青を取り巻く黒い渦に橙色で塗り重ねる
いつもの通りカーテンの隙間から入り込む日差しが瞼を貫く。
形だけかぶったタオルケットを払い、転がるようにしてベッドから降りる。
重力に完全に従ってしまった瞼を擦りながらよろよろと階段を降りる。
「ほはよー……ふわぁ」
「ずいぶんと眠そうね」
「夜遅くまで考え事してたもんで」
「勉強で無いことは確かね」
勉強熱心な孝行息子でないことはすでに見抜かれているらしい。
「鋭いこって」
朝食を爆速でかきこんで家を出るいつもの習慣だ。
「行ってきまーす」
「いってらっしゃい」
いつもより少し早く家を出ようと急いだせいか体が熱い。朝の空気が火照りを冷ましてくれる。
今日はいつもと違い、朝から用事があるのだ。
「おはよう」
「おはようございます」
白石さんの真っ黒な長い髪と大きくしっとりと濡れた瞳は朝日を受けてキラキラと輝いている。いつ見てもきれいなものだと感心する。
「今日は部活…ですよね?」
「あぁ、だから……」
一緒に帰れないだろうから先に帰ってていいよと言おうとした矢先、
「待ってても良いですか?」
そう来るとは思わなかった。
断るのも申し訳ないのでその申し出は受けることにした。
「構わないけど」
昨日と同じように他愛のない話をつづけた。何の気も遣わずに会話ができることにほんの少しだけ懐かしいような気持ちがした。
朝は正門まで一緒に歩き、玄関で別れた。
授業を終えた後は部活をこなす。近々新人戦もある。練習には一層力が入る。
練習終わりにある男に話かけられた。身長180センチ、肩幅も細身の女子なら二人分はあるだろうか、『厳つい』という形容詞がよく似合う。短く刈った髪型から同じ武道でも柔道部員なんじゃないかと思われる。同じ弓道部で僕たちの代の新部長である「国見尊」だ。
そして開口一番。
「おい在原、朝一緒に歩いてたかわいこちゃんは誰だよ」
どうも口調が昭和漫画然としているのがこいつの特徴だ。
「あ、あれは3組の白石さん」
「白石さんって、白石真尋か?」
「あぁ、そうだけど」
「あの近寄りがたい雰囲気さえ無けりゃな……ミス陽ノ峰ランキングで五本の指に入るあの容姿だし大人気間違いなしなんだがなぁ」
「まあそうだと思うよ」
「でも、お前と一緒にいるときはやけに楽しそうだったじゃないか」
「まぁいろいろあってな」
「お前の幼なじみはどうしたんだよ」
「知らねえよ。あいつ彼氏いんだろ」
「だから何でお前じゃないのかって聞いてんだよ」
「知ったことか」
「おーいゆっきー帰るよー」
噂をすればなんとやらだ。どうやら彼氏を迎えに来たらしい。
今現れた女は「立花有希」。僕とは小学校からの仲だ。
彼女は今放送部に所属している。小中学校はバスケットボール部。誕生日は7月27日。家は僕の家の向い。知っているのはそれくらいだ。
「ちょっと待ってくださいよ有希先輩」
有希の彼氏は我が弓道部の期待の一年生「兼平幸弥」。完璧"超"人とまではいかないが、強いて形容するなら完璧である。出来ないことはほとんどない。顔はいい。身長は少し小さい。自分の能力をしっかり知っていて自信に満ち溢れていおり、その自信を包み隠そうとしないところは同級生、上級生なら嫌っていたかもしれないが、後輩だと思えば、自慢したくて仕方がない子供のようで可愛いものだとも思う。中学は有希と同じバスケットボール部だ。
「置いてっちゃうぞ~」
有希が待ちきれないとでもいうように催促する。
「お熱いこったな兼平」
「まぁ……」
満更でもないというように兼平が頬を緩める。
「さっさと帰れ!」
「は~い」
お待たせしました。とでも言うように兼平が頭を下げた。二人の影が並んで薄く伸びている。そのまま遠ざかっていく二人をただ眺めることしかできなかった。これで何度目だろうかと思う。
「いいのかよ」
「何がだよ」
何のことかは知っている。
「立花のこと」
「有希がどうしたんだよ」
知らないふりをする。何が言いたいかは知っている。
「兼平なんかに取られて良いのかって言ってんだよ」
「兼平なんかって、僕なんかよりよっぽどいい男だろ。有希にお似合いだよ。それに、取り合いしてたわけじゃない。僕は付き合うつもりなんて毛頭ありやしない」
本当に何とも思ってないならまともにこんな話には取り合っていない。
「嘘つけ。あんだけ仲良し夫婦みてえなやり取り見せられて好きあって無いって信じる方が難しいぜ」
僕だって少しくらいは期待してたさ。ほんの少し。でも、その程度の期待はなくなったって困りゃしない。僕は何とも思ってない。
「実際こうなってるのが全てだろ」
「あんなに仲良かったのに、近寄りもしなくなっちまってよ。なんて言っていいか分かんねえけど……良いのかよ」
「そういうもんだろ幼馴染ってのは」
「ふん、寂しいもんだな」
全くだ。心の中でそう思う。
「おい、在原。お客さんだぞ」
真っ黒な長い髪を持つお客さんなど一人しか知らない。
「白石さん……」
「来ちゃいました……」
「一緒に帰るって言ったもんね。ちょっと待ってて」
「はい」
「お前がそれでいいならいいけどよ」
国見は釈然としない表情で呟く。
「別にいいんだよ」
「さ、行こうか」
居残り練習をせずに帰るのは久しぶりだ。まだ空がほんのりと明るい。
通りがかった体育館の影に人が見える。気付いたが、知らないふりをして通るほうが自然だと思ったので知らないふりをすることにした。
そこにいたのは知ってる二人だった。
兼平と有希。
僕らに向けて背を向けた兼平が少しだけかがんで有希に顔を寄せる。二人は目を閉じて……というところまで考えてやめた。
「ちょっと、ゆっきー、人いるから」
どうやら気付いたらしい。
「え、あっ、在原先輩」
慌てたような口調とは裏腹に口元は緩んでおり、頬も紅い。
「邪魔して悪かった」
素直にそう思う。
二人は気まずそうな顔でこちらを見る。僕と国見は居残り組だからしばらく通らないと思ったのだろう。素直に悪いことをしたと思う。
ここからはさっさと退散するに限る。
「彩飛、彼女できたんだ……良かったね」
後ろから勘違い極まりない発言が聞こえた。言われて悪い気はしないが、白石さんには悪いと感じる。しかし、ここで一歩引くのも癪だった。
「そう思ってくれるならありがたいよ」
気持ち早めの足取りで帰路へとつく。校門を出てしばらく過ぎたところで信号に歩みを止められた。
「在原くん……」
「ごめん。みっともないとこ見せて」
全くだ。幼馴染がなんだというのだ。くくりで言えば他人じゃないか。何をしようとあいつの勝手のはずじゃないか。僕は一体何を期待しているんだ。僕はあいつの何でもない。
「初めて君の色のついた感情を見た」
「初めて?」
そういえば僕と話しているときに『感情の色』の話は聞いたことがなかった。
「うん、在原くんはいつも無色透明。だから怖くなかったの。言ったことをそのまま信じればいいから」
無色透明。何とも面白みのない人間だなと我ながら思う。しかし、それと同時にそういう人間であって良かったとも思う。
「でもさっきは真っ黒だった。それもいろんな色を混ぜて作った黒」
まさにそういう感情だった。
「在原くんは、あの子のこと好きなの?」
「隠し事ができないってことをすっかり忘れてたよ。分かった。全部話すよ」
「そっかぁ、それはもったいない」
全く脈絡のない発言が飛び出して僕は呆気にとられてしまった。
「だってあの子在原くんのこと好きだよ」
有希が僕のことを好き。そんなことは知らなかったと言えば嘘になる。
しかし、今更告げられた真実は過去の僕をメッタ刺しにする。
「あの子、良かったねって言ってたけど、すごくショック受けてた。表面にアクリル絵の具でオレンジ色をきれいに塗ってるけど、その絵の具の層を一枚はがすとね、クレヨンで殴り書きしたみたいな感情が渦巻いてる」
有希らしいなと思う。
「ことのあらましを詳しく話すよ」
月明かりが照らす二人の影は並んで薄く伸びていた。