福沢諭吉の青春「振りチン」生活日記
「福沢さあん、福沢さあん――」
遠くから呼ぶ声が、聞こえる。
(うるさいなぁ。
せっかく良い夢を見ていたのに……)
諭吉は、ムクッと身体を起こした。
涎の跡が、眼前の小机に付いていた。
突っ伏して眠っていたのだ。
障子が、夕日に映えている。
「タン、タン、タン――」
不機嫌な気分のまま、二階の大部屋を出て、階段を踏み鳴らしながら、下りていく。
「何の用だ」
薄暗い土間に人影を見て、ぶっきら棒に言った。
女中だと思った。
相手は驚いた様子で、固まっていた。
よく見ると、タスキに前掛け姿の中年婦人。
師である緒方洪庵の妻、八重であった。
(しまった!)
諭吉は、己の下半身を見る。
何も着けていない。素裸だ。
手で股間を隠し、膝を合わせてスタンと座り込む。
顔を上げられなかった。
八重は用件を告げることもなく俯きながら、そそくさと奥へ引っ込んでいった。
安政二年(一八五五年)、福沢諭吉は、大阪の過書町(現在の大阪市中央区北浜三丁目)にあった蘭方医、緒方洪庵の『適塾』へ入門した。二十二歳のときである。
最初は通いであったが、後に住み込みの「内塾生」となった。
当時、諭吉の記憶によると百人ほど在籍しており、そのうちの五、六十人が内塾生であったという。
二階の二十八畳ある大部屋で、寝起きしていた。
いちおう塾の決まりでは、「一人につき一畳」だ。だが、その数が記憶違いであるにしても、定員オーバー状態であったことは推測される。
いくら江戸時代の人間が小柄であったとしても、手狭であった。文字通り「汗牛充棟」といったところであったろう。
よって、夏場ともなれば、みんな褌もせずに素裸で過ごしていた。
「振りチン」の若者たちが、手拭いを首に掛け、団扇や扇子をパタパタさせながら、机に向かったり、間を歩いたりしている光景は、さぞかし汗臭く暑苦しかったであろう。
諭吉も、そんな暮らしに慣れてしまっていた。
だから、つい着物を引っ掛けて部屋を出るのを忘れてしまっていたのだ。
塾は、蘭学と西洋医学の習得を目的としている。
塾生は蘭方医の息子や志願者が多く、全国から集まっていた。大方は苦学生であったという。仕送りだけでは足らず、アルバイトをしながら、学んでいたのであろう。
医者の髪形は、坊主頭か月代を剃らない「総髪」であった。
総髪は肩のあたりで切りそろえるのが定型であったが、塾では、さらに短い「半髪」というのが流行っていたという。現代人の髪の長さに近かったのかもしれない。ただロクに櫛も入れなかったであろうから、ボサボサ頭であったに違いない。
着物も、「着たきり雀」であった。着替えが実家から届いても、質屋へ直行した。外出着は、貸し借りで賄った。
洗濯も、あまりしなかったようだ。日中に暇ができると、せっせと着物に集ったノミやシラミをプチンプチン潰す作業に勤しんでいたらしい。
食事は、塾の女中が用意してくれた。
知らせがあると着物を引っ掛けて階下へ降りた。
ご飯の他は、トウフかシジミの味噌汁、イモとネギを煮たものくらい。それを、立ったまま、ガツガツとかき込んだ。
夜中に腹がすくと、そっと塾を抜け出して場末の安い居酒屋や牛鍋屋へ行き、腹を満たした。牛鍋屋といっても、肉は硬くて臭かった。
金はなくても酒は、大いに飲んだ。誰かのところに仕送りがあれば、すぐに酒盛りが始まった。とくに諭吉は、子どものときから飲んでいたので、勉学以外は、酒のことばかり考えていたようだ。
諭吉は後年、塾のハチャメチャな暮らしぶりを、懐かしそうに語っている。
夏の夕方、部屋で五、六人の仲間と酒を飲んでいた。むろん素裸だ。
とにかく暑い。
「おい、物干し場で飲もうぜ。
少しは涼しいだろう」
一人が、提案した。すぐに衆議一決する。
物干し場を見ると、すでに塾の女中が数人、夕涼みをしていた。
「先客がいるぞ」
お互いに顔を見合わせる。
「俺に任せておけ。
追っ払ってやるよ」
長州(山口県)生まれの松岡という男が、胸を叩いた。
素裸のまま窓から出て、屋根伝いに物干し台へ向かう。
「お松どん、お竹どん、今日はホントに暑いねえ」
ワザと腰を振り、一物をブラブラさせながら近づいた。
話の輪に割り込み、真ん中で「大の字」になって寝ころんだ。
現代だったら、「キャー」という悲鳴が上がるところだが、女中たちは動じない。
「あれまあ、かわいいナスと小イモが、やってきたわ。
これじゃあ、オカズにもなりゃしない」
寝そべった勝岡の身体にチラッと目を遣りながら、言い放った。
そして、ケタケタと笑い合いながら、下りて行った。
女中たちの住まいも、二階だった。塾生たちの裸など、見慣れていた。
「しかたのない人たちねえ」といった感じであったろう。
「ビンネンコート(早く来い)!」
松岡は、オランダ語で叫んだ。
ムスッとした顔つきである。
さっきの一言が、効いたのであろう。
「振りチン」集団が、酒とツマミを抱えて屋根の瓦を踏み、ゾロゾロと渡っていく。
街へ繰り出しても、「ヤンチャ」をやっていた。
喧嘩の真似をして大騒ぎをしたり、飲み屋で小皿や団扇をくすねてきて自慢し合ったりといった悪さをした。そのくすねた小皿を橋のから下を通る屋形船に投げつけたこともあった。そのときは、危うく乗っていた芸者に怪我させるところだった。これに関しては諭吉も、さすがに反省している。
痛快な出来事もあった。
あるとき薬種屋(薬問屋)から、「入荷した熊を、後学のために解剖して欲しい」という依頼があった。
解剖ができる塾生七、八人が出掛けて切り開き、臓器を一つ一つ取り出しながら解説をしていった。
ところが、肝臓を摘出したところ、「これは、有難い」と言って解剖場所から胆嚢を持ち去ってしまった。
つまり最初から、胆嚢を傷つけずに取り出させることが、目的だったのだ。今でも「熊の胆」と呼ばれ、漢方薬として使われてほど薬効の高い貴重品であった。
それを知った塾生たちは、怒った。
「このままでは済まさん。
こねくり回してやるぞ!」
一同、頷き合う。
イチャモンを付けに、薬種屋を紹介した医者の所へ行くことにした。
医者も、目的を知っていたようだった。グルだったのである。
諭吉が、脅迫文を書いた。
いつもは「振りチン」の塾生が、羽織袴に刀といった姿で、乗り込んだ。
文を読み上げ、問い詰めた。
医者は、平謝りの上、酒五升と鶏肉や魚を差し出した。
みんな大笑いをしながら意気揚々と塾へ引き揚げ、大宴会を開いた。
塾生はヤンチャもしたが、勉強もした。
「適塾」の学習は、ますオランダ語の文法から始まる。
まず初心者は基本の文法書二冊を読み込むことが、義務付けられていた。
その後、「会読」と呼ばれる全員での勉強会へ参加することが許された。
緒方洪庵は医者としての仕事が忙しかったので学習は、主に先輩が後輩へ指導するというかたちでおこなわれていた。
会読は月六回開催された。
学業の首席者が、原書の数行を読んで解説し、質疑応答や討議をおこなった。
その際の応答は評価の対象となり、成績が付けられた。
成績は八級に分けられ、学習の習熟度によって進級していく。
これは単なる順位に留まらず、まさしく「席順」でもあった。
成績で、机と寝床の位置が決まった。
優秀者から場所を選ぶことができ、窓際や出入り口に近いところから埋まっていった。部屋の真ん中辺りは暑いし、夜中に便所へ行く者に踏ん付けられる恐れがあった。よって、みんな必死に勉強した。
テキストとなる原書は、指定箇所を書き写して会読に備えた。
辞書は二種類で一冊すつしかなかった。専用の「辞書部屋」に置いてある。
塾生たちは、その部屋に詰めかけて辞書を取り合い、予習に励んだ。よって、会読が近づくと、辞書部屋の灯りは終夜、消えることがなかったいう。
しかし、競争は激しくてもギスギスした雰囲気ではなく、ゲーム感覚で楽しんでいた。なぜなら、とくに勉学の目的がなかったからだ。もちろん家業を継いだり立身出世のためといったことはあっただろうが、それ以上に、学問を究めること自体に喜びを感じていた。
諭吉は、自伝で次のように語っている。
「粗衣粗食――。見る影もない貧書生でありながら、知力・思想の活発・高尚なることは、王侯貴族も眼下に見下ろすといった気位で、ただ難しければ面白い……」
つまり「日本で誰もやっていない学問を、自分たちはやっているんだ」という誇りと気概を持ち、日夜を問わず原書と格闘していたのであろう。
それを如実に物語るエピソードがある。
ある日、緒方洪庵が「お出入り(掛かりつけ)医」を務めている筑前(福岡県)の黒田侯から最新の窮理(物理学)の原書を借りてきて、塾生たちに見せた。
当時、塾に原書は、窮理と医学に関するものが十冊しかなかった。
塾生たちは、目を輝かせてページをめくった。
その中でも、フライデーの電気についての解説に魅かれた。
「よし!
訳そう」
塾生たちは三日二晩かけて書き写し、翻訳した。
「いま日本で、電気のことを詳しく知っているのは、自分たち」だけだぞ」
そう語り、喜び合ったという。
また、塾生たちは机に齧りついてばかりいたわけではない。医学の他、化学や物理の実験にも取り組んでいた。
動物だけでなく刑死人の解剖も手掛け、硫酸やアンモニアなどの化学薬品を作り、メッキを試みるなど、いろいろやっていたようだ。
塾の雰囲気として「遊ぶときは遊び、学ぶときは学ぶ」という姿勢があったことがうかがわれる。そうした活動をするときも、「自主性」が重んじられた。これも、緒方洪庵の教育方針であったという。
諭吉は、このような自由な環境のもとで、よく遊び、よく学んだ。
猛烈に勉強した。
目が覚めている間は、本を読んでいた。眠くなったら机に突っ伏すか、「床の間」の縁に頭を預けて寝た。布団には、入らなかった。だから、枕を持っていなかったとのことだ。それも、後になって気付いたという。
その甲斐あって学業成績はトップとなり、「塾頭」に任ぜられた。本人としては、とくに努力したという意識はない。とにかく新しい知識に接することが楽しく、熱中してしまった結果でしかなかった。