自分たちで勉強会――学力で席順を決める
塾生はヤンチャもしたが、勉強もした。
「適塾」の学習は、ますオランダ語の文法から始まる。
まず初心者は基本の文法書二冊を読み込むことが、義務付けられていた。
その後、「会読」と呼ばれる全員での勉強会へ参加することが許された。
緒方洪庵は医者としての仕事が忙しかったので学習は、主に先輩が後輩へ指導するというかたちでおこなわれていた。
会読は月六回、開催された。
学業の首席者が、原書の数行を読んで解説し、質疑応答や討議をおこなった。
その際の応答は評価の対象となり、上級者たちが、評点を付けた。
成績は八級に分けられ、学習の習熟度によって進級していく。
これは単なる順位に留まらず、まさしく「席順」でもあった。
成績で、机と寝床の位置が決まった。
優秀者から、居場所を選ぶことができる。窓際や出入り口に近いところから埋まっていった。
部屋の真ん中辺りは暑いし、夜中に便所へ行く者に踏ん付けられる恐れがあった。よって、良い場所を確保しようと、みんな必死に勉強した。
テキストとなる原書は、指定箇所を書き写して会読に備えた。
辞書は二種類で一冊すつしかなかった。専用の「辞書部屋」に置いてある。
塾生たちは、その部屋に詰めかけて辞書を取り合い、予習に励んだ。よって、会読が近づくと、辞書部屋の灯りは終夜、消えることがなかったいう。
しかし、競争は激しくてもギスギスした雰囲気ではなく、ゲーム感覚で楽しんでいた。なぜなら、勉学の目的意識が希薄だったからだ。もちろん家業を継いだり立身出世のためといった目的はあったが、それ以上に、学問を究めること自体に喜びを感じていた。
諭吉は、自伝で次のように語っている。
「粗衣粗食――。見る影もない貧書生でありながら、知力・思想の活発・高尚なることは、王侯貴族も眼下に見下ろすといった気位で、ただ難しければ面白い……」
つまり「日本で誰もやっていない学問を、自分たちはやっているんだ」という誇りと気概を持ち、日夜を問わず原書と格闘していたのだ。
それを如実に物語るエピソードがある。
ある日、緒方洪庵が「お出入り(掛かりつけ)医」を務めている筑前(福岡県)の黒田侯から最新の窮理(物理学)の原書を借りてきて、塾生たちに見せた。
当時、塾に原書は、窮理と医学に関するものが十冊しかなかった。
塾生たちは、原書に飢えていた。目を輝かせて、ページをめくった。
その中でも、フライデーの電気についての解説に魅かれた。
「よし!
訳そう」
塾生たちは三日二晩かけて書き写し、翻訳した。
「いま日本で、電気のことを詳しく知っているのは、自分たち」だけだぞ」
そう語り、喜び合ったという。
また、塾生たちは机に齧りついてばかりいたわけではない。医学の他、化学や物理の実験にも取り組んでいた。
動物だけでなく刑死人の解剖も手掛け、硫酸やアンモニアなどの化学薬品を作り、メッキを試みるなど、いろいろやっていたようだ。
塾の雰囲気として「遊ぶときは遊び、学ぶときは学ぶ」という姿勢があったことがうかがわれる。そうした活動をするときも、「自主性」が重んじられた。これも、緒方洪庵の教育方針であったという。
つまり「ガラスの檻」は、なかった。
塾生は思う存分、自分の才能を開花させ発揮することができた。
このように他者から束縛されることの少ない「適塾」からは、「独自の発想と行動力」を持った人材が、次々と生まれた。
福井藩主、松平春嶽のブレーンとして活躍した若き天才、橋本左内。彼は、外国勢力の動きを詳しく調べて危機感を持ち、その見地から日本の政治体制の在り方を考えた。
「適塾」へは、十六歳で入門した。知識豊富で論理的な弁舌に優れ、当時の有識者たちを驚かせた。西郷隆盛も同じくらいの年齢ながら彼を敬愛し、「西南の役」で自害する瞬間まで、橋本左内からの手紙を大事に持っていたという。
しかし、その先見性が仇となり、二十五歳の若さで幕府の手によって斬首された。いわゆる「安政の大獄」の犠牲者である。
近代兵制の創始者で、徳川幕府を滅ぼした討幕軍の司令官、大村益次郎(村田蔵六)。事実上の「日本陸軍の創始者」と言われる。
兵器だけでなく、蒸気機関の研究もおこない、蒸気船の雛形も造った。「適塾」では塾頭を務めたほど、優秀だった。彼を知る人は、「その才知、鬼の如し」と評している。
長州藩のために尽くしたが鋭く改革を進めたため、藩内の反発を買い、ついには暗殺されてしまった。
この他、「適塾」の教育は、「日本赤十字社」を創設した佐野常民、「東京医学校」(後の東京大学医学部)の校長を務め、「衛生」の考え方を広めた長与専斎、日本工業の近代化を進めた大鳥圭介など、数々の「未来の先駆けとなった業績」を残した偉人を生み出した。
諭吉は、このような「自由で、自律的な環境」のもとで、よく遊び、よく学んだ。
猛烈に勉強した。
目が覚めている間は、本を読んでいた。眠くなったら机に突っ伏すか、「床の間」の縁に頭を預けて寝た。布団には、入らなかった。だから、枕を持っていなかった。それに気付いたのも、後になってのことだという。
その甲斐あって学業成績はトップとなり、「塾頭」に任ぜられた。本人としては、とくに努力したという意識はない。とにかく新しい知識に接することが楽しく、熱中した結果でしかなかった。