4話:掴めたもの、そうでないもの
声を掛けられた直後、咄嗟に後ろを振り返った姿勢のままで、カナメは硬直していた。
あまりに突然の出来事すぎて、まともに反応することが出来なかった、という方が正しいかもしれない。つい先程まで、宇宙人に連れ去られたのでは?なんて考えに耽っていたところなのだ。人がいるというだけでも、自分からすれば驚く要因としては十分なくらいである。
見た目は人であっても実は全く別の生き物……という可能性には、思い至らなかった。
というのも、何と声を掛けられたのかが、ごく自然に理解できたのだ。ともすれば、相手は自分と同じく人なのだと即座に断定しても問題はない。
しかし、カナメはどうにも妙な違和感を拭い切れずにいた。
聞き慣れた言葉のようでいて、そうでないような気もする。それが何を示しているのかも、何が違和感の原因となっているのかも定かではなかったが、どうにもむず痒い感じがして止まない。
そんな思いが思考を邪魔していたせいか返事はおろか、碌な反応も返さないこちらを見かねてか、老人は目を細めて再び口を開いた。
「それほど警戒しなくとも大丈夫ですとも。何も、取って食おうという訳ではありませぬ」
すっかり色素の抜けかけた髭を擦りながらそう言って微笑む老人の姿を、カナメはまじまじと見つめた。
警戒するなと言われても、今の自分には到底無理な話である。如何せん心の準備も何も整っていなかったのだ。
みるみるうちに口の中が乾き、体中には無意識的に力が入る。自分の表情を見ることはできないが、この力の入り具合だと恐らく、ひどく不躾な様相になっていることだろう。
だがそれとは対象的に、前に立つ老人はひどくリラックスした状態で、こちらに対して危害を加えてくる様子は無い。
それがわかっていて尚、カナメは外面を取り繕うだけの余裕すら持つ事が出来なかった。
小さく深呼吸をすることで、少しばかり思考が鮮明になっていく。
冷静に考えれば、訊きたいことを訊けるチャンスだ、と喜んでもおかしくない状況である筈だった。しかし不思議と、素直にそう思うことが出来ない。正確な理由こそわからないものの、この老人を前にしてから、心の中がひどくざわめいていたのだ。
結局の所これは、虫の知らせとでも言うべき根拠の無い考えなのかもしれない。
しかし、こうしてただ向かい合っているだけでも、得体の知れない不安がじわじわと広がり、カナメの精神へと潜り込む。ここから黙って去るべきだという声が、何処からともなく聞こえてくる気さえしていた。一度生まれた警戒心は、そう簡単には拭えない。
だが同時に、この機会を逃すべきではないという考えも、強く頭の中で自己主張を続けていた。何せ、見知らぬ生き物だらけの中で、初めて出会った人間なのだ。人がいる、ということがわかっただけでどことなく安心している自分さえいる。その相手がどこか信用ならない予感を感じさせる相手だったとしても、だ。
話を聞くべきか、否か。二つの考えが天秤のように揺れ、遂には釣り合ったまま静止する。どちらを選ぶべきかは五分五分、といったところだろう。
(こんな機会はもう二度と無い、ってことも無いとは思うが……。みすみす逃すのも癪だ)
少しばかり迷った末、カナメは頷くことで老人の声に応じ、会話を受け入れる姿勢を見せた。一種の賭けではあったが、何か情報を掴める可能性は高いのだし、多少のリスクは仕方の無いことだろう。それに、自分の第六感とやらに絶対の信頼がある訳でもない。
カナメが頷くのを見た老人は、何度か満足気に頷きながら言葉を続けた。
「ありがとうございます。なに、大したことではないのです。ただ少しばかり、お尋ねしたいことがありまして……」
「……尋ねたいこと?」
投げ掛けられた言葉に対して、カナメは半ば無意識的に聞き返していた。釣り合っていた天秤が音を立てて揺れ動き、少しばかり負の方向へと傾く。
……どうやら、幸先はあまり良くないらしい。
今の自分にとって、質問をされる側に回るのは些か厳しいものがあった。如何せん記憶が不確かだった上に、現状理解できていることなど無いにも等しい。
基本的に何を訊かれたとしても、知らぬ存ぜぬで突き通すしかないのだが、そうするとそこで会話は終了してしまうだろう。生憎と、自分のしたい話へとスムーズに持っていけるような話術などは、持ち合わせていない。
ただ、訊かれる内容によってはまだ可能性はある筈だ。質問してきた相手に質問を返す、という手だってある。あまり品のあるやり方とは言えないが、いざとなれば仕方がない事だろう。ただしその場合でも、あくまで不審に思われないよう、言葉の選び方には気を使う必要がある。
相手が何者なのかもはっきりしていないのだ。欲をかいた結果、不審人物として取り押さえられるような事は出来れば避けたい。……最悪の手段としてはありかもしれないが。
知りたい事、訊きたいことは嫌というほどある。だがその中でも最低限知っておきたいのは、ひとまず人の集まる場所がどの辺りにあるのかということだった。今自分がどういった状況に立たされているのかを知るには、情報は多ければ多いほどいい。詰まるところ、次に繋がるような情報さえ手に入れば、無理にこの老人から聞き出す必要は無くなる。
―――だが、そんな希望はすぐに打ち砕かれることとなった。
「ええ。お恥ずかしい話なのですが、私この辺りの地理に明るくないものでして……。出来ましたら、道をお尋ね出来ないかと」
辛うじて釣り合っていた天秤が、そのバランスを大きく崩し、音を立てて崩壊していく。
賭けには負けた、としか言い様がなかった。
(それを訊きたいのはこっちの方なんだがな……)
初めて出会った人間が迷子仲間とは、心底自分は運が無いらしい。こちらがあわよくば訊こうと考えていた事を先に訊かれては、打つ手などある筈も無かった。ましてや、相手がこの辺りの人間ではないのならば尚更訊きようが無い。
今の状況を活かすのならば、いっそのこと自分も迷子であると告げる、というのも一つの手かもしれない。相手はどうやら徒歩で移動しているようだし、恐らくどこか拠点となる場所からここまで来たはずだ。その場所を教えてもらえば、ひとまず目的は達成できる。
だが、カナメはどうにも目の前の老人のことを信用する気にはなれなかった。依然として心の中はざわざわと嫌な音を立てていたし、まるでこちらを探るかのようなあの目がどうにも好きになれない。
それに単なる予想でしかないのだが、自分が迷子だと告げれば、この老人はぜひご一緒しましょうなどと言いだしかねないだろう。そうなれば、その道中で自分がどこから来たかなどを訊かれかねない。
……この相手に自分の身の丈を打ち明けるのも、二人仲良く彷徨うのも真っ平御免だった。
そもそも自分は、元からただでさえ自分のことをあれこれ訊かれるのが好きでは無い。今が緊急事態という自覚はあったが、カナメは意地を捨てきることが出来ずにいた。
ただでさえ悪く感じていた居心地が、更に悪くなっていく。表情に出さないよう気を払いつつ、カナメは内心小さく息を吐いた。
知ったかぶって答えることは不可能。下手に質問を返して自分のことを訊かれるのも厄介。であれば、ここは素直に知らないと答えるしかない。
「……悪いが、俺もこの辺りには詳しくないんだ。力にはなれそうもない」
「左様でしたか……。いえ、どうかお気になさらずに。急ぎの用事ではありませぬ故」
会話が終わる予感を感じ、カナメはひとまず安堵した。あれこれと訊かれる様子もないし、ひとまずは警戒する必要もないだろう。それにこうなってしまえば、もはやこの場に用は無い。
はやる気持ちを抑えながら、どのように別れを切り出すべきか思案する。しかしこちらが声を発するよりも先に口を開いたのは、老人の方だった。
「いやはやお手数を掛けてしまいましたな。しかし何やらお急ぎの様子。私はもう少しこの辺りを歩いてみますので、どうかお気をつけなさって……」
そう言って老人は小さく頭を下げ、微笑みながら視線をこちらへと移す。その表情から、何を考えているのか読むことは出来ない。
だがこちらを見据える瞳の奥に、黒く煮詰まったような思考が見え隠れしているような気がして、カナメは背筋に寒い物が走るのを感じるのだった。
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「さてどうしたもんかな……」
日が少しばかり傾いてきた頃。老人と別れたカナメは、丘につながる斜面を歩いていた。相変わらず体は重いままだったが、あの場を早く離れたいという気持ちが先走っていたのだろう。気怠さを感じながらも、その歩調は急かされたかのように速い。
足を止めずに、頭の中ではぐるぐると思考が回り続ける。考えていたのは、当然先ほどまで交わしていた会話の事だった。
老人との会話で直接的に得られたものは無いに等しい。なにせ一方的に質問を投げられただけで、こちらからは何も訊けていないのだ。その上、された質問自体もカナメに答えられるものではなかった。だが、間接的に知ることが出来たものもある。
それは人間が存在し、かつ会話が可能だという点である。
実のところ、非常に不安だった点の一つだった。なにせ、目覚めてからあの老人に会うまで、人はおろか、人工建造物の一つすら見ていなかったのだ。もしや、ここには人はいない可能性はあるのでは?という疑問すら湧いていた位だ。
しかし少なくとも、人間が存在していることについては確証が持てた。まさか、人間はあの老人一人しかいないということも無いだろう。そうであるならば、こちらに対して道を尋ねるなんてことはしない筈だ。
ただ、言葉が通じる点については少しばかり疑問が残っていた。相手の服装や外見からして、どうもあの老人が日本人であるとは言い難い。にもかかわらず、当然のように会話は成り立っていた。
お世辞にも自分は、外国語が堪能であるとは言えない。むしろ、全くできないといっても過言ではないだろう。そもそもの話をすれば、未知の世界の言語が外国語などという枠に収まるとも思えない。それならば何故?という点が、どうにも理解できなかった。
会話の中で感じていた妙な違和感と何か関係があるのかもしれないが、はっきりとした答えには繋がらない。理由は不明だが、とりあえず会話は可能……という、ひどく漫然とした答えにしかならないのが、現状だった。
(まあ会話ができるってだけでもマシ、か。知らない言葉だったら手詰まりだった)
腑には落ちていなかったものの、実際問題会話が可能だった以上、深く考えても無駄だろうとカナメは悟った。いかんせん言葉を交わした相手が少なすぎて、考える余地が無い。
最悪身振り手振りで……とならなかっただけでも良しとすべきなのだ。
ただそれを前提に考えても、特別事態が好転した訳では無い。人に出会えれば会話が可能だとはわかったが、人そのものがどこにいるのかをカナメは依然として知らない。
それらしきものが発見できないかと、今こうして丘を目指しているところではあるが、そこで何も発見できなければたちまち詰んでしまう。
(ああクソッ……考えがうまく纏まらねえや)
極力冷静に考えるように努めてはいたが、日が沈むにつれて次第に、カナメの心には焦りが生まれていた。どうにかなるだろうとやや楽観的に構えていたのだが、このまま夜を迎えるとなると話が変わってくる。
見知らぬ生き物だらけの中野外でなど、とてもじゃないが寝られたものではない。今のところ襲われたりなどはしていないが、狼らしき生き物が駆けていくのも見ているのだ。ああいった生き物は間違いなく、夜行性だ。呑気に地べたで寝ていれば、餌となるのは想像に難くない。
目覚めてから今に至るまで、食事はおろか、水分補給すら行なっていないのも焦りを加速させる要因だった。この調子では、何か起きた時に走ることすらままならないのではないか。そう考えるだけで、内臓を締め付けられるような感覚に陥る。
丘の頂上にたどり着いたのは、そんな考えで頭が埋め尽くされ、すっかり辟易していた頃だった。