1話:そこには何も無い
最初に感じたのは、えもいわれぬような浮遊感だった。
意識はぼんやりとしており、体の感覚もほとんど感じられない。音も無ければ匂いも無く、機能しているのは両の眼のみ。
その目に映る視界ですら、広がっているのは見渡す限りの白い空間ばかりである。
天と地の境目もわからない、虚無のように何もない空間。
一人の青年 ―――狭霧 カナメ――― が目を覚ましたのは、そんな場所だった。
(……あれ?俺は……)
目を覚ましたと言えども、未だ思考が鮮明であるとは言い難い。そのせいもあってカナメは初め、その場所にいることを特別疑問には思わなかった。
どちらかと言えば、自分が直前まで何をしていたのかが気に掛かっていた位である。しかしそれさえも、頭が回っていないのかうまく思い出すことが出来ずにいた。
頭に靄がかかったような感覚。絶えず続くその感覚の中、何度か思い出そうと試みたものの、結局答えは得られない。
その内にやがてカナメは考え込むのをやめ、空間へと体を委ねることにしていた。
静寂が辺りを包み込んでおり、世界に自分一人しかいないようにさえ錯覚してしまいそうになる。だが、孤独感や疎外感、それに伴う焦りなどは不思議と感じない。
むしろ、自分が煩わしいと感じていたものから解放されたようなものから解放されたような気さえしてくる。
そんな感覚のせいか、このままずっとこうしていたいとすら思えた。
相変わらず自分が何故ここにいるのかはわからなかったが、この幻想的とも言える空間において、そのようなことを考えるのはきっとナンセンスなのだろう。そう思い込むことで、即座に思考を切り替える。
邪魔するものは誰もおらず、自分の行動を諫める者もいない。
穏やかな気持ちのまま、半ば夢見心地でカナメはそうして漂い続けていた。
(……何だ?)
変化が訪れたのは、どのくらいの時間が経った時だったろうか。
時間の経過すらも不確かなこの場所では、自分の体感時間すらもあてにならない。
五分程度しか経っていないようにも思えるし、一時間、或いは一日かそれ以上の時間そうやって漂っていたともいえる。
そんな中で、カナメは微かに聞こえる音の存在に突如として気付いた。
初めは風の音か何かだろうと思った。だが、よく聞いてみれば何やら意味を持った言葉のようにも聞こえる。それでいて楽器が奏でる音のようにも聞こえるし、ともすれば誰かの歌声かもしれないとも思える。
不確かながら、透明感のある音。
そんな音が耳を通してというよりは、心の中に直接響くような形で聞こえ始めていたのだ。
(……誰かいるのか? )
突然のように起きた出来事に対し、カナメは無意識的に音の発生源を探そうとしていた。
ゆっくりとした動作ながら、辺りを見回していく。しかしながら、期待とは裏腹に視界にこれといった変化は見当たらない。先ほどからの景色と何ら変わりのない、ただ何もない空間がそこに広がっているだけ。
聞き間違いだろうか、とも一瞬考えたが、今もなお時折聞こえるその音が幻聴の類であるとは考えにくい。
ただ、それをはっきりと否定できないのもまた事実である。それほどまでにその音は存在感が希薄だった。
(何だかよくわからないが……。気にすることも無いか)
少しの間はそうして辺りを注視していたのだが、結局何も結果は得られなかった。
そうする内に、どうにもならないならいっそ気にするのをやめてしまおうとカナメは思い立っていた。
その音が聞こえだしたことで、一人だけの空間を邪魔されたという気持ちは不思議と湧かなかったし、仮に何者かがいるのだとしても、姿が見えないのならばもほやいないのと変わらない。
それに、そもそも何か直接的な危害を加えられた訳でもないのだ。
むしろ、やけに穏やかな自分の心とその透き通るような音がマッチして、より一層空間に浸ることが出来るとさえ思えてしまえた。詰まる所、その音のことを必要以上に意識しなければいい。
小さな変化によってもたらされたざわめきも、やがて尋常へと落ち着いていく。
音の正体を探ろうと躍起になることも無くなった以上、やることは先ほどまでと変わらない。
空間に身を任せ、ふわふわとした感覚と共に再び無心になっていく。
今もなお微かに聞こえる音への興味は、既にすっかり失われていた。
しかし、次の変化は気のせいでは済まされないような、目に見える形で現れた。
自分の存在している空間 ―――言い換えるならば、カナメを含む世界そのものが――― 歪み、大きくうねりだしたのだ。
(こ……れは……。何が起きている……!?)
世界が揺らぎ始めたのを感じ取ってすぐに、乗り物酔いにも似た不快な眩暈がカナメへと圧しかかった。更にはただでさえ不確かだった自分の体が、引き裂かれるような感覚すらし始めている。
視界は大きく揺れ、脳内には乱雑なノイズが走る。
声を出すことも出来ず、その上絶えず鳴り続ける耳鳴りのせいで思考がまともに働かない。
必死で抗おうとするものの体は動かず、逃げる場所さえもない。
出来たのは、この苦痛が少しでも早く過ぎ去ることを願って唯じっと待つことだけだったが、その願いすらも誰にも届かない。うねる空間に合わせるように少しずつ、少しずつ意識が薄れていく。
織物の糸を解いていくかのようにゆっくりと、緩やかに。
そうして、まるで押し寄せる波に飲み込まれるような形でカナメは意識を失った。
何が起きたのかは最後までわからなかった。直前まで聞こえていた不思議な音がいつまで聞こえていたのかも、今となってはもはや知る由もない。
残されたのは相変わらず何もない、ただただ白いだけの空間。
―――それだけだった。