「天」に意思はあるか――砂漠を走る列車の中で
駅を出発して、しばらくすると窓の外は、砂漠の世界となった。
諭吉の前の席には、箕作秋坪と松木弘安が座っている。
二人とも細面で、医者の身分であるため、きれいに剃り上げた坊主頭である。
松木弘安は頬骨が張っており、細めの顎の上にボッテリとした大きく厚い唇が載っていた。
(馬面というのは、まさにこのような顔のことだな)
顔を正面からまじまじと見た諭吉は、あらためて思った。
一方、箕作秋坪はというと、頬骨の張りぐあいを除けば、弘安とよく似た容貌だったが、ギョロっとした両目には知的な光が宿っていた。
儒者の家に生まれ、最初に師事した箕作阮甫に見込まれ婿養子に迎えられた逸材である。
箕作と松木は、三十歳半ばの物腰の落ち着いた男たちであった。だが、さすがに心躍りは隠せないようである。
初めて目にする「乾いた荒海」とも言うべき景色に目を奪われ、言葉を交わすこともなく見入っていた。
「ほう」
「おおう」
諭吉の耳に入ってくるのは、大きく波打ちながら連なる砂山に対して発せられる二人の感嘆の声だけだった。
彼らを乗せた列車は、百三十七キロ先にあるカイロへ向かっている。
煙をたなびかせながら約二十三キロのスピードで、広漠とした砂原を一文字に駆け抜けていく。
「瑠璃色……、だろうか?」
諭吉は列車の窓枠に頬杖をつき、空を眺めていた。
窓の外は、空の青と砂漠の薄茶色で上下二色に塗り分けられ、その境目に沿って街道の線が描かれている。
数頭のラクダが一列縦隊で、ゆっくりと歩んでいた。背には荷物を積み、人らしき姿も見える。それらも広大な空と砂漠の画中にあっては、点景にしか過ぎなかった。
「いやぁ、『言語に絶する』とはこのことでござるなぁ」
窓辺から目を離した秋坪は、諭吉に語りかけた。
その語調は、親しみのこもったものだった。二人は、在籍時期は異なるが、大阪の緒方洪庵が営む「適塾」出身者である。
「まことに……」
秋坪の言葉に誘われるようにして、頬杖を窓枠から外して姿勢を正した諭吉は、言葉少なく応じた。
「福沢どの、考え事でもしてござったのかね?」
ふだんは快活で多弁な諭吉が、やけに真面目くさった表情で遠くを見ていたので、箕作は気になったのだ。
「ええ、空を見ていたんですよ」
そう答えた諭吉の顔は、いつもの笑顔に戻っていた。
「空ねぇ……」
秋坪も、また車窓の外へ目を向けた。
その視線の先には、神々の座す天上界まで吹き抜けていそうな蒼穹が広がっていた。
それまで荒海で波打っているかのような砂丘の連なりに目を奪われていただけに、その上を覆う静かなる蒼き天蓋は、箕作の心にも新鮮な驚きを与えた。
「『天』でござるな」
「そう、『天』です」
瞬時にお互いの胸の内がわかり合えたかのように、静かにうなずきあった。
箕作秋坪は、オランダ語を習得し西欧の知識を学ぶ蘭学者であると同時に漢学の大家でもある。
福沢諭吉もまた、自身で「漢学者の前座くらいは務まる」といっていたくらいに漢学の素養を身に付けていた。
砂漠の上に広がる深い青の世界。
真ん中に極限にまで熱せられた「坩堝」(真っ赤に溶けた金属を入れた容器)のような太陽。
そこから溢れ出た幾万本もの細く鋭利な光の刃先が、手をかざして見上げる二人の目を射抜いた。
「天道、是か非か」
諭吉は、目をしばたたせながら独り言のようにつぶやく。
「ほほう『史記』ときたでござるか」
『史記』は紀元前一世紀、司馬遷によって書かれた中国の歴史書である。
江戸時代の知識人なら、必ずと言ってもよいくらい読んでいた書物だ。
秋坪には、諭吉の言わんとしたことが、すぐにわかった。
これは、漢学の世界では、よく論じられてきたテーマである。
孔子は『論語』において天命を語り、「この世で起こることのすべてに天の意思が働いている」とした。
それに対して司馬遷は、疑問を感じた。
歴史的な事実を検証することで、その是非を確かめようとし、『史記』を著したと言われている。
「不正義や不平等がまかり通っている現実にも、天の意思が働いているのか?」ということだ。
諭吉は、なぜ「天道、是か非か」ということを考えていたのか。
これが儒教に基づく封建制度の根幹に関わる問題であるからだ。
皇帝や王など現世の権力者たちは、自らが振るう権力の源、つまり正当化の理由として、「天の意思」をあげていた。いわゆる「天命」である。
「天に自らの意思などない」ということにでもなれば、権力の正当性を失うことになる。
その正当性が、ペリーの来航以来、新しい考え方や文化が入ってくることによって、ゆらぎ始めた。
諭吉は、そのことに気づき、自分たちが無意識のうちに背負っている「ものの考え方」を問い直す必要を感じていた。
「福沢どのは、どうお考えでござるか?」
秋坪は、興味深そうに尋ねた。
「この世のことを、すべて天帝が操ってなさるとしたら、国によって、ずいぶん扱いを変えているようですよ」
戯言めいた口調で諭吉は、答える。
「私は先年、アメリカへ行って驚いたことがあるんです」
諭吉は、ちょうど二年前の一八六〇年(万延元年)、遣米使節団の従僕として、「咸臨丸」でアメリカへ渡った。
「あるとき、オランダ人の医師の家に招待されましてね。馳走にあずかったんですわ」
「……?」
「日本の宴会では、亭主がドカッと座って客の相手をしますでしょ。
ところが、あっちでは、内儀さんが正面に座りこんで、客の取り持ちをしていたんですわ。
一方、ご亭主はというと、料理を出したり、酒を注いだりと立ったままアッチコッチ動き回っているんですよ。
『こりゃ、わが国とアベコベだわ!』と思いましてね、ほんとうに驚きました」
諭吉は、当時の驚きを思い起こしながら、箕作秋坪に向かって語った。
「ほほう」
秋坪は、興味深そうに顔を寄せてきた。
何かを思い出そうとしたのか、首をひねって視線を宙に泳がせた。
「確かに、これまで立ち寄ってきた港に寄留している英国人どもも、婦女を大切に扱ってございましたな。
食事のとき、婦女が席に着こうとすると、夫らしき男が椅子を引いて手助けをしていましたぞ」
「ええ、そうなんですよ。私も気づいていました。
船員に尋ねたら、あれはジェントルメン(紳士)の心得なんだそうです」
この男女の関係については今回の航海の途中でも、理解しがたい思いを何度か抱いた。
とくに港で別れを惜しんでか男女が、人前で抱き合いキスをする光景を目撃した使節団のメンバーたちは、何ともいえないカルチャーショックを味わった。
「ふしだらな!」と怒る者、あっけにとられてポカンとした表情で見つめる者など反応は様々であったが、一応に異国の地にやってきたことを実感した。
「なにせ我らは、『男女七歳にして、席を同じくせず』で育ってまいりましたからな」
小さなため息をつきながら秋坪は、言った。
「それに、もう一つ不思議に思い、答えを聞いて驚いたことがありましてね」
ちょっと気を持たせるような調子で、諭吉は言った。
「ほう、そりゃ何でござるかね?」
秋坪も、それに乗り、目で答えをせがんだ。
「ふと疑問が胸に浮かんで、滞在していたホテルの人間に尋ねたんですよ。
『アメリカの初代大統領、ワシントンの子孫は、どうなっているのか?』って……」
アメリカ合衆国独立の立役者でもあるジョージ・ワシントンの子孫なんだから、今でも良い身分で豊かな生活をしているんだろうと思っての質問だった。
「そうしたら、『知らない』と答えたんです」
諭吉は、思わず「えっ?」と声に出して聞き返してしまったほど、驚いた。
知り合った何人かに同じ質問をした。
ようやく一人が、「女性の子孫がいるはずだ。いまどうしているかは知らないが、誰かの女房にでもなっているじゃないかね」と、何の関心もなさそうな口調で答えてくれた。
「やぁ……、不思議に思いましたわ。
初代大統領といったら、日本で言ったら幕府を開いた権現様といったところじゃないですか。
我が国で、権現様の子孫を知らないなんて、ありえませんよ」
権現様とは江戸幕府の開祖、徳川家康のことである。
むろん諭吉は、アメリカが共和国で大統領は四年の任期であることは知っていた。
だが、感覚的に納得できなかったのだ。
「そうでござるなぁ、そんなことは考えられぬ」
腕を組み何度も小さくうなずきながら、秋坪は同感の意を示した。
少年時代には、近所で信仰を集めていた祠のご神体である石を取替えておき、それを知らずに相変わらず熱心に拝む人たちを陰から見てバカにしたり、殿様の名前を書いた紙をわざと踏みつけたりといったことをしていた。
幼い頃から、信仰や権威主義に対する醒めた目を持っていたのだ。
そのような諭吉であってすら、気がつかないうちに儒教倫理を思考の根底に刷り込まれていた。
儒教倫理に基づく思考は、江戸期になって全国的な交通網が整い、また、寺子屋などの教育機関が普及していく過程で、一般庶民にまで浸透していった。
江戸中期以降ともなると滝沢馬琴の読本『南総里見八犬伝』において「仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌」の仁義八行が、「道徳=人がおこなうべきこと」として扱われるほど、ほとんど「無意識的な社会通念」として、儒教倫理は人々の意識の底に根付いていった。
儒教倫理の柱は、人には「上下の身分の差や、貴賎の別」といった「区分け」が生まれながらにしてあるという考え方である。
とくに先にあげた仁義八行の下の三つ、「主人に対する忠」・「親に対する孝」・「兄に対する悌」は、「従者の倫理」と言われるように、上位者にとっては、とても都合のよいものとなっていた。
それらは、「天命=天の定めたこと」であり、能力や人格の優劣に関係なく下位の者は、上位の者に逆らってはならないとされてきたからだ。
また、女性も「幼きときは親に従い、嫁いでは夫に従い、老いては子に従う」といったように儒教倫理においては終生、男性に従う存在とされている。
いわゆる「日本の常識」から言えば、女性が会食の主人役を務めるなど、まったく考えられないことであった。
初代大統領の子孫がどうなっているかわからないといったことも、想像すらできないことであった。
武士の俸給は個人の能力や働きに対して与えられるのではなく、「関ヶ原の合戦」などで手柄を立てた先祖が得た報奨を、家禄として代々受け継いでいる。 だから、俸給の根拠となる家の系譜は、忘れられるはずもなかった。
(主君が幼かったり愚鈍であったりしても「主君は主君」なんて、ホントに馬鹿げている)
アメリカ滞在中、封建社会からやってきた諭吉の目にショックを与えた異文化社会の光景や考え方は、客観的に日本の在り様を見つめさせる視座を与えた。
松木弘安は、車窓側に座った二人の会話を黙ったまま、箕作秋坪の隣でジッと聴き入っていた。
「とこいで諭吉さあ、おはんな米国から帰って、天道や天命ちゅうもんを、どう考えようなんもうしたか?」
薩摩弁混じりの語り口で尋ねた。
真剣な目つきであった。
この問題は、弘安にとって幼い頃から突きつけられ、悩み苦しんできたことであった。
松木弘安は一八三二年(天保三年)、薩摩藩、出水郷の「郷士」の子として生まれた。
四歳のとき、藩の奥医師で蘭方医として勤めていた伯父の松木宗保の養子となり、跡継ぎとなるべく、蘭学の修業に励んだ。
同年代の子どもたちは八歳になると「稚児」と呼ばれ、「郷中」での教育を受けることなる。
「郷中」とは、今の地区単位「大字」に当たる「方限」ごとに設けられていた武士の「学問と武闘訓練の集団」である。
そこで妻帯するまでの期間、「四書五経」や薩摩武士の行動指針を記した『日新公伊呂波歌』などの学習と、心身の鍛錬や武闘訓練をおこなうのだ。
こうした過程を経て「薩摩隼人」とか「兵児」と呼ばれる薩摩藩特有の質朴勇武かつ名誉のためには命を惜しまない気風を身につけた郷士となっていった。
男女関係に対しても厳しく「女性を忌み嫌うことは蛇マムシを憎むに似て、道路で若い女性に逢えば、自分に(女性の)不浄が移るかのように避けて遠ざかり……」(『倭文麻環』の口語訳)といった様子であった。
もし仲間が通行中、たとえ親戚の女の子であっても立ち話はもとより視線を向けただけでも、みんなで懲罰を与えたほどだという。
郷士とは城下の外に住み、自給自足しながら生活する下級武士のことである。城下の武士からは、「一日兵児」(一日武士の形をし、一日農耕をする兵児)と呼ばれ、「田舎の肥担桶ざむらい」扱いをされていた。ときには「郷士は、唐紙一枚よ」(切り殺しても届出用紙一枚で済む)と言われるほど城下の武士からは、軽く扱われる存在であった。
薩摩藩では、家柄や地域の差、男女差などによる身分意識が、上から下に至るまで浸透しており、それを疑う者はいなかった。
松木弘安は郷士出身ではあったが、養父が藩の奥医師であり、また、蘭方医のため頻繁に長崎へ行っていた。ときにはしばらく暮らすこともあったため、同年代の子どもたちと同じような郷中教育を受けることはなかった。
弘安は幼い頃から、薩摩の士風には、なじめないものを感じていた。それは、十四歳のときに藩命で江戸へ蘭学修業のために出てからは、いっそう強まっていった。
江戸では、戸塚静海、川本幸民、伊東玄朴の塾で学んだ。
二十二歳のときには、伊東玄朴の塾「象先堂」の塾頭まで務めている。この塾では、築城、砲術、天文、物理、化学、造船など、広く学んでいたようだ。
蘭学だけをとってみれば、福沢諭吉よりも長期間にわたって幅広く学び、その知識を身につけていたかもしれない。その修業の結果、幕府の「蕃書調所」に勤め、外国文書の翻訳と語学教授をおこなうこととなった。
なお、この間、藩主、島津斉彬にその才能を認められ一時期、藩へ呼び戻されて藩内の近代化や外国の事情調査などの仕事にも携わっている。
そんな蘭学一筋の修業によって、合理的思考を身につけた弘安である。だが、なぜか薩摩人の血が、そうした合理的思考と相克することがあった。
だから、福沢諭吉が語った渡米時のエピソードに対しては深く共感するものがあり、胸のうちへ染み入ったのである。
「天道」や「天命」の考え方は薩摩人にとって、とくに意識されることもない当然のものとなっていた。
弘安にとっては、ぜひとも問い質したい事柄であった。
「私にもわかりませんが、少なくとも歴史書を紐解くかぎりにおいては、人間に対して個別に正義を行使する天意や天命なんてないでしょうね」
諭吉は、中国の歴史書『春秋左氏伝』を十一回も読み返したというほどの歴史好きである。そこにあっては、悪が栄え正義が滅ぶといった事例は、山ほど見出せる。
「『天に私覆なく、地に私載なく、日月に私照なし』と孔子様もおっしゃってござる。
特定の誰か何かに、『天』がどうこうということは、ござらぬかもしれませんな」
秋坪は諭吉の言葉に理解は示しつつも「意思を持った天の存在」については、こだわりを見せた。
これは、儀礼や礼儀作法などに関する諸文献を集めた書物『礼記』にある言葉で「天や地、そして、日月は「公平無私」で偏ることはない」という意味である。
「身分に関して言えば『天は平等、人の上に人を造らず……』ということなんですかね」
何気なく諭吉の口から出た。だが、我ながらハッとするものを感じた。
「パリン!」という玻璃、ガラスが砕け散る音を聞いたような気がした。
箕作と松木の視線が、諭吉に集まった。
諭吉としては先年、渡米した際に読んだ『アメリカ独立宣言書』の一文が頭に残っていて、それを秋坪の言葉に触発され、自分なりの言葉で表現しただけである。
だが、その言葉は、思った以上の衝撃を三人に与えた。
しばらくの間、親が隠していた秘密を図らずも知ってしまった子どものような困惑と沈黙が、その場を占めた。