8話 きみと私は真夜なかに②
元々いた道に戻って倒れた自転車を回収してから、私は二人に連れられて彼らの家まで向かった。道中でも二人は全く途切れずに話し続けていた。周りには自然ぐらいしかないのに、その全てが二人の目には新鮮に映るようだった。
「わあ! ひまわりがいっぱい咲いてる! すごーい!」
草原を抜けたところにあるひまわり畑を見て、玲矢くんが声を上げた。心良くんもそれに続けて、感心したような溜息をついた。
「おおー、すごい……こんなにたくさんあるの初めて見た」
「ぼくより背が高い! すごい!」
「そんなにすごいかなあ、これ」
二人が口々にすごいすごいと言うので、つい私は苦笑してしまった。この町にはあちこちにひまわり畑があって、それぞれ規模は小さいけれど、夏になるとこうして一斉に花が咲く。昔から見慣れている私には彼らの反応がおかしかった。
「二人は、この町に住んでるんじゃないんだね」
自然な推論だった。最初から、なんとなく小学校の同級生と雰囲気が違うとは感じていたのだが、周囲への反応が大袈裟なのを見て確信した。
兄弟は大きく頷いた。
「うん! 夏休みだから、おばあちゃんの家に来てるの」
「ぼくたちが住んでるのは、もっと遠くだよ」
「遠くって、どれくらい遠く?」
私が訊くと、二人は大真面目に考え込んだ。
「うーん……電車で……どれくらいだったっけ」
「めっちゃ寝たよね」
「めっちゃ寝たからおぼえてないね」
手を目一杯広げて、これくらい? これくらい? と距離の大きさを表そうとする二人に、私はくすくす笑って言った。
「心良くんと玲矢くんって、面白いね」
すると、二人はぱっと同時に腕を降ろして、恥ずかしそうにえへへと笑った。照れ隠しか、心良くんは私の前に出て走ると、「ほら」と少し先を指差した。
「着いたよ。あれが、おばあちゃんのお家」
二人のおばあさんの家は、心良くんと出会った場所から歩いて行ける場所にあった。歩いた時間はよく覚えていない。五分もかからなかったような気もするし、三十分ぐらいかかったような気もする。
私の住む家とほとんど変わらない、瓦屋根の一軒家だった。心良くんは玄関の戸をがらりと開けて、その中に入っていった。
「ただいまー!」
「ただいまぁ」
玲矢くんも続いていく。私も恐る恐る足を踏み入れて、後ろ手に戸の鍵を閉めた。勢いで来てしまったが、誰かの家に遊びに来るのはすごく久しぶりのことだったのだ。
「お邪魔します……」
入ってすぐに、背中を冷たい風が吹き抜けるような寒気を感じて、私は小さく震えた。
家の中はしんと静まり返っていた。テレビの音も聞こえない。廊下は暗いのに電気の一つも付いていなかった。心良くんと玲矢くんが駆けていく音だけが響いていて、本当に人が住んでいるのか、私は心配になった。
二人のあとをついて部屋に入ると、そこはリビングダイニングだった。ソファと小さなテレビがあって、テーブルには生活雑貨が散らばっていた。縁側には洗濯物が干してある。半分だけ開いた窓に吊るされた風鈴が、風に吹かれる度に涼やかな音を鳴らしていた。
多少の生活感が感じられる。確かに二人は、ここで暮らしているみたいだ。
仄暗い台所では、エプロンをつけたおばあさんが洗い物をしていた。
「おばあちゃん、ただいま!」
玲矢くんは後ろからおばあさんの背中を叩いた。おばあさんは振り返ってまじまじと玲矢くんを見た後、ぱあっと笑顔になった。おっとりとしていて、優しそうな人という印象だ。おばあさんの視線がこちらに向いたので、私は慌てて居住まいを正して自己紹介した。
「あの、お邪魔してます。早乙女真夜と言います。えっと、さっき二人にそこで会って……その」
「おばあちゃん、真夜ちゃんもホットケーキ食べたいんだって! だからたくさん焼いて!」
口ごもる私を遮って、私の横にいた心良くんは大きな声で言った。おばあさんはゆっくりと頷き、また台所に向き直ってフライパンを出し始めた。
心良くんはソファに座ると、普通の声で言った。
「おばあちゃんはね、耳があまり聞こえてないから、大きな声で言わないとわかんないんだ」
「そうなんだね」
おばあさんは無言でホットケーキの素を作っている。「誰?」とか「どこの家のお嬢さん?」とか訊かれると思って身構えていたのに、随分あっさりとした対応だった。私の近所のお年寄りは顔を合わせる度に口煩く話しかけてくるので、このおばあさんもその類だと思っていたのに。
私はきょろきょろと周りを見渡すと、さっきから気になっていたことを訊いてみた。
「心良くんたちのお母さんは……?」
「いないよ?」
こちらに来た玲矢くんが、平然と言った。
「え」
一瞬だけ、心臓がどきりと跳ねた。
「んっとねえ、ママとパパはお仕事で忙しいから、夏休みの間は、ぼくたちだけおばあちゃんちに来てるの」
「だから、家にはおばあちゃんしかいないよ」
「……そっか」
二人の説明を聞いて、私はほっと胸を撫で下ろした。
それからホットケーキができるまでの間、私は兄弟の話を聞き続けた。花浜町から出たことのない私にとって、彼らの話は完全に未知の世界だった。
二人は紅黄市というところに住んでいて、金盞小学校の一年生らしい。つまり、私と同い年だ。地図を引っ張り出してきて調べたところ、紅黄市は花浜町から随分離れたところに位置していたが、一応同じ県内の町であるようだった。
紅黄市とはここよりずっと都会で、自然の代わりに大きな建物がたくさんあるそうだ。道もちゃんと舗装されていて、田んぼなどはほとんど見かけないとか。電車の駅では毎日大勢の人々が行き来しており、二人はその中に紛れ、周りの大人に尋ねながらここまでやって来たとのことだった。
「ふたりだけで来るのははじめてだから、大変だったね」
「ね。これ、ママに貰ったんだけどさ」
玲矢くんが見せてきたくしゃくしゃのメモには、乗り換えの駅が三つほど走り書きしてあった。
「のりかえの時におトイレに行ってたら、うららくんが急にいなくなって……」
「なんかねえ、同じ駅で降りたおじさんが荷物がおもいっていうから持ってあげてたんだけど、途中で駅員さんが来て、おじさん連れていかれちゃったんだよね」
「まったくもう、うららくんはー」
「でもでも、れいやくんだってお弁当食べてる途中でどっか行ったでしょ」
「あれは飲み物が――」
やいのやいのと言い合いを始めた二人を見て、よく無事にここまで辿り着けたなあと思った。
二人の小学校は私のところより少し早く夏休みが始まったそうで、彼らがここに来たのは三日前の夕方だった。この家のおばあさんは父方の祖母で、おじいさんは二人が生まれるより前に亡くなられていた。おばあさんは今、一人で暮らしている。
「それじゃあ心良くんたちは、夏休みが終わるまでここにいるの?」
「そだよ! 宿題も全部持ってきてる」
「もう計画も立てたもんね」
「絵日記も書いてるよ」
双子はそれぞれ自分の絵日記を持ってくると、今日のページを開いた。
「今日はなんて書こうか」
「まよちゃんという女の子に会って、一緒にホットケーキを食べました」
「まだ食べてないよ」
二人はクレヨンを取り出し、ノートの空欄に絵を描き始めた。何を描いているのかと思えば、どうやら私であるらしい。兄弟に代わり番こに顔をじろじろ見られるのは流石に気恥ずかしかったが、私は膝に手を置いておとなしく座っていた。というより、そうするしかなかった。私は二人の真摯な目線に射止められて、ソファからすっかり動けなくなってしまったのだ。
絵の描き方から筆跡まで全くそっくりであることに感心しつつ、一生懸命な二人の様子を観察していたら、ホットケーキの焼ける香ばしい匂いがした。おばあさんはお皿を持ってくると、テーブルの上にことりと置いた。
「わー! 食べよ食べよー」
きちんと洗面所で手を洗ったあと、二人は並んでテーブルについた。私は玲矢くんの前の椅子に座った。おばあさんにお礼を言ってから、目の前に置いてあるお皿の上のホットケーキを見つめた。
お皿に載ったホットケーキは、鼻孔をくすぐる甘い香りがして、こんがりときつね色に焼けていた。心良くんと玲矢くんは、さっき話していた通り一枚にジャム、もう一枚にはちみつを塗った後、フォークで四苦八苦しながら半分に切り分けていた。私はかなり迷ってから、自分の一番近くに置いてあったバターを少しだけ載せた。
「それじゃあ、いっただっきまーす!」
二人は口を揃えて言い、ホットケーキにフォークを突き刺すと、そのまま持ち上げてかぶりついた。その食べ方は想定していなかったので、私はちょっとびっくりした。
どうしよう、と困った。前にホットケーキを食べた時は一口サイズに切ってもらってから食べていたが、目の前にあるのはそのままの状態だ。ナイフを出してほしいとは言えないが、二人みたいに齧りつくのも行儀が悪いような気がする。もちろん本人たちには言えなかったが。
仕方なく、自分でフォークをちびちび刺して小さく切り分けてから口に運んだ。バターの香りと仄かな甘みが口いっぱいに広がる。
無性に胸が詰まって、私はぱくぱくと無心に食べ続けた。
「おいしいねえ」
「おばあちゃんのホットケーキは最高だね」
一枚目を食べ終わる頃にこっそり顔を上げると、二人はもう三枚目に突入していた。ブルーベリージャムをこれでもかと塗りたくられたホットケーキを、あちこちを汚しながら口いっぱいに頬張るように食べている様子には若干呆れたが、ハムスターみたいでなんだか可愛いなぁと微笑んでしまう。同い年なのに。
そんな二人をじっと見ていたら、心良くんが私の視線に気づいて、何を思ったのかフォークを突き刺したホットケーキをこちら側に差し出してきた。しかも、とても一口では飲み込めないほど大きい。
「まよちゃんも食べる?」
「えっ……いいよ、心良くんのでしょ」
「いいからいいから。はい!」
口にホットケーキの大きな塊を突っ込まれて、むぐ、と咽せそうになった。なんとか咀嚼していると、心良くんは身を乗り出して私の顔を覗き込んできた。
「おいしいでしょ?」
期待に満ちた心良くんの目にたじろぎつつ、こくりと頷いたら――心良くんは、花が咲いたような笑顔を見せた。
「よかったぁ!」
その時私は、咀嚼することを止めた。
――ああ、まただ。
心良くんの周りに、吸い込まれそうなほど黒い闇が見える。
部屋は元々暗いのに、それを凌駕する圧倒的な、闇。
何が、どうしてこんなに「暗い」んだろう?
「ま、まよちゃん!?」
「え?」
ぎょっとしたような心良くんの声に呼び戻された。玲矢くんも目を見開いて私を見ていた。
「どうしたの? おいしくなかった?」
そんなこと、と言おうとしたら、ぽたりと滴がお皿の上に落ちた。頰に触れると、濡れている。
私は泣いていた。ぽろぽろと、無意識に涙を零し続けていた。
「あれ、おかしいな」
ようやくホットケーキの塊を飲み込んでから、私は眉を顰めて口を押さえた。
「ごめん、ごめんね。変、だね。本当に、何でもないの。全然何にも、悲しくなんてないから」
「……でも」
「大丈夫だから」
私は必死で弁解した。嘘偽りない本音だった。むしろ、心良くんと玲矢くんが困ったような目で見てくることの方が、私の胸を締め付けた。
目を擦っても擦っても、涙は溢れ続ける。
「ま、まよちゃん……」
「ねえ、心良くん、玲矢くん」
私は心良くんの言葉を遮って、涙を振り切るように言った。
「また、明日も来ていいかな」
「……えっ?」
流石の心良くんも面食らっていた。確かにちょっと、いきなりすぎたかもしれない。私は泣きながらへらっと笑った。
「ホットケーキが無くても、明日も、ここに来ていい?」
欲しいのは、「許し」だ。
また明日も一緒にいていいという許可。あるいは約束。
二人は暫くの間ぽかんとしていたが、やがて心良くんが頷いた。
「うん、いいよ」
心良くんとそっくりの顔で、玲矢くんも笑った。
「明日も、一緒に遊ぼう!」
「……ありがとう」
涙を拭って、私は精一杯微笑んだ。
*
翌朝、いつもより一時間も早く起きて、私はお気に入りの瑠璃色のトートバックに持っていくものを詰め込んだ。筆箱、絵日記帳、その他の宿題。水筒、本、お財布。こんなにたくさんは要らないんじゃ、と思いはしたが、結局絞り切れなかった。
もしかしたら、一緒に宿題とかするかもしれないし。二人も本、好きかもしれないし。
朝食を急いで食べ終えた後、私は完全に浮かれ気分で準備を済ませ、自分の部屋を出た。
「あ」
「うわ」
同じく部屋から出てきた雅さんは、また嫌そうな顔をした。
「どこ行くのよ」
「友達の家です」
「……は? あんたに友達?」
フッ、と小ばかにしたように鼻で笑われた。
「マボロシでも見てんじゃない?」
「心良くんたちは幻じゃありません。邪魔なのでそこ、どいてください」
「……あんた」
絶句する雅さんをスルーして階段を駆け下り、「夕方までには帰ります」とだけ言って家を出た。行ってきますも行ってらっしゃいもなかった。
自転車の前カゴにトートバックを入れて、思いっきり自転車を漕ぐ。昨日はあんなに苦労していたのに、何故だか息を上げることもなくすいすい進むことができた。
二人の家まで、十分ぐらいしかかからなかった。自転車を止めて玄関のチャイムを鳴らそうとした時、家の裏の方から誰かの声が聞こえてきた。
もしかしたら、お庭で遊んでいるのかも。そう思った私は玄関から入らず、裏から回ってみることにした。
家の裏側にある庭には、何の種類かよくわからない木や草がたくさん生えていた。でも、時々手入れされているらしく、雑然とした感じはしない。
兄弟の片方が、その真ん中に一人でぽつんと立っていた。
「おはよ……」
挨拶をしかけて、私は彼の様子がおかしいことに気づいた。
彼は俯きながら、肩をぷるぷると震わせていた。私が来たことにも気づいていないみたいだ。
何か、茶色い物体を抱えている。
「どうしたの?」
近づくと、鉄の匂いが鼻孔に突き刺さった。
「う……」
私は思わず片手で鼻と口元を覆った。頭の奥の方がキンと痛んだ。
兄弟の片方は、私に気づいて顔をゆっくりと上げた。大粒の涙がぽたりと零れ落ちて、地面に大きな染みを作った。顔は全体的にぐっしょり濡れており、目には泣き腫らした跡がある。
顔に絆創膏がないので、玲矢くんだとわかった。
玲矢くんは唇を噛みしめ、涙を堪えるように目を細めた。それでも悲しみを抑えられないようで、しゃくり上げながらえぐえぐ泣いている。
「玲矢くん、何、それ」
異臭の原因は玲矢くんの抱えている柔らかそうな茶色い物体だった。近くで見てみると、赤黒い何かがびっしりとこびりついていて、元の色は何だったのかもうよくわからなかった。
「ねこ」と、玲矢くんは泣きながら言った。
「猫……?」
確かに、大人の猫ぐらいの大きさだった。
玲矢くんは丸まっていた猫の胴体を広げて私の方に見せてきた。一層強く香る匂いに吐きそうになりながらも、私はそれを目の当たりにした。
「ちぎれ、てる?」
「うん」
玲矢くんは頷く。
猫には、下半身から先の身体が無かった。手足も一本しか残っておらず、目は固く閉じられている。
「何で……」
「表の道路でね、車にひかれてた」
玲矢くんは途切れ途切れに、悲しみを落としていくように語った。
「このねこ、一昨日ここに来てて、うららくんといっしょにかわいいねって言ってたの」
「……」
「またあそぼうねって、言ってたのに」
こわごわと私は猫に触れてみたが、ぐにゃりとした生々しい肉の触感と動物とは思えない冷たさにびっくりして、すぐに手を引っ込めてしまった。指先の気持ち悪い感触だけが残った。
「それ、埋めないの?」
私は玲矢くんに尋ねた。
「え?」
「もう、動かないんでしょ? 早く埋めないと」
このままだと臭くて仕方がないし、きっとおばあさんも怒るだろう――そういう意図で言っただけなのに、玲矢くんは真っ赤な目を顰めて私を睨み付けてきた。
「な、何?」
彼の不機嫌の理由がわからず戸惑うと、玲矢くんは洟を啜って一瞬で元の表情に戻り、つんとそっぽを向いた。
「今から埋めるの」
巴さんに宿題をやれと言われた時の雅さんのような反応だと、私は思った。
玲矢くんは地面に置いてあったスコップを拾って庭の隅まで移動した。猫を下に置くと、手際よく地面を掘り始める。涙は止まったようで、水滴が地面に落ちることはなかった。黙々と穴を掘る玲矢くんの横にしゃがみ、私はその様子をじっと見つめた。
「心良くんには、言わなくていいの?」
「うん」
玲矢くんは即答した。
意外だった。昨日の様子からてっきり、隠し事をする間柄の兄弟ではないと思っていたのだ。
すると玲矢くんは私の顔をちらりと見て、付け加えるように言った。
「うららくんも、かなしいって言うと思うから」
その声には思いやりが籠もっているように、私は感じた。
「……玲矢くんは、優しいんだね」
穴を掘る手がぴたりと止まる。
「やさしい?」
「心良くんに、悲しんでほしくないんでしょ? 優しいよ」
至極当然の感想だと思って言ったのに、
「う、うーん」
玲矢くんは、なんだか気難しそうな顔をして黙り込んでしまった。
猫を埋め終えると、玲矢くんは手を合わせて目を瞑った。多分、お祈りというものだ。私だけ何もしないのも変な感じがしたので、同じように手を合わせてみた。
何てお祈りすればいいんだろう。数秒悩んでから、無難に猫の冥福を祈った。天国でも元気でね、とか適当に、短く。
早々にお祈りが終わってしまったので横を見ると、玲矢くんはまだ何かを祈り続けていた。私より二十秒も長く手を合わせた後、やっと目を開けた玲矢くんの表情は、逆光でよく見えなかった。
「長かったね。何をお祈りしてたの?」
立ち上がった玲矢くんに訊くと、彼は私をじっと無表情で見つめてきた。
そういえば、初めて会った瞬間の玲矢くんもこんな顔をしていた。何かを考えていそうなのに、何を考えているのかさっぱりわからない、そんな顔だ。
「まよちゃんは……」
何かを言いかけたまま、玲矢くんはくるりと私に背を向けた。
「なんでもない」
「……ふうん」
特に答えを知りたいわけでもなかったので、それ以上深くは訊かなかった。私も立ち上がって、玲矢くんの横を通りぬけると、玄関から家の中に入ろうと歩き出した。
「…………ね」
玲矢くんが何事かを呟いたので、私は振り向いた。
「何?」
「なんでもなーい!」
昨日までと全く変わらない、心良くんとそっくりの顔で、玲矢くんは明るく笑った。
いまひとつ釈然としないことはあったが、元気になったのなら良かった、と私は安心した。
けれど。
私の聞き間違いや記憶違いでなければ。
玲矢くんはこの時おそらく、こう言っていた。
「壊れちゃったね」