8話:誤解
極限まで張り詰められた緊張感。痛みさえ感じるほどに肌を刺すその空気感に、カナメはただ冷や汗を流しながら静止することしか出来ずにいた。
思考を張り巡らせることもままならず、咄嗟の言葉すら出ない。何せ、背後から刃物を突きつけられながら声をかけられるなんて経験は、一度たりともした覚えがない。
記憶がはっきりしない以上、断言は出来ないものの、日常でそんなことが起こりうるのは、強盗か殺人鬼にでも襲われた時くらいなものだろう。少なくとも、誰もが経験するようなことではない。
困惑、焦り、動揺、驚き、恐怖……。
様々な感情が脳内を埋め尽くしていく中、背後の人物から再び声が発せられる。
「ずいぶんと素直ですね。……まああなた方の考えていることなんて、想像に固くありませんが」
半ばため息混じりの、呆れた声色だった。
声を聞く限り、恐らく背後の人物は若い女性なのだろう。だがわかったのはそれだけで、カナメにはかけられた声の真意を全く理解できずにいた。
"あなた方"と言われても、自分は紛れもなく一人である。眼球だけを動かして周りを見てみても、人影らしきものは見当たらないし、それらしき音もない。
更には、こちらのことを何か知っているかのような口振りである。ただでさえ理解の追い付いていない状況が、更に加速していくのを感じて、カナメはただただ困惑した。
「……だんまりですか」
やや不服そうにそう言われてなお、カナメは言葉を発せなかった。なにも意図的に沈黙を守っている訳ではなく、発するべき言葉が何も浮かばないのだ。
自分は怪しい者ではないと、声高らかに主張したい気持ちも勿論あった。だが今の自分の状況が、怪しさ故に起きているのかさえよくわからない。迂闊に声を出して、自分の身に刃物を突き立てられるのも、たまったものではない。
幸いにも、相手は問答無用で襲い掛かってくる様子は無さそうである。それならば、まずは相手の話に耳を傾けようとカナメは考えていた。
「……抵抗する意思がないというなら、両手を挙げて地面に膝をつけて下さい。勿論、妙な行動を取るなら容赦はしませんよ」
再度こちらを脅すかの様に、首元に添えられた刃物がより一層顔の近くへと近付けられる。当然のようにカナメは要求に従い、速やかに言われた通りに体勢を変える。
自分がもし反骨精神の塊であったならば、従う義理はないと突っぱねていたのかもしれないが、とてもじゃないがそんなことはしようとも思えない。
状況が状況なだけにか、単に思考が追い付いていないだけなのか。とはいえ、なんとも情けないものだと心の中で自嘲するのが精いっぱいだった。
「それにしても二度も同じ手を使われるとは、ずいぶんとなめられたものですね」
「……待ってくれ、何かの誤解だ。俺がここに来たのは初めてだ」
体勢を変えたことで少しばかり落ち着きを取り戻せたのか、カナメはどうにか絞り出すようにして言葉を発していた。
細かな事情こそ未だ不明なものの、どうやら今自分は誰かと勘違いされてこんな目にあっているらしい。そうでなければ、"二度"なんて言葉は出てこないし、"あなた方"なんて呼ばれ方もしない。
これが単なる知人の空似であったなら、まだ穏便に話を進められそうなのだが、自分が誤解されている相手は何やら犯罪まがいの事を働いたらしい。
何をするにもまず誤解を解かなくてはならないが、不幸にも自分の身元を証明できるものなど持ち合わせてはいない。
状況は最悪といってよかった。
「……やっと口を開いたと思えばそれですか。弁明は得意では無いようですね」
「悪いが、本当に誤解だ。何の話をしているのかもよくわからない」
背後から感じる静かな怒りに身震いしつつ、カナメはありのままの言葉を吐いた。
こちらが否定する度に状況が悪くなっているのは感じていたが、見に覚えが無い以上、言葉は選ばなくてはならない。
嘘を付くのは勿論のこと、下手な謝罪さえも罪を認めたと思われ、その場で刃物を突き立てられかねないだろう。まさか躊躇なく首を刎ねにくるとは考えにくいが、自分の常識や先入観がこの場で役に立つとも思えない。
だからといって相手を言葉で言い込めるほど自分は雄弁ではないし、なんなら単なる会話でさえ下手くその部類に入る。
ならば、余計な誤解を生まないよう気を付けつつ、自分がここに至る経緯を説明する他ない。その為には、いかに冷静さを保てるかが鍵だった。
「性懲りもなくそんなことを……。こんな遅い時間に人の家を訪れる人物に、やましいことがないとは到底思えません」
「……そのことに関しては心底申し訳無いと思っている。だが、不可抗力だった」
目を閉じ、噛み締めるようにして言葉を紡ぐ。指摘された点に関しての申し訳なさが生んだ、少しばかりの躊躇も表に出す事なく飲み込む。
ここにきて喉の乾きも限界を訴えていたものの、畳み掛けるならここしかないと考えたカナメは、言葉を続けた。
「正直なところ、ここが何処なのかも俺は知らない。平野で道に迷って、それから道を訊く相手を探して彷徨っている内に夜になってしまった」
自然と早口になりそうになるのを必死に抑え込む。このような状況でなければもっと詳細に説明したかったのだが、そんな余裕は今はない。
不要な情報を可能な限りふるい落とし、最低限の情報を伝える。後は、相手の反応次第である。
「いろいろと気になる点はありますが……。人を探すのに、わざわざこんな森の中へ?
とてもまともな考えとは思えませんが」
「辺りを彷徨っていた時に森から煙が上がっているのが見えた。それを見たのは小高い丘の上からだ。危険だとは思ったが、他にあてがなかった」
至極真っ当な反論に対しても、極力冷静さを保ちながら返す。だが、内心では焦りが抑えきれなくなりつつあった。
既に出せる手札は殆ど出し切ってしまった。にも関わらず、相手が納得する気配も今のところない。ましてやここで嘘だと切り捨てられてしまえば、もはや自分に打てる手はない。
記憶を一部失っているという点については、今口にするにはリスクが高すぎた。
記憶が無いことの証明なんて不可能だし、そんな台詞は悪事を働いたものの常套句でもある。
「……そうですか」
少しばかりの間を開けて、女性はポツリとそう答えた。声のトーンこそ変わらないが、先程までとは違い、少しは納得の色を見せているように思える。
だが、相手が警戒を解く様子はない。すなわちそれは、カナメにとって事態が八方塞がりであることを示していた。
緩まぬ緊張感と、焦り。無意識の内に思想は、最悪の場合どうするべきかについて考え始める。
いわれのない罪を認めて謝罪するか?
ーーーいや、そうなれば嘘をついたことになるし、自分の命の保証がない。
反撃でもして隙をつくって逃げ出すか?それともこのまま走って逃げ出すか?
ーーーいや、相手は女性とはいえ、素手と刃物では勝ち目などあるはずもない。それに何もわかっていない状況で、むやみに敵をつくるべきではない。
更には体調が最悪の今、走って逃げ切れるとも思えない。
必死に頭を働かせるものの、光明を見出だせる答えなど出るはずもない。
カナメの心の中には、少しずつ諦めの気持ちが蔓延しようとしていた。
「あなたの言葉を鵜呑みにする気は毛頭ありませんが……。そこまで言うのならば、証明して頂きたいですね」
「……証明?」
思いがけない言葉が掛けられたことで、カナメは思わずオウムの如く言葉を返した。
相手はどうやら、こちらの言い分を少しは理解しようとしてくれているらしい。それ自体は非常に喜ばしいことなのだが、どう証明しろと言うのだろうか。
「ええ、簡単なことです。持っているものを全て地面に置いてください。……まさか丸腰でここまで来た、なんて言いませんよね?」
(そのまさかなんだがな……)
内心毒づきたい気持ちで一杯だった。既に心は諦め7割といったところだったし、証明になるようなものを持っていないことぐらい、自分が一番理解している。
本来であれば、その方法は証明としては説得力があるものだ。いくら迷子で森に入ったと言っても、"普通"であれば何かしら物は持っている。それがよほど変な物でなければ、少なくとも怪しいものではないということは証明出来た筈だ。
だが、ここに至るまでの自分の状況は普通ではなかった。下手をすれば、余計に怪しまれる結果になりかねない。
「……わかった」
それでもカナメは、指示に従うことを選んだ。というよりも、選択肢などなかったと言ったほうが正しいだろう。
膝を地面につけた体勢のまま、ズボンの両側のポケットへと手を突っ込む。相手が警戒心を高めているのを背中で感じたが、もはやそんなことも気にはならない。
カナメとしては、ポケットの裏地でも引っ張り出して、何も持っていないことを示すつもりだった。しかしそんな予想に反して、ポケットに突っ込んだ手に何かが当たる。
多少困惑こそしたものの、それも一瞬のこと。既に九割五分諦めの気持ちに入っていたカナメは、躊躇することなくそれをポケットから引っ張り出し、地面へと転がした。
「………………」
「………………」
その場には、静寂が訪れた。虫や風の音らしきものだけがあたりに響いているが、お互いに言葉は発さない。
カナメはというと、ポケットの中のものを全て地面に置いた後、ポケットの裏地という裏地を全て外へ出し、それを両手でつまみ上げることで、もう何も入っていないという事をアピールしていた。
「……何故そんな物を?」
カナメが何も言わないことに痺れを切らしたのか、相手が先に口を開いた。……それも、ひどく呆れた声で。
ただ、それは至極真っ当な感情であると思う。
なにせ"そんな物"扱いされたブツは、そこそこの大きさにばらつきのある木の実だったからだ。それほど数はないものの、中には齧ったような跡さえついているものもある。
カナメ自身も殆ど頭から抜け落ちていたが、それはまさしく自分が拾ってポケットへと入れたものだった。
齧り跡がなければまだマシだっただろうに、比較的味が良かったものを取っておいたのが仇となったのだ。
辱めを受けたような気分に陥ったカナメは、ややぶっきらぼうに返事を返した。
「森の入り口あたりで拾った。腹が減ってたもんでな」
「…………………」
笑いたきゃ笑え、という気持ちだった。どこかもわからない土地で一人彷徨い、木の実で食い繋いだ上に不審者として捕らえられ、あまつさえ木の実を拾い食いしていたことがバレる。
下手すれば、不審者として首を刎ねられていた方がよかったのかもしれない。そう思える程にカナメは精神に疲弊を感じていた。
いっそのこと、一思いに殺してくれとでも叫ぼうかと考えていた時。
「……申し訳ありませんでした!」
突然あげられた大声に、カナメは思わず身を強張らせた。だがそれと同時に、視界の隅でうっすら光を放っていた刃物が消えていることにも気付く。
カナメとしては、何も言わず刃物を振りかざされてもおかしくないとさえ考えていた。なにせ道に迷ったのを理由に、木の実を拾って食べているような奴だと認識されている筈なのだ。
相手が想定している方向とは別のベクトルだろうとはいえ、不審な人物であるのは間違いない。だからこそ、カナメは何が起きているのか理解できず、困惑した。
何が起きたのか確かめるため、念の為両手を挙げた状態で恐る恐る後ろへと振り返っていく。
そうしてやがて視界が捉えたのは、夜の森でこちらに向けて深く頭を下げている、一人の少女の姿だった。