6:仏前
一つ、深呼吸をした。
高本、という表札を掲げた家がある。
インターフォンを押し、チャイムを鳴らす。
しばらくして、扉が開いた。
「どうも、ご無沙汰しています」
記憶にあるより、老いた顔だった。
こちらの顔を見る、驚いた顔を見て、モリヒトは頭を下げた。
** ++ **
かつては、よく訪れた家だ。
幼いころ、それこそ、まだ妹である燈子にものごころが着く前から、この家とは付き合いがあった。
同時期に妊娠し、同じ地域であるためか、同じ産婦人科を受診していた。
その関係で、病院でよく会うことがあり、その縁で母同士の間で交流があったらしい。
そして、夫婦ともに人が良かった。
それこそ、いかに幼馴染とはいえ、他人の子供を嫌な顔一つせずに家に上げ、三食振舞って寝床を提供するくらいには。
両親が離婚して、父に引き取られたモリヒトは、それこそ、家族同然に扱われた。
さすがに遠慮を覚えた中学以降は、アパートで寝泊まりするようにしたものの、小学生の低学年のころなどは、一年の大半をこちらの家で過ごしていたくらいだ。
だから、間取りなども勝手知ったる、である。
「・・・・・・あ」
いや、見慣れないものは一つあった。
仏壇だ。
記憶にはなかったが、仏壇が一つ、リビングに置かれている。
なぜ置かれたのか、などとは、聞く必要はないだろう。
「しかし、守仁君が、まさかなあ・・・・・・」
許可を得て、手を合わせる。
そうしていたモリヒトに、高本のおじさんは声をかけてきた。
手を放し、目を開け、おじさんへと目を向ける。
「・・・・・・すいませんでした。いろいろ、迷惑をおかけしたみたいで・・・・・・」
頭を下げる。
モリヒトにとって、目の前にいる人物は、育ての親とも呼べる相手だ。
それこそ、交わした会話は実父とのそれより多い。
「迷惑なんてことはないさ。私にとっては、もう一人の子供のようなものなんだから」
面映ゆい。
そういう思いで、モリヒトが苦笑を浮かべると、
「はいはい。こちらにおいで。お茶を淹れたから」
幾分か、テンションの高い声で、おばさんが二人を呼ぶ。
「ありがとうございます」
リビングの椅子に座り、お茶をすする。
向かいに高本夫妻が座り、しばらくお茶を飲む静かな時間となった。
「それで・・・・・・」
そのあと、おじさんの方が、窺うようにモリヒトへと口を開いた。
「今日、ここに来た、ということは・・・・・・」
「・・・・・・仁美のこと、思い出しました」
「・・・・・・そうか」
モリヒトの返答を聞いて、おじさんは何とも言えない笑みを浮かべ、だが悲しそうな声色を出した。
「思い出してくれたのか」
「すいません。忘れていたなんて・・・・・・」
「いいや。謝ることではないよ。・・・・・・君にとっては、それほどにショックなことだったんだろう」
先輩がモリヒトの記憶の欠落に気づき、母がモリヒトを医者に検査させた結果は、夫妻にも共有されていたらしい。
原因としては、それだけショックなことがあったのだろう、と、そういうことだった。
「なんていうか、自分がどれだけバカヤロウだったのか、と」
溜息を吐き、肩を落とすモリヒトを、夫妻は労わるように声をかける。
「大丈夫。こうして思い出してくれた。それだけでも十分さ」
「・・・・・・はい」
頷き、モリヒトは茶に口をつける。
口の中を湿らせてから、もう一度口を開いた。
「・・・・・・聞いていいですか?」
「何だい?」
「どうして、火事の後の見舞いで、仁美のことを俺へ聞かなかったんですか?」
火事の後に入院した時も、モリヒトのところへ見舞いに来て、だが仁美のことは一言も話すことはなかった。
あの時、仁美のことを聞かれていたら、モリヒトの記憶の欠落について、もっと早く分かっていたかもしれない。
「・・・・・・一つは、我々も心の整理がついていなかったこと」
モリヒトの問いを聞いて、夫妻は少し考え、それから答えた。
「我々だって人間だ。大事な一人娘を失って、動揺もしていた。そんな状態で、守仁君に仁美のことを聞いていたら、仁美のことについて、君を無用に責めていたかもしれない」
「そんな・・・・・・」
それこそ、やってよかっただろう。
そうするだけの権利はあるはずだ。
だが、おじさんは首を振った。
「よくない。怪我をして、ふさぎ込んでいた君の顔を見て、それをやる、というのは、あまりにも、と思ったんだ」
「冷静に聞く自信もなかったから、お互いにもっと落ち着いてから、と、二人で話し合ったの」
できた人達だ、とモリヒトは思った。
一人娘を失ってショックだっただろうに、それでもモリヒトを気遣う選択ができるなど。
「もう一つは、警察から口止めをされていたことだね」
「え?」
それは、意外な言葉だった。
「どういうことですか?」
「そのままだ。そもそも、仁美はウチの子だ。なのに、どうして君のアパートに行って焼け死ぬのか。・・・・・・君と仲がいいとしても、当時君はあのアパートにはいなかっただろう?」
「はい」
事件当日、モリヒトは奨学金を使って高校に通うため、その制度についてのもろもろの手続きなどのために、高校を訪れていた。
アパートには不在だったのだ。
だとしたら、モリヒトのいないアパートに友人が訪れるのはおかしい。
くわえて、
「当日、あのアパートから若い女性と男性が口論している声がする、と情報があったみたいでね」
事件当日の状況を考えると、有力なのは仁美とモリヒトの父であったそうだ。
「あの二人が・・・・・・」
「そう。それで、あの火災は放火だったんじゃないか。何か、事件があったんじゃないか、と」
「別に守仁君に仁美のことを聞いちゃいけない、と言われたわけじゃなかったんだけど、勢いのままに何を口走るかわからなかったから、それを言い訳にして、何も話さないことにしたの」
おばさんからそう言われて、なるほど、とモリヒトは頷く。
どちらにせよ、モリヒトは何もわからなかっただろうが。
「最後に、君の状態だ」
「・・・・・・」
おじさんは、モリヒトを一瞬厳しい目で見て、それから視線を和らげた。
「あの時、病院のベッドにいる君は、私たちを誰か分かっていなかった」
「そう、でしたか」
「ああ、あの時、見舞いに行った君からは、どこか他人行儀な雰囲気を感じていた。今までにないことだし、そもそも君には仁美が火事で死んだことを伝えられている、というのに、君からは一言もそれについての言及がなかった」
この時点でおかしいと思ったらしい。
どこか、噛み合わない雰囲気を感じて、高本夫妻は、モリヒトに仁美について聞くのをやめたらしい。
気勢をそがれた、とおじさんは苦笑する。
「正直ね、君にはいろいろ聞くべきだ、と最初はそう思っていたんだよ。だけれど、君を見たら、なんというか、そんな気が失せてしまった」
そういうことを聞いてはいけない、とそういうふうに思ったのだという。
「あの時点で、もしかしたら、という予感はあった」
それから半年ほどして、モリヒトの母から検査結果が伝えられ、大いに納得したという。
「だから、思い出してくれたことは、とてもうれしい」
そう言って、おじさんは笑った。
** ++ **
しばらく、思い出話に花を咲かせた。
仁美のことについて、モリヒトと夫妻がともに知っていることを話していく。
積み重ねるようであり、すり合わせるようであり。
ともあれ、話し合う、というのは、それなりに長い時間がかかった。
そうしている間に、
「お邪魔します」
モリヒトの母が来た。
「いらっしゃい。明恵ちゃん」
「仕事で遅くなって、ごめんなさい」
確かに、見れば、外は既に暗く、
「・・・・・・おじさん」
「うん?」
「今日、平日だったと思うんですけど、仕事どうしたんですか?」
「ああ、そんなことか。それなら、最近はリモートワーク、というのが流行っていてね」
へー、とモリヒトが感心したところで、
「嘘よ? その人、明恵ちゃんから守仁君が帰ってくるって聞いて、今週有給取ってるの。『守仁君がくるかもしれない』って、そう言って」
「当たったじゃないか。こういうカンはよく当たるんだぞ? 私は」
「いいんですけどね。別に」
夫婦のそんな会話を聞いて、モリヒトが苦笑する。
こういう家だったな、と。
「・・・・・・それで、守仁。仁美ちゃんのこと、思い出したって?」
「うん。なんかさらっと」
「さらっと、ねえ」
「まあ、それはいいんだ。思い出したことで、悪いことなんて何もないし、むしろ、思い出せてよかったし」
忘れたままでいるのは、それこそよくないことだろう。
「そうか」
うんうん、とおじさんが笑っているのを見て、苦笑する。
「でも、守仁。どうして私を呼んだの?」
モリヒトの隣に座り、明恵がモリヒトへと聞いた。
「思い出したこと。もう一つあって」
姿勢を正したモリヒトを見て、
「うん? 何だい?」
「あの日、仁美は俺を待ってたんです。書類やら手続きやらの話は、昼前に終わるはずだったし」
「・・・・・・そうね」
その場には、守仁だけではなく、母もいた。
親として同席するのは当然だが、結果として、
「あなた、仁美ちゃんが待ってるからって、私がお昼誘ったの無視して帰ったしね」
「・・・・・・まあね」
「一緒でもよかったのに」
「いやいや」
デートじみたことを、親同伴でやるのは、さすがに気恥ずかしい。
その程度には、互いのことを意識していたのだ。あの頃は。
「俺の方が、仁美を家まで迎えに行くつもりだったんですけど、仁美の方から迎えに来てたみたいで」
持っていた携帯に、そう連絡が来て、だから家まで迎えに行った。
「・・・・・・で、帰ってみたら、家が燃えてたわけですが」
「・・・・・・」
なんとも言えない空気になった。
「俺は家に入った。鍵を開けようとしたら、もう開いていて、父さんがいるのか、と」
** ++ **
ドアに入れば、玄関には父の靴と、仁美の靴があった。
二人ともいるのか、中に入っていくと、妙に暑いと思った。
熱気は、火のせいだった。
父が寝室としているところが、すでに燃えていて、父は火に包まれていた。
「警察が調べたところによると、寝たばこって話だったね」
「らしいわね。酒に酔って、たばこに火をつけたまま眠って、それが床か何かに引火した、とかなんとか」
明恵が引きついだ言葉に、モリヒトは頷いた。
「実際のところ、多分間違ってはないでしょう。俺は、もう父は手遅れだと思いました。何せ、火に包まれているのに、ぴくりともしてなかった」
それで、モリヒトは仁美を呼んだ。
「父の寝ているところは、玄関から入ってすぐの部屋なんで、もう燃えてるんですよね。奥の部屋へ続くふすまにも火が回ってたし、それで、とりあえず大声出して、そしたら、携帯に連絡が入って」
「・・・・・・仁美の携帯から、君の携帯に、だよね。聞いたよ。『私は外にいる。早く出てこい』」
その通りのメッセージが届き、モリヒトは安心して外に飛び出した。
だが、集まり始めている野次馬に、仁美の姿はなく、
「・・・・・・俺は、取って返して部屋に飛び込みました」
もう、火は回り始めていて、天井まで燃えかけていた。
そこに飛び込み、燃えている父を無視して、奥の部屋を開けた。
「・・・・・・仁美がいました」
「そうか・・・・・・」
「守仁君は、仁美を助けようとしてくれたのね?」
夫妻がモリヒトを気遣うように声をかけてくるが、モリヒトは首を振った。
「違うんです。・・・・・・中に入った時、まだ仁美は燃えてなくて、助けられると思った」
「仁美は、無事だったのか・・・・・・?」
「仁美は・・・・・・」
言いよどむ。
だが、思い出したことを、言わないといけない。
「仁美は、頭から血を流してました。服まで血が垂れてて、意識もなかった」
「な?!」
「え? どういうこと!?」
「・・・・・・多分、父が仁美を殴ったんです。酔ってたんでしょう。それで、仁美は奥の部屋に逃げ込んで、父は転んだか何かで倒れて気を失い、たばこの火が引火した」
そういうことが起こるかもしれないとは、思っていた。
モリヒトが中学になってからの父は、時折暴力的になっていた。
そこに巻き込まれてはいけないから、仁美には家に来ないように言っていたのだ。
「言い争いしてたっていうなら、何かで父がキレたんでしょう。・・・・・・とにかく、俺は仁美を連れて逃げようとしたんです。・・・・・・でも、すぐに火が回って、天井から火が落ちてきて、仁美に引火して・・・・・・」
それでも、助け出そうとした。
その直前に、消防隊員が突入してきて、モリヒトを連れ出した。
「・・・・・・仁美は、全身やけどで病院に運び込まれて、ほどなく死んだんだ」
消防隊員は、助け出し、救急車に乗せた。
だが、間に合わなかった。
おじさんが、モリヒトの肩を優しく叩く。
「俺が、先に奥の部屋を確認してれば・・・・・・」
うつむいた視界がにじむ。
「そうしたら、多分君も逃げ遅れていたよ。だから仁美は、君に嘘でも連絡を入れたんだろう・・・・・・」
おじさんの声は、優しかった。
肩を、背を、頭を優しく手が撫でる。
それは温かい感触で、ただ、雫が落ちる腿だけが、冷たかった。
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