女乞食のシラミを取っていた母を想う
後に残された諭吉と通訳は、まだ路上にうずくまったままの女と少年を道路脇の木陰へ連れていった。女は、片足を曳きずりながら、少年に牽かれていく。
少年は、十歳くらいに見えた。薄い胸に肋骨が浮いている。表情は、まだ警戒を解いていない。女は、たぶん母親なのだろう。二人で身を固くして、手を取り合っている。
通訳の男が、安心させるようなしぐさをした後、話しかけた。その問いに、少年が、たどたどしく答えている。
諭吉は、その間、木陰に腰を下ろし、立てた両膝に手を置いて空を見上げた。
(なんでや……)
深く考えて取った行動ではなかった。
護衛兵士を睨み上げた少年を見た途端、身体が前に出ていた。何かが体内でブルッと震え、突き動かしたのだ。
背に母、於順の手を感じた。
諭吉は一八三五年(天保五年)、大阪で生まれた。父の百助が、中津藩の倉屋敷に勤めていたからだ。五人兄弟の末っ子である。
皆、その地で生まれた。満二歳のとき父が亡くなり、母とともに故郷へ戻った。士族ではあったが末端であり、とても日々の暮らしに余裕などなかった。
母は、慎ましやかな生活を送りながらも、必要に応じては物惜しみをするようなことはなかった。また、社会の底辺に棲まう人々とも分け隔てなく接していた。
乞食がやってきても嫌がることもなく笑顔で施し、丁寧な言葉遣いでねぎらった。それどころか、顔見知りであった知恵遅れの女乞食を家に呼んでは、髪を梳いたりシラミを取ってやったりした。さらに「シラミを取らせてくれた褒美だよ」といって、ご飯も食べさせていた。
幼いころの諭吉は、そのシラミ取りの手伝いをさせられていた。
近辺の者たちからチエと呼ばれていた、その女乞食を家の庭先に座らせ、襷掛けをした於順は、丹念にシラミを一匹ずつ取っては庭石の上に置き、横に控えさせた諭吉に小石でコツンとつぶさせた。
諭吉は、ボウボウの髪とボロボロの着物から発せられる臭気に辟易し、その場から逃げ出したかった。だが、チエに話しかけながら黄楊の櫛を使い、シラミを取り続ける母の側から離れることはできなかった。
いま思い出しても記憶の中の臭気が胸を突き、気分が悪くなるような光景であった。
だが、同時に懐かしく温かいものが、ジンワリと湧き上がってくるのを感じていた。
(それにしても、母は何を思っていたのか)
遥かエジプトの地に来て母を想う自分に微苦笑しながら諭吉は、親子の方を見遣った。
どうやら落ち着いたようだ。
「加減はどうだ」
通訳に尋ねた。
「もう、だいじょうぶ、みたい」
好人物らしい通訳の若者は、答える。
次に諭吉は、若者に通りかかった水売りを呼び止めさせ、親子のために水を購った。
「名は、何と言うのだ」
少年が水の入った器を両手で傾け、飲み干した頃合いをみて、問いかけた。
いまだに警戒心を解いていない。
「ムハンマド・アリー」
しばらく黙していたが、ポッと答えた。
名乗りながら、誇らしげな顔をした
何か聞き覚えのある語調の声であった。
「たいそう立派な名前だな」
諭吉は言った。
通訳が諭吉の言葉を伝えると、その顔はパッと輝いた。
「ところで、昨夜、部屋に忍び込んできたのは、お前か?」
落ち着いた声で、尋ねた。
若者はギョッとした表情を見せたが、そのまま通訳したようだ。
少年は、また拳を握り、身構えた。
「まぁ、落ち着きなさい。罰しようと言うわけではない。
理由を知りたいだけだ」
数秒の間、沈黙が流れる。
「……俺の父さんが、肌の白い外国人に殺された。
無理やり工事現場へ連れて行かれ、働かされた。
鞭で打たれたり、蹴られたりした。
それで死んだ。
その男が、あの建物に泊まると聞いた。
だから、仕返しをしようと思った」
少し躊躇いを見せた後、ボソボソッと言った。
悲しみと悔しさが入り交ざった顔つきであった。
そう言えば、そんな話もチラッと耳にした。
その外国人は総督のサイード・パシャと、かなり親しいようで、本殿の方へ泊まることになったらしい。
「そうか……、わかった。許す」
諭吉はムハンマドの頭をクシャクシャと撫で、ニコッと笑って見せた。
見上げていた少年も、ホッとした表情になった。
少年が、何か通訳に言っていた。
「旦那様のお名前を教えて欲しいそうです」
少年のしっかりと開かれた二つの目が、諭吉の顔を見つめていた。
「なぜだ。もう二度と会うこともなかろうに……」
諭吉は、また後で何かせびるために尋ねたのではないかという懸念を抱きながら問い返す。
「大きくなったら偉くなって、恩返しをしたいそうです」
若者も、少し驚きの表情を浮かべながら通訳した。
「……」
返す言葉がなかった。
(私は、何か間違っているのではないか)
さきほど秋坪に対して「バクシーシ、バクシーシ!」と叫びながら後を追ってくる人々を「乞食」と呼び捨て、その卑しい心根を痛罵したばかりである。言った言葉に間違いはないはずだ。
再び母、於順とチエの姿が思い浮かんだ。温かく明るい日差しが降り注ぐ庭先で、二人は互いに顔を見合わせ、屈託なく笑い合っていた。
「私の名は、フ・ク・ザ・ワ・ユ・キ・チだ。またな」
手に巾着から取り出した小銭を握らせ、そう言った。
すぐにロバにまたがり、通訳の若者と出発した。
「フ・ク・ザ・ワ・ユ・キ・チ――。
シュクラン(ありがとう)!」
少年の声が、背後から響いてきた。