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海で過ごす休日 Ⅱ

 そうしてエウロスを出てから歩くこと十数分。ケントたちはレレミアに勧められた海のある場所へと到着した。


「おおっ!」


 その景色を見て、ケントは感嘆する。事前に聞いていた情報通り彼ら以外に人はおらず、周囲に魔物の気配もない。気心の知れた仲間同士で海水浴をするにはこれほど適した場所は無いと言えた。


「なるほど。レレミアさんの言ってた通り、確かにこれは穴場だな。風も波も穏やかで、沖に流される心配もなさそうだ」

「街から見た海も綺麗だったけど、こっちはこっちで綺麗な景色ねえ」


 ケントたちが砂浜に立つと、海から吹く潮風が彼らの肌をそっと撫でる。そこから見える広大な水平線は、エウロスの港で見たものと変わることはない。しかし、人の手が入っていない純粋な自然の景色は、街で見たものとはまた違う趣があった。


「さあて、まずは水着に着替えなきゃ。ケント、悪いけどあなたはあっちの岩陰で着替えてくれる?」

「了解。着替え終わったら呼んでくれよ?」


 ケントは荷物をその場に下ろすと、水着を取り出してからエルナの示した先にある岩場に向かう。そうして男女で別れたところで、彼らは水着に着替え始めた。


「よし、準備完了。後は皆を待つだけだな」


 一足先に着替えを終えたところで、ケントは腰を下ろして岩に寄りかかり、エルナに呼ばれるまで待つことにした。


「それにしても皆、どんな水着を選んだんだろうな……」


 ケントはふとそのようなことを考える。普段は隠すように努めているものの、やはり同年代の少女の水着姿というものは、男として興味を惹かれずにはいられない。

 そこで、彼はまずエルナの水着を想像しようと試みる。しかし、すぐに断念した。


「……いや、駄目だ。やっぱり考えるのは止そう。皆の顔をまともに見られなくなりそうだからな」


 ケントは脳裏に浮かび上がろうとしたエルナの肢体を霧散させるかのように、頭を振って雑念を払いのける。そして、それ以上何も考えないように目を閉じながら仲間の着替えが終わるのを待つ。その時だった。


「ケント、もう来てもいいわよ」

「ああ、分かった……っ!?」


 エルナの声を聞くと、ケントは目を開けて立ち上がる。そして、目の前にいる少女の姿を見た瞬間、彼は思わず息を呑んだ。


「ど、どう? 似合ってるかしら?」

「あ、ああ。凄く似合ってるぞ? 何というか、エルナらしい水着だと思う……」


 ケントは動揺しながらも、どうにか言葉を絞り出してエルナが身に付けている水着の感想を伝える。それは黄色を基調とした、彼女らしい快活さと綺麗さを兼ね備えたビキニタイプの水着だった。


「本当? それなら良かったわ」

「良かったって?」

「だってこの水着、あなたに見てほしくて選んだから」

「えっ。そ、そうだったのか……」


 エルナはそう言うと、恥ずかしげに頬を赤らめながら後ろで手を組む。その仕草はまさに恋する乙女そのものであり、ケントは思わず彼女から目が離せなくなってしまっていた。

 

「もう。だからってそんなに見られたら、流石に恥ずかしいわよ……」

「あっ、悪い! つい……」


 エルナに指摘されて、ケントは慌てて彼女から視線を外す。それから少しの間気まずい沈黙が流れたが、しばらくしてケントが口を開く。


「だけど、ちょっとだけ安心したよ」

「え、何に?」

「その、今のエルナの姿、本当に可愛いって思ったからさ。他の男には見せてほしくないって思ったんだ。だから、ここに俺以外の男がいなくて良かったなあと」

「ふーん……」


 ケントの言葉を聞いて、エルナは顎に人差し指を添えて意地悪な笑みを浮かべる。その表情の意図がいまいち読み取れず、しかし何となくばつの悪さを感じて、ケントは申し訳なさそうな顔でこう続けた。


「……悪い。やっぱ忘れてくれ。今の俺に、そんな事を言う資格は無いよな」

「別にいいわよ。でも、私を独り占めしたいなら、あの時の返事を聞かせてくれるだけでいいって、そうは思わないかしら?」

「そ、それはだな……」

「ふふっ。なーんて、冗談よ。あなたが頭の中で勝手に男の人を作って、それに嫉妬してるのが面白かったから、ついからかっちゃった」


 ケントが困り果てて言葉に窮していると、エルナはくすりと悪戯っぽく笑う。


「あ、でも、早く返事が欲しいのは本当よ? 迷ったままで決めるのは駄目だけど、いつまでも待たせるのだって駄目なんだから」

「……ああ。出来るだけ早く、気持ちに整理をつけるから」


 ケントの返事を聞いたところで、エルナは仲間たちがいる方へと踵を返す。


「さ、真面目なお話はこれくらいにして、そろそろ行きましょう? 皆も待ってるわ」

「そうだな」


 そして、共に仲間の元へと戻っていった。





 それから全員が揃ったところで、ケントたちは改めて海を一望する。全ての準備は完了し、後は時間の許す限り楽しむだけである。ぎらぎらと照り付ける日差しの下、彼らの海水浴が始まった。


「ひゃっほーーい!」


 まずはソニアがいの一番に海へと飛び込こんでいく。そしてそのまま軽く泳いでから身体を起こすと、海面から顔を出してケントたちに向かって手を振った。


「うわーい、気持ちいいー! 皆さんも早く早くー!」

「ちょっ、早いっての! 全く、海でも山でもブレない奴だなあ」


 相も変わらず活発なソニアの姿を見て、ケントは苦笑いする。そうしている間にも、彼女は海に潜っていた。しかし、しばらく待っても一向に浮かんでくる気配がなく、ケントたちは不審に思った。


「ねえ。ソニア、浮かんでくるの遅くないかしら?」

「そうだな。まさか、あいつ……!」


 もしや泳いでいる最中に溺れてしまったのではないかと、そう思ったケントは慌てて駆け出し、血相を変えて海に飛び込もうとした――その時だった。


「獲れましたあーーー!」

「はああああああああああああ!?」


 ソニアをそう叫ぶと、飛び上がるような勢いで海中から姿を表す。その手には魚が握られており、あまりの出来事に度肝を抜かれたケントは、思わず素頓狂な声を上げて海面に勢い良く頭から滑り込んだ。


「何かと思ったら、ただ魚を獲ろうとしただけみたいですね」

「そんなことしたらこれから釣りをする俺の立場が無くなるだろ! どんな運動神経してんだ!」


 ケントは海面にうつ伏せで突っ伏した体勢から起き上がると、海水まみれになった顔を拭いながら突っ込みの声を上げる。そして、何事も無かった安心半分、心配したのが馬鹿らしくなった虚しさ半分といったような複雑な顔を浮かべて砂浜の方へと戻っていった。

 そしてそのようなやり取りの後、ケントたちは各々海に入って遊び始める。


「さてと、俺も一泳ぎするか」

「ねえ、お兄ちゃん。ちょっといいかな?」


 ケントが海に入ろうとしたところに、マヤがおずおずと声を掛ける。


「ん? どうしたんだ、マヤ?」

「その、実は私、泳げなくて……」

「え、そうなのか?」

「うん。水遊びなんて、今までしたことなかったから」


 貴族として一通りの教養を身に付けているマヤだが、流石に水泳の教育までは受けていない。そのため、泳ぐということに関してはまったくの未経験だった。


「それでね、泳ぎ方を教えてほしいなって」

「いいけど、俺も別に教えるほど泳ぎが上手いってわけじゃないからなあ。こういうのはソニアの方が――」


 そう言いかけて、ケントはふとソニアが教える場面を想像してみる。


『簡単ですよ! こう、バーッってして、バタバターってするんです。そしたら、スイーって泳げますから!』

「(……よし、俺が教えるか!)」

「お兄ちゃん? どうかしたの?」

「ああいや、ちょっと考え事をな。それより、俺で良ければ泳ぎ方を教えるぞ?」

「本当!? やったあ!」


 ケントのその言葉を聞くと、マヤは両手を胸元でぐっと握りながら満面の笑みで喜んだ。


「それじゃあ、まずは海に入るところからだな」

「うん!」


 ケントがマヤに手を差し出すと、彼女はその手をぎゅっと握る。そして、そのまま足先から静かに海の中へ入っていった。


「わっ、冷た……」


 冷たい水が肌に触れると、マヤは思わず小さく体を震わせる。それから少しして冷たさに慣れたところで、ケントによるレッスンが始まった。


「じゃあ、まずは浮く練習からだ。俺が手を握ってるから、力を抜いて身体を水平にしてみてくれ」

「うん。その、絶対に手を離さないでね?」


 マヤはケントの手を握る力を強めると、言われた通りに身体を前に倒してうつ伏せの状態になる。


「こ、こう?」

「よし、いいぞ。そのまま目をつぶって、息が続くまで水に顔を付けてみてくれ」

「うん。やってみるね」


 それからゆっくりと息を吸ってから、そっと海面に顔を付ける。そのまま暫くの間じっとしていたが、やがて苦しくなったところで、マヤは水面から顔を上げた。


「……ぷはぁっ!」

「そしたら、今度は俺の声に合わせて顔を水に付けたり上げたりを繰り返すんだ」


 マヤはこくりと頷くと、ケントの掛け声に従って何度も顔を水中に沈めては上げるを繰り返した。そうしているうちに少しずつコツを掴み始めたのか、彼女は初めと比べて最小限の動きでスムーズに息継ぎが出来るようになっていた。


「これでいいかな?」

「ああ、大丈夫だ。それじゃあ、いよいよバタ足だな。力を入れずに両脚を伸ばして、水中で上下に動かしてみてくれ」

「えっと、こんな感じかな?」


 マヤはケントに言われるままに、両足を動かしながら水を掻いてみる。パシャパシャという音と共に、身体がゆっくりと前に進んでいく。


「いいぞ。その調子でもっと速く動かすんだ」


 その言葉を聞いて、マヤは更に足を懸命に動かす。それに伴って水飛沫も大きくなり、ケントが後ろに下がる速度も上がっていった。


「よし、そこまで!」


 もう十分だろうと判断したところで、ケントはその場で立ち止まる。するとマヤも海底に足を付けて、繋いでいる手をそっと離してからケントに向き合った。


「流石だな、マヤ。この調子なら、きっとすぐに泳げるようになるはずだ」

「本当!?」


 ケントの言葉に、マヤは嬉しそうな表情を浮かべる。


「えへへ。何だか、ちょっとずつ楽しくなってきたよ!」

「そうか。それは良かった。俺も、教える甲斐があるってもんだ」


 ケントもまた、快活な口調と共にマヤに笑いかける。飲み込みが早く、何より喜びの感情を素直に表に出すマヤを見るのが、ケントは楽しかった。


「なら、今度は水に顔を付けながらバタ足だ。苦しくなってきたら、すぐに顔を上げて息を吸うんだぞ?」

「うん!」


 ケントはレッスンを再開すると、今まで教えた動きを全て合わせた動きをマヤにさせる。そして、バタ足で前に進もうとするのに合わせて、自身も徐々に後ろに下がっていった。


「(しかし、考えてみれば俺って普通に泳げるんだよな。こういうのって、経験が無いと上手く出来ないと思うんだけど)」


 彼がこの世界で目を覚ましたばかりの頃に、川に投げ出されたエルナを救おうとしたことがあったが、その時特に意識することなく自然に泳げていた。つまり、記憶を失う前の自分は何らかの形で泳ぎ方を身に付けたのではないかと。マヤの手を引いているうちに、ケントはふとそのような考えに至る。


「(ってことは、もしかして俺ってエウロスの人間だったりするのか? いやでも、別に泳ぎを覚えるだけなら海じゃなくて川でも十分だしな。それにエウロスに来ても、特に俺の記憶に引っ掛かるような事も無いし、やっぱり違うか……)」


 などと自分の記憶についてあれこれと思考を巡らせている。その時だった。


「うおっと!?」

「ひゃっ!?」


 海底が急に深くなったことで、ケントは驚きのあまり足を滑らせて、後頭部から海面に転倒してしまう。考え事をしていたために、つい足元の注意が疎かになっていた。


「悪い、マヤ。ボーッとしてたら足が滑って。怪我は無いか?」

「う、うん。大丈夫……っ!?」


 そこまで言って、マヤは自分がケントに密着していることに気付く。先程の転倒でケントはマヤから手を離してしまっていたため、溺れないように咄嗟にケントにしがみついたのである。

 息がかかりそうなほどに間近にあるケントの顔を見て、マヤの顔が瞬時に真っ赤に染まる。


「ち、違うのお兄ちゃん! これは、その……ひゃあっ!?」


 するとマヤは慌ててケントから離れようとしたが、海底が思った以上に深く、足が付かない。このままでは溺れると焦ったマヤは、反射的に強くケントに抱き付いてしまった。


「な、マヤ!? そんな風に抱き付かれたら……」

「あうう。お兄ちゃん、早く何とかしてえ……」

「何とかしてって言われても……」


 現在、マヤはケントの首に腕を回して、必死に抱き付いている状態である。水中の温度よりも明らかに高い人肌の温もり。更にはマヤの心臓の鼓動まで肌で感じられ、ケントは思わず動揺し、身動きがとれずにいた。


「(駄目だ駄目だ! 落ち着け俺! 相手はマヤだぞ? 妹みたいに思ってる子に、何考えてんだ!)」


 いかにマヤが可愛くとも、自分を兄のように慕っている女の子である。であれば、一瞬でも不埒な感情が頭をよぎること自体が間違いなのだ。

 ケントはそう自分に言い聞かせると、心臓が高鳴るのを必死で抑えながら、マヤの背中から肩にそっと手を回す。


「その、マヤ。一旦離れることは出来るか? このままじゃ動けないからさ」

「ちょ、ちょっと待ってね? ここ、足が付かなくて怖いから……」


 今二人がいる場所は、ケントでも肩より少し下くらいまで水中に沈むくらいの深さがあるため、彼の胸元ほどの身長しかないマヤでは海底に足を付けることが出来ない。そこで、ケントはマヤの肩に回した手を少しずつ腕の方へと移動させ、マヤの手を掴むとゆっくりと身体を前に倒させた。


「よし。それじゃあ、もっと浅いところまで戻るぞ?」

「う、うん……」


 そして陸の方へと背を向けながら、マヤの手を引いて浅瀬まで戻っていった。





 それからまたマヤの泳ぎのレッスンを続けていたケントだったが、やがてマヤが疲れたところで休憩を取ることになり、二人は陸に上がっていった。

 しばらく休んだ後、マヤはエルナたちに遊びに誘われたため、彼女らの元へと駆けていく。その一方でケントも、自分の所持品を置いてある場所へと向かっていた。


「さーて、そろそろ本命といくかな」


 そして、そこから街で借りた釣竿と籠、そして購入した魚の餌を手に取った。

 準備を整えたケントは、次に釣りをするのに適した場所を探そうと波打ち際に沿って歩き始める。そして一分ほど歩いていると、海に隣接している切り立った岩場を発見した。


「よし、この辺でいいか」


 ケントはそこに腰を下ろすと、持ってきた籠で海水をすくってから、持ってきた餌となる虫を釣り針に刺す。


「よいしょっと」


 そして、持ち手の部分を握り締めてから後ろに振りかぶり、勢いよく釣り針を海へと投げ入れた。


「これでよし。後は魚が食い付くのを待つだけだな」


 そう呟いてから、ケントは胡座をかいた体勢のまま静かに海面を見つめる。そして、十分ほど経った時である。


「……おっ?」


 釣竿の先端が海に向かってしなっている。ケントは獲物がかかったことに気が付くと、すぐさま立ち上がって釣竿を後方へ引っ張る。そして数十秒の格闘の末、ついに獲物を海面から引きずり出すことに成功した。


「よーし! 早速一匹目だ!」


 ケントは魚の口から釣り針を外すと、持ってきた籠の中へと放り入れる。


「良い滑り出しだな。この調子で、ばんばん釣っていくぞ!」


 ケントは息巻いて釣り糸を海に放り投げる。しかし、現実はままならないものだった。


「くそっ、また逃げられたか……」


 あれから二時間が経過していた。引き上げた釣竿を見て、ケントは溜息を吐く。針には何も付いておらず、器用に餌だけ食べて逃げられていた。


「うーん。まだ三匹目か。まさか、調子が良かったのは最初だけなんてな」


 一匹目は比較的早い段階で釣れたため、この調子ならもっとたくさん釣れるだろうと踏んでいたのだが、実際には二時間近くかけて釣果はたったの三匹だけである。

 ケントは今の時間を調べるため、空を見て日の位置を確認する。


「日の傾きを見るに、残された時間は後三十分くらいか? このままじゃ全員で魚を食べられないな。最低でももう三匹、それか大物を釣れれば……」


 それでもケントは諦めずに、針に餌を刺してから釣竿を振りかぶり、海へと糸を放り投げる。そしてそのまま、しばらく海面と睨めっこしている。その時だった。


「ケント?」

「おわっ!」


 唐突に背後から聞こえた明るい声に、ケントは予想だにしなかったというように驚いてから振り向く。そこには、エルナの姿があった。


「何だ、エルナか。びっくりしたあ……」

「ふふっ、様子を見に来たわよ?」


 エルナは膝に手をついて屈むと、近くに置かれてあった魚の入っている籠に目を向ける。


「調子は……あまり良くないみたいね」

「ああ。皆の分の魚を釣るつもりでいたからな。正直焦ってるところだ」


 そう言ってケントは、再び海の方に視線を戻す。全員で釣った魚を食べようと考えていただけに、今の状況には焦燥を感じていた。


「うーん。別にそんなに気負わなくてもいいと思うわよ?」

「ん? 何でだ?」

「あなたが釣りに行った後でソニアがね、あなたと競争するって言って魚を捕まえに行ったの。だからあの子が獲ってくる分と合わせたら、多分足りるんじゃないかしら?」

「いや待ってくれ。いくらソニアでも、手掴み相手に釣りで負けるのは嫌だぞ……」


 エルナの話を聞いて、ケントは困惑した表情を浮かべる。いかに獣人の身体能力が優れているとはいえ、素手を相手に折角借りた道具を使っての敗北というのは何としてでも避けたかった。


「こうなったら、皆が驚くくらいの大物を釣るしかないな。よーし、集中だ」

「ふふっ。それじゃあ、私は後ろから見守ってようかしらね」


 エルナは地面に腰を下ろすと、姿勢を崩してケントの背中越しに海を眺める。それからしばらくの間、無言の時間が流れた。

 ケントは真剣に釣竿を見つめ、海面に意識を張り巡らせるかのごとく集中する。そして五分後、ついに静寂が破られる瞬間がやってきた。


「……っ! 来た!」


 竿がしなり、獲物がかかった感触を得たケントが素早くその場から立ち上がる。


「っと、かなりの引きだな。これはでかいぞ……」


 だが、釣竿越しに伝わる尋常ならざる力強さに、ケントは思わず顔を強張らせる。釣り上げるどころか、少しでも油断すれば竿を持っていかれない程の勢いでこちらが引っ張られていた。その緊迫した雰囲気を感じ取ったようで、エルナもつられて立ち上がる。


「ケント、私も手伝う?」

「いや、大丈夫だ!」


 心配そうな顔をしながら問いかけてきたエルナに、ケントはそのように答えながら獲物を決して逃がさないよう腕と足に力を込める。とはいえ、下手に引っ張り上げれば糸の方が先に切れてしまうため、適度に力を緩めつつ獲物の体力を消耗させていく。しばらく拮抗状態が続いたものの、ケントの緩急をつけた駆け引きによって段々と獲物が引き寄せられていく。そしてーー


「うおおおおおっ!」


 これで最後だとばかりに、ケントは雄叫びを上げ、渾身の力で釣竿を振り上げる。すると、釣り上げた獲物が水中を突き破るようにして姿を表した。


「おおっ、こいつは!」


 その獲物の姿を見て、ケントは歓喜の声を上げる。それは八本の足をうねうねと動かす赤い身体が特徴の軟体生物、タコだった。


「まさかタコが釣れるなんてな。だけどこの大きさ、文句無しの超大物だ」


 その胴体はケントの頭ほどの大きさがあり、足も彼の腕並みとまではいかないものの、かなり太い。

 ケントは意気揚々とタコを釣り針から外すと、胴体の部分を掴んでからエルナのいる方に振り向く。


「ほら、見てくれよエルナ!」

「……え? きゃあああああっ!?」


 しかしそれを見た瞬間、エルナは青ざめた顔で悲鳴を上げながら、地面に尻もちをついた。


「な、何よそれ!?」

「何だ、知らないのか? こいつはタコっていう、見ての通り足が八本あるのが特徴の生き物だ」


 そんなケントの説明を補強するかのように、タコはまるで踊るかのようにしてエルナの目の前で足をくねらせる。


「これだけ大きいなら、皆で分け合っても余裕で足りそうだな。いやあ、諦めずに粘って良かったよ」

「ちょっ、何言ってるのケント!? まさか、それを私たちに食べさせるつもりなの!?」


 エルナの質問に、ケントはキョトンとした顔で答える。


「ああ、そうだけど?」

「嫌よ! そんな気持ち悪い見た目の生き物、食べられるわけないじゃない!」

「それを言ったら、虫だって見た目はあれだけど、食べようと思えば一応食べられるだろ? こいつも同じだよ。ちょっと見た目が悪いからって、食わず嫌いはするもんじゃな――」


 未知の生物に対して生理的な嫌悪感をあらわにしているエルナに対して、ケントは諭すかのように反論する。しかし、彼の言葉はそこで遮られた。


「うえっ!?」


 突如としてケントの顔が真っ黒に染まる。タコが墨を吹きかけたのだ。


「うぐっ、顔に墨が……」


 ケントは驚いた拍子に、掴んでいたタコを手放してしまう。空中へと放り出されたタコは弧を描いて飛んでいき、そして――


「いやあああああっ!」


 エルナの身体へと吸い込まれるように着地した。


「どうした、エルナ!」

「タ、タコが身体に……」


 そのぬめぬめとした感触。そして肌に張り付くかのような不快感に、エルナは思わず仰向けになって倒れてしまう。


「ケント、早く何とかしてぇ!」

「待ってくれ、今顔を洗ってるから……」


 顔に吹き掛けられた墨のせいで視界が真っ暗なため、ケントは海水で墨を洗い落とそうとする。そうしている間にも、タコはエルナの身体にぬるぬると足を這わせていく。


「よし! 待たせたなエルナ、すぐに……って!?」

「やっ、やだぁ、水着の中に入ってきて、んっ……」


 そしてケントがもたもたとしている間に、とうとうタコは足をエルナの水着の中へと潜り込ませていた。


「これは……」

「あっ、あんっ……! ケントォ、見てないで、早く取ってよお……」

「いやあ、そんなこと言われても……」


 そうしている間にも、タコはエルナの胸元に絡みつくようにして、その足を器用に動かして弄っていく。


「だ、だめぇ……そんなに動いたら……んんっ!」


 自らの身体が蹂躙されていく感覚から逃れようとしているのか、エルナは一心に身をよじらせる。そんな扇情的な光景を前に、ケントは何も出来ずごくりと唾を飲み込んで静観していた。


「もう……いい加減にしなさいっ!」


 そして、とうとう堪忍袋の緒が切れたエルナは、タコを鷲掴みにすると身体から引き剥がし、海に向かって勢い良く放り投げる。


「って、あああああっ!」


 ケントが叫ぶも時既に遅し。タコは派手な水飛沫を上げて、海の中へと帰っていった。

 その後、ケントは数秒の間海を見つめて呆然と立ち尽くす。


「折角釣ったタコが……」

「あなたがいつまで経っても助けてくれないからでしょ!」

「だからって、別に海に投げ捨てることはないだ――」


 ケントは抗議の声を上げながら、エルナに振り向く。しかし、そこで固まってしまった。


「……どうしたのよ?」

「いやあその、まあ、うん……」


 不審に思ったエルナがそう訪ねるも、ケントはごにょごにょと言い淀みながら顔を真横に逸らす。その顔はほんのりと赤く、どこか困惑したような表情を浮かべていた。

 そこで、エルナはふと胸の部分に涼しさを感じて、視線を自らの上半身に移す。


「――――――~~~~~っ!?」


 そして、慌てて胸部を両手で覆うようにして隠した。少し前にタコが暴れたことによって水着の紐が解けてしまい、自身の二つの膨らみが日の下に晒されてしまっていたのだ。

 つまり、ケントはそれをばっちり見てしまったというわけである。


「もう、何でこうなるのよおおおおお!」


 そして、先程のタコのように耳まで真っ赤になりながら、エルナは大海原に向かってそう叫んだ。





 それから夕暮れ時。ケントは釣りを終えて、エルナと共に仲間の元へと帰還した。


「あ、お兄ちゃんとエルナお姉ちゃん、お帰り!」

「ああ、ただいま」


 ケントはそう言って、持っていた釣竿を近くの岩壁に立て掛ける。そして、リューテたちの元へと集まった。


「どうだ? 魚は釣れたか?」

「いいや。残念ながらこれだけだ」


 ケントは籠に入った魚をリューテに見せる。そこには彼の釣った魚が三匹、狭苦しそうに泳ぎ回っている姿があった。


「三匹か。まあ、そんなこともあるだろう」

「本当はこれくらいのでかいタコを釣ったんだけどな。色々あって逃がしちゃったんだよ」


 ケントは手を広げて、逃がしたタコの大きさを表現する。しかし、リューテは何やら怪訝な顔をしていた。


「タコだと? 聞いたことのない魚だな」

「何だ、リューテも知らないのか。タコっていうのは魚じゃなくて、足が八本ある全身がぐにゃぐにゃした生き物なんだ」

「足が八本……? 全身がぐにゃぐにゃ……?」


 リューテはますます顔をしかめてしまう。ケントの説明を聞いてもタコの姿をまるで想像出来ず、得体のしれない異形としか思えなかった。


「……よく分からないが、食べられるものだとは思えんな」

「ええ、その通りよリューテさん。あれは間違いなく食べ物じゃないわ。ケント、もしかしてあなた、ゲテモノ好きなの?」

「いや、ゲテモノじゃないし、本当に食べられるんだって!」


 タコは食べ物である。少なくともそのような認識を持っているケントは頑なに反論するも、二人の冷ややかな眼差しが変わることはない。説得を諦めたところで、ケントは気を取り直してこう続けた。


「まあ何にしても残念だ。出来ればここにいる全員の分の魚を用意したかったんだけどな」

「いや、それに関しては心配ない。ほら」


 リューテはそう言うと、ケントが釣ってきた魚を焼くために予め用意しておいた焚き木の方に視線を移す。そこには、既に三匹の魚が串に刺さっている状態で砂浜に立てられているのが見えた。


「君が釣りに行っている間、ソニアちゃんも魚を三匹捕まえてきたんだ。君が釣ってきたのと合わせて、丁度人数分になるな」

「まさか引き分けとは、ケントさんもやりますねえ! ですが、今度やる時は負けませんよ!」

「その時はお互い釣りで勝負な。というか、どうしたら素手で魚を獲れるんだよ」


 釣竿という人間の叡智に対して、ソニアは純粋な身体能力だけで互角に戦った。その事実を前に、ケントは困惑するより他なかった。


「では、そろそろ火を起こすとしましょう。ケントさん、そちらの魚にもこれを刺しておいて貰えますか?」

「ああ、分かった」


 ニュクスはケントに三本の串を手渡す。それからすぐに焚き木に火を付け、串に刺した六匹の魚を焼き始めた。すると間も無く、辺りに香ばしく食欲を刺激する匂いが立ち込める。


「ほわー、いい匂いですねえ。思わずお腹が鳴っちゃいました!」

「釣った魚をその場で焼いて食べる。一度やってみたかったんだよなあ。後はあのタコさえあれば、完璧だったんだけど」

「もう、まだ言ってるの? あんなのを食べたいだなんて、今日ほどあなたを変わり者だと思ったことはないわよ?」


 そのようなやり取りを交わしているうちに、やがて魚が程よく焼き上がる。それを確認したケントたちは、魚を各々手に取る。


「いっただっきまーす!」


 そして全員に行き渡ったところで、ケントたちは一斉に魚を口に運んだ。


「うーん、美味しい!」


 まず最初に声を上げたのは、エルナだった。彼女は頬に手を当てて、満足げに表情を綻ばせる。


「まさか、こんなにうまい魚が食べられるなんてな。釣りも楽しかったし、まさに一挙両得って感じだ」

「ワタシも、頑張って獲った甲斐がありました!」


 その後も、六人は口々に感想を言いながら、あっという間に魚を完食した。


「ふー食った食った。ご馳走さん」

「では、そろそろ着替えて帰りの準備を――」

「あっ。見て、皆!」


 火の始末も済ませて帰り支度を始めようとすると、マヤが海の方角を指差す。そこには、今日の役目を終えて沈もうとしている日が、世界を赤々と照らしている姿があった。


「綺麗な夕焼けですね。見ているだけで心が洗われていくような、そんな気がします」

「でも、ちょっとだけ寂しい気持ちにもなるわね」

「エルナお姉ちゃんの気持ち、分かるなあ。もっと遊んでいたいのに、もう終わりだって。何だかそう告げられてるみたい」

「だけど、すっごく楽しかったです! この街もワタシの知らないことがいっぱいあって、良い思い出が作れました!」

「そうだな。これ程までに充実した気分になれた休みは、私も初めてだ。良い経験になった」


 ここに着いた時も見た景色だが、見る時間が変わればまた異なる趣がある。昼間の景色とは対照的に、沈みゆく日と共に楽しい時間にも別れを告げなければならない。そのことに、皆どこか寂寥の念を感じていた。しかし、日はまた昇る。だからこそ、今日は満ち足りた一日だと。誰もがそう感じていた。

 そうして掛け替えのない思い出を胸に、ケントたちは水着から元の服装に着替えて、エウロスへと帰っていった。

ここまでご覧いただき、誠にありがとうございました。次回以降もお付き合いいただけますと幸いです。


最後に、評価・ブクマ・感想等いただけますと大変励みになりますので、よろしければお願いいたします。

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