学術会議は民主主義のカナリアになり得るのか?
学術会議物が続きます。
タイトルを見てなんのこっちゃの思う世代も居るでしょうから、説明すると、鉱山では地中から有毒ガスが吹き出す時がありまして、毒ガス検知に有用な鳥であるカナリアを使って、危険を察知していましたよという逸話を元にした物です。
つまり危機察知=カナリアという意味になります。
私もどこで知った知識か覚えていないのですが、多分義務教育辺りでしょう。
カナリアを危機察知の代名詞とするのを知らない世代って居るんでしょうか。
さて、本題です。
冷戦期を過ぎた辺りまで、民主主義と科学は親和性が高いと言われていました。
親和性の高いその理由とは、両者が共に進歩の方向へと変革していくからです。
今では中々聞かなくなりましたが、進歩主義という奴です。
他の政治体制とは違い、民主主義はより良い方向へと変わっていく事が出来る。
民主主義の進歩の根拠に、同じく真理への片道通行である科学を利用するんだ。
全体主義と民主主義の対立の続く冷戦期を過ぎた辺りまで、科学は民主主義と特別な関係にあるという思想があった訳です。
故に、学問の侵害は民主主義の危機へと直結するというのです。
まぁ細かく言えば、民主主義と科学の関係とは、科学を民主主義その物の担保とする事ではなく、科学を『進歩的な民主主義』の担保とする事なのですから、科学を侵害すれば、それは進歩的な民主主義じゃなくなるよという話ですね。
故に、進歩の逆、退廃的な民主主義になるという所でしょうか。
この民主主義と科学の関係は、今の新しい世代には解らない話なのではないでしょうか?
民主主義と科学の関係は、大戦から冷戦期が培ったイデオロギーですので、旧い知識となりつつあります。
説明するまでもない世代と、知らない世代の隔絶がある訳です。
ですから前提として、何故、学問に民主主義が関係があるのか、解らない層向けに前書きを書いておきました。
進歩的な民主主義を守るための話なのか、退廃的な民主主義を守るための話なのかでは話が180度違いますから。
さて、この民主主義と学問の関係には穴がありまして、ハンナアーレント辺りを読めば良いと言い方も居るでしょうが私が書いてしまいます。
初期民主主義において、古代ギリシャでは、当時の学問の頂点とも言われるソクラテスを、民主主義が衆愚政治によって死刑にしています。
進歩的民主主義と科学の相性は良いかもしれないが、政治と科学の相性は、それが民主主義であっても古代から悪いのです。
政治世界は、それ自体が進歩的であり、現実的でもある学問を侵害し続けました。
宗教による異端審問はその典型例です。
その根本原因とは、科学が政治体制である権威に反する言論へと踏みこむ性質を持つ物だからです。
ソクラテスの弟子プラトンは、学問を侵害する退廃的な政治体制に絶望し、賢人による政治体制を提案しますが、進歩し続ける学問は、賢人という権威でさえ置き去りにします。
アーレントは指摘します、古来から科学と政治は敵対し、科学を侵害するのはポリスであったが、科学の維持に必要不可欠なのもまたポリスであった。
ポリスは科学を必要としつつも侵害し、結果的に完全に破壊してしまう事もある。
科学はポリスと敵対するが、その維持にはポリスを必要とする。
政治と科学の関係は、古代ギリシャから変わりません。
両者のパラドックスの関係をどう解消するのか。
そうして、どのようにして科学と民主主義が結合した現代の進歩的な民主主義へと至るのか。
今回の学術会議でも、同じような話がネットでは出ました。
学問は独立性を重んじるなら、国を離れて独立して自由にやれば良いじゃない?
この話には、今後知の集積である学問を必要としないし、故に学者を侵害もしないという、人類の学問からの独立が命題として含まれています。
古代から続いてきた知と政治のパラドックスを解消したのに、今また知を捨てようとする、現代日本人の政治分野の知識不足は特に顕著なのかもしれません。
民間で知の集積を目指した物と言えばWikipediaですが、現実を言えば資金難によって募金を呼びかけています。
資金難故か、その知識も確かな物ではありません。
この話題には、実は前にも取り組みました。
何故、インターネットは失敗したのかというタイトルで、どんなに公共性の高い知識であっても、商業的、政治的、扇情的でない知識は、金銭的価値を持ち得ないという結論です。
故に高い使用率を誇る集積知でさえも、ポリス無くしては、その維持は難しいのです。
インフラの無くなった社会を指向する人達さえ多くなっているのかもしれません。
私なんかは、インフラとして集積知は国家がやれば良いじゃないと思ってしまいますが、知の価値に対して認識の大きく違う人は多いように感じます。
学術会議はGHQによって戦後組織改革が成された物です。
その理由とは、戦前日本の学問の関係にあります。
曰く、学問分野に独立性がなく、戦争に協力させる事になった。
学問分野に欧米ほど権威がない。
この関係の話は前にコロナ関係で書いておりまして、林野庁技官のGHQによる改革の話となります。
何故、専門家である学者ではなく、森に対してのズブの素人である一官僚が林野庁のトップ立つのか?
アメリカ人からは、日本の政治体制が奇異に映り、戦後林野庁は改革され、伝統的に技官がトップに立って来たが、それが現代日本では官僚によって覆えされたという話です。
何故、学問に独立性は必要なのか。
ここまで書けば自明のような気がしますが、常に学問が空気を読まない進歩的なヤバい奴であり続けるためなんですね。
それが高度な現代民主主義の担保、前提条件となっている訳です。
学者はヤバい奴らだから、とにかく叩き続けろと、進歩のしていない退廃的な民主主義は、必然的に学者叩きへと至ります。
学術会議は民主主義のカナリアとなり得るのか?
学術会議叩きは、デマを中心にとにかく学者を『ヤバい奴ら』だと印象付ける方向で進んでいます。
でも、学者、そして科学って言うまでもなく元から『ヤバい奴ら』なんです、政治世界から見ればという話ですが。
『ヤバい奴ら』であり続けてくれ。
これが民主主義陣営の願いであるのに、知識不足故に目的が完全にすり替わっているのです。
あいつらは『ヤバい奴ら』だから追い出せ。
そして、デマを流す側の彼らの守りたい物は、退廃的な民主主義のように私には見えます。
特に近年あった罰則はあるのに誰も罰せられない公文書偽造や、口頭決裁は、民主主義の前提条件の一つである法治主義が、遡及と事後によって破壊されつつある現象であり、日本の民主主義は現実的にも退廃方向に進んでいます。
進歩とは失敗の認識、そして改革によって生まれます。
日本の民主主義が進歩するのであるなら、何故、失敗後に改革が生まれないのでしょうか?
現状の進歩的な民主主義を破壊させ、退廃的な民主主義へと変えてようとしていく。
そんな層の動きが目立っているように感じます。
進歩的な民主主義の担保である学問を破壊しようという流れは、なり得る所か、学術会議を確実にカナリアにしているのです。
ハンナアーレントは必読書にすべきなのかもしれませんね。
科学と政治の関係が失敗し、その後どのように政治が展開していくのか、続きが気になる方は読んでみては。