温もりに包む
その後、馬車に揺られている間に眠ってしまったらしい私は、久し振りに爽快な目覚めを味わった。
程よい硬さの広いベッドに、掛けられた上掛けは羽根のように軽い。
眠っている間に丹念に洗われ、梳られた髪は今まで見たことのない色合いをしていた。
「あれ? 私の髪、色違わない?」
くすんだ茶色に近い色だと思っていた髪は、薄い金に近い色合いをしていて、緩いウェーブが掛かっている。
もしかして、この変化はもしかしなくとも、ろくに風呂にも入れてもらえなかったせいなのだろう。
ひどく臭ったに違いない自分を思って、遠い目になる。
イヤイヤ、考えたら終わりだ。
誰が洗ってくれたんだろうとか、考えたら羞恥で色々と終わる。
グーキュルキュルル
「おぅ……」
睡眠も足りたからか、全力で空腹を訴える腹時計に思わず声が漏れる。
女子力の欠片もない音声を漏らした自分にショックを重ねながら、お腹に手を当てる。
見事にぺったんこだ。
子どもらしいふっくら感がない。
どうしたものかと悩んでいると、遠慮がちなノックの音が響いた。
「どうぞ?」
部屋の中にはどうやら私以外の人物が見当たらないようなので、遠慮がちに入室の許可を出す。
語尾がなんとなく疑問形になってしまうのはご愛嬌だ。
「失礼いたします」
柔らかでよく通る声は、若い女性のものらしい。
お屋敷の侍女さんだろうか。
扉が開くと、私の研ぎ澄まされた嗅覚がなんとも言えない至高の香りを嗅ぎ取った。
「お嬢様、お食事をお持ちいたしました」
ああ、なんということでしょう。
にっこりと、控えめで上品な笑みを浮かべた優しそうなお姉さんの顔が霞む。
この世に生まれて初めて、美味しそうな匂いというものを嗅いだこの感動をどう表現したら良いのだろうか。
私は涙が溢れるのを止められなかった。
自分自身の身の上から、冬になればいずれ凍えて死ぬという最後を思いついた時から、ずっと嫌だと思っていた。
意味もなく、奪われるように死ぬのは嫌だった。
頰を涙が滑り落ちていく。
「私……。生きてる」
乾いてひび割れた頰に涙がしみるから、泣くのは嫌だった。
そっと触れた頰は乾いてひび割れた感触もなく、滑らかだった。
ただの肌荒れでも、それをこしらえたのが子どもだとしても、極限まで落ちた体力はそう易々と戻らないし、あれだけ荒れ放題の肌荒れだって普通に眠って目覚めたら治っているものでもない。
それが意味するのは、ただ一つ。
死んだばばさまが、寝物語に話してくれた古い話。
今は伝説となった不思議な力を扱う者たち。
傷を癒し、病を癒し、山や川を動かす者たち。
ここは、私が死ぬ前に生きていた世界とは似ているようで違う世界なのだと、あの時思い知った。
私が拾われたのは、きっとそういう者たちの誰かなのだろう。
それは、私が生まれつき持っている不思議なモノが見える目のお陰なのかもしれない。
私には、他に人たちには見えないモノが見えたから。それらがささやく言葉が聞こえたから。だから今までなんとか生き抜いて来れた。
私にとって無慈悲で無価値な他人たちの中で、私が生きられたのは、いつでも私に寄り添ってくれる小さな奇跡のような存在がいたから。
人々はそれを、精霊と呼ぶのだと今の私は知っている。
その精霊たちがあの朝、運命が開けると教えてくれた。
彼らの言葉は、いつでも私を助けてくれた。そして今回も、最高のタイミングで私を助けてくれた。
「お嬢様の傷は、旦那様が自ら手当てされました。身を清めさせていただいたのは、私です。ご安心ください」
にっこりと微笑んだ侍女さんは、緩やかに波打つ黒髪を結い上げ、深い海の色の瞳を優しく細めて私を見つめていた。
紺色のシンプルなドレスワンピースに、白いエプロンをつけた姿は優美ながら機能的で、シミひとつない服から彼女が有能な侍女であると分かる。
ほっそりとした優美で物静かな彼女の髪は、みずみずしい若さを感じさせる張りのある色艶の良い肌に反して、幾筋か霜が降りたように白く色を変えている。
そしてその表情や物腰は、若々しい見た目に反して落ち着いている。
若作りという感じではなく、ごく自然に若々しさと老練さが同居している感じだ。
「お察しのとおり、わたくしどもは古い血を継ぐ者。皆、見た目以上に長い時を重ねています」
「私がこうして旦那様に引き取られ、生かされたのは、私が特別な目を持っているからですか?」
私の質問に、侍女さんは思いがけないことを聞かれたといった様子で、目を瞬いて少しの間の後、小首を傾げて私の目を覗き込むように逆に問い掛けた。
「それはどうでしょう。お嬢様は、目の前に助けを求めている人がいて、その人を助けることが出来るだけの力を持っているとしたら、どうしますか?」
「それはっ!」
思わず声を荒げた私に、侍女さんはそっと手を伸ばした。
上掛けの上できつく握り締められた私の手を、そっと握る。
その侍女さんの手は、温かくて乾いていて、ほのかに花の香りがして、太陽のようにポカポカと私の心を包んだ。
「ただ単にそういうことです。旦那様は、お嬢様が伸ばした手を取った。それだけで良いではありませんか」
深い青の瞳は、陽の光を受けて本物の宝石のように煌めく。
「わたくしはハイネ・ベニュトイト。貴女のお世話と教育について、旦那様から一任されました。お身体が回復され次第、様々な教育もわたくしから受けていただくことになりますので、どうぞお見知り置きを」
しっとりとした雰囲気のハイネさんは、優しく微笑みながらそっと私の目元を拭い、ついでのようにしっかりと抱きしめた。
「お勉強の時間以外はしっかり甘やかしてあげますから、ちゃんと甘え方も覚えましょうね、お嬢様」
「……はい」
「良いお返事ですね。ではまずは、お食事にしましょうね」
楽しげに私の世話を焼き始めたハイネさんは、歌うように言葉を紡いで私の背にクッションをあてがって体を起こさせると、ベッドの上に台を乗せてそこに美味しそうな匂いのポタージュスープをよそってくれた。
「まずはスープを飲んで体を慣らさないと。お嬢様は、ずいぶん体力が落ちていますから、体力を戻さないと術の効きが悪いので」
「ハイネさん、術ってなんですか?」
「色々種類はありますけれど、わたくしが使える術は主に水系統の癒しの術です。貴女に教えるのも、その術です。貴女は癒し手としての適性があるようなので」
予想すらしていなかった答えに、私は目が点になった。
いや、予想はしていたけれど、心の準備が。
よほどのビックリ顔を晒していたのか、ハイネさんはクスクスと楽しそうに笑い声を立てた。
「だってここはリュフェスタ商会なのですから。ここは古い血を引く者が、名残の夢のようにその力を紡ぐ場所なのですから」
韻を踏んだようなその言い回しに、不思議と心がざわめく。
「リュフェスタ」
それは、かつて精霊がこの世界に満ちていた頃、数多の術師たちが集い、国を治めたという伝説の国。
美しい四季に彩られ、実り豊かな大地に恵まれ、賢王が国を統べ、民たちは皆勤勉で穏やかな人々であったと聞く。
そこは地上の楽園と呼ばれ、長く栄えたが、大地の力と血の衰えにより緩やかに消え去ったと言われている。
「あなた方は、その末裔だと?」
「ええ。そして貴女も、その一員になるんですよ。類い稀な癒し手の素質を秘めたお嬢さん。貴女が力を正しく扱えるよう導き、そしてその力を悪用されぬようにわたくしたちが守るために」
ハイネさんは、もう一度私の頰に手を触れて私の手にそっとさじを握らせると、優しい笑みを浮かべてベッドの傍の椅子に座った。
「食べきって眠るまでここにいますから。お話はまた、追々いたしましょう」
柔らかなハイネさんの声に自然と微笑み返して、私は静かにスープを口に運んだ。
余談だが、スープは絶品だった。