遅い。考えることを明日に回すことに決め、ひとまず大河は寝るための準備に移る。
同時刻。二人の男が電話でやり取りをしていた。
「———『エンタープライズ』、ですか………」
『ああ、まだ確たる証拠はないが。』
「噂レベルだとしても気になりますね。」
『モノがモノだからな。』
その声のトーンは低い。少なくとも今この会話の内容は、二人の男にとっては都合のよくないものだった。
「解散したはずの、世界最強の傭兵団。噂が真実なら、しばらく裏社会は荒れますね。」
『そういうことだ。お前も気を付けるんだぞ。』
「ええ。」
それきり、電話は終了した。嵐は、すぐそこまで来ていた。
四章「白黒の復讐者—リバーシブル・リヴェンジャーズ—」
1
ゴールデンウィークも終わり、本格的に夏の訪れが匂う五月中旬の朝。大河にとって最も忌むべき季節が、すぐそこまで迫っている。とはいえ彼の隣を歩くサラと輝夜にとっては、心地の良い初夏の日差しであった。
「………暑い。」
「38回目よ、もう…」
「数えてたんだ…」
相も変わらず決まり文句を吐く大河。そしてその回数を律義に数えていた輝夜と、やや引き気味のサラ。輝夜が大河と同棲し始めてからというもの、彼女も大河とサラの通学に加わっていた。最初は少しぎすぎすしていたサラと輝夜だったが、クラスメイトだということも相まってか、今ではすっかり打ち解けていた。
「ねぇ、輝夜。」
「なに?」
「今日の部活終わったら、喫茶店行かない?帯屋町にすごくいい店があるの。」
「いいわね。是非行かせてもらうわ。」
そう、こんな風に。昨日に至っては、大河が寝静まった後二人で三時間近く通話していたのだとか。大河としては、横でぎすぎすされるよりかは遥かに良いのだが。
「………暑い。」
本日39回目のセリフを吐き出す。どんな話になろうが、この時期はどうしても暑さが勝ってしまう大河だった。
「また?たまには違うことも言ってよ。」
「………」
そう言われてしまうと、ぐぅの音もでない。何か違うことを言おうと考え—大河はすぐに思いついた。
「夜の帯屋町は、女子二人だと危険だからやめとけ。」
「「………」」
いいことを言ったと内心で自分をほめたたえる大河。対する二人はジト目で黙ってしまった。あまりにデリカシーのない発言に、呆れてものも言えなかったのだ。
「…大河ってさ。」
「うん?」
「「デリカシーないね。」」
「………」
絶妙に声をかぶらせた二人に言われ、今度は大河が黙りこくった。しかし、大河がさきほど口にしたことは確かな事実だった。女子高生二人だけで夜に出歩くのも危ないと言えば危ないが、そこが帯屋町なら尚更だ。何しろ帯屋町は、高知県の中心的商店街なのだ。当然人通りも多い。それに伴って、危険なことに遭遇する確率も上がる。大河は必死にそれを弁解した。
「はぁ………」
それを聞いたサラは大きくため息をついた。どこまで鈍いんだ、と言う言葉を辛うじて飲み込む代わりに。
「誰が二人だけで行くって言ったの?」
「へ…?」
やれやれと肩をすくめながら、サラは続けた。
「大河も行くのよ。一緒に、ね。」
ようやく話を飲み込めたのか、ここでやっと大河は納得した。
「わかった?」
「ああ。」
「それじゃあ、行きましょう。まずは学校に。」
清々しい(暑苦しい)初夏の朝。始業のチャイムは今日も鳴る。
放課後。いつも通り大河は、輝夜とともにグラウンドに出ていた。そこにはすでに、暢と天の姿もある。そして、にやにやしながら大河と輝夜を見ていた。これも、いつも通りの光景である。
「じゃ、また後で。」
「おう。」
高校生にもなれば、男子と女子の身体機能の差が明確になる。故に陸上部の練習メニューは、男女別のものが大多数なのだ。練習が終わるまでは、男女で言葉を交わすことも少ない。大河は、女子の練習へと向かう輝夜の背中を見送った。
「おいおい、サラだけじゃ飽き足らずに輝夜までたぶらかすのか?」
「最高に人聞きの悪い言い方をするな。たぶらかしてねぇよ。」
「自覚なしだよ、暢。」
「悪質だな。」
取り付く島もなかった。もっとも、心の底から言っているわけではない様子なので、気に留めているわけではないが。
「それより、早くアップ始めるぞ。ついでに言うと、俺とあの二人はそんな関係じゃないから安心しろ。」
ぶつくさ言いながらも、練習へと意識を切り替える暢と天。その日の練習は、いつになく張り合う三人だった。
「———そんで?本命はどっちなのよ。誰にも言わないからゲロってみ?」
練習が終わるなり先の話を蒸し返す暢。天はと言うと、教室に忘れ物をしたとのことで取りに行っていた。
「だから、そういうのじゃないって言ってるだろ。」
「冗談はほどほどにしとけよ。お前もお前で有名人なんだからさ。」
「………」
大河は何も言わなかった。というよりも、言えなかった、と言う方が正しい。男子であれば、だれもが食いつく話題。大河とて、サラと輝夜が男子の間で人気者になっていることを知らないわけではない。それはそうだ。彼女ほどの美貌を持つ者は、そうはいない。そして大河も然り。大河も、容姿には恵まれている方だ。だからこそ女子の間ではちょっとした有名人になっている。だが、それでも大河にはその手の話は分からなかった。男として、人として当たり前の感情が、今の大河には欠乏していた。
「本当は分かっているんだろう?過去を話したことはないが、想像することはできるはずだ。」
「………分からないのか。その感情が。」
「半分正解だ。」
一度視線を外し、大河は再び暢と向き合った。
「忘れちまったのさ。捨てたと言ってもいい。人であることを否定するため(・・・・・・・・・・・・・)にな。その感情は、今となってはもう思い出せない過去の遺物だ。」
悲しいほどに淡々とした口調で、大河は語った。まだ暢にも話していない、過去の記憶。人であることを否定するきっかけとなった、忌まわしい日々。それは、大河が背負ってきた業であった。大河はその業と闘ってきたのだ。人として当たり前の感情を捨ててまで。
「そんなわけだ。悪いが期待には応えられない。」
「………」
冷却魔術で体を冷やして発汗を止め、大河は制服を羽織った。そのまま暢に背を向ける。
「それでいいのか?」
大河の背に問う暢。大河は振り向かなかった。さりとて無視することもなかった。立ち止まり、下を向いてしばらく答えを探す。だが、今回ばかりは見つからなかった。
(俺も耄碌したもんだな………)
いいか悪いか、その二択の質問。少し前ならば、是非もなくそれでいいと答えていただろう。それでも今、そう言い切れない理由が大河には分からなかった。
「…今はまだ、な。」
それだけ言い残すと、大河は歩き始めた。暢も、それ以上は言及しなかった。その答えが、いつか変わることを願って。
2
「美味ひぃ~」
「そういえば、輝夜にこの店教えてなかったな。」
満面の笑みでケーキを頬張る輝夜を見て、大河は少しだけ申し訳ない気持ちになる。しかしそれも一瞬で、喜び勇んだ様子の輝夜を見て杞憂だったと思いなおした。
ここは、絡まれていたサラを助けた際に大河と二人が入った喫茶店。大河がショートケーキをこよなく愛する店だ。
「実は、あれから結構来てるのよね。」
「紹介した甲斐があったよ。」
優雅な仕草でカップを皿に置くサラは、様式美、と言う言葉がよく似合っていた。大河も口内を潤そうとカップに手を伸ばし、その手を止めた。
「大河?」
急に動きを変えた大河の顔を覗き込むサラ。大河は椅子を引くと立ち上がる。
「ちょっと電話だ。すぐ戻る。」
店の裏に出ると、大河は結界術の一つである防音結界を作り出した。結界術とはその名の通り、魔力によって結界を作り出す魔術。今大河が展開した防音結界以外にも、さまざまなバリエーションが存在する。防音結界は、結界内と結界外でそれぞれ空気の振動を弾くもの。つまり、空気の振動を通して伝わる「音」を断絶するのだ。
そんな防音結界の内部で、大河は電話に応じる。その機体は依頼を受ける際に使う、復讐屋としてのものだった。
「もしもし。復讐代行サービス業者、蘭堂です。」
『受けていただきたい依頼があります。受託願えますか?』
「申し訳ないですが、この場でその判断はできません。今から私の言う通りに、私の事務所までお越しください———」
「———さて。」
通話を終え、大河は画面を閉じた。先日太一から電話があったことで、大河は何となく察していた。大河は先程の電話の相手の声を思い起こす。憔悴しきったようで、それでも滾る憎悪が溢れ出ていた声。
「とりあえず、門前払いは無しか。」
真に復讐を望む者は、声にもそれが如実に表れる。電話で相談を段取る際、大河は一つの基準として声音も判断材料にしていた。当然それが感じられなかった場合は、即刻破談である。
防音結界を解除する大河。途端に周囲の音が一斉に鼓膜を叩く。その感覚にはまだ慣れない大河。数瞬の間眼を閉じ、次に開けた時には耳の中がクリアになっていた。
店内に戻った大河は、残っていたショートケーキを平らげると二人を連れて店を出る。
夜の街中を歩く三人。女子二人は会話に花を咲かせていた。大河はいったんここまでの流れを整理する。太一からの電話と依頼の願い。そして、『エンタープライズ』の噂。
(十中八九事実だな。今回の依頼と関係あるかはわからんが。)
楽しそうに語らう二人の横で、大河は厳しい表情をしていた———
「———さっきから難しい顔してどうしたの?」
サラを彼女の自宅まで送った、そのあと。帰宅する途中、輝夜は大河に問うた。さてどこまで答えたものかと少しだけ悩み、大河は一部分を誤魔化すことにした。否、誤魔化すのではなく、変に混乱させないために確証がないことは言わない、と言う方が正しい。つまりは、『エンタープライズ』なるもののことだ。
「依頼が来た。」
「…そう。」
輝夜にとって、初めてとなる依頼。大河は言葉を選びつつ、ことのあらましを彼女に告げた。
「じゃあまだ、正式に受けると決めたわけじゃないのね?」
「ま、そういうところだ。」
「どうして受けなかったの?」
当然と言えば当然の疑問である。依頼を受けなければ収入にならない。稼ぐことを考えれば、依頼の相談が来た時点で受けるべきだ。
「聞かれて答えるほどのことじゃない。ごくごくつまらないことさ。文句があるなら聞くが。」
人口自体はたかが知れているものの、復讐屋も十人十色の人種である。それぞれに独特なクセがあるのだ。そして大河は、稼ぐことが目的でこの業界で生きているわけではない。大河がいつも最優先しているもの。一言で言い表すならば、それは矜持。プライドだった。復讐屋たる矜持とその在り方を常に優先し、正しい復讐を望む者のみに力を貸す。太一の教えであり、大河にも受け継がれた信念だ。
「私は大河のパートナーだし、文句をつけるつもりなんてないわ。大河がいいならそれでいいじゃない。」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。」
そうこうしているうちに、気づけば自宅の前まで来ていた。念入りに施錠し、大河と輝夜はそれぞれの持ち場へ着く。同棲すること二週間弱。共同生活にも体が馴染んできた輝夜。今では家事の半分ほどを担うようになった。
「私は風呂沸かしてくるね。」
「おう。晩飯は任せろ。」
輝夜は一度自室に引っ込むと、荷物を置いて風呂場へ向かう。先日の水風呂不意打ち攻撃がよほど堪えたのか、風呂場は輝夜の管轄になった。食事は変わらず大河が用意している。それ以外は、共同で行うものが多い。大河も自室に荷物を置くと、空調を効かせて調理に取り掛かる。
スピーカーから流れる音楽を聴きながら、絶え間なく手を動かす大河。たっぷり5曲は終わったところで、ようやく作業がひと段落ついた。そのタイミングで輝夜が風呂から上がってきた。
「上がったわ。」
「分かった。」
まだ完全に乾ききっていない輝夜は、タオルを首に巻いた状態でリビングへと戻る。そしてエアコンが効きすぎている室温に体を震わせるのも、今では日常と化していた。
「すぐ上がる。」
それだけ言うと、大河は台所を離れた。脱衣所のドアを開けると、女子の入浴後特有の匂いが鼻腔をくすぐる。思春期の男子ならば、誰もが一度は妄想するシチュエーションだろう。だが、大河はそれを理解できなかった。正確に言うならば、理解する姿勢を捨ててしまったのだ。故に、大河は無感情で風呂場に入った。きわめて事務的に。そこに人間味など微塵もなく。そういう意味では、大河は正しく堅物だった。
「———待たせた。」
「いつも言ってるけど、そんなに待ってないわよ。」
実際、輝夜の基準からすれば大河の入浴時間は短い。もっともそれは、あくまで女子である輝夜の基準であるため、一般男子と比較すると普通の範囲内である。
さすがに体が冷えたのか、輝夜は眼鏡をかけて大河を待っていた。レンズの曇りが消えたのだ。輝夜は視力が弱い。しかも、かなり、の具合だった。普段はコンタクトレンズで過ごしているが、オフの時間はこうして眼鏡をかけている。そんな中珈琲片手に新聞を読んでいる姿は、さながら朝の中年サラリーマン。だったが、いくら大河でもそんな無神経なことは言わない。
「そうか。ならいい。」
とだけ応じると、持ち場へ戻る。味付けまで終えているため、あとは火を通すだけだ。魔力が普及し、電気がその役割を終えつつある昨今。特に調理の場においては、魔力の応用が積極的になされていた。発熱系の魔術を用いたり、最近では魔力を注入すれば加熱できる機械も導入されている。ちなみに大河は前者だ。
「もう直にできる。」
「うん。」
輝夜は新聞を置くと、茶碗に白米を盛る。もちろん二人分だが、大河の茶碗に盛られた量は半端なものではなかった。
大河曰く「すまないな。どうも燃費が悪くて。」ということだった。
その他箸と食器の準備が完了し、大河がメインディッシュを運んだところでディナータイムである。
「それで、明日来るのね?」
来る、とは依頼者のことだ。迅速な行動を尊ぶ大河は、早くも明日の休日を使って依頼者に来訪を指示した。
「ああ。悪いな、急に。」
「いいのよ。早いに越したことはないし。」
一口一口を味わいながら、輝夜は大河の言葉に応じる。思えば、本当に無駄の少ない行動であることを心の中で称賛しながら。と、その時。インターホンが鳴った。
「こんな時間に誰かしら。」
輝夜の言葉はもっともだったが、大河は心当たりがあった。
「来たか。」
「何が?」
疑問を投げる輝夜には応えず、大河は玄関に向かう。果たして玄関先には、予想通りの人影があった。鍵を開けると、大きめの段ボールを抱えた配達業者が立っていた。
「蘭堂大河さんですね?」
「ええ。」
「ここにサインをお願いします。」
受領書に自らの名字を書き込み、大河は去っていく業者を見送った。
「結構な大荷物ね。」
「まあな。」
何が入っているのか、輝夜はそこまでは聞かなかった。
「心配するな。後でわかる。」
「…なんで聞きたいこと分かったの?」
あえて口にしなかった内容を指摘され、輝夜は口を尖らせた。
「目は口ほどに物を言うってことさ。」
大河は食事を再開する。輝夜もそれ以上何も言うことはなかった。時折食器の音が響きながらも、この日の夕食は静かに終わった。
3
翌日。依頼者が来る日だということで、輝夜は朝から落ち着けなかった。
「そんなに固まらなくても大丈夫だぞ?対応するのは俺なんだし。」
「そうは言われても………」
無理もなかった。裏社会での初めての依頼。大河も初めて依頼を受けた際には、それは見事に固まったものだ。何とか和ませようと、大河は話題を探した。
「ネクタイはばっちりか?」
「うん。さっきも結んだけど、問題ないわ。」
「そりゃ何よりだ。」
昨夜届いた荷物は、裏社会では必須とも言えるアイテム、防弾用品一式。そしてスーツだった。昨日は(大河の基準で)遅くまで着るための練習をしていたのである。
それよりも、と輝夜は思い出したように話を変えた。
「あのスーツ、どうして私のサイズにぴったりだったの?」
スーツを仕立てるのには採寸が必要である。輝夜もそれは知っていた。
「ああ、そのことか。いやぁ、輝夜は綺麗な姿勢で寝てくれるから測りやすかったよ。」
「へ?」
「ん?」
しばらくフリーズする輝夜。想像だにしない輝夜の反応に、大河もどう応えていいかわからなくなる。
「測ったの?それも私が寝ている間に?」
「そうだが。」
「ば」
「ば?」
「ばかぁぁぁぁぁぁぁぁ‼」
朝も早くから、輝夜のビンタの渇いた音が響き渡った———
「———悪かったから、機嫌直してくれよ…」
「………」
未だむっすりと頬を膨らませる輝夜相手に、大河は先程からずっと必死に謝罪していた。もっとも本人に、輝夜を怒らせた理由に自覚を持っていないのだが。だからこそ、輝夜の怒りはまだ収まらなかった。冷静に大河のことを考えてみれば仕方ないと思えるだろうが、今の輝夜にそこまで配慮する余地はなかった。
「頼むから、な?」
しかし、それでもなお輝夜は口を尖らせている。仕方なく、大河は冷蔵庫を開けて秘密兵器を取り出した。大河は無神経ではないものの、感覚が常人と比べてかなりずれている。同棲し始めてからも、輝夜とのこうしたいざこざはもはや恒例行事になりつつあった。その中で大河は、輝夜を怒らせてしまった際の対処法を見出したのである。
「悪かったって。ほら、これでも食べて機嫌直してくれ。」
すなわち、ケーキ(甘いもの)で静める。実に単純な手法であるが、それだけに効果は絶大だ。
「…甘いものを出せば、何でも解決するわけじゃないんだよ?」
と言いながらも、早速口をつけて目を輝かせる。実はこの輝夜、大河に負けず劣らずの甘党なのだった。
「すまん、一言断っておけばよかったな。」
「本当だよ、もう………」
言葉こそまだ怒りを含んでいながらも、表情からはすでに消えていた。その様子に、大河は一息ついた。
「別に、大河に測られるんだったら文句も言わないし。これからは、先に言ってね。」
「善処する。」
それから依頼人が来るまでの間、和やかなひと時が流れた。
4
「———ようこそいらっしゃいました、こちらへどうぞ。」
「失礼します。」
今回の依頼者は、見るからにエリート、と言った出で立ちの男性だった。身に着けている装飾品やスーツなど、主張はかなり控えめだがどれも立派なブランドものだった。しかし、やつれた表情とその奥に垣間見える憎悪の炎が似つかわしくない。そんな第一印象だ。
「おかけください。」
「はい…」
大河に促され、疲れ切った様子で椅子に腰掛ける男性。おかれていた茶をのどに通すと、深い息を吐いた。
「では改めまして。今回お話を伺います、復讐代行サービス業者、通称復讐屋の蘭同大河と申します。こちらは、榊輝夜。私のパートナーです。」
「ではこれを。」
名刺を交換する二人。そこに記載されていた男性の所属は、予想通りかなりの大企業であった。
「かなり大きな企業で働かれているようですが、今回の相談とは何か関係が?」
この手の依頼者の相談には、9割9分企業が関わっているとみて間違いない。果たして男性は、大河の想像通りの言葉を口にした。
「ええ。会社のことも半分ほど関わっています。」
「そうですか。…それでは、まずはお話を聞かせてください。」
半分ほど、と言うワードがかなり気になった大河だが、そこには触れずに話を進める。男性は浅く頷くと、語り始めた。
「名刺を見ていただければわかると思いますが、私は情報系の仕事をしています。それは幼い頃からの夢で、貧しい家庭に生まれたこともあって一流企業に就職することが私の希望でした。両親も、貧しい状況下で必死に私の夢を後押ししてくれました。そして私は、念願としていた情報系の大学に入学できたのです。」
男性の話は続いた。必死に勉強し、大学を首席で合格したこと。その甲斐あって、今の大企業に就職できたところまで。しかし、そこから男性の声のトーンが徐々に低くなっていく。
「自分でいうのもおかしいですが、社内でも私の成績は優秀な方でした。会社の発展にもそれなりに寄与したりなど、私は幼い頃からの夢をかなえることができたのです。」
そこまで聞けば、男性がここに来る理由が分からない。まさに順風満帆の、エリート街道を歩んでいるように見える。大河もこれまでいくつか依頼を受けてきたが、ここまで話を聞いても背景が見えないのは初めてだった。
「そして入社から二年と少しが経ち、私は社内での立場を上げていました。良き部下にも恵まれました。すべてが順調だと信じて疑うこともありませんでした。そんなある日、社長に呼び出された私は、昇格と許嫁を与えられたのです。それが、社長の一人娘でした。私に拒否権はありませんでした。」
ここにきてようやく、少しずつ輪郭が見えてきた。だが当然、依頼者の話を遮る理由はない。大河は黙って耳を傾ける。
「できれば相手は自分で探したかったのですが、社長の言うことならば仕方ありません。私は社長の娘と交際することになりました。しかしその女性と言うのが、実に面倒な人間だったのです。」
一つ一つ明らかになっていく実態。しかし、男性の悲痛なまでの話はまだ終わらない。
「まず気になったのが、あまりにも浪費が過ぎることです。父親が大企業の社長なので多少の金銭感覚のずれがあるのはいいとしても、あまりに度が過ぎていました。デートに行くたび、一緒に帰るたびに高額な買い物を要求されました。それでも、彼女を振るということは自分の仕事も失うことを意味していた。だから私は、そこに口出しをしなかったのです。…あの日までは。」
肩を震わせ、男性はそこでいったん話を切った。カップに口をつけ、気持ちを落ち着けると再び語りだす。
「その日は彼女の誕生日でした。それを祝うために私は、わざわざ仕事を休みました。そして案の定、彼女はいつものように、いえ、いつにもまして散財しました。もちろん、すべて私の金です。ですが、彼女のための日ですし、多少は目を瞑ることにしました。ところが…」
男性の次の言葉を聞くなり、大河はここで初めて口を挟んだ。
「ベンツの購入予約って、聞かされていたのですか?」
「いいえ。私の名前を使って、彼女が勝手にしていたようです。」
つまるところ、そういうことであった。男性には知らせず、社長娘は勝手にベンツの購入予約を取り付けていたらしい。挙句の果てに、それを誕生日プレゼントなどと宣ったそうで、大河は開いた口がふさがらなかった。なんともまあ、ふざけた誕生日プレゼントもあったものである。
「流石にこれは黙っておけず、社長にも相談しました。しかし、文句があるならクビにするという旨を聞かされたのです。」
これでようやく、大河は男性がここへ来た理由の全貌を理解した。と思いきや、なんとまだ続きがあるのだという。
「ある日、私は偶然聞いてしまったんです。社長の思惑を。」
男性の口から語られる、社長の思惑。それはどこまでも醜悪で、聞くに堪えないものだった。要約すると、「浪費癖のある娘と、自分の会社で昇進させた男性を交際せることで、娘の矛先を男性に固定した。クビをちらつかせて逃げられないようにしている。」とのことだった。
(正真正銘のクズだな。)
「それで、復讐を?」
「………はい。」
そういうが早いか、男性は床に頭をこすりつけるほど深く土下座した。
「お願いします、どうか私に代わって、奴に復讐してください!」
無論、断る理由などない。だが、さきほどの言葉に一か所だけ違和感を覚える大河。
「奴?奴らではないのですか?」
「娘に悪気はありません。それに、社長がいなくなってしまえばこっちのものですから。」
(なるほど。いなくなる、ねぇ。)
「わかりました。では一つだけ質問をします。」
「質問?」
「ええ。実に簡単な質問です。あなたはなぜ、赤の他人である私たちに縋るほど復讐を望むのですか?」
「………」
これが最後の判断材料。つまらない理由で復讐を望もうものなら、依頼は受けない。厳しいと非難されるかもしれないが、それこそが復讐屋としての大河のプライド。誰が何と言おうが、譲れないし譲るつもりもないエゴイズムだ。
「そうですね、金のこともそうですが、奴は私の夢を台無しにした。それが許せない。私はただ、幼い頃からの夢であった情報系の仕事ができるだけでよかったのに…」
「………」
大河は聞き届けた。一人の青年の、魂の言葉を。
「わかりました。この依頼、引き受けましょう。」
次の瞬間、男性の顔に光が差した。そして立ち上がると、大河に何度も頭を下げる。
「ありがとうございます………!」
「礼はいりません。仕事ですから。」
「———それでは、これで手続きはすべて終了です。後はこちらで依頼を遂行し、いただいた連絡先に連絡。その後連絡先を破棄する。という順を追って完了です。」
「よろしくお願いします。」
しきりに頭を下げる男性を見送り、大河は輝夜と決行日について話し合う。
「ターゲットが高知支社に来るのは二週間後。やるならその日だな。」
「わかったわ。」
依頼者が持参していたターゲットのデータは、恐ろしいほど精密なものだった。
「にしても、すごく細かいデータね。」
「ああ。これも憎悪のなせる業だな。」
人が持つ感情の中でも「負」とされるもの。とりわけ怒りや憎しみは、時に大きな原動力になりうる。今回依頼人がよこしたデータは、依頼人自身が作成したもの。それだけに強い憎しみが見て取れる。
「こりゃ、失敗できねぇな。いつものことだが。」
「そうだね。」
その時大河のスマホにメッセージが届いた。
「ん?」
内容を確認する大河。差出人を見て、大河はすべてを察した。
「誰から?」
「先生の知り合い。それより、初めての依頼相談はどうだった?」
あの時間だけでかなり濃い経験を得た輝夜は、感想に迷ってしまう。
「そうね、言いたいことはいっぱいあるけど…何が一番印象に残ったかと聞かれたら、大河かなぁ。」
「なんで俺なんだよ。」
「だって、あんなに人間臭い大河を始めて見たから………」
「………」
それを言われると言い返す余地がない。大河は黙り込んだ。それを輝夜は変な方向に解釈したのか、聞いてもいない説明を加えた。
「いや、大河って何してもされても基本的に無感情じゃない?でも少なくともあの場ではちゃんと感情があったのよ。それが意外だったの。」
「ばかにするな。俺にだって感情の一つや二つはある。人間臭いのは余計だがな。」
輝夜は大河の過去を知らない。故に彼女から見れば大河は、「無感情なマシン」に見えるのである。もっともそれは、大河の過去を知る者たちと暢以外の誰しもが抱く大河のイメージなのだが。しかし大河が依頼者と話すときに見せる人間臭さに、大河自身自覚を持っていた。その実態を知れば、当然のことである。というのも、大河が意図してそう振る舞っているのだから。
『優しさを失わないで。弱き者をいたわり、寄り添う気持ちを忘れないで。それは、人として(・・・・)何より大切なものだから。』
在りし日の母の言葉。唯一大河に「愛」をくれた、最愛の母だった。
「なんで?普段あんなにつれないのに。」
輝夜の疑問ももっともである。しかし大河には、今その疑問に答えるつもりはなかった。
「いつか教えてやるよ。それより、行くぞ。」
「え、ちょっ、待ってよ!」
どこに行くのかは知らないが、輝夜は慌てて大河についていった。そして歩くこと30秒。帯屋町の一角にその男はいた。
「よう大河。久しぶりだな。」
「ええ、こちらこそ。」
久しく再会したらしい二人は、がっちりと握手を交わした。
「早速だが、ほい。頼まれていたものだ。」
「確かに受け取りました。いくらあったら足ります?」
「この間依頼で受け取ったらしい報酬の三分の一で手を打とう。」
言って男は、持ってきていたメモ帳に100万と書き記した。代わりに、大河に重厚なケースを手渡す。
「なんで知ってるんですか………」
「裏社会は情報が命だからな。」
「大方先生が言いふらしたんですよね、わかります。」
楽しそうに会話する二人。輝夜はなかなか入っていけずにいた。そんな輝夜に、男は気づいた。
「そういえば今回調達したのはこのかわいい子のためか?」
「あ、そうです。」
「ちょっと、何言ってるんですか!?」
「何って、事実を言ったまでだよ。」
耳まで顔を赤く染め、輝夜は声を張り上げた。悪気100%の男と、純度100%の大河。ある意味では後者の方が、たちが悪い。
「そうかぁ、大河にも春が…」
「ちょっとよくわかりませんが、たぶん違います。」
バッサリと大河は切り捨てた。男は苦笑する。
「変わらないな、大河。」
「俺は俺ですが。」
「そういうところさ。」
その言葉の意味が分からないまま、大河は封筒をとり出す。ひどく厚みのある封筒だ。
「これでいいですか?」
「おう。」
それを受け取った男は、中身の確認もすることなく先程メモ帳に書いた100万の下にサインと判を押した。大河も、持参していた印鑑で応じる。
「んじゃ、取引成立だ。これからもごひいきに頼むよ。」
「ええ。」
「え、それだけでいいんですか?まだ封筒の中身も確認していないのに…」
驚く輝夜。もちろん、本来ならその通りである。そう、本来なら。
「ははっ、確かにそうだな。だが、大河の場合は要らんよ。こんなことであの人の面を汚したりしねぇだろ?」
最後の一言だけは大河に向けられたものだった。大河は無言で頷く。
「そういうことだ。それじゃ、俺はこれで。」
「ありがとうございました。」
去っていく男。尚も不思議そうな顔の輝夜の手を引き、大河は自宅へ戻った。
「なかなか様になっているじゃないか。」
「うぅ…喜んでいいかよくわからない…」
今輝夜は、銃を手にしていた。それこそ、さきほどの男が大河に渡したものの正体。裏社会で仕事をするのに、銃はもはや必須と言える。他にもナイフやバレット、それらの予備など様々なものが詰まっていた。
「地下に完全防音の訓練場があるから、これからちょっとずつ訓練していこう。」
「うん。っていうか、地下に訓練場なんてあったんだ…」
初めて知る事実に、輝夜は少々驚いた。同時に、こんな立派な物件を所持している太一についてもかなり気になった。
「決行まで二週間しかない。その期間で、少しでも精密な射撃ができるようにな。もちろん、俺も付き合う。」
「わかったわ。」
こうして武器もそろい、輝夜にとって初めての依頼を遂行するための準備が整った。
5
五月も下旬、終わりが見えてくると、いよいよ夏本番に向けた天気へと動き出す。つまりは、梅雨の時期である。小笠原気団とオホーツク海気団の接触で生じるこの梅雨前線は、古来より日本の各地に恵みをもたらしてきた。稲作に代表される日本の夏の農業にとって、何より大切な時期だ。大河にとっては憂鬱な時期でもある。というのも、雨による高湿と夏という季節の気温が相まって、それは蒸し暑くなるからだ。雨は好きであるが、そこに高温と言う要素が加わると一気に地獄と化す。故に大河は、例外的に梅雨の時期の雨は嫌っている。だがそんな大河の心中などに構うことなく、雨は今日も降っていた。
「………暑い。」
「また言ってる。」
「飽きないのねぇ。」
お決まりの文句を垂れる大河に、サラと輝夜は呆れるほかにない。しかし大河はそれを気にも留めず、またもぼやいた。
「…暑い。」
「「………」」
ジト目で大河をにらむ二人。それでも大河は、意に介していない様子だった。すでにその首筋には、いくつも汗が通った跡がある。タオルで拭くが、また新しい汗が伝っていく。結局それの繰り返しであった。
「お、そこのハーレム野郎は大河じゃねぇか?」
そんな折、背後から聞こえてきたなじみのある声に、大河は振り向いた。中背ながら引き締まった体つきに、形の整った幼い顔つき。声の主は和史だった。その傍らには一花も立っている。
「…女性を連れているという点では、和史さんも同じだと思いますが。」
「悪いが俺はお前と違って一花一択なんでね。」
それを言われると立つ瀬がない。大河は反論を諦めた。
「大河、その人たちは?」
輝夜は当然の疑問を漏らす。一方のサラは、普段のお嬢様の面影もどこへやら、一花に飛びついた。
「一花さん!」
「あら久しぶりね、サラ。」
大河は面倒くさそうに頭を搔いた。
「この人たちは俺の先輩だ。」
「どうも、咲多和史だ。よろしく。」
「榊輝夜です。」
輝夜の名字を聞いた瞬間、和史の眉が動いたのを大河は見逃さなかった。もっとも、口に出したりはしない。
「サラが飛びついている人は、青柳一花さんだ。バレー業界では割と広く知られているらしい。」
「お二人とも小津高校生なんですね。」
「ばれたか。」
「そりゃ、制服着ていたらばれますよ。」
とりとめのない話で少し盛り上がる三人。その間も、サラはずっと一花にくっついていた。
「———しかし、あそこまでべったりだとは思わなかったな。」
「えへへ………」
照れ臭いのか、笑っていなすサラ。サラが一花と面識があることは知っていたが、まさかあれほどだとは思ってもみなかった大河。そして輝夜は、素直に和史を称賛していた。
「あの場で彼女一択だと言い切った根性すごいわね。」
「あの二人は昔からあんな感じだったぞ。」
和史と一花と別れ、三人は学校へと足を進めていた。話題は、二人に関してもちきりだった。
「ちなみに和史さんは、小津に首席で入学したんだと。」
「あ、そうなのね。」
「驚かないんだな。」
「隣に土佐で満点取った人がいればね。」
小津高校は、高知県の中でも名門の進学校。そこに首席で入学したのならば、それは確かに驚愕するに値する。しかし、やはり土佐高校への満点首席合格と比べると、どうしても見劣りしてしまう。
「語学に関しては、俺は絶対あの人に勝てないけどな。」
「そうなの?」
「ああ。日本語ならともかく、外国語になると勝ち目ゼロだ。」
とはいえ、大河の語学レベルはかなりの水準にある。そんな大河をして勝ち目ゼロと言わしめた和史に対して、二人は興味を持った。
「大河も十分おかしいと思うけどなぁ。」
サラが言えば、
「うん。気になるわ。」
輝夜も食いついた。
「そうだな、何においても勝てる要素がないが…一つ挙げるなら、話せる言語の絶対数がまず違うんだよ。」
「例えば?」
興味津々と言った様子の輝夜に、大河は和史の言語のレパートリーを数える。
「英語は当たり前として、あとはドイツ語にフランス語、スペイン語とイタリア語、ポルトガル語にラテン語、アラビア語とロシア語。それから中国語とヒンディー語も話せるって言っていたな。」
「「………」」
予想以上の数に、ドン引きする二人。たっぷり時間をおいて、サラがようやく口を開いた。
「ついでに聞くけど、大河はどれくらい話せるの?」
「英語を除くと、西欧の各種言語くらいだ。」
それでもかなり多い。俺なんかまだまださ、と続ける大河を、二人はしばし呆れた目で見つめた———
放課後。今日は陸上部の練習は休みだったため、サラの方が終わるまで大河は教室で待っていた。そこには、輝夜の姿もある。ちなみに輝夜が希望したため、今大河は彼女にドイツ語を教えていた。
「思ったよりも簡単というか、違和感がないわね。」
一通り講義が終わり、最初に輝夜が口にした感想はそれだった。
「まあ、比較的英語に近いって言われているからだろうな。」
かくいう大河も、ドイツ語は太一に仕込まれた。その時に同じことを言われたのだ。英語圏の人々からすると、ドイツ語は比較的簡単に習得できるらしい。
「それよりも、なんでこんなにたくさんの言語を覚えようと思ったの?」
大河は周囲を見渡し、誰もいないことを確認すると答えた。
「依頼によっては海外へ飛ぶことも珍しくないからな。西欧の各言語くらいは最低でも覚えておけっていうのが、先生の教えさ。」
裏社会には、国をまたがる組織が存在する。復讐屋という職業が公に成立している日本に、わざわざ依頼をするためだけに訪れる外国人も少なくないそうだ。そんなとき言葉が分からなければ、対応のしようがない。というのが太一の理屈だった。
そうこうしているうちに、すっかり日が落ちた。体育館から聞こえてくる音も止み、大河は屋内運動部の活動終了を悟った。
「それじゃ、行きますかね。」
「うん。ありがとう。」
「どういたしましてだ。」
未だ降り続ける雨。梅雨と夏の早期閉幕を願いながら、大河は輝夜とともに体育館へ向かった。
6
決行日。大河は輝夜を伴って、家の隣にあるガレージの前に立っていた。初めての依頼決行日ということで、輝夜はがちがちに緊張していた。
「そんなに緊張しなくてもいいんだぞ?」
「そ、そんなこと言われても………」
無理もないかと思い直し、大河はシャッターを開ける。
「うわぁ…」
輝夜は言葉を失った。ガレージの中には、綺麗に手入れされた二台の車とバイクが並べられている。その奥には、整理された工具が所狭しと置かれていた。とても、一人暮らしの高校生が使うものとは思えない。大河はその中の一つ、黒塗りのバイクを持ち出した。試しにエンジンをかけるが、特に問題は見当たらない。
「よし、いけそうだな。」
いったんバイクを止め、大河はガレージの奥へと引っ込んだ。そして次に出てきたときには、ヘルメットを一つ携えて。
「ほい。」
「わっ、」
それを輝夜に投げ渡した。
「一つしかないから、輝夜が着けとけ。」
「大河は?」
「俺は別に要らん。」
あっけらかんと言い放つと、大河はバイクの後ろを指さした。後ろに乗れ、という合図である。ヘルメットを着用すると、輝夜は大河の言葉に従った。
「ここに足をかけて。…そうそう、それでいい。あとは、落ちないように俺にしがみついていればいいよ。」
「っ!」
何の前触れもなく大河はあっさりと言ってのけたが、輝夜の心拍数はその一言で一気に加速した。そんな輝夜を気にすることもなく、大河もバイクにまたがる。ハンドルを捻るとエンジンをかけた。
「それじゃ、しっかりつかまっとけよ。」
輝夜は高鳴る心臓を抑え、大河にしがみつく。それを確かめ、大河はバイクを走らせた。
一方その頃。大河のお気に入りの喫茶店で、二人の少年が向き合っていた。双方ともに、タイプは違えど端整な顔つきである。
「どうやら動き出したらしいぞ。」
「…そうか。」
答えた少年の声は、ぞっとするほど冷たいものだった。たった三文字しか発していないというのに、はっきりとそれを感じさせる。それは少年の、あまりに冷徹な眼光も手伝っているのかもしれないが。
「相変わらず表情が出ないな。顔にも、声にも。」
「出したところでそうは変わらないだろう。」
「さてね。それより、言伝を預かっている。」
「なんだ。」
まるで正反対な温度差がある会話。しかし不思議なことに、それでも会話としては成立していた。
「いざとなったら手伝えってさ。」
「それはお前もか?」
「愚問だな。当り前じゃないか。」
「わかった。足は?」
「今回はバイク。」
答える少年。声そのものは普通の少年のそれだが、果たしてその心の中までは知りえない。
「食べ終えたら出ようか。」
「わかった。」
依頼決行を目前にして、動き出す思惑。雲行きは、徐々に怪しいものになりつつあった。
「———ここだな。」
「ええ。」
少し時間が経ち、大河と輝夜は目的のビルに到着した。依頼者の情報によると、今このビルの中で社長による視察が行われているらしい。護衛も何人かつけているようだった。大河は自慢のピッキング技術を遺憾なく発揮し、いともたやすく重厚な扉の鍵を開けた。ちらりと輝夜を見る。長い髪の毛を後頭部でまとめたポニーテール状態の彼女は、大河の視線に気づくと頷いて見せた。
「さあ、行くか。」
銃を片手に扉を開け、同時にセンサーを撃ち抜く。前回同様、その速度はセンサーの反応を完全に上回った。
「なかなか強引ね。」
映画などで似たようなシーンを見る場合は、上手くセンサーを回避するのが一般的である。しかし大河に関しては、そんなややこしいことはしない。
「下手に回避するより確実だし、時間もかからないからな。」
「呆れた…」
言いながらも、足は動かす二人。そして目的の部屋までたどり着いた。途中すれ違った幾人かの護衛たちは、全員輝夜が眠らせてある。
「どう?それなりにできるでしょ?」
「ああ、やるな。かなり決まっていたぞ。」
称賛しつつ、大河は聞き耳を立てる。内容はともかく、会議自体はそろそろ終わるようだった。
「もう直に終わるようだ。隠れよう。」
隣の部屋に隠れ、大河と輝夜は会議が終わるのを待った。するとそれから少しして、人が出ていく気配を感じ取った。
「行くぞ。」
会議の後は、社長室に移動する。その情報をもとに、完全に人気がなくなったところで大河と輝夜も移動を開始する。
「———いるな、確かに。」
依頼人の情報通り、社長室の中から声が聞こえてきた。だが、どう考えても複数の男がいるようだ。
「どうするの?」
不安そうな輝夜の声。大河はこともなげに答える。
「なに、全員気絶させてやればいい。聞いたところせいぜい五、六人みたいだし。」
「わかったわ。」
輝夜に深呼吸させ、大河は背中に背負った刀に手を伸ばす。先の依頼遂行の際にも使用した、名刀「霞」。太一から授かった、大河のもう一人の相棒だ。その霞を抜き、大河は社長室のドアを切り破った。
「な、なんだ貴様は!」
「侵入者だ!取り囲め!」
その瞬間、大河は数秒前の自分の浅はかな考えを後悔した。
(こいつら、思ったよりできる奴ばっかりだな………!)
一人一人が強者だったのだ。もちろんそれはあくまで大河の想像以上に、というだけであって、決して敵わないというわけではないが。
「社長、こちらに!」
「あ、ああ。」
「ちっ、」
あっという間に囲まれ、大河と輝夜は背中合わせになる。
「どうする?」
「今ならまだ間に合うな。」
「え?」
大河は、ドアに一番近かった男に肉薄する。
「なっ…」
狼狽する男をよそに、大河は重い拳を懐に入れた。うめき声をあげて崩れ落ちる男。それを合図に、残りの護衛たちが一斉に跳びかかってきた。
「こいつらは俺が片付ける。輝夜はターゲットを追ってくれ。」
「わ、わかった!」
輝夜は廊下に出ると、ターゲットの後を追う。護衛の男たちも部屋から出ようと動くが、ドアの前に大河が立ちはだかった。
「悪いが、お前らは俺が片付けることにしたんでな。付き合えよ。」
「てめぇ、この人数相手に一人でやるって言うのか?」
「面倒だから二度は言わないぞ。自殺願望者からかかってこい。」
その言葉でついに堪忍袋が切れたのか、次々に大河に殴りかかってくる男たち。しかし逆上した安直な攻撃など、いくら数がそろおうが大河にはお見通しである。ことごとく逸らしながら、的確に一撃一撃を入れていく。その一つ一つが、男たちから力を奪った。やがて一人を除いて全員が倒れ伏した。
「たった一人で、よくもここまで引っ掻き回したものだな。」
(こいつ、特にできるな…)
残っていた一人は、さきほどまでの男たちとは格が違っていた。
「だが果たして、それがいつまで続くかな。」
「さあね。あいにくと難しいことは分からん。」
次の瞬間、二人の体が同時に動いた。男は拳を振り上げ、大河は脚を構える。直後、それぞれが空を切った。互いに第一撃を避けたのだ。いったん距離を置く両者。しかしそれも一瞬で、またすぐに攻防を繰り返す。結局、次に手を止めるまで攻撃が決まることはなかった。
「なかなかやるな。」
「…」
大河は、勝利を確信した。どうあっても、この男に負けることはない。なぜならそこには、圧倒的な身体能力の差があるからだ。男はどう見ても30歳は過ぎている。対する大河は15歳。加えて陸上部の長距離種目を専門としている大河にとって、持久戦は勝利フラグなのだ。だが、持久戦に持ち込む理由はない。そもそも、いくら強いと言っても目の前の男は持久戦に持ち込むまでもないのだ。大河は大きく深呼吸する。
「すまないが、俺にはあまり時間がない。今のであんたの動きもだいぶわかったし、本腰入れさせてもらうぞ。」
「は…?」
一息で距離を詰め、大河は鋭い蹴りを繰り出す。回避は間に合わないと悟った男は、それを左腕で受けた。途端に、全身に電流のような衝撃が走る。
「ぐ………」
右手で反撃するが、そこに大河の姿はなかった。
「下か!」
「当たりだ。」
男が振り下ろしたかかとを難なくかわし、立ち上がる勢いを使ってアッパーカットを見舞う。すぐさま後ろによろけた男の腹部に、回し蹴りを叩き込んだ。見事に吹き飛んだ男は、壁に背中を強打する。
「がはっ…」
実力差は、これで明らかになった。だというのに、男はなおも立ち上がる。そして、無言で銃を撃ち放った。
「…ん?」
確かに銃声は響いた。確かに大河はよけなかった。結果として、大河は健在だった。眉間を狙ったにもかかわらず。
「は…?」
「それで決めたつもりだったのか?笑わせてくれる。」
大河は銃弾を握りつぶした。そう、弾は大河に当たらなかったのだ。大河の手が、銃弾と同じ速度で横から握り止めていた。
「ば、ばかな…」
今度は乱射する男。しかし、それが大河に通じないことは先の依頼でも実証済みだ。もっとも、目の前の男に知る由はないが。
「ふん。」
銃声が鳴りやみ、大河は静かに霞を鞘に収める。男の執念もむなしく、大河に命中した銃弾はなかった。先の依頼遂行時同様、そのまま行けば直撃していたであろうものだけを弾いたのだ。
「う、うそ…だろ…」
「それは、自分の身を以って知るといいさ。」
腰が抜けた男を冷徹に見下ろし、大河は男の首筋に手刀を入れる。すると男は、実に綺麗な動きで気絶した。大河は男を拘束すると、急いで輝夜の後を追った。
その、数刻前。輝夜はターゲットとその護衛を追い詰めていた。念のために作動させておいた防火扉が、役目を果たしたのだ。
「社長、少し下がっておいてください。すぐに始末します。」
護衛の男は油断していた。輝夜は女性だからだ。生物学上どうしても女性の身体能力は、男性のそれを下回ってしまう。
「見くびられたものね。」
突っ込んでくる男を軽くいなし、攻撃を逸らしていく。二週間も訓練していたのは何も、銃撃だけではない。接近戦術も仕込まれていたのである。二、三度ほど男の攻撃をやり過ごし、輝夜は大きく床を蹴った。脚力強化によって高く跳躍し、空中で一回転すると、ポニーテールを風にたなびかせながら着地する。そのまま、がら空きになった男の背中に手を伸ばすと。
「チェックメイトね。」
雷魔導術で、男を気絶させた。雷魔導術とは、電気を放出する魔術。その電圧は魔力の量で調整でき、その気になれば雷レベルにも上ることからこの名がつけられた。
「さて…」
輝夜はターゲットに詰め寄る。
「ひ、ひぃ…」
冷たく見下ろしながら、輝夜は銃口を向けた。
「自分のことだけを優先し、一人の人間の夢を踏みにじった罪は大きい。その体を以って償いなさい。」
それだけ言うと、輝夜はためらうことなく引き金を引く。眉間を撃ち抜かれたターゲットは、その場に崩れ落ちた。その口は、もう呼吸することはなかった。依頼完了である。
「あーあ、派手にやったもんだなぁ。」
「誰?」
背後からのんびりとした声が響き、輝夜は低い声で問う。答えはなかったが、代わりにその人物が視界に入った。身長は二メートルを超えるであろう巨躯に、がっしりとしたマッシブな体つき。一目で、ただ者ではないとわかる。
「あなたは…一体…」
「俺の名はダグラス。『格闘王』の二つ名で通っている、『エンタープライズ』の格闘専門だ。」
五章「復活の亡霊」
1
「『エンタープライズ』………?」
「ありゃ、知らないのか。まあ二年のブランクがあったから、無理もないかねぇ。」
ごつい体つきに似合わず、ダグラスは饒舌だった。しかしその目は、大河も顔負けなほどの冷たい眼光を放っている。
「だが、知ったところで意味はないがな。」
「…どういうことかしら。」
「俺の攻撃を耐え切った者はいないということだ。」
そう言うが早いか、ダグラスは猛然と輝夜に突進する。もちろんそれをむざむざと食らう輝夜でもない。防火扉の手前で構え、ぎりぎりでそれを避けた。ダグラスは、全力で防火扉に激突する。常人ならば、骨が砕けるほどの衝撃。しかし砕けたのはダグラスではなく、防火扉の方だった。
「嘘…」
「ふん。脆いな。」
防火扉が瓦礫と化す中、ダグラスは無傷でそれを振り払う。まともに受ければどうなるか、火を見るよりも明らかだった。
「くっ、」
輝夜は銃弾を繰り出すが、ダグラスはこともあろうに左腕で受けた。内部まで銃弾が食い込むことはなく、ダグラスの張力強化によって固く張られた筋肉に阻まれていた。
「な………」
絶句する輝夜。そんな輝夜に構うことなく、ダグラスは振りかぶると次なる攻撃に移る。重く、それでも軽快な腕薙ぎ。空気の抵抗をパワーで無視した一撃だった。輝夜は身長差を利用し、しゃがんで回避する。その一瞬後、衝撃波が窓ガラスを破壊した。輝夜は大きく後方に飛びのくと、ダグラスから距離をとる。
「なんて強引な…」
「全ての道はローマに通ずるように、すべての攻撃はパワーに起因する。したがって、パワーこそ至高。戦場においてはパワーが全てだ。」
「………」
かなりネジの飛んだ脳筋理論に、輝夜は閉口する。それでも今この場においては、ダグラスの言うことは間違いではなかった。
「故に、女では俺には勝てない。男と女ではパワーの差が明白だからな。」
そして、その理論もあながち間違ってはいない。的確に輝夜を狙った攻撃の数々を紙一重で捌いた輝夜だが、いつしか別の防火扉まで追い詰められていた。
「逃げてばかりでいいのか?」
なおも攻撃を続けながら、ダグラスは輝夜を挑発する。確かにこのままでは埒が明かない。輝夜はダグラスの挑発を機に、攻勢へと転じる。
「ふっ!」
「ぬん!」
輝夜の強烈な脚撃を、ダグラスは右腕でガードする。腕全体にびりびりとした痛みが駆け巡る。
「いい。いいぞ!貴様の筋は悪くない!」
「そんなに興奮するならもう一撃あげるわ。」
一気にテンションを上げたダグラスに、輝夜は二撃目を入れる。それもダグラスは受け止めた。
「今まで戦った女の中でもかなり強いな、貴様はぁ!」
「あなたに褒められても嬉しくないわよ…」
ダグラスと輝夜はしばらく、一進一退の攻防を繰り返す。輝夜はかわし、ダグラスは受ける。幾度もそれを続けたというのに、ダグラスはどれだけ受けても平然としていた。やがて、一時的に互いの動きが止まる。
「はぁ、はぁ…」
「なかなかいいセンスだなぁ、おい。」
息切れた輝夜に対し、ダグラスは余裕を崩さない。このままでは、いつかダグラスに押し切られるのは一目瞭然だ。
「さぁ、もっと楽しませろ!」
ダグラスは動きの鈍った輝夜に追い打ちをかける。
「くっ…!」
何とかいなすが、輝夜の体力は限界に近づいていた。そしてついに。
「おらぁぁぁ!」
「っ!」
よけきれない一撃が、輝夜を捉えた。輝夜は、立てた左腕の手首に右拳を打ち付ける形でそれを受ける。直後、輝夜の体は宙を舞い、防火扉へと強かに激突した。
「ぐっ………!」
苦悶を声に滲ませながら、輝夜はよろよろと立ち上がる。たった一撃、それも完璧に近いガードまでしていたにもかかわらず、この威力である。
(参ったなぁ…)
「ほぅ、あれを受けて立つのか。」
まともに正面からぶつかっても勝ち目はない。体力も尽きかけた輝夜は、別なる一手に出る。
輝夜は右手に発生させた魔力の電気球を、ダグラスに投げつけた。雷魔導術の一つ、『雷撃球』。概要は先述の通りである。
「けっ、そんなもので…え!?」
ダグラスに命中するや否や、『雷撃球』は激しく放電し始めた。その電圧は、優に一万ボルトを越していた。
「くぅ…!」
体力が残り少ないところで魔力を使ったのが祟ったのか、輝夜の体は大きな負荷を受けた。しかし、それでダグラスが引き下がるわけもなかった。
「くあ~、今のはちょっと効いたぜ。」
むしろピンピンしていた。こきこきと首を鳴らしながら、ダグラスは輝夜に詰め寄る。だが、輝夜とてこのまま終わらせるつもりもない。
「まだいけるよなぁ?」
「…愚問ね。」
立ち上がる輝夜。骨が悲鳴を上げるが、それでもこらえた。初めてだが、輝夜は何となく察する。
(何本かヒビ入ったわね…)
ミシミシと音を立てる骨は、ヒビが入っていることを雄弁に物語っていた。
「さて、貴様に敬意を表してこちらも全力で相手させてもらおう。」
言ってダグラスは、自身の魔力を開放する。凄まじい圧を放つダグラス。そんなダグラスに対抗し、輝夜もまた魔力を解き放つ。放たれた二つの魔力はぶつかり合い、衝撃波を生む。次の瞬間、両者の体が動いた。
「ぬおおおおお!!」
「てえぇぇぇぇぇ!!」
そして互いの拳が互いのそれを捉えた。その時、空気が震えた。いくつもの振動の波が建物中を走り抜ける。窓ガラスは割れ、電球が砕け散り。建物中を震撼させた。そんな中でも両者は退かなかった。真っ直ぐに目の前の敵だけを視線に収める。
「うおおおおおお!!」
「ぐう…!」
しかし、パワーの差は歴然。加えて輝夜はそれなりに重体ときている。膠着状態は長く続かなかった。そしてダグラスの拳が、輝夜の魔力を破った。
(まずい…!)
輝夜が防御態勢に移ろうとしたその時。
「ふんっ!!」
天井が崩れ、足に炎をまとった大河が落ちてきた。
「なにぃ!?」
さしものダグラスも、驚愕する。そんなダグラスに、大河は炎をまとったその足で強烈な跳び蹴りを見舞う。見事に胸元への直撃を被ったダグラスは、大きく後方へと吹き飛んだ。
その反動で後ろ向きに一回転し、大河は着地すると一言。
「悪い、遅くなった。」
2
「もう、遅いよ…」
「すまん。」
脱力する輝夜。その体はかなりボロボロになっている。
「しかし、輝夜をここまで追い詰めるとは…さすがだな。『格闘王』の名は伊達じゃない、か。」
さきほどの一瞬で、大河はすでに相手の正体を見破っていた。
「俺の名を知っているのか。」
いつの間にか起き上がっていたダグラス。その胸元は、服が焼け焦げ、皮膚も赤くなっている。どうやら、大河の攻撃はかなり効いていたようだ。
「まあな。この業界で生きてりゃ、あんたらの名前はよく聞く。…なぁ、『格闘王』。『エンタープライズ』の格闘専門よ。」
「そこまで知っているか。」
静かに視線の火花を散らす大河とダグラス。大河は、輝夜をかばうように彼女の正面に立つ。
「知ってはいるが、今この場では関係ねぇだろ?お互いに依頼を受けた身。違うか?」
「くくくっ、その通りだな。」
二人は戦闘態勢に入る。大河の言葉通り、今この瞬間は組織など関係ない。与えられた(受けた)依頼を遂行するだけだ。
「「潰す!!」」
殺意たっぷりの声が交錯する。直後、激しい衝撃が輝夜を襲った。
「っ!」
目を閉じていなければ風圧でつぶれそうなほどの衝撃。ぶつかり合った互いの拳は、それほどの衝撃波を生みながら、それでも動くことはなかった。互いの力が釣り合っているのだ。
「「ふんっ!!」」
焦れた二人は、まったく同じタイミングで腕を引いた。
「それなりにダメージを受けていてそのパワーか。参るぜ…」
「いい。貴様も実にいいぞ!」
呆れる大河と、興奮するダグラス。二人は一度、距離を取った。
「なるほど、重度のバトルジャンキーだったか。ま、それも悪くないが。」
「ふははは、さあどこからでもくるがいい!」
テンションの上がりように手がつけられなくなったダグラス。対する大河は冷静だった。
「じゃあ、遠慮なくいかせてもらうぞ。」
冷たく言い放つと、瞬時に肉薄する。その勢いのまま、流し蹴りを食らわせた。鳩尾に決まり、わずかにひるむダグラス。その隙を、大河は見逃さなかった。振り返ると、続けざまに肘打ちで追撃する。しかし、それをもらうほどダグラスも落ちぶれてはいない。
「なめるなぁ!」
受け止め、それを下へと流す。そしてその巨躯に似合わぬ大跳躍を見せた。大河のさらなる追い打ちを回避すると、がら空きになった大河の背中へ脚を繰り出す。それは確かに大河を捉えていた。
(避けられねぇ…!)
そう悟った大河は、抜き払った霞でそれを流した。
「ほぅ、刀も使うのか。」
「悪いな、俺はあんたみたいに一点特化型じゃないんでね。」
答えた大河は、再びダグラスと対峙する。ダグラスは両腕に魔力を集中し、張力を強化した。
「きてみろ。その刀、へし折ってやる。」
自信満々と言ったダグラスの物言いに、大河は無言で霞を構えた。
「三枝流刀術。」
直後、大河の体が動いた。
「速い…」
輝夜から言葉を奪うほどの速度。『格闘王』の二つ名を持つダグラスでさえ、その動きを目で追えなかった。気づいた時にはもう、大河はダグラスの背後に回っていたのである。
「『霧霞』。」
太一から教え込まれた三枝流刀術、その一つである『霧霞』。わかりやすく言うと、「超絶速い霞斬り」である。決まり手にはしないが、牽制から繋ぎ、さらには小手調べなど、非常に汎用性の高い技だ。
「なるほど、速いだけではなさそうだな。」
心底面白そうに笑うダグラス。その腕には一筋の赤い線が通っている。『霧霞』の一撃が、ダグラスの腕に傷を作ったのだ。
「切り傷など、何年ぶりだろうかねぇ。」
その言葉通りだった。ダグラスの張力強化は、斬撃さえ防ぐ。故に、—引退していたというのもあるが—ダグラスにとってはかなり久しぶりの切り傷だった。
「ここまで薄い手ごたえも初めてだな。」
いくら決まり手ではないとはいえ、『霧霞』はかなりの速度を伴う攻撃である。相応のダメージにはなる技だ。実際この『霧霞』は、使えばほぼ必ず相手をダウンさせる代物だった。しかしダグラスにはあまり効果がないようだ。紛れもなく、大河にとって初めての感触である。
「ますます気に入った。貴様、名は何という?」
「別に、名乗るほどの者じゃないさ。そうだな、三枝太一の弟子、とでもしておこうか。」
「な、三枝太一だと!?」
動揺するダグラス。『格闘王』の二つ名がつくほど名が知られたダグラスのこの様子だけで、大河の師である太一がどのような人物かは想像がつく。
「『伝説の復讐者』と呼ばれている、あの三枝太一か!」
「そこは想像に任せるよ。」
大河の師、三枝太一は、『伝説の復讐者』として有名な人物なのである。いくつもの依頼を遂行した実績。そのどれもをしくじったことのない実力。依頼遂行をサポートする、数多の技。いつしか太一は、『伝説の復讐者』と呼ばれるようになっていた。そんな太一に育てられた大河ならば、確かに納得のいく実力だ。
「なるほど、この実力を考えると、はったりではなさそうだな。」
「ま、こんなところで嘘をつく意味もないからな。」
「それでこそ潰し甲斐があるというものだな!」
言うが早いか、ダグラスは大きく振りかぶったストレートを繰り出した。霞を折ろうと、ダグラスは力を込める。そんなダグラスの拳に対し、大河は落ち着き払って受け身の態勢に入った。ただし、霞を使って。
「次こそその刀、叩き折ってやる!」
「三枝流刀術、『霞流』。」
大河が手でそうするように、手首を霞で弾く。否、流すのだ。最小限の力で、最小限の接触で。
「ぬおっ!?」
逸れたダグラスは、大きくバランスを崩す。その胴部に、大河は霞を振り上げた。
「三枝流刀術、『雲薙』!」
大河渾身の一撃が、ついにダグラスの懐を捉えた。ダグラスの返り血を浴びながら、大河は追撃に移る。その瞬間。
「三枝流刀術、『降霜』!」
霞を振り下ろした大河の手に、一発の銃弾が命中した。
「な!?」
どこから、という疑問を考える前に、大河は本能的に危険を察知した。そして体をわずかに横へずらす。そのコンマ一秒後、大河の左胸を銃弾が貫いた。
「大河!」
輝夜の叫び声が、廊下中に木霊した。
3
「ぐぅ…なかなかやりやがる。」
起き上がったダグラスは、さきほど銃弾が飛んできた方向を見つめる。その視線の遥か先に、その男はいた。ライフルを手に、男はスコープを覗いている。言うまでもなく、狙いは大河だった。
「お前が外すとは。明日は大雪だな。」
「…」
ライフルを構える男の後方に、もう一人の男がいた。もう一方の男は何も言わない。
「『凶弾』の名が泣くな。」
「…余計なお世話だ。」
戦場に向けて銃を向けること数知れず。一発として外したこともなく、すべて一発で終わらせてきた男は、いつしか『凶弾』の名で呼ばれるようになっていた。
「…俺の名はクリシス。『凶弾』なんてのはまやかしだ。」
思わずぞっとしてしまうほど冷たい声で流すと、クリシスは再度スコープを覗いた———
「———くそっ、」
「やっぱり生きていたか。」
大河も立ち上がる。ずきずきと痛む左胸を押さえ、ダグラスをにらんだ。
「あんたの銃じゃないな。」
「だとしたら?」
「…『凶弾』、だな?」
「ご名答。」
隠すことさえしないダグラス。大河は深いため息をついた。考えたくなかったその事実に、確証が生まれたのだ。
「たまたま組んだってわけでもないんだろう?…考えたくはなかったが、あんたら『エンタープライズ』は復活したと捉えていいんだな?」
「そいつはどう…かなっ!!」
「ちっ…!」
再び攻守が逆転した。ダグラスの一方的な攻撃に、大河はなすすべなく防戦一方だ。しかも左胸が痛むため、いちいち集中を削がれてしまう。
「さっきまでの勢いはどうした!?」
「ぐっ…!」
捌き方もだんだん雑になり、そのたびに手がしびれてしまう。大河はいったん距離を取ろうと踏み込むが、その足にクリシスの放った弾丸が命中する。
「ぐう…!!」
「もらったぁぁぁぁぁ!!」
完全に体勢を崩した大河に、ダグラス渾身の一撃が襲いかかる。
(まずい!)
せめてもの抵抗に腕をクロスさせて構えるが、結局それは杞憂に終わった。大河の体が風に包まれ、続いて感じたのは浮遊感。
「え…?」
「大河、大丈夫かい?」
「まあな。それより降ろしてくれ、咲夜。」
今大河は、咲夜にお姫様抱っこされていた。どうやら人格を入れ替えたらしい。大河は降ろしてもらうと、咲夜の隣に並び立つ。
「ちょっと厄介なバックがいるが、一気に行くぞ。」
咲夜と完全に人格を入れ替えられる時間は少ない。いうなれば、短期決戦だ。咲夜は輝夜よりも、出せる最大出力は遥かに大きい。その分咲夜と入れ替われる時間に、大幅な制限がかかってしまうのだ。
「ま、そうだね。」
先に仕掛けたのは咲夜だった。『霧霞』使用時の大河ほどの速度で接近すると、虚を突かれたダグラスの腹部に遠慮なく全力の脚撃を浴びせる。咲夜に入れ替わると魔力消費は格段に大きくなるが、その分身体能力も強化される。咲夜の脚撃は、輝夜のそれと比べると威力の差は明らかだ。
「ぐふっ…」
(なんだこいつ!?まるで別人みたいだ…!)
しかも、咲夜には輝夜のような温厚さはない。あるのは、好戦的な一面。ここ二週間ほど訓練して分かったのだが、咲夜は攻撃することに何の躊躇もない。もっと単純に言えば、咲夜は基本的に防御を考えないのだ。
「このやろ…!」
咲夜に殴りかかるダグラス。しかし咲夜は、後ろを指さすといたずらっぽく笑った。
「忘れたのかい?もう一人いること。」
「はっ…!」
咲夜に言われて背後からの大河の攻撃に気づくが、時すでに遅し。
「おおおおおおお!!」
大河の手に輝いていた球体が、ダグラスに放たれた。破壊魔術その一つ。
「『破壊魔球』!」
「ぐああああああ!!」
『破壊魔球』。破壊魔術の一つで、球状にした魔力の塊を投げつける技。概要は、輝夜が使用した『雷撃球』と同じである。違うのは、魔力に込める属性だ。破壊することに特化しており、対象に命中すると爆発する。このことから、『爆裂魔球』と呼ばれることもしばしば。そもそも破壊魔術は、基本的に爆発を伴うものが多いために『爆破魔術』というあだ名が定着しているのだ。
「咲夜。」
「ん。」
大河と咲夜はクリシスの狙撃を避けるため、クリシスから見た死角に移動する。さてどう脱出するものかと大河が思考を変えた時。
「ぬあ~、さすがに堪えた。」
なんと、何事もなかったかのようにダグラスが起き上がった。
「なんて耐久力だよ…」
「そうでなくては『格闘王』など務まらん。」
だがさすがにあれほどの攻撃を無下にすることはできないようだった。立ち上がったダグラスは明らかに疲弊しており、息も上がっている。しかしそれは、大河と咲夜も同じだ。
「ふぅ。」
ダグラスは着ていたシャツを投げ捨てる。鍛えに鍛えられた肉体が露となった。
「窮屈なものだな、服というのは。」
「くそっ…!」
咲夜が行動できる時間はあまり残っていない。しかも咲夜と入れ替わった後の輝夜は、とても戦闘できる状態ではなくなってしまうのだ。早急な決着が望まれた。
「咲夜、最後にギア上げてくれ。今の俺たちじゃあいつには勝てない。依頼は遂行したし、全力で撤退するぞ。」
「わかった。」
「させるかよ。」
突っ込んでくるダグラスをかわし、二人は走り出す。しかしこの時、二人は完全に失念していた。遠く離れたビルから、『凶弾』が銃口を向けていることを。
「うっ!?」
クリシスの銃弾が、咲夜の脚に命中した。崩れ落ちる咲夜。そこに、ダグラスの拳が迫っていた。
「てえぇぇぇぇぇ!!」
「なにっ!」
驚いたのはダグラスだった。咲夜全力のストレートが、確かにダグラスの手の動きを止めていたのだ。そのまま咲夜は横に流すと、最後の一撃を繰り出す。
「『雷撃脚』!!」
凄まじい電撃をまとった咲夜の蹴りが、見事にダグラスの腹部に決まった。ありえない速度で吹き飛んでいくダグラス。実はこの『雷撃脚』、ただ電圧を帯びただけの蹴りではない。というのも、電気によって筋肉を刺激し、そこに脚力強化を使うことで威力を格段に引き上げるのだ。雷魔導術と身体強化の応用技なのである。
「よくやった、咲夜。後は俺に任せろ。」
大河は、なおも起き上がろうと体勢を変えるダグラスに、魔力を込めた拳を突き出した。それと同時に赤い光の柱が飛んでいく。
「『紅破線』!!」
大河が得意とする、破壊魔術と炎魔導術の応用技、『紅破線』。破壊の光に熱が加わった、かなり高威力の技だ。そんな『紅破線』をもろに受けたダグラス。瞬間、爆炎を伴う大きな爆発が起きた。一方で。
(なぜ狙撃してこない…?)
絶好のシチュエーションだったにもかかわらず、クリシスからの狙撃がなかったことを訝しむ大河。そんな時、大河のスマホが音を立てた。防御結界で守っていたため、壊れずに済んだようだ。
「もしもし———」
4
大河のスマホに着信が来る、その数刻前。確かにクリシスは大河たちを狙っていた。そして発砲した。大河たちはクリシスに注意はしていなかった。つまり当たった。—はずだった。
「何⁉」
冷徹な彼にしては珍しく、声を荒げる。だがそれも無理のないことだった。何せ、大河に何ら動きはなかったというのに、命中していないのだ。しかも、外したわけでもない。ありえない話だが、弾が消えた、としか言いようのない結果だったのだ。
「バカな…!」
その後何度狙撃しても、結果は同じだった。その間に大河と咲夜は移動してしまい、クリシスの視界から消えたのである。
「なぜだ…?」
頭を悩ませるクリシス。そして狙撃を諦めた彼は、ダグラスの元へと急いだ。
その頃。違うビルの屋上に、二人の少年がいた。さきほど大河のお気に入りの喫茶店で話していた少年たちである。
「———どうやら終わったようだ。お疲れ、悠真。」
「ふん、他愛ない仕事だった。」
悠真と呼ばれた少年は、不愛想に応じるとその手に持っていたライフルを下ろす。
「しかし、毎度ながら悠真の狙撃には驚かされるな。まさか、飛んでいるライフルの弾丸を横から狙撃するとは。」
「こんなこと、誰にでもできる。」
「少なくとも俺は悠真しか知らないんだが。」
クリシスの放った弾丸は、消えたわけではなかった。悠真が横から撃ち落としていたのだ。ことごとく、すべて。一発の誤射もなく、悠真はクリシスが撃った数とぴったり同じ数の弾で終わらせたのだ。
「それより、俺たちはもうお役御免でいいのか?」
「ああ、あとは大河に連絡だけして終了だ。」
そう言って少年は、大河のスマホに着信を送った。
「もしもし、大河?」
『もしもし、和史さん?どうしたんですか?』
そう、今大河と通話している少年こそ、咲多和史その人だった。
「『凶弾』はこっちでとりあえず何とかしておいた。たぶんそっちに向かっているはずだから、注意しながら出てこい。こっちもすぐ行く。」
『了解です。』
和史は通話を終えた。無機質な音を立てるスマホをポケットに突っ込み、ライフルの手入れをしている悠真に目をやる。
「行くぞ。」
「おう。」
二人は階段を駆け下りると、二人乗りのバイクにまたがった。運転するのは和史である。
「飛ばすか?」
「そういうこった。つかまってろよ!」
悠真は和史の服の裾をつかむ。その感触を確かめ、和史はスピードを上げた。
「———大河…!」
「和史さん…」
和史・悠真ペアが到着するのと、大河・輝夜ペアがビルから出てきたのはほぼ同時だった。ちなみに輝夜は、咲夜と入れ替わった際にほとんどの力を使い果たしているため、大河に背負われている状態だった。
「その子は?」
「話しませんでしたっけ?パートナーです。」
「すまん、聞いてない。」
「そうですか。」
大河は簡単に輝夜について説明した。
「ま、なんにせよ無事に終わったようで何よりだ。あ、ケガしてるから無事ではないな。」
「ええ、まあ。それよりも大事なことが。」
「言いたいことは分かる。『エンタープライズ』の復活について、だな?」
「はい。はぐらかされましたが、まず間違いないと思います。ダグラスは、あれだけではくたばらないでしょうし。」
少しの間二人は議論を交わし、やがて一つの結論に至った。
「ベタな結論だが、とりあえずは要観察と言ったところだな。」
「それしか打つ手がないですからね。」
「よし、それじゃあ撤退だ。奴らが出てくるまでに撤収しよう。」
「はい。」
痛む体に鞭打ち、大河は輝夜を縛るとバイクに乗る。そのまま和史に曳行され、無事に自宅へと帰り着いた。
終章「暁の光」
夜明けまえ。大河は目を覚ました。かなりダメージを負ったために本当はゆっくり睡眠をとりたいのであるが。
「…、いてぇ…」
定期的にぶり返す痛みに、こうして起こされているのだ。しかも浅い眠りに入るところで目覚めたのか、嫌に目が冴えていた。これでは眠れない。大河はしぶしぶベッドから起き上がる。ちらりと外を見ると、かすかに太陽の光が差してきていた。
「うーん…」
未だ寝ぼけ眼で、大河は洗面所に。顔に水をかけると、眠気もいくらかましになった。ついでに寝癖も直すと、二階のベランダへと向かう。
「ふあ~」
欠伸を我慢することなく、大河は精一杯空気を吸い込んだ。やがてベランダに着く。意外なことに、そこには先客がいた。この家にいるのは、大河を除いてただ一人しかいない。
「輝夜。」
大河は輝夜の名を呼ぶ。
「あら、ずいぶん早いお目覚めね。」
「なら輝夜もだな。隣、いいか?」
「どうぞ。」
手すりに体重をかけ、大河は輝夜とともに夜明けまえの街並みを眺める。
「どうしてそんなに早く起きたの?」
「痛みが繰り返し襲ってくるんだよ。目覚めるたびに寝るのも面倒だし、いっそのこと起きればいいと思ったまでさ。輝夜は?」
「私はずっと寝ていたからね。その分起きるのも早かったのよ。」
「そっか…」
少しの間沈黙が流れる。朝の涼しい風に前髪をあそばせる輝夜は、絵になっていた。
「ねぇ、大河。」
「ん?」
不意に名を呼ばれ、大河の返事は思ったより腑抜けたものになった。
「ごめんね。」
「どうしたんだ、急に。」
「咲夜に代わってもらうとどうしても反動が来ちゃうから…、その、大河の迷惑になったことが申し訳なくて…」
「何を言っているんだ?」
「え?」
涙ぐんでいたのか、輝夜の目尻にはうっすらと光が見えた。声も少し震えているように聞こえる。
「迷惑とは思ってないぞ。むしろ感謝しているよ。」
「感謝?」
「おう。実際輝夜がいなかったらたぶん俺はここにはいないし。輝夜にも咲夜にもたくさん助けられたから、俺も力を使い果たした輝夜を助けただけだ。誓って、迷惑なんかじゃない。もっと言うなら、こんな俺にも、パートナーとして付いてきてくれているしな。」
「そう…よかった。」
再び生じた沈黙。しかし今度は心地よく思う輝夜だった。
「なぁ、輝夜。」
「なぁに?」
次は大河が沈黙を破る番だった。
「俺はまだまだ未熟者だし、普通の人間とは程遠い。…でも、そんな俺にでも、これからも付いてきてくれるか?」
「ぷっ」
「なんで笑うんだよ…」
「だって、大河がそんなこと聞くなんておかしいもの。」
その一言で、輝夜はなぜかツボに入ったようだ。しばらく声を押さえて笑っていたが、ふいにそれが止まった。
「大丈夫、私はずっと大河についていくわ。だから、これからもよろしくね?」
「ああ。こちらこそ。」
暁の光が、徐々に街を照らしていく。新しい朝が、今日もまた始まるのだ。
「ああ、そうだ。言い忘れていたわね。」
「何をだ?」
不思議そうな顔をする大河に、輝夜は今日一番の笑顔で。
「おはよう、大河。」
朝の挨拶を大河に送った。大河も居住まいをただすと、輝夜と向き合う。
「おはよう、輝夜。」
かなりぎこちない、大河の言葉。数秒後、輝夜の笑い声がベランダを満たした。
いつもと少し違う、朝の始まり。少年の、「幸せ」を探す旅はまだまだ続く。
このたびは「復讐屋—リヴェンジャー—」を読んでいただき、厚く感謝申し上げます。楽しんでいただけましたらこれ以上嬉しいことはございません。
さて、今巻を振り返って皆さんはどのような感想が浮かぶでしょうか。答えは読者である皆様の数だけ存在すると思いますが、主人公の大河くんに関してはどのように思われましたでしょうか。やはり主人公なだけはあって、私としては大河くんに注目していただけると嬉しいです。そんな大河くんですが、この巻では最初のキャラ付けということで、暑がりなところと、何より人間らしからぬシーンを特に描いたつもりです。それには当然理由も存在するわけですが、話の中でそれも描かせてもらいますので是非、皆様の目でも感じていただけたらなと思っています。
ここまで目を通してくださった皆様に、一つ質問です。唐突ですが、皆様にとっての幸せとは何でしょうか。いろいろな「幸せ」があると思います。もちろん巻によってサブテーマは違ってくると思いますが、作品全体を通してのテーマは、そんな「幸せ」にフォーカスしました。正確には、「幸せとは何か」です。皆様もこのシリーズを読みながら、皆様なりの幸せについて考えてみてください。実は意外に見落としているかもしれません。