根雪を融かす
どうしてこうなった。
さっきからそれだけを、ずっと繰り返し考えていた。
体格の良い男たちは、明らかに堅気の人間に見えない。
人目をはばかるように押し込められた裏路地の掘っ建て小屋は、隙間風のせいかさっきまでいた路地よりも更に寒さが酷い。
この世に神様がいるのなら、それはきっと酷く適当で投げやりな思考の持ち主か、人を苦しめたり痛ぶったりして喜ぶタイプのロクデナシに違いない。
そんな風に考える私は、世間一般的には罰当たりな人間なのだろう。
それでも、私は自分が間違っているとか、悪いとか思いたくない。
この人生での一番古い記憶は、私を産んだ人に叩かれ、置き去りにされた記憶だった。
私はその人を、母と呼べない。
私にはそれよりもっと前の、暖かな家庭の記憶があるから。
口うるさい母と、その母よりももっと口うるさい父に大切に育てられた。
当時の私は、そんな心配性の両親のことが煙たくて鬱陶しかった。
世間で言う一般的な家庭でのびのびと少々わがままに育った私は、標準よりやや上の生活を送っていて、その当時は不満だらけだった生活は、今思い返せば愛情と温もりに満ちていたと思う。
清潔な服、十分な量の美味しい食事。家はいつも清潔で、働き者だった母はいつも大体笑顔で帰宅を迎えてくれた。
今のこの状況は、私への罰なのかと時々思う。
あれほど優しかった両親の言いつけを守らず、嘘をついて夜遅くまで遊び歩いていた私への罰なのかと。
あの冬の寒い日、私は酔って歩いていた道端で強盗に襲われた。
雪がチラチラ舞い散る寒い夜で、誰も歩いていない寂しい道を通ったのがいけなかったのだと思う。
それでも、命以外特に奪われたものがなかったのは良かったのか、悪かったのか。
所持金をほぼ飲み尽くして無一文だった私に激昂した強盗に、早々に刺されたのはある意味幸運だったのかもしれない。
こうして覚えているのがぼんやりとした痛みと、人ごとのような恐怖だけで良かった。
相手が気の小さい人間で、早々に逃げ去ってくれたのも悪くない状況だったのかもしれない。
最悪の状況の中でも、比較的悪くない状況だったと思う。
私は一度、そうやって死んだ記憶がある。
何度考えても、もう少しマシな死に方がしたかったと思う。
それでも、少なくとも、今よりはマシだと思う。
「ねぇ、この子物覚えは良い方なの。私の代わりに、ね?」
何故かさっきまで街頭でマッチを売っていたはずなのに、暗くてジメジメしていて悪臭の漂う裏路地に連れ込まれて人相の悪い男たちと不健康そうな派手な女に値踏みされている。
しかもよく見れば、その派手な女は今生のハハウエサマではありませんか。うわー最悪だと、私は内心頭を抱えた。
もしかしなくても、この人の借金のカタに売り飛ばされそうになっているらしい。
ちなみにこの人に逃げられてからの今生の父は、それはもう荒れに荒れて、今じゃ立派なアル中だ。
去年ばばさまが死んでから、それに拍車が掛かって近頃は私の稼ぎが少ないと、度々殴られる。でもそれって八つ当たりだよね。幼児に何やってるのさ、私まだ5歳ぐらいだよ?五体満足なんだから働けよ、そんでもって今度は身持ちの堅い、常識的な嫁もらいなって。娘のためにも、うん。
ちょっと現実逃避をして今の父親への愚痴を連ねてみた。
まぁ、それもこれもゼンブオマエノセイダ。もうこの女、恨んでもいいよね?
私は冷たい視線を目の前のケバい女に向けた。
男にしな垂れ掛かり、甘えるその姿ははっきり言って見苦しい。
産みっぱなしで育てもしない人間に、親を名乗ってもらっては困る。
誰も助けてくれないなら、私は私の才覚でこのロクでもない状況を切り抜けなければならない。
私は大きく息を吸い、男たちへと視線を向けた。
「この中で、一番偉い人は誰ですか?」
「んあ?」
「ですから、私は誰とお話しすれば良いのでしょうか?」
そう言いながら、私は男たちをひとりひとり見回し、少し離れた場所で興味なさそうに椅子に座り、悠然と足を組んでいる身なりの良い男に目を付けた。
見た所貴族ではなく、裕福な商人といったところだろうか。
商人ならば、むしろ願ったり叶ったりだ。
「旦那様、私は確かにそこの人よりも貴方様のお役に立てることと思います」
明らかに興味なさそうだった商人の目が私に向けられ、その時初めて存在を認識したかのように、その人は何度か瞬きを繰り返した後でニヤリと笑みを浮かべた。
「お嬢ちゃん、この状況で自分を売り込むの?」
「はい、旦那様。見てお分かりでしょうが、私は貧しく、親には満足な食事さえ与えられず、このままでは明日も生きていられるか分かりません。それならば、私を生かす理由がある人物に高く買っていただいた方がよほど安心です」
「ふーん。お嬢ちゃん、ずいぶん難しい言い回しを知っているんだね。それに、度胸がある。強面の男たちに囲まれ、親に売り飛ばされそうになって言うことが、飢え死によりマシだからせいぜい高く買い取れ、とはね。恐れ入ったよ」
膝を叩き、楽しげに体を揺すって笑った商人が、椅子から立ち上がって私に歩み寄る。
「良いね、その強かさ。じゃあ、こうしよう。私は賢い君を引き取り、教育を施す。で、その女にはふさわしい職場を用意してガッチリ稼いで借金を返してもらう。どうかな?」
商人の言葉に、私は唇の端を引き上げて笑顔を作る。
笑顔はいつでも、最高の武器だ。
見目良く産んでくれたことを、今この瞬間だけは目の前で展開について行けずにポカンと口を開けている人に感謝しようと思う。
「ありがとうございます、旦那様。読み書きはほとんど出来ませんが、計算は得意です。少し仕込んでいただければ、帳簿付けぐらいはこなせると思います」
「ずいぶんと大きく出たね。そこまで言うのなら、早速人をつけて君が実際どれぐらい使えるのか見ないとね」
そう言って、笑顔の奥で色々と算段している様子の商人に自然と笑みがこぼれる。
掴みは上々だ。
持ち前の気の強さがこんなところで生きるとは思わなかった。
「私の名前は、エディアルド・ザヘルティン。お嬢さん、君の名前は?」
「私はリノン」
「よろしく、リノン。不思議な私の娘」
茶目っ気たっぷりに片目をつぶった商人は、近くで見ると癖の強い黒髪に青のような紫のような灰色のような不思議な色合いの目をしていて、私以上に不思議な人物だと思った。
何かを喚いているあの人に背を向けて、私は商人に連れられてその場を後にする。
手を引かれるままに歩き出そうとした私の足元に目をやったエディアルドが、サッと腰を屈めたと思うと、次の瞬間私を抱き上げて歩き出す。
「わっ」
突然上がった視線に驚いてとっさに肩にしがみつくと、エディアルドは困ったように顔をしかめた。
「君はとても軽いね。それに、小さい。君にはまず、教養よりも健康を身に付けるのが先決のようだね」
重さを確かめるように私を持ち上げたエディアルドは、少し考え込むように私を傾けたりひっくり返したりしていたが、やがて納得した様子で歩き出す。
「ジョルジュ」
「旦那様、ここに」
「屋敷に遣いを頼む。あと、書類を揃えておいてもらえるかい?」
ロマンスグレーの、執事然とした初老の紳士がエディアルドの言葉に恭しく礼をする。
「この娘を、養女に迎える」
癖の強い黒髪を、吹き抜けた雪交じりの風が掬い上げる。
不意に雲を割って刺した光が、半ば凍りついた地面をキラキラと照らす。
楽しそうに歯を見せて屈託無く笑う笑顔に、私は見惚れた。
私は神を信じないけれど。
この人はまさに私にとっての救いの天使と、そう表現しても良いのではないかと思った。
胸の奥底で凍りついてしまったはずの涙が溢れ出すのを感じて、私を抱き上げた人の肩にそっと顔を埋めた。