西の街、ゼピュロス
森を抜けようと歩いている途中、ケントはエルナに尋ねた。
「エルナ、色々と訊きたいことがあるんだけど、いいか?」
「ええ、いいわよ。何かしら?」
「それじゃあまず、俺たちが向かってる街っていうのはどんなところなんだ?」
「あっ、ごめんなさい。そういえば言ってなかったわね」
エルナはうっかりといった様子で口元を両手で覆う。
「えっと、何から話したらいいかしら。といっても、記憶がないから……」
「……悪いな、出来れば知ってることを全部教えてもらえると助かるんだけど」
「ええ、いいわ。じゃあ、まずは街の名前からね」
エルナは手のひらを合わせてから、ゆっくりと喋り始めた。
「私たちが今向かっているのは、ゼピュロスっていう名前の街なの。その街にはギルドがあって、私はそこで冒険者として活動してるわ」
「ギルドと冒険者っていうのは?」
「うーん……一言でいうと何でも屋ね。薬とか武器を作るための材料を集めたり、魔物を討伐したり、ギルドはそういうたくさんの依頼を管理してて、冒険者はその依頼をこなして報酬を貰うの」
「なるほど……」
エルナの説明を聞いて、ケントは一つ一つ整理して理解していく。しかし、聞けば聞くほど分からないことも増えていった。
「何度も質問するようで悪いけど、魔物っていうのは?」
「あっ、うん。魔物っていうのはそうね……これも一言でいうなら人間に危害を加えてくる生き物といったところかしらね」
「ってことは、さっきの狼みたいな頭のやつも魔物なのか?」
ケントは少し前に出会った、二足歩行の奇妙な獣の姿を思い出す。
「そうよ。あれはコボルトっていう魔物なの。小さいし魔物の中では弱い方だけど、道具を使うだけの知性はあるし、群れで襲ってくることもあるわ。さっきのコボルトは、もしかしたらはぐれたのかも」
「そうなのか……他にはどんな魔物がいるんだ?」
「たくさんいるわ。小さかったり大きかったり。動物のような見た目だったり人に近い見た目だったり、中には街一つくらいなら簡単に壊滅させちゃうような大きくて凶暴な魔物がいるっていう話よ」
「なっ!? そんなやばい奴がいるのか!?」
ケントは信じられないといったように目を丸くして驚愕する。そんなケントの様子がおかしかったのか、エルナは思わず短く笑ってしまった。
「ふふっ、あくまでそういう話があるってだけよ。私は見たことがないし、この辺は人の住んでいる場所が近いから、そこまで魔物は寄り付かないもの。さっきのコボルトも、多分たまたま迷い込んだんだと思うわ」
「そ、そうか。ならよかった……」
先程のコボルトをエルナは一発で仕留めていたが、戦う手段を持っていない自分にとってはあのような小さな魔物でも十分に脅威だ。
彼女の話を聞く限り、しばらくは命の危険に晒されることは無さそうだと、ケントはほっと胸を撫でおろした。
「そういえばあなた、さっきその本を読んでたって言ってたわよね?」
「ん? ああ。だけど、なんて書いてあるかまったく分からないんだよな」
「ちょっと見せてみて?」
ケントは手に持っている本をエルナに差し出す。すると、彼女はそれをひらひらと十ページほどめくって目を通した。
「どうだ? 何か分かったか?」
「……全然分からないわ。どこの国の文字かしら、これ……?」
エルナは困惑しながら、本をたたんでケントに返す。どうやら彼女も見たことのない言語で書かれているようだった。
「そうか……本当に何なんだこの本? 多分俺に関係してるんだろうけど、にしては俺が読めないってのはどういうことなんだ?」
「謎は深まるばかりね。でも、それは肌身離さず持っておいた方がいいわ。あなたの近くにあったのなら、きっとあなたの素性を知るための唯一の手掛かりなんだと思うから」
「まあ、そうだな」
現状特に役には立たないが、他に手掛かりらしい手掛かりがない以上捨てるわけにもいかない。ケントはひとまず、本を懐にしまっておくことにした。
「そういやエルナ、さっき助けてもらったお礼、まだ言ってなかったよな? ありがとな。おかげで助かった」
「そんな、たまたま通りかかったから助けたってだけで、お礼を言われるようなことじゃないわ」
「いや、言わせてほしいんだ。もしあの場に誰も来なかったとしたら、俺はあのままあいつに殺されてたかもしれないからな。自分が何者なのかも分からないで死ぬなんて、それこそ死んでもごめんだ」
ケントは先程の光景を思い出し、身震いする。自分の腰ほどの身長しかない小さな生き物にも関わらず向けられた殺意は尋常ではなく、人間であるケントにもあれこそがまさに食うか食われるかの世界に常に身を置いている生物なのだと感じられた。
「それに、今もこうして世話になってるしな。見ず知らずの、それも自分の名前しか知らないなんて変な男にここまでしてくれるんだから、これで礼を言わなかったら罰が当たるってもんだ。俺が目を覚まして最初にあった人間が、エルナで本当に良かったよ」
「も、もう! そこまで恩に着なくたっていいのに……」
ケントに礼を言われると、エルナは顔を赤らめて俯く。
「……? 俺、何か変なこと言ったか?」
「ううん。ただ、人助けをするのって気持ちいいなって思っただけ!」
エルナからすれば偶然の人助けだが、それでもそのことを感謝されて嬉しいと思わないことなどない。自分の力が誰かの役に立ったということがハッキリと分かって、彼女は満足げな様子だった。
「それじゃあ、他にも聞きたいことはあるかしら? 私に答えられることなら何でも聞いてね?」
「ああ、それじゃあ……」
その後も、ケントはエルナに分からないことを何度も尋ねる。そうしているうちに、今まで続いていた獣道はこの辺りに魔物はいないということを示すように段々と狭くなっていき、ついには森林地帯を抜け出した。
「……あ! 見えてきたわケント! あれが街よ!」
森を抜けた先には平原が広がっており、その更に先には街が見えた。エルナはその方向を指差す。
「おお……」
一時はどうなることかと思ったが、エルナと出会ってようやく安全そうな場所まで来ることが出来た。ケントは様々な感情を込めて、感嘆の声を漏らす。
「本当に、本当に街だ……!」
「ふふっ、あともう少しよ? さ、日が暮れないうちに行きましょう?」
二人は街へと向かって再び歩き出す。記憶を失った少年の新たな人生は、ここから始まろうとしていた。