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ホテルで泥酔――真夜中の侵入者

 福沢諭吉の「青春談義」に、箕作と松木も笑いながら(きょう)じて、話は弾んだ。とくに秋坪は「適塾」の先輩なので、(うなづ)いたり口を(はさ)んだりして、場は、大いに盛り上がった。

 汽車は、五時間ほど走ってエジプトの首都、カイロへ到着した。そして、迎えの馬車へ乗って夕闇(ゆうやみ)の中を宿舎へ向かった。

 到着した宿舎は、大理石をふんだんに使用した石造り三階建ての豪邸であった。

 玄関を入ると天井の高い広間となっていた。

 外国初体験組は胸に風呂敷包みや小型の柳行李(やなぎごうり)を抱え、周囲を見回しながら()り足で歩を進める。

「ほおう、明るうおますなあ」

 途中、灯火の明るさに感嘆の声が上がる。

(ワス)だべうか」

 等身大の鏡の前を通りかかった東北の藩出身の若者が、映った自分の姿にギョッとしたりもした。

 諭吉は、アメリカで購入した革製の旅行鞄を提げ、いつもと変わらぬ足取りで歩いていた。

 

 諭吉ら三人は、同じ部屋となった。

 部屋に入ると、花柄模様のジュータンが一面に敷き詰められていた。花びらを(かたど)ったガラス製 シャンデリアの光が辺りを照らしている。

 諭吉はホテル暮らしを経験しているので、落ち着いていた。

 箕作と松木は、何か腰が定まらない様子で、檻の中の熊のようにウロウロしている。

「まあ、落ち着いて一杯やりましょうや」

 諭吉は、床のジュータンへドカッと腰を下ろした。

 鞄の中をガサゴソとかき回してウィスキーの瓶を取り出す。航海中にイギリス人から買い入れておいた物だ。

 箕作と松木も、近くに寄って座り込んだ。

「私の経験から言えば、外国との交渉の秘訣は、まずは相手を()んでかかることです。

 最初からビクついていては、相手に足元(あしもと)を見られ、まともに扱ってもらえません。

 イギリスを飲んでやりましょう」

 そう言いながら諭吉は、(たな)にあったガラスコップを取り出し、目の前へ並べる。

 ドボドボッとウィスキーをコップ三分の一ほど注いだ。

 諭吉の脳裏には、スエズの港で誇らしげにはためいていたユニオンジャックのフラッグが浮かんでいた。

「では、後でフランスも飲んでやらんくては、いけんとですな」

 ニヤッと笑みを浮かべながら、松木が赤ワインと干し肉を取り出し、みんなの前へ置いた。着替えをしたスエズのホテルで購入したものである。

 長崎で学んだ蘭学者の間では、「()(ラン)()正月」という西洋風の料理を食べながら語り合う催しがおこなわれていた。

 弘安の養父である松木宗保は、長崎滞留が長かった。弘安も子どものときから洋風料理になじみ、ワインも口にしていたのである。江戸へ出てからも仲間の蘭学者たちと、ときおり手に入るワインを味わっていた。


 この夜は宿舎への到着が遅かったこともあって正式な晩餐(ばんさん)会はなく、三人がアルコール(しゅう)(ただよ)わせながら夕食の席に就いても、とくに(とが)められることもなかった。

 部屋に戻ってからも、酒宴は続いた。

 真夜中、諭吉は、(かす)かな物音(ものおと)で目が覚めた。子どもの頃から、過敏症(かびんしょう)である。それに加え最近は、「英語を学ぶ売国奴」として、台頭しつつあった攘夷論者たちに付け狙われていた。殺意に敏感になるのも無理なかった。

 飛び起き、()(がま)えた。

 窓から月明かりが差し込んでいる。その光をバックに小さな(かげ)(ぼう)()が浮き上がっていた。

「誰だ!」

 影の手に握られていた棒状のものが、キラリと光った。

「●×△■※!」

 何事(なにごと)か叫んだが、異国の言葉である。わかるはずもなかった。ただ幼い子どもが、泣き(わめ)くような響きであったことは、記憶に残った。

 影は、すぐに身を転じて窓の外へ投じ、姿を消した。

 諭吉は、今起こったことが何であったか理解できずに、しばらくボーとしていたが、また睡魔に襲われ、再び横になった。


「アッラール、アクバル!(神は、偉大なり!)

 アッラール、アクバル!」

 朦朧(もうろう)とした頭に、遠くから高く澄んだアザート(祈りの時間を告げる詠唱)の声が聞こえる。

 昨夜は夕食後も三人は、語らい合いながら飲み続け、酔いに任せてジュータンの上で寝込んでしまった。今も夜中の騒ぎなど(つゆ)知らぬまま、眠りこけている。

 諭吉は、二日酔い気味の頭を叩きながら、朝日の射し込む部屋の窓を開けた。

 砂漠の国なのに、なぜか肌寒い。ブルッと()(ぶる)いして、着物の(えり)をかき合わせ、あたりを見渡す。

 ちょうど朝日が、その姿を現した。良く晴れた空に(あふ)れんばかりの光が満ち、寝ぼけ眼には、まぶしいばかりだ。

 目の前には花壇があり、その先には、石造りの建物やレンガ造りの建物が立ち並んでいた。近くにある豪奢(ごうしゃ)な建物の中庭には()()の木が植えられ、大理石で作られた方形の池には水がたたえられている。

 一方、「()()(れん)()」を積み、泥で塗り固めただけの家も数多く見受けられた。

 中には、今にも崩れてしまいそうなものも少なからずあった。

 大通りでは、早朝であるというのに荷車や馬車が車輪の音と(すな)(ぼこり)を立てながら()()っている。人もアラビアやトルコの民族衣装だけでなく、背広に帽子といった洋装の人間も見かけられ、ゆっくりと、また、忙しそうに歩んでいた。

 その雑踏をまっすぐ割るようにして、赤いフェズ帽を被り、鼻の下に「八の字髭」を(たくわ)え、(あい)色の詰襟服(つめえりふく)を着て弾帯を肩から斜めに掛けた兵士たちの一群が、長銃を肩にして隊列を組んで進んで行く。

(これまたアメリカとは違った異国へ来たんだなぁ)

 諭吉は、欠伸(あくび)をかみ殺しながら、改めてそう思った。

 朝食としてパン二切れを食べ、濃厚なコーヒーを飲み干した。

 市街や名跡(めいせき)の見学に出ることになった。案内人の引率のもと、希望者だけロバや馬に乗ってあっちこっち見て回るのだ。諭吉たち三人は、ロバに乗ることにした。


 当時のカイロは、約三十万人ほどであったと推定されている。

 エジプトは形式上、オスマン帝国に所属し、一つの州として総督サイード・パシャ(一八二二~一八六三)の統治下にあった。

 しかし、初代ムハンマド・アリーのときから、実質的には独立した国としての体裁(ていさい)を整えていた。

 城壁に囲まれた市街やその周辺には、エジプト人の他、トルコ人や周辺の遊牧民族、各種の利権事業に関わるヨーロッパ系の人間など、多種多様の人種が群れ(つど)っていたようだ。


 諭吉たちは、羽織袴に刀、頭には笠、草鞋わらじ()きといった純和風の(よそお)いであった。これは、使節団としての面目(めんもく)を保とうという()()(つけ)役、(きょう)()()(との)(かみ)の指示である。

 これまでも寄港して上陸する度に能登守配下の下役(したやく)が、随行員たちの行動に監視の目を光らせていた。どうも外国の目新しい品物を買ったり、その土地の人間と接したりするのを防ごうとしているようだ。


 諭吉が香港で靴を買ったときも、そうだった。

 他の若者たちも初めて異国の地に臨んだ興奮も相まって、船に乗り込んできた商人から(きそ)うようにして靴やワイシャツ、または柄物(がらもの)のハンカチーフなどを買い込んだ。

「西欧に着いたら履いてみるんじゃ」

 夕刻、甲板で、手に入れた品物を自慢げに見せ合っていたところへ、目付の下役二人がやってきた。

「寄こせ」

 年配の下役が若者の手から()()を言わさず靴を取り上げ、海の中へ放り込んでしまった。

「何をなされまするか!」

 その若者は、抗議の声を上げた。

 他の者も、視線を下役に送った。

(おろか)か者!

 貴様らは、今回の旅を何と心得(こころえ)る。

 公儀の()()(こう)を示しに『()(てき)の国』へ(おもむ)くのだぞ。

 武士(もののふ)としての矜持(きょうじ)を忘れたか!」

 下役は怒りに震える若者たちを前にして、傲然(ごうぜん)とした態度で一喝(いっかつ)した。

 そもそも今回の遣欧使節団派遣には、西欧諸国に対して幕府が唯一の正当な行政府であることを示す目的(ねらい)もあった。

「幕府の威厳を保ち、(えびす)どもの(あなど)りを受けることのなきよう気を配れ。

 それが、我らの役目ぞ」

 目付役たちは、そう申し合わせていた。

 その肩ひじ張った意気込みは実際に異文化と接する場面で、(かたく)ななまでの拒絶や強圧的な態度となって表された。

 当然のことながら、それは新知識を渇望(かつぼう)する若者たちとの間に軋轢(あつれき)を生み、道中における不満の噴出や(いさか)いの(たね)となった。


 諭吉は、少し離れた場所で箕作や松木らと雑談をしていた。

 そこへ若い方の下役が、つかつかと歩み寄ってきた。

「確か貴公も、靴を(あがな)ったのではござらぬかな」

 (まゆ)()を寄せ、諭吉の顔に()め付けるような視線を送りながら、問いただした。

「いかにも、私も購いました。それが……?」

 諭吉は、平然と答えた。

「今すぐ、この場へ出していただこう」

 従僕扱いの若者たちに対してよりは丁寧(ていねい)(もの)()いではあったが、横柄(おうへい)な態度であることには変わりなかった。

「仰せには、従えませんな」

 諭吉は、即答した。

「なにっ!」

 下役の顔に()()が表れた。

「私は、『外国事情の探索』を命ぜられています。

 外国の生活文化を調べるのに必要な洋靴を購ったことに、何か問題がございますか?」

 薄笑いを浮かべながら諭吉は、そう言い放った。

「……!」

 下役は拳を握りしめ、肩をいからせながらも、次の言葉を発することはなかった。

 一つ言われたら、機知に富んだ言葉を操って十言い返す弁舌巧みな諭吉である。その姿を思い起こしたからであろう。

「チッ!」

 忌々(いまいま)しげに舌打ちをした後、握った拳を解くこともなく、立ち去って行った。

「どうやら、お(えら)いさんたちは日本の鎖国を(かつ)いで来て、そのままヨーロッパを巡回する気らしいね」

 諭吉は、その後ろ姿を見送りながら、皮肉たっぷりな口調で箕作と松木に語りかけた。

 実際に当初、乗船する際に、鎧兜(よろいかぶと)を積み込もうとしたくらいだ。

 これは、福地源一郎が、(あわ)てて止めた。

「戦国時代じゃあるまいし……」

 ため息をつきながら、つぶやいた。

 西欧の事情に詳しい彼にしてみれば「お偉いさん」たちの所業(しょぎょう)は時代錯誤の(きわ)みで、先行きが案じられた。

 源一郎は長崎で生まれ、漢学や蘭学を学んだ後、江戸へ出た。そこで通詞(通訳)として名を馳せていた森山栄之助の下で二年間学び、英学と英語を(おさ)めた。

 使節団へ加わる前には、開港した横浜の「神奈川運上所」へ勤めていた。

 運上所とは、現代でいう通関や外交業務を行っていた役所である。

 全国から語学に優れた人材が、集められていた。

 ちなみに松木弘安は同僚で福沢諭吉とも、このとき出会っている。

 後に明治期を代表する文化人、ジャーナリストとして活躍した。

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