第1話:悪夢、モリヒト、夢魔
神室守仁。
家族を失くし、今は一人暮らし。
両親は中学生の時に離婚し、父親に引き取られた。
だが、高校、そして大学の学費は、母親が出している。
その理由は、父親が行方不明になったことだ。
結局、現在まで見つかっていない。
どこに行ったかも、なぜいなくなったかも、モリヒトは知らない。
だが、気にすることもなかった。
帰ってきたところで、守仁にはいいことなど何もないからだ。
明晰夢。
夢だと自覚できる夢。
それを、守仁は見る。
昔から、何度も見てきた夢だ。
暗闇がある。
知っている。
自分の家だ。
正確には、中学卒業まで住んでいた、自分と父親の家。
ボロアパートだった。
家賃は安く、風呂はない。
男二人の生活でも、部屋は綺麗だ。
守仁が毎日掃除しているのだから、当然だ。
そして、汚す者もいる。
父親だ。
今日はいない。
これからもいない。
いつまでも、いない。
「・・・・・・」
無言で、守仁はゴミをかたずけて行く。
この時、守仁は自分がどんな表情をしていたのかを知らない。
だが、夢の中でなら、その表情を知れる。
「・・・・・・」
あくまでも、当時の心境を想像しての補完ではあるのだろうが、ひどい顔をしている、とそう思う。
いっそ白いとまで取れるほどに、血の気の引いた顔だ。
唇は引き結ばれ、眉はしかめられている。
その顔はひどい。
「・・・・・・うるさい」
何も聞こえないのに、夢の中の守仁は呟く。
「うるさい・・・・・・」
ゴミを片付ける音。
水滴、風。車。
普段は気にもしていなかった雑音が、どこまでも耳に障った。
だから、全てをやめたくなった。
「・・・・・・」
そして、全てをやめて、片づけを簡単に済ませたのだ。
暗闇は明るくなる。
炎の色だ。
夢は、違うな。
そう思う。
実際は、ちゃんと片付けて、火事など起こらなかった。
それでも、全てを燃やしてしまいたかったのだ。
あの時は。
部屋の中央。
――・・・・・・――がある。
** ++ **
悲鳴が響いた。
まさしく絶叫だった。
夜の王城に響き渡るその声を耳に、モリヒトは窓を睨みつけた。
「なんだお前・・・・・・?」
窓際に気配がある。
寝台の上で上半身を起こしたモリヒトは、窓際をにらみつけていた。
深夜、カーテンの開いていない部屋だ。
部屋の中は真っ暗で、部屋の壁どころか、自分の手でさえ、はっきりとは見えないほどだ。
現代の日本に慣れた目では、何も見えないに等しい。
だが、窓際のそれは見えた。
うっすらと人型をしている。
** ++ **
ユキオは走る。
目指すのは、アヤカの部屋だ。
夜中に突然響き渡った悲鳴を、ユキオが聞き間違えるはずはない。
アヤカの部屋の前に到達した時、そこには守衛の兵士が一人いるだけだった。
「アヤカは?!」
「陛下! それが、鍵がかかっていて・・・・・・」
当然のことだが。
「中から返事は?!」
「ありません」
ならば、と思ったところで、アトリとナツアキが来た。
モリヒトはいない。
「アトリ。ぶち破って!」
「無茶言わないで! ここの扉は厚いのよ!?」
「・・・・・・タマ!!」
呼ぶ。
同じベッドに寝ていた。
ウェキアスならば、呼べば来る。
「うい・・・・・・」
現れた。
眠たげな顔だが、ユキオに向かって手を伸ばす。
タマの小さな手を握ると、その姿が左手首にはめた数珠に変わる。
「どいて!!」
皆が下がったのを見て、思い切りぶん殴った。
光を纏う拳が、爆音を響かせて扉を殴った。
扉がひしゃげて吹き飛ぶ。
「・・・・・・アヤカ!!」
ユキオは中へ飛び込んだ。
「ナツアキはは医者を呼びに行って!!」
「分かった!」
背後のアトリとナツアキのやり取りは無視して、ベッドに駆けよる。
「アヤカ?!」
揺らすと、うっすらと目を開けた。
ひどい汗をかいている。
それだけでなく、寝巻の胸元は引きちぎったようにはだけ、アヤカの両手に布が纏わりついている。
胸元には、血の滲む引っかき傷。
自分で引きちぎったのだ。
「・・・・・・姉さま・・・・・・」
「どうしたの?! 何を見たの?!」
過去にも何度か、こういうことはあった。
原因は、夢。
誰かの悪夢を見た時だ。
アヤカには、人の心を読む能力があるという。
本人の申請だが、ユキオは信じている。
アヤカ曰く、起きている時は対面している相手ぐらいしか読めないが、夜に目を閉じているとある程度離れた相手のものも読めるらしい。
だからか、アヤカは時折、人の夢を覗く。
それも無意識に、だ。
そしてその時、覗いた相手が悪夢を見ていると、それに怯えて悲鳴を上げるのだ。
「・・・・・・モリヒト・・・・・・」
「モリヒト? モリヒトが何か・・・・・・」
「助けてあげて・・・・・・。モリヒトが・・・・・・」
うわごとのように呟き、気を失った。
「・・・・・・アヤカ・・・・・・」
「ユキオ? アヤカちゃんは・・・・・・」
アトリが部屋に入ってきた。
「アトリ! モリヒトは来てる?!」
そのアトリへと声をかければ、アトリは見回して、
「来ていないわ」
「アトリ。モリヒトの様子を見てきて! アヤカがモリヒトを助けろって・・・・・・」
「・・・・・・分かった」
しばらくアヤカの顔を見て、アトリが駆けだして行った。
「・・・・・・アヤカ」
自分の寝巻で、アヤカの汗を拭き、胸元を直してやる。
「・・・・・・モリヒト・・・・・・一体・・・・・・」
どうしたというんだろう。
** ++ **
くすくすと笑う声がする。
女の声だ。
モリヒトはそこでふと気づいた。
これがまだ、夢の続きだということだ。
だから、窓際のそれに対して、モリヒトは名前のイメージが湧いた。
夢魔だ。
もっとも、正式な名前は違うかもしれない。
ただ、モリヒトのイメージする夢魔が、まさしくそれだった。
魔術に近いかもしれない。
モリヒトが覚醒する意識とともに、夢魔に対してのイメージを固めていくと、窓際の人影が少しずつ形を明確にしていく。
妖艶な美女。
背に生えた蝙蝠の翼。
軽い茶色の長髪に、褐色の瞳。
どこにでもいそうな顔立ちなのに、その姿はどこまでも美しく妖艶。
体のラインを見せ付けるような露出の高い格好は、その豊満なスタイルを余すところなく見せ付けてくる。
そして、その口元から覗く舌は、鮮血のごとき真紅だ。
ただその一点の真紅が、ただひたすらにその夢魔を妖艶たらしめている。
本来なら、見た者全てにどこまでも劣情を与えるその姿。
だが、モリヒトが抱くのは、ただひたすらな、罪悪感だ。
その正体を、モリヒトはこう感じた。
毒。
死を望む罪人に与えられる、自害用の甘美な猛毒だ。
「・・・・・・ああ」
ちろりと舌先で唇を舐め、窓枠から夢魔は床へと降り立った。
「・・・・・・」
その顔に浮かぶ微笑。
それが何を意味するのか、
〈そう、『きみ』は知っている・・・・・・〉
夢魔の声が、直接脳髄を揺らす。
甘くしびれるような感覚を、モリヒトはあえて受け止めた。
その声に、聞き覚えはある。
イメージのもととなった人物も、モリヒトはちゃんと知っている。
そのはずなのに、思い出せない。
「・・・・・・お前は誰だ?」
〈忘れてしまう・・・・・・。それが、『きみ』の望むこと?〉
首を傾げ、夢魔は静かにモリヒトの顔へと指を伸ばす。
〈あの時、あなたが望んだこと・・・・・・。そう、すべてを・・・・・・〉
「なかったことに・・・・・・」
〈できないよ〉
くすくす、と幼い子供のように、その夢魔は笑う。
「・・・・・・できない・・・・・・?」
指がモリヒトの胸を押し、鋭い痛みを与える。
〈できるはずもない・・・・・・。だって〉
夢魔の唇が、モリヒトの耳に触れた。
〈『わたし』を、『きみ』は思い出せないよね・・・・・・?〉
「モリヒト!!」
扉が蹴破られ、夢魔の姿が霧散する。
アトリだ。
アトリが、部屋の入り口に立っている。
「・・・・・・モリヒト? 大丈夫?!」
部屋の中に入ってきたアトリは、ベッドの上のこちらを見て、ほっと息をつく。
「よかった。無事なのね?」
「・・・・・・何だ? 敵でも攻めてきたか?」
そんなことはないだろう、と思いつつ嘯く。
「いえ、そういうわけじゃなくて、ただアヤカが・・・・・・」
「アヤカ?」
返事をしながら、ベッドから降りる。
「・・・・・・で、アヤカがどうしたんだ? 悪い夢でも見たのか?」
「そうよ」
アトリの肯定の声に、モリヒトは振り返る。
「おいおい・・・・・・。いくらなんでも、アヤカが悪い夢を見た程度で悲鳴を上げるなんて、信じられないんだが」
「そうだけど、でもあの子はちょっと特殊だから」
アトリは顔をしかめている。
「・・・・・・前にユキオが言ってた、心が読めるってのと関係してるのか?」
「・・・・・・そうよ」
上着を適当に引っ張り出して羽織る。
「あの子は、人の夢を覗いちゃうことがあるらしいのよ。本人も意識してのことじゃないけど」
「・・・・・・それで、人の悪夢で悲鳴を上げたってのか?」
言葉を返しながらも、どこかモリヒトの意識は遠くを向いていた。
「私もよくは知らないわ。ただ、人の悪夢は、その人の感情がダイレクトに流れ込んでくるから、普通に悪夢を見るよりもきついそうよ」
「・・・・・・ふーん」
モリヒトの返事は、気の抜けた生返事だ。
「・・・・・・夢、か・・・・・・」
先ほどまで見ていたはずの夢の細部は薄れ始めている。
ただ、どこか胸を押さえるような焦燥を感じていた。
どうにもじっとしていられず、開いた扉から漏れる廊下の薄暗い灯りに誘われるように、部屋の外へ出る。
「・・・・・・ルイホウ」
部屋を出たところで、そこにいたルイホウを見つけた。
「大丈夫ですか? はい」
「何でこっちに?」
「私は、モリヒト様が担当ですから。はい」
微笑み、ルイホウはモリヒトに近づく。
「アヤカ様は、お休みになっておられます。はい」
「アヤカは落ち着いたの?」
「大丈夫です。今は、ユキオ様のお部屋で、一緒にお休みになっておられます。はい」
「そう」
アトリは、ほ、と安堵の息を吐き、それからあくびを漏らした。
「・・・・・・それなら、私はもう少し寝るわ。眠れるか分からないけど・・・・・・」
あくびは出ても、眠気は薄いのだろう。
息を切らせるほどに急いでいたのだから、精神的に落ち着かないのも当然と思う。
そんな姿を見て、モリヒトはちょっと考えると、
「それなら、俺は少し遊びに出ますかね」
「・・・・・・遊び?」
アトリが眉をひそめた。
「こんなときに?」
「・・・・・・夢見が悪いんでな。寝なおす気分じゃない」
肩をすくめて軽い調子で言うが、アトリの表情は険しい。
「・・・・・・」
「それに、俺が原因だって言うなら、今日はもう寝ない方がいいだろ? アヤカのためにも」
眉をひそめながらも、アトリは納得の気配を見せた。
「・・・・・・それが、アヤカのためになるかはわからないけど?」
「朝には戻るさ。それでアヤカの顔を見れば、俺も安心できる」
「・・・・・・そう」
「ああ、じゃあな」
後ろに手をひらひらと振って、モリヒトは歩き出す。
その後ろを、静かにルイホウが追従した。
「ルイホウ? 何でついてくるんだ?」
「私は、モリヒト様が担当ですから。はい」
微笑み頷くルイホウの顔を見て、一つため息をつく。
「・・・・・・しょうがないな」
「はい」
頷くルイホウを連れて歩く。
「・・・・・・城の中にいるのもなんだし、街に出るか」
しばらく考え、ルイホウを見る。
「・・・・・・着替えろよ? 目立つから」
「・・・・・・そうですね。はい」
** ++ **
アヤカが目を覚ましたのは、すでに夜が明けた後だった。
隣に姉の安らいだ表情を見て、頬を緩める。
しばらくの間それを見て和んだ後、アヤカは上半身を起こした。
昨日着たものと寝巻が変わっているのは、姉に着替えさせられたためだろう。
「・・・・・・姉さま、ごめんなさい」
それと、ありがとう。
「・・・・・・モリヒト」
確かめる必要がある。
「・・・・・・アヤカ?」
「姉さま。おはようございます」
「うん、おはよう」
部屋は、姉の寝室。
「起きようか。朝ごはんに・・・・・・」
「姉さま。・・・・・・わたしは」
「ん?」
ユキオのきょとんとした顔に、小さく首を横に振って、アヤカは口を開く。
「モリヒトは、どうしましたか?」
「ん~。アトリに任せて、私は、寝ちゃったから。でも、報告はないし、多分大丈夫なはずだけど・・・・・・。呼ぶ?」
「はい」
「ん。・・・・・・じゃあ、着替えないとね。寝癖もすごいし・・・・・・」
くすくすと笑いながら、ユキオはアヤカの頭を撫でた。
「・・・・・・はい」
アヤカは頷いた。
モリヒトが昨晩出かけてから、まだ戻ってきておらず、その不幸体質を存分に発揮しまくっていることを、まだ二人は知らない。