チョンマゲ姿の武士たちが、エジプトで
『ガラスを割れ!』が、いま若者たちの心を捕らえている。
言うまでもなく「欅坂48」の新曲だ。
ロック調のリズムとスタイリッシュなダンスが、印象に残る。
だが、「欅」と言えば、「抵抗」といった言葉が思い浮かぶほどに歌詞に特徴がある。
「サイレント・マジョリティー」を皮切りとして「不協和音」、そして、今回の曲に至るまで、そのメッセージは、一貫している。
「流されてはいけない」「自分らしくあれ」「孤独を恐れるな」「声を挙げよ」と言ったキーワードで表されるものだ。
そうした言葉が、若者たちの心にズボッと刺さり、ユーチューブでの再生回数が、たちまちのうちに数千万に達するまでに至った。
どうしてか――?
いまネット上では、「良いね」を求める言葉や画像で溢れている。
「インスタ映え」のする写真をアップし、百人単位にものぼるメル友の数を誇る。
「私は、『リア充』している」と言いたいのであろう。
実際にそうであれば、何の問題もない。素晴らしいことだ。
ならば、どうしてネット上に上げるのか?
わざわざアピールする必要は、ないだろう。
「餌もらうために尻尾ふって」
「飼いならされたんだろう」
「上目遣いで媚びるために生まれてきたのか?」
「日和見主義のその群れに まぎれていいのか?」
「閉じ込められた見えない檻から抜け出せよ」
「愛の鎖 引きちぎれ」
「抑圧のガラスを割れ!」
私たちの「考え」や「気持ち」の多くは、育った環境によって形作られる。
周囲の人たちの関心を得、保つために「良い子ちゃん」になっていく。
「見えない檻」は、気付かぬうちに自分自身で作り上げてしまう。そして、自らを閉じ込める。
「見えない檻」は、「暗黙の社会ルール」としては、身の安全を確保するための手段でもある。
何事もなく無難に日々を過ごしていくことができる。
それは「常識=当たり前」と呼ばれる。
だが、息苦しく、だんだん心が乾いていく。
「見えないリード(手綱)」にコントロールされているからだ。
「水」を求めて走り出そうとすれば、引き戻される。
ストップをかけるのは、「あなたのためよ」という一見、優し気な「愛の鎖」であったりする。
走り出したい気持ちと、「心配してくれる人の期待を裏切れない」という背反する気持ちの間で悩み苦しむ。その結果、心が病んでいくことも少なくない。
多くの人は、「良いね=好評価」を求める。
しかし、「良い子ちゃん」や見せかけの「リア充」を演じて得た「良いね」、予定調和的な「好評価」では、「心の渇き」を癒すことはできない。
「カラッポだよね」という「空虚感」が、さらに増したりもする。
大勢の人の中に居ながら、「独りぼっち」という「孤独感」に襲われる。
「乾いた大地」に、独りただずんでいるかのように……。
――では、どうしたらいいのか?
まずは自分を閉じ込めている「檻」の存在に気付くことであろう。
だが、この檻は、「透明なガラス」で出来ている。だから、見えにくい。
その「ガラスの壁」の存在を知るためには、触ったりコンコンと叩いてみたりする必要がある。くわしく調べ、素材についての知識を得ることから始めなくてはならない。
壊すのは、その次だ。いきなり拳を突き出せば、鋭い破片でケガをする。血が噴き出るかもしれない。
さて、今から百五十年以上前、このような「ガラスの檻」に気付いた若者がいた。
福沢諭吉である。
幕末、アメリカやヨーロッパへ渡り、その異文化体験によって当時の日本人が囚われていた「ガラスの檻」を見出した。
この「檻」は、江戸時代の閉鎖的社会の中で身分制度や社会的な秩序を支えていた。
ある意味、「社会常識」あるいは「道徳」として平穏な日常生活を保つ機能を果たしていたのだ。
だが、国際的な事情が、それを許さなくもなっていた。
海外からの圧力が高まる中で、国内でも様々な思想や思惑が渦巻き、混乱した。
物語の舞台は、諭吉が体験したヨーロッパ渡航である。主に途中で立ち寄ったエジプトでのエピソードを取り上げた。
日本とは対照的な「砂漠の国」で感じたことや「旅の仲間」二人との語り合いが、主軸となっている。
少し専門的な難しい議論が交わされるが、細部にこだわらす登場人物の「気持ちや考えの動き」に注目していただきたい。
何よりも当時のエジプトの情景や異文化の地に降り立った若者たちの姿を楽しんでいただけたら幸いである。彼らの旺盛な知的好奇心が、明治の「文明開化」に多大な影響を与え、今の「日本の原型」を創り上げる原動力となった。
戦後の民主主義社会の中で育った私たちにとって、諭吉の考えたことは、当たり前のことだ。
「どうして、そんなことで悩んだの?」と、思ったかもしれない。
「頭」では、そう考えるかもしれない。
だが、先に述べたように、私たちの「心」の中にも「見えないガラスの檻」がある。
気付かぬうちに、その制約の中で考え、行動しているのが現実ではなかろうか。
昨今、学校や会社(組織)の中で、イジメやパワハラなどによる自殺が、相次いでいる。
ニュースを見た人は、「逃げればいいじゃない」と気楽に言い放つ。
だが、極限まで追い詰められた人には、そうした選択肢はない。または、選べない。
見えない「ガラスの檻」の中で飼い慣らされた考えや気持ちが、それを許さないのだ。
なお途中に福沢諭吉の『適塾』時代の「ハチャメチャな青春像」をエピソードとして織り込んである。
野蛮なくらいに自由で奔放な暮らしぶりが、当時の常識に囚われない視野を与えたと、考えたからだ。
一八六二年三月二十日(文久二年二月二十日)の早朝、エジプトのスエズ周辺は、いつもと変わらぬ蒼天のもとにあった。
昇って間もない陽の光に煌めく海の沖合に、一隻の船が姿を現した。
英国軍艦『オーディン号』だ。
甲板には、十数の人影があった。
その姿は、灼熱の太陽と潮風に長い間、曝され続けたことを物語っていた。肌は赤銅色に焼け、くたびれた着物と袴には、白く塩が吹いている。
髷も結ってはあるが耳際の鬢のあたりは乱れ、蓬髪に近かった。
皆、まだ若く二十歳代のようだ。
そんな中に独り一風変わった身なりの男がいた。
髷を細めの小銀杏に結い、細い縦縞模様の唐桟織の着物の裾を端折って博多帯の後ろへ挟み、股引を穿いている。
帯には煙管を挿し、煙草入れを下げていた。
紙を筒に巻き、漆を塗った「一閑張」の望遠鏡を目に当て、スエズ港の方角へ向けている。
「福沢様、何か見えもうしたか?」
近くで仲間と談笑していた若者が、声を掛けた。
男は、望遠鏡を下した。フッと一息、吐く。
日焼けしているが瓜実顔で額が広く、目元が涼しい。
「明日の日本が見えたよ」
そのまま遠くを見やりながら、ポツリと答えた。
湾内は浅瀬となっており、ところどころ長細い砂州が姿を現していた。
船は、長旅を共にした艦上の人々との別れを惜しむかのように、トルコ石の青を映した海面を静かにかき分けながら進む。やがて、港から二里(約八キロ)の位置で停止した。
一時間後、六十トンほどの川蒸気船が、ガッコンガッコンと水車のような外輪を回す音を響かせながらやってきて船体へ近寄り停まった。
下からロープが投げられ、固定される。
「儂が一番乗りじゃ!」
待ちかねた若者たちが、口々に喚き立てながら我先にと縄梯子を降り、飛び乗る。
とたんに円筒形のフェズ帽(トルコ帽)をかぶり短いチョッキを着た浅黒い顔、八の字髭をはやした船員が、顔をしかめた。乗り込んできた若者たちの身体から饐えたような異臭が放たれていたからだ。
人と荷物を満載した川蒸気船は、再び外輪を回し舳先を港へ向け、動き出した。
若者たちは思い思いの位置に陣取り、喜色と興奮とを満面に表して周囲を見回している。
諭吉もまた、木箱に腰掛け懐手をしながら、ゆっくりと左右に視線を送っていた。
その視線の先には、外国船らしい大型の船舶が停泊しており、誇らしげにフラッグをなびかせていた。諭吉が、望遠鏡で見ていたものだ。
「トルコ、それにフランスとイギリス船か――」
碇を下ろしていた船舶の多くがオスマン帝国の旗を掲げていたが、ひときわ威風堂々とした存在感を示していたのは、それぞれ三隻ずつのフランス艦とイギリス艦であった。
その船体に厳しい眼差しをそそぎながら諭吉は、ため息ともつかぬつぶやきをもらした。
当時、エジプトは、オスマン帝国に属していた。しかし、フランスとイギリスが覇権を競い、この地にもしだいにその影響力が及びつつあった。
福沢諭吉は、このとき数え年の二十八歳。「咸臨丸」でのアメリカ渡航に次いで、二度目の外国行きであった。よって、国際情勢については一通り理解しており、それだけにアジアやアフリカ、中近東諸国で横行する欧米諸国の覇権主義には、敏感になっていた。
経由地の香港やシンガポール、セイロン、アデンでも、華やかな居留地区の翳で、苦力など過酷な肉体労働に従事する現地人の姿が、いやおうなく目に入ってきた。また、そうした人々に対する剥き出しの差別意識と対応にも辟易させられた。
香港では、こんなことがあった。
停泊中の船内へ清人の商人が靴を売りにきた。諭吉が、それを買おうと値段交渉していると、通りかかったイギリス人の士官が、いきなり清人から靴を奪い取った。そして、諭吉に二ドル出させて、それを清人へ投げつけたのである。
次いで、手にしたステッキを振り上げ、船外へと叩き出した。まるで、汚いゴミを掃き出すかのようだった。
(日本を、こんな辱めを受けるような国にするまい)
諭吉は唇を噛みしめ、みずからに言い聞かせた。
やがて港が見えてきた。
その風景は、大小の白や茶色がかった箱のような建物と椰子の木、手前に浮かぶ小舟の群れによって成り立っていた。
近づくにつれ、行き交う人の姿も目に入ってくる。
蒸気船は桟橋に接岸した。
襟なし袖付き、足首を隠すくらい丈が長い白や薄茶、または黒色の緩筒衣、ガラベーヤをゆったりと身にまとい、頭を布で覆ったアラブ人の男たちが、姦しく喋り立てながら集まってきた。
男たちの好奇の視線を意に介せず、若者たちは架けられた「渡し板」をトントンと踏み鳴らしながら上陸した。
最初にザラついた土を踏んだのは、福地源一郎であった。
長崎生まれで当年、二十歳。まだ顔にニキビが残る若者である。
外国奉行、柴田日向守の通訳として乗船していた。
砂漠地帯の乾いた風を顔に受け、いかにもホッとしたという表情だ。
「陸地は、良かなぁ」
腰に手を当て、背を伸ばす。
「ほんなこて、よかばい」
眉毛の濃い九州男児らしい風貌の若者が、応えた。
「土俵入り」よろしく、四股を踏む。
他の者も、各々(おのおの)うなずいた。
「早く、風呂へ入りたいのう」
爪を立て、首や胸元をしきりに掻いている者もいた。
「まったくじゃ」
船中で真水は、貴重であった。量や使い方を巡って言い争いが絶えなかった。
使おうとする度に一瞬、手が止まった。鉄の容器に入っていたため、赤錆が浮いていたからだ。手拭いを浸すと赤茶けてしまう。
だが、その水を使って、茶を入れたり飯を炊いたりするしかなかった。風呂の水として使うなど言語道断である。
(麦酒が、飲みたい)
源一郎は、灼熱の太陽を見上げながら思う。
喉を鳴らす。
英国軍艦は、伝統的にビールをたっぷり積み込んでいる。
だが、南下してからは、それも尽きて長い間、口にしていない。
全員が上陸し終えると近くのホテルへ入り、真水を浴びた。
カイロへ向かう陸路の旅に備えて身支度を整え、昼食をとる。
旅の荷物を列車へ積み込むため従僕役の若者たちが、一足先にスエズ駅へ向かった。