カイロの街、貧民の群れの中を進む
そうした経緯はありながらもカイロでは、事を荒立てることもなく御目付役の指示通り侍装束に身を包み、ロバの背に跨って門を出た。
市街は、大通りを軸にして迷路のように曲がりくねった街路が張り巡らされている。
馬首を揃えて宿舎を出発しようとすると人々が集まってきて、指さすなどしながらザワめいていた。よほど侍装束が物珍しかったのであろう。
諭吉にとっては、先回の渡米で見慣れた光景であった。だが、松木と箕作は、少し不安そうな様子であった。
一行は、群集を払い除けながら出発し、細かい砂埃の舞い立つ中を進んでいく。
「バクシーシ、バクシーシ!」
薄汚れた布袋の底を裂いて頭を出しただけのように見えるガラベーヤを着た男たちが数人、器やカゴを手にし、訴えかけるような語調で叫びながら後を追いかけてくる。
「あの者どもは、何でござろうかな?」
並んでロバを歩ませる秋坪が、後を振り返りながら、諭吉に尋ねた。
「乞食でしょうね」
諭吉は、振り向きもせずに即答した。
「乞食というものは、道端に座って哀れみを乞うものだと思っていたが……」
考え込みながら秋坪は言った。
「やつらは、金持ちから物を貰うのは、当然の権利だと思っているんですよ」
吐き捨てるような口調で、諭吉は答える。
イスラム教には、「ザカート(喜捨)」と呼ばれる義務がある。
「あなたが財産を築くことができたのは、アッラーのおかげだ。自分一人の力ではない。
よって、信心の証として、同じ信仰を有する者へ分け与えなくてはならない」という考え方である。
寄港地であるアデン(アラビア半島の南端)でも、同じような光景を見かけたので、諭吉は現地を良く知る人に質問した。
すると、「金持ちは、自分の義務を果たすために喜捨をする。乞食は、その手伝いをしてやるのだから、恩を感じる必要はないと考えている」と、答えたのであった。
要するに乞食の姿勢としては「お前のために、もらってやる」ということだ。
諭吉は、そうした関係に抜き難い身分意識を感じ取った。
(そんな意識だから、いつまでたっても貧しさから脱出できないんだ!)
香港などの寄港地で見た現地人の卑屈な態度とも重なり合って、諭吉は、哀れみよりもイラ立ちを覚えていた。
一行は、「マホメット礼拝堂」(ムハンマド・アリー・モスク)をめざして、歩んでいく。
大通りから一歩横道に入ると、そこは干上がった側溝のような空間だった。あっちこっちに塵芥の山が築かれ、蝿が群れをなして飛び交い、糞尿の臭いが一行の鼻をついた。
建物の壁際には、萎びかけた野菜や果物を入れたザルを前にして座り込む老婆、壺や皿を高く掲げて喚く中年男、古着のガラベーヤを両手で広げて通行人へ差し出す女などが並ぶ。
物陰や壁の隙間には、襤褸切れの塊のようなものが、うずくまったり横たわったりしていた。
それらは、一行を認めると一斉に動き始め、口々に声を上げながら押し寄せてきた。
中には、汚れきった黒衣で全身を包んだ女性や丸裸に近い子どもたちの姿もあった。
立ちふさがる物売りや乞食の群れに対して案内人と正装をした護衛兵士二人が、怒鳴りながら手にした鞭や手槍を容赦なく左右に振るい、道を拓いていく。
その光景は、一行に恐怖と嫌悪感をもたらした。
とくに松木弘安は人一倍、怯えていた。突然、フラッシュバックのように故郷である薩摩の貧農たちの姿が思い浮かび、重なったからだった。
弘安は一八五七年(安政四年)、島津斉彬に侍医として江戸から国許へ呼び戻された。
西洋の技術を取り入れた藩内の近代化に関する業務を命ぜられ、理化学書の翻訳や写真術の実験、研究などのほか外交の関する任務を忙しくこなしていた。
そんな中、たまたま用事で農村へ赴いたとき、華やかな研究開発の現場とは相反した悲惨な現状を眼にした。
崩れかけた家に住み、元の形や色もわからぬくらいになった継接ぎだらけの着物を纏い、骨格が浮き出るほど痩せ細った農民たちの姿だった。浅黒い顔には、虚ろな表情が宿っていた。
薩摩藩は七十七万石を誇る大藩であったが島津重豪の時代、台所事情は逼迫していた。
一八二七年(文政十年)には、じつに五百万両もの巨額な借財を負い、江戸藩邸の金庫には、米二、三升を買うだけのお金しか残っていないこともあった。
こうした藩財政が斉彬の時代、一八五三年(嘉永六年)には「私には、少々の蓄えもありますので、軍艦の一五艘くらいはご提供するのに差し支えはございません」といった内容の手紙を、水戸斉昭に書き送ったほど改善していた。
この間、二十六年間に何がおこなわれたのか。
言わずと知れた調所笑左衛門の財政改革である。
調所は、大阪商人からの借金五百万両を実質的に踏み倒し、抜け荷や琉球を通した密貿易、贋金づくりなどの非合法手段で金を稼いだ。
農村に対しての賦課は、八公二民であった。また、定免制で不作の年でも定量の年貢を納めさせ、米作りの他にも各地の特産品の栽培を強要して専売するなどして強引とも言えるほどの蓄財をおこなった。
とくに奄美地方のサトウキビ栽培については、「黒糖地獄」と称されるほどの過酷な収奪体制を敷いた。基本的にサトウキビ以外は作らせず、そのほとんどを税として納めさせた。
結果として、島々では多数の餓死者を出し、自分や家族の身を売って農奴となるなどした。
農民の多大な犠牲の上に成った財政改革であった。そうでもしなければ二十六年間で、これほど急速な蓄財がなされるはずもなかった。
調所は、斉彬にとって天敵とも言うべき存在であったが、斉彬による藩の近代化は、調所の財政改革の結果によって成すことができたと言える。
そのことは斉彬自身、十分承知していて、財政に関しては調所の手法を踏襲した。
弘安は、そうした斉彬の藩政近代化の「影の部分」を目の当たりにした。
(近代化には、莫大な資金が必要なのはわかる。だが……)
斉彬は英明な君主として知られ、その国際認識と判断は確かに正しい。
しかし、その一方で、農村部の悲惨な現状に眼をつぶり、藩の近代化という光のみを追い求めたことも確かであった。
そうした斉彬の姿勢を知ってしまうと、手放しで賞賛する気持ちには、なれなくなってしまった。
斉彬が亡くなってからも有能な主君として尊敬する気持ちには変わりはないが、あの農村部の悲惨な光景は、強く印象に残ったままだった。
弘安が、そんな薩摩の惨状に思いを馳せていたとき、護衛兵士の激しい罵声が聞こえてきた。顔を上げて目を遣ると、先の路上には、丸まった黒い布があった。埃まみれで小刻みに震えている。布の端から素足が突き出ていた。たぶん逃げ遅れた黒衣の女なのだろう。
護衛兵が、大きく鞭を振り上げる。
すると、ボロ布を腰に巻いただけの少年が脇からダダッ!と駆け寄ってきた。
女の背に覆いかぶさる。
一瞬の静止の後、そのままの姿勢で振り向き、馬上の護衛兵士を見上げ、キッと睨んだ。その様は、大型犬を前にして歯を剥き出し唸っている痩せこけた仔犬のようであった。
鞭が、まさに少年の顔面に振り下ろされようとした。
そのとき――。
「待たれよ!」
諭吉が一喝した。
ロバをトットットと小走りに駈けさせ、間に割って入った。通訳が、慌てて後を追う。。
「ビシッ!」
驚いた護衛兵士は鞭の角度を変え、地を打つ。
「ここは、私に任せてくれ」
諭吉は兵士に向かってそう言うと、今度は苦々(にがにが)しげな顔をした御目付役に対して、笑みを浮かべながら片手拝みをした。
御目付役は「フン、勝手にしろ!」というふうにソッポを向き、案内役を促して馬の手綱を引いた。
「先に行っててください。すぐに追いつきますから」
気遣う秋坪と弘安には、そう声を掛けた。




