石を積め――国家は個人の意志によって成る
(独立とは、何だ?
――そうだ!
自分なりの見方や考え方、つまり見識を持つこと、そして、理想の姿を思い描き描き夢を抱くことだ。
だが、人間は、生まれ育った環境によって考え方や感じ方のおおよそが決まってしまう。人は、そこで培われたものに縛られている。泥沼に浸かっているようなものだ。
そのことに気づき、自力で抜け出すには、手掛かり足掛かりがいる。
異なる考え方や感じ方があることを知ることが必要だ。その土台となるもの……新しい知識、学問だ!)
諭吉の顔には、自然と笑みが浮かんだ。
「誰しもが、等しく学問ができるようにしなければならんのですわ。
とくに西欧の新知識をね」
笑顔となった諭吉とは対照的に弘安の表情は、いまだ冴えなかった。
「誰しもが等しゅ学問できう機会を得られう、じゃっどん……」
弘安は、例によって薩摩藩の現状を思い起こしながらつぶやいた。
諭吉の述べたことは正論ではあるが、とても現実味があるとは思えなかった。
(その実現は、現在の身分制度下では難しい。
ならば、その制度を力づくで変える方が先という話にならないか?)
暗澹たる思いに沈んでいった。
視線を落としたまま、懐から手拭いを取り出し、額や首元に滲み出た汗をぬぐう。
「確かに今は、百姓や町人が自由に学び、海外の新知識を手に入れるというわけにはいきません。
だからと言って、衆を頼み、力で世直しをするというというのも短絡的過ぎるでしょう」
諭吉は、弘安の心を読んだかのようなことを、しばしの間をおいて付け加えた。
為政者は、新興勢力によって倒され政権が代わるという歴史を繰り返してきた。
それは、儒教的世界にあっては、天が現政権を見限り、新たな為政者を選んだのだと理解されてきた。 つまり「革命」(天の命令が、革まること)である。
だが、それでは倒す側も倒される側も「天の意思」に考えの根拠をおいていることになる。
「……」
「まずは、一人から始めるしかないでしょうな。気づいた一人が立ち上がる」
自らに言い聞かせるかのように諭吉は、ゆっくりと語り、言葉を留める。
弘安の顔が上がった。
「立ち上がるとは?」
秋坪が尋ね、ゴクッと息を飲む。
「気づいた一人が新知識を学び、自分の思いとともに周囲の人間に伝えていくんですよ」
言葉に意気込みが感じられた。
(一人が二人の人間に伝えて議論し、納得した二人が、さらにそれぞれ伝えていく。
それが積み重なっていけば、徐々に新知識と思いは広まる。
しだいに人々は『古習の耽溺』から抜け出していけるはずだ)
諭吉は、考えた。
「かつて米沢藩の改革に取り組んだ上杉鷹山候は、江戸藩邸から自藩へ入る途中、国境の峠で籠を、お停めになった。
「国入り」を前にして、腹心の藩士たちを集められました。
自分の煙草盆にある小さな火種をに手ずから分け与え、おっしゃられたそうです。
『まずお前たちが火種となってくれ。
そして、心ある藩士たちに移してほしい』と――。
改革とは、そのようにして人から人へと知識や思いが伝えられ、徐々(じょじょ)に成し遂げられていくものじゃあないですかね」
諭吉は、説くように語った。
この有名な逸話は、秋坪と弘安も知っていた。
いま改めて聴かされると「なるほど」という思いが、さらに深まった。
弘安が、しばし小首を傾げた後、二.三度うなずく。
「まっこと、福沢どんの言う通りでごわっそ。
おいは、今あ蘭学者で幕臣の身分じゃんどん、いまだ兵児の尻尾ば付けておいもす」
弘安は、なにやら覚ったような顔つきで、とつとつと語り出した。
「幕府が薩摩に目をば付けとう今、まかり間違うと『いざ関ヶ原!』ちゅうことにならんともかぎらん。 そんときは、どなごとして幕府と国元に忠義立てしたらよかか悩んでおいもした」
ばつの悪そうな笑みを見せた。
江戸で生まれ育った島津斉彬は幕政にも積極的に関与し幕府の要人たちも、その才気と高い志を認めていた。
だが、外様大名であった。
ペリーが来航して開国が決まってから諸藩は動揺し、攘夷を唱える藩士たちが不穏な動きを見せ始めた藩も出てきた。
幕府としては、外様の代表格ともいえる薩摩藩に対する警戒感は、斉彬が急逝したこともあり、さらに増していた。
そうした空気は、所属する蕃書調所にも伝わってきた。
弘安は、密かに気を揉んでいたのである。
「そいどん、今、おいが一人悩んで右往左往していても、何ともなりもはん。
蘭学者んおいが、まず成さなにゃならんこたあ、諸外国ん、ようく見て回って、そん実情を我が国へ持ち帰って、みんなに知らせうこっでしょう。
諭吉さあの言葉を聞いち、ハッとしもしたと――」
弘安は、自分が何をなすべきなのか、腹の底でわかった。
これから向かおうとしている西欧、その政治経済や文化を探索し、得た情報と感想を日本の人々へ伝えるこそが使命であると――。
(その使命を果たすために自分はコツコツと、まさに石を積むようにして蘭学を学んできた。
今の自分を築いてきた。
自分の知識と能力が試される時が、いま来ているのだ。
自分の立場がどうこうといったことで、悩んでいる暇はない)
そうわかったとたん、ずっと胸の中でわだかまっていたものが、憑き物が落ちたようにスッと消えた。
相次いで晴れやかな面立ちとなった二人を横目で見ながら、秋坪は、まだ考え続けていた。