第1話:召還
「神室君!」
呼ばれ、振り向く。
大学のサークル仲間の女性が、数人、そこにいた。
「今から帰り? 良かったら、これから遊びに行かない?」
聞かれて、笑顔を作り、
「ごめん。今日はこれからバイトだから」
と断る。
「そっか。・・・・・・じゃあ、仕方ないね」
「ああ、また今度誘ってくれ」
笑顔を返し、背を向けて少し歩いたところで、頭に衝撃が走った。
「!? い!!」
何だ、と頭を抱えると、脇にてんてん、とテニスボールが落ちた。
「だ、大丈夫?!」
さっき別れを告げた女性たちが近寄ってきた。
「だ、大丈夫。・・・・・・慣れてるから」
後半を自嘲気味に呟くと、女性たちも苦笑した。
「まあ、確かにいつも何かしら不幸に遭ってるよね。神室君は」
「・・・・・・うう。痛た・・・・・・」
頭をさすりながら、ボールを拾い上げる。
「すいませーん!! 大丈夫ですかー?!」
向こう側のテニスコートから、声が上がる。
「・・・・・・」
無言でテニスボールを投げ返した。
「ありがとうございまーす!!」
ふう、とため息を吐き、
「・・・・・・今度こそさようなら」
女性たちに手を振って、歩き出す。
「うん。気を付けてね?」
「ああ」
頷いて、歩き出す。
顔には苦笑を張り付けているが、しばらく歩いて知りあいの顔が見えなくなったところで、いつも通りの無表情に顔が戻るのを感じた。
「・・・・・・」
神室守仁は、大学生だ。
痩身の長身。顔立ちは悪くないが、目つきが鋭いために、人によって好き嫌いは分かれるかもしれない。
現在は一人暮らしで、大学から電車で二駅ほどのところに部屋を借りている。
バイト先も部屋の近辺だ。
だから、大学から帰る時は一度駅に行く必要がある。
定期で改札を通り抜け、ホームに立つ。
鞄から文庫本を取り出すと、挟んでおいた栞を抜いて最後のページに挟み、
「・・・・・・」
ページをめくる。
こうして電車が来るのを待つのが、いつものモリヒトの日常だった。
** ++ **
一軒のケーキ屋がある。
味がいいと評判のケーキ屋だ。
ついでに、値段が安くて財布に優しい。
その分、ケーキのサイズ自体は控えめなのだが、むしろ女性には好評だ。
そこから一人の少女が出てきた。
近隣の私立高校の制服を着た少女だ。
その少女は、嬉しそうな笑みを浮かべ、左手にケーキの入った紙箱を下げている。
買い食いだ。
だが、バイト禁止な学校の、しかもあまり小遣いが多くない少女の数少ない贅沢の一つである。
買ったケーキは二つ。
自分の分と、妹の分。
家に帰れば、大体妹が帰宅している時間だ。
「・・・・・・」
嬉しそうな笑みに鼻歌を追加して、少女は駅への道を急ぐ。
その左腕で、翠色の数珠が光を返した。
八道雪緒は、高校生だ。
高校二年生で、十六歳。
誕生日までは、あと半年ほど。
長い黒髪にすっと通った目鼻立ち。真正面から相対すれば、ふと見惚れてしまうような美貌を持った少女である。相当特殊な嗜好の持ち主でない限り、おそらく彼女の外見に対して悪印象を持つ者はいないだろう。
人望も厚く、よく言えば万能、悪く言えば器用貧乏な人間である。
もっとも、貧乏という言い方は似つかわしくない程に恵まれた才能を持っている。
そんな彼女でも、五月病にかかることはあるらしい。
その解消に、甘いものが欲しくなった。
生徒会長に部活と、さまざまに忙しい合間を縫って、わざわざ家から三駅も離れた街まで買いに来たのだ。
目的のものを手に入れ、上機嫌にもなろうというものである。
駅に入って切符を買い、ホームに入る。
すでに電車は見えていて、電車が入ってくる旨のアナウンスも流れている。
これを逃すと、次の電車に十数分待たなくてはいけない。
大した時間ではないが、それでも妹を溺愛する雪緒としては、妹の帰宅をきちんと待っていたい。
少々焦ってホームを走り、文庫本を鞄へ仕舞う青年の隣に並ぼうと近寄って、
「えっ?」
背中を押されたような感覚とともに、前へとつんのめった。
線を踏み越え、さらに体が前へと倒れていく。
このままだとホームに入ってくる電車の前に、身を投げ出すことになる。
「・・・・・・や・・・・・・っ!」
どうにもできないと焦ったところで、後ろに流れていた右手を掴まれた。
** ++ **
電車が来たのを悟って、文庫本の栞を戻し鞄に仕舞ったところで、後ろからわき腹に何かが当たった。
軽い衝撃でよろけるほどではないが、驚きはする。
見れば、一人の少女がホームに落ちようとしている。
躓きでもしたのか、焦ったような顔が見えた。
電車が入ってこようとしている。
このままだと、線路に落ちて轢死体、というか無残な人だったものが残るだけだ。
電車の人身事故は、体がばらばらになってとても悲惨だと聞いたことがある。
ついでに言うと、電車の運行が停まるから、自分にも被害が来る。
「・・・・・・ふむ」
ふと手を伸ばして、後ろに流れていた相手の右手をとっさに掴んでいた。
掴んでしまった以上、やることは決まった。
「ぬ」
引き戻そうと力を込めた。
だが、
「・・・・・・お」
重い。
どれだけの勢いを持っているのか、少女は線路へと引き寄せられていく。
まるで、手すりを掴んで自分の体を引き寄せるようなことが起こった。
少女の手を掴んで引き戻すこともできないまま、逆に自分の方が引き寄せられる。
「・・・・・・」
このままでは、自分も少女も、電車の前に飛び出すことになってしまう。
そう思ったモリヒトは、
「ふむ」
少女を掴む腕を無理やりに曲げ、自分の体を少女に対して引き寄せる。
並んだところで、その腕の中に少女を抱きかかえると、
「よ」
ホームの淵を思い切り蹴り飛ばした。
電車の幅は、目算で三メートル以下。
飛び越えられない距離でもないし、電車が入ってきているとはいっても、入ってきていない隣のレールまで跳ぶだけなら、なんとか間に合うはずだ。
着地さえ間違えなければ。
蹴りだすというよりも、走る気持ちでホームを蹴ったところで、
「・・・・・・あ?」
景色が、全て切り替わった。
** ++ **
来るだろう衝撃に目を閉じたユキオは、何かに抱きかかえられるような感覚とともに、何かを突き破った感触を得た。
「・・・・・・」
恐る恐る目を開けて、
「え・・・・・・?」
驚く。
「・・・・・・何、これ?」
「・・・・・・」
周囲が緑の森になっていた。
濃厚な草の匂いと、水の気配。
鳥か何かの鳴き声も聞こえる。
まかり間違っても、コンクリートで固められた駅のホームなどではない。
「・・・・・・あの世?」
「自分が死ぬのは勝手だが、人まで巻き込んで殺すな」
そんな声が聞こえて、誰かが自分から離れた。
振り向けば、一人の青年がいる。
その人が、ホームで隣に立っていた青年であると悟り、なおかつ、自分の腕をつかんだ人だということも同時に悟る。
「あの、助けてくれて、ありがとうございます」
はっきりと言って腰を折る。
「・・・・・・」
お礼を言ったが、その人はどこか微妙な顔でユキオを見た。
「これは、助けた、のか?」
「あー・・・・・・」
状況が分からないが、ユキオにも答え難い質問だ。
「でも、助けようとしてくれたし・・・・・・」
そう言うと、
「手が届いたから掴んだだけだ。結局、ホームから落ちるのは止められなかった」
青年は、周囲を見回しながら、そう言った。
「・・・・・・しかし、ここはどこだ?」
「どこ、でしょうね?」
ユキオも、首を傾げるしかない。
「ホームから飛び降りたから、こんなところまで跳んできたとか?」
青年はそう言って、
「・・・・・・あり得んな。あほか」
自分でツッコミを入れて苦笑していた。
ユキオも周囲を見回し、
「・・・・・・日本、でしょうか? ここ」
「日本じゃなかったら異世界だ」
冗談混じりに言って、少し離れていた青年は戻ってきた。
「さて、とりあえず、どっちかに進むべきだろうが・・・・・・」
ふむ、と考え、
「君は、どっちだと思う?」
聞かれて、ユキオはなんとなくある方向を指差した。
「あっち、かな?」
「分かった。それで行こう」
あっさりと頷きが返ってきたことに、逆にユキオは慌てる。
「そんなにあっさりと決めていいんですか?!」
「どの方向に行ったらいいのか分からないんだ。適当に進むしかないだろう?」
そう言われるとそうだが、
「・・・・・・あ」
何かを言う前に、青年はさっさと歩きだしてしまった。
一人になるのも嫌なので、その後を追いかける。
しばらく無言で進んで、
「・・・・・・あの、こんな状況ですけど・・・・・・」
声をかけた。
「? 何だ?」
前を歩く青年は、振り向いた。
「私は、八道雪緒と言います。ユキオ、と呼んでください」
自分の胸に手を当てて、自己紹介をしておく。
ちょっとらしくないな、と自分で思う。
普段の自分なら、もう少し胸を張って言えるのに、どこか萎縮してしまう。
それを聞いて、青年は少し眉を上げて考えたが、
「・・・・・・俺は神室守仁だ。モリヒトでいい」
ふ、と笑って、青年、モリヒトは答えた。
「モリヒト、さんは大学生ですか?」
年上っぽいから、一応敬語で尋ねる。
「そうだよ」
「私は高校生です」
「見れば分かる」
微笑を含んだ声に、ユキオを笑いを漏らす。
確かに、自分は今制服姿だ。
「だけど、その制服は三駅ほど向こう側だろう? 何でこっちに? 家がこっちとか?」
「え、いえ。ただ、ケーキを買いに・・・・・・」
正直に答えて、はっとする。
「・・・・・・」
何とも微妙な顔で、モリヒトはユキオを見ていた。
「い、いいじゃないですか!? 受験生はストレスが貯まるんです!!」
「いや、悪いとは言わないが、買い食いはだめだろう?」
からかうような声に、むう、と頬を膨らませる。
「いいんです! 甘いものは勉強に必要なんですから」
「そうかい」
くすくす、という笑い声が聞こえて、ユキオは憮然とする。
と、左手に持ったままの紙箱の中身が気になった。
そっと開けてみて、
「ほ」
と胸を撫で下ろす。
無事だった。
だが、
「・・・・・・うー・・・・・・」
周囲は高温多湿な環境だ。
ドライアイスが入ってはいるが、いつまでもつか確証が持てない。
そして、いつ帰れるかも確証が持てない。
「・・・・・・・・・・・・」
しばらく考えて、
「あの・・・・・・」
「ん?」
「食べますか?」
この場で食べてしまうことにした。