陽だまりを得る
それからの日々は、めまぐるしく過ぎた。
読み書きが弱いのは、他に読み書き出来る言語があるせいだとバレたり、試しに書いてみた日本語をあっさり解読されて、それがずっと昔の遺産のお陰だと長い昔話を聞かされたり、ひたすら精霊たちと交流したり。
全ては息つく間もなく過ぎていった。
習うこと全てが目新しく、知ること、習得することに躍起になって夢中になって、そんな日々を繰り返すうちに月日は飛ぶように過ぎた。
気づけば私の上には7年もの歳月が流れ、私は13歳になった。
あの母親の血筋なのか、そこら辺の平均的な子どもよりも背丈が高く、成長が早いらしい私は、いつの間にか小柄で華奢なハイネさんの背丈を越していた。
「リノン。急な話だが、明日私の姉が来ることになってね。ついでに甥のサフィルも連れて来ることになったから、もてなしの準備をしてもらえるかい?」
突然帰宅したエディアルドに呼び出されて彼の書斎に行けば、薬草の爽やかで微かに甘い香りに満たされた部屋で、くつろいだ様子の彼が微笑みを浮かべる。
春を迎え暖かい日が続いて暖炉の火を落としてある部屋の中は、大窓から差し込む日の光が絨毯の上を踊り、ふわりと暖かな空気で満たされている。
なんだか疲れているなぁと、無言で様子を観察している私に、彼は手元の書類に落とした視線を上げ、私を見た。
タイを緩めてくつろげられた襟元も、靴を脱ぎ捨ててオットマンに乗せられた足元も、少しばかりくたびれて服がよれている。
「おもてなしの準備はお任せください。ハイネさんやユリシスさんと話し合って滞りなく進めますので、お父様は少し休んでらしてくださいな」
ユリシスさんはジョルジュさんの息子さんで、引退したジョルジュさんの跡を継いで、今は我が家の家令を務めてくれている人だ。
屋敷のことは、この2人がいなければ回らない。
にっこり微笑んで、空になっていたカップにハーブティーを注ぐ。
爽やかでほのかに甘いリンゴのような香りに少しばかり酸味のある爽やかな香りが混じる。空になったポットを開けて残り香を嗅げば、微かにスパイシーなような、癖のある香りがする。色は紅色。
「お風邪を召されたのですか?」
「風邪ではないんだけどね、喉が少し弱っていて」
カモミールベースのこのハーブティーは、疲れていたり体が弱っていたりする時にこの屋敷の人たちが好んで飲んでいるものだ。ここに仕えている者は誰でも用意出来る最も好まれているブレンド。
視線を走らせて、エディアルドの全身を巡る力の流れを見る。
喉の辺りと肩から背にかけて、少し流れが淀んでいるのが分かる。
どこでどんな厄介な交渉ごとをしてきたのかは知らないが、精神的にも肉体的にも、色々と強靭に出来ていて、その上年の功でかなり強かなこの人にしては、珍しく文字通り疲弊している。
「どこで何をなさってきたのかはお聞きしませんが、お父様に倒れられたり寝込まれたりしたら、代わりを務められる人物などおりませんので、どうぞご自愛くださいませ」
「ありがとう、リノン。悪いけど、ハイネを呼んでくれるかな?」
「はい。かしこまりました」
一礼して、空のポットを抱えて退出する。
視線を上げると、そこにはずっとそこに控えていたらしいハイネさんが立っていた。流石と言うべきか、中の会話が聞こえないギリギリの位置で、美しい立ち姿勢を保ったままそこで私の言葉を待っている。
最近気づいたが、どうやらこのハイネさんとエディアルドは何か複雑な関係らしい。
互いに特別な感情を抱いているらしいのに、お互いに一定以上の距離から近寄らないように遠慮し合っているというか、一歩踏み出せずに躊躇している感じがする。
私は昔から人様の恋愛事情には極力関わり合いたくない主義なので、出来れば巻き込まない程度の速度で適当に自分たちだけで進展してサクッとまとまってしまってほしい。
そうでなければ、流石に恩人2人のことだ、私も見て見ぬことは出来そうにない。
「ハイネさん。お父様がお呼びです。このポットは私が下げますので、どうぞお側にいらしてください。あと、お父様の体調ですけれど、流れが滞っているようなので手当てをして差し上げてくださいね。他のことは私が進めておきますので、お父様とちゃんと話してくださいね」
「リノンお嬢様……」
私の言葉に、ハイネさんが困ったように眉を下げる。
子どもに知られたくないことを知られてしまった大人が、どう言い繕おうか悩んでいる表情だなと、子どもらしくないことを考えて私はニヤリとイイ笑顔を浮かべる。
我ながら、随分と肝が座ってふてぶてしいことだ。
「事情は知らないけれど、私はハイネさんなら良いわ」
何がという言葉を省いて口にした私の言葉に、ハイネさんは軽く目を見張り、一歩踏み出して私を見つめる。
無駄に成長した私と小柄なハイネさんとは、ハイネさんがヒールを履くと同じぐらいの背丈になる。
まっすぐにじっと見つめられた私は、込められた真意がきちんと伝わるようにニッコリと微笑む。
私の笑顔をしばらく見つめた後、ハイネさんは小さく頷いて私の脇をすり抜ける。
ハイネさんが扉をノックしたのを確かめて、私はその場を後にした。
すれ違った侍女さんに持っていたポットを渡し、しばらくエディアルドの書斎と私室には誰も近付かないように伝えて、私はフラリと庭に出た。
庭師が美しく整えた庭には、可憐な淡い色彩の小さな花があちこちに咲き乱れ、華麗さはないものの、命に満ち溢れていつ訪れても心和ませてくれる。
この庭はほぼハーブなどの有用な植物で構成されている。
葉に、花に、根に、果実に。その香りに効能があるものも含めて木々にも草花にも、不要なものや見た目のためだけに植えられているものなど何もない。
日向を好むもの、日陰を好むもの、土の質、水はけ、全てを計算し尽くして大切に植えられ、手入れされている。
私はそんな庭の真ん中にシンボルツリーとして植えられている樫の木を見上げる。
茂った葉が、サワサワと風に揺れる。その響きに、私は目を細めた。
「風よ、あの枝まで私を運んで」
風がふわりと私を包み、高い梢の上に運ぶ。
木登りをできるような運動神経はないが、見晴らしの良い木の上は最高の気分転換場所だ。
チラチラと踊る陽だまりに包まれて、私はふと歌を口ずさむ。
エディアルドとハイネさんの関係が上手くいけば、私はこの家を出ることになるだろう。
どこかツテを頼って仕事をしても良いし、良縁があれば嫁ぐのも良い。
太い枝を探して座り込み、歌を口ずさんでいると精霊たちが囁きかけてきた。
「良い響きだ。あなたがリノンか?」
下を覗き込むと、すらりと背の高い青年が眩しそうに目を細めながら私を見上げている。
木の上まで特に張り上げてもいない声が届くのは、精霊たちが彼の声を運ぶからだろう。
暗赤色の髪に日に焼けた肌、吸い込まれそうな黒い瞳が、好奇心にキラキラと輝いている。
実用性を重視した塵避けの褐色の外套からは、風に吹かれて異国風の筒袖の服がチラチラと見え隠れしている。
「貴方は……もしかして、サフィル様ですか?」
木の上から覗き込んだまま、首を傾げて問い掛けた私に彼は大きく口を開けて朗らかな笑い声を上げる。
「流石叔父上自慢の娘御だ。如何にも、私はサフィル=カル・アケルナル。この国に入ったら居ても立っても居られず、旅程を早め今しがた着いてしまった。申し訳ないが、急ぎ部屋を整えてはもらえないだろうか」
私はサフィルの名乗った名前に、腰を浮かしかけたまま止まる。
思わず彼の姿に目を凝らせば、大地と火の精霊がそばに控え、彼自身は強い光の属性持ちらしく、陽だまりにのように輝いている。
「日継の王子……!」
「おっと」
驚いた拍子に足を踏み外した私を、サフィルは危なげなく受け止めると心底楽しげに笑った。
「よろしく頼む」
そっと地面に降ろされ両手を取られると、触れた手から温かな力が流れ込んで来る。剣だこのある手は大きくて硬くて、でもその手は優しい力加減で私の手を握る。
それはまるで陽だまりそのもののように温かで、私は思わず笑みを浮かべてその手を握り返した。