87話 偽りの友達①
かたく目を瞑ってサイレンが遠ざかるのを待つ。朝の通学路に清らかな静寂が戻って、ようやく智春は立ち上がった。力を入れすぎていたふくらはぎに痺れが走る。周囲にパトカーがいないことはわかっているのに、表通りへ足を踏み出す勇気が出ない。
でも、早く学校に行かなければ。通学路に生徒がほとんどいないということは、朝の会まであまり時間がないのだろう。ひょっとするともう間に合わないかもしれない。智春はこれまでずっと時間に余裕を持って登校していたので、遅刻しそうな時間の感覚というものがわからなかった。
こんなとき、遼だったらどうするのだろうと思い耽る。遼は偶に遅刻していたけれど、いつも気づいたら何食わぬ顔で席に座っていた。あれぐらい堂々としていたら先生もとやかく言わないのだろうか。野良猫みたいに遠慮なくあくびをする幼馴染みの顔を思い出して、少しだけ気が紛れた。
きっと遼も同じくらい不安がっているはずだから、自分だけここで挫けるわけにはいかない。そう言い聞かせて深呼吸する。
「よし」
頬を叩いて雑念を追い払い、智春は自転車をぐっと押した。
重いペダルを無心に踏み続けて校門に辿り着く。校舎の時計に目をやると、本鈴が鳴る四分前だった。先生に見つかったら怒られるだろうけど、急いで三階まで駆け上がればぎりぎり間に合う。のんびりと階段を上がっている生徒を頻繁に追い越すので、焦っている自分がおかしいのだろうかと逆に不安になる。
息を切らしながら二階に辿り着く。C組の教室までもう一踏ん張りというところで、図書室の前に見知った顔を見つけた。とにかく彼女はそこに立っているだけで誰にも無視することのできない存在感を放つのだ。
腰まで届く射干玉の髪を揺らして、クラスメイトの鬼城真夜が誰かと話している。そういえば、と運悪く思い出す。真夜を監視するように玲矢から命令――もとい、頼まれていたのだった。素通りすることも一瞬頭をよぎったが、彼女が詰め寄っている相手はよりにもよって心良のようだ。蛇に睨まれた蛙のような哀れな姿に胸が痛んで、智春は仕方なく足を止めた。
「おはよう、鬼城さん。朝読書の時間始まるよ?」
何でもないことのように話しかけると、針のような視線がこちらを穿った。邪魔をされたことに怒ったのかと思ったが、真夜は黙って身を翻した。そのまま規則正しい足音を鳴らして階段を上がっていく。
真夜のことは相変わらずよくわからない。心良に対して並々ならぬ執着心を抱いていることは知っているけれど、それ以上は闇に包まれたままだ。でも、何かを知ったところで結局智春は玲矢の言う通りにするしかない。
「ほ、ほら。網瀬くんも」
棒立ちになっている心良の顔を覗き込んでぎょっとする。彼はびっしょりと汗をかいて顔面蒼白になっていた。唇を震わせ、眉根を寄せて何事かを呟いている。心良は智春の体を弱々しい手で押しのけてふらふらと階段の方へ歩いていく。
くらりと目眩がして、智春はついたたらを踏んだ。
心良のあんな顔を見るのは初めてだ。あの子はいつだって無表情で世界のすべてに関心がないかのような目をしていたのに、一体何があったのだろう。
登校早々に体調が悪い、というわけではなさそうだった。心良は怯えていた。恐れていた。あの鬼城真夜という転校生に。
以前、教室でクラス委員の仕事をしている最中に玲矢に尋ねたことがある。
「鬼城さんって、何なの?」
玲矢は作業の手を止めると「何って」といつになく険のある声を出した。眼鏡の奥の瞳が夕焼けを反射してぎらついていたのを覚えている。
「花浜中からの転校生って聞いているけど……玲矢くんたち兄弟とは、前から面識があったんでしょう? どういう関係なのよ」
どうせはぐらかされると思っていたが、機嫌がよかったのだろうか。玲矢はしばらく考え込んでからこう答えた。
「兄さんにとっては……そうだね、侵略者ってところかな?」
俺についてはノーコメントで、と玲矢は笑う。その笑みに普段とは異なる毒気が滲んでいるような気がしたが、原因は掴めなかった。
「侵略者……」
確かに先程の心良の表情はまさしく外敵を恐れる原住民のようだった。無自覚に他人を威圧する極彩色のオーラが真夜にはあるが、それだけであの壊れたお人形が感情を曝け出すとは考えにくい。真夜が転校してくるよりも前に何か決定的な事件があったのだろうか。
また深く考え込んでいることに気づいて、智春はかぶりを振った。他人のことを気にしていられる身分ではないのだ。あの三人とは――特に玲矢とは必要最低限の会話だけをして、なるべく向こうの人間関係に深入りしないように気をつけていこう。
ところが、智春の決意は早くも失敗に終わることとなる。
今にして思えば、朝の出来事が予兆だったのかもしれない。
*
六時間目のLHRは一年生全員を集めて体育館で行われる。必要なファイルと筆箱を持って教室を出ると、急いだように駆け寄ってきた菜々海に「ちょっとちょっと」と肩を掴まれた。
「置いていかないでって、昨日も言ったでしょ。もー、すぐ私のこと忘れるんだから」
冗談みたいな言葉に隠れた優しさに目頭が熱くなる。
渕上菜々海は元々部活もグループも違うクラスメイトだったが、文化祭の合唱でソプラノパートのパートリーダーをやってもらって以来よく話すようになった。遼が学校に来なくなってからは親切にも向こうから声をかけてくれている。彼女には彼女の学校生活があるのであまり邪魔をしたくないのだが、仲良くしてもらえるのは素直に嬉しい。露骨に避けようとするのもそれはそれで失礼だ。
菜々海の友達の向結貴が準備をするのを待って、三人で一緒に教室を出た。仲良く横並びになって体育館へ続く階段を下りていく。
「ジオラマ作りとか、ほんとめんどいよね。しかも男女混合なの最悪じゃん? 結貴たちと離れちゃうしさあ、班分けぐらい自由に決めさせろっての」
不平をこぼす菜々海の陰から、結貴がぴょこんと顔を出す。彼女のハムスターみたいな仕草はどことなく明佳を彷彿とさせる。
「ななちゃん、小学校の頃から工作苦手だもんねえ」
「いやそれは今関係ないからね?」
「でも、菜々海ちゃんの班は良い方じゃない? 真面目な男子が多いし、ちゃんと参加してくれそう」
「智春ちゃん、参加しないのはななちゃんの方だよ」
「あんたはちょっと黙ってて?」
口を塞がれそうになって逃げ回る結貴を、智春は微笑みながら見つめた。
こうして三人で話していると、遼と明佳がいた頃に戻ったみたいだ。智春が発言して、冷静な遼が指摘を入れて、のんびり屋の明佳が場を和ませるのはお決まりのパターンだった。日野先生からも「あなたたち三人はいつも仲良しですね」なんて笑われていた。
「言うことを聞かない子はほっぺたもちもちの刑だ!」
「わあ、やめてってばあ」
楽しそうにじゃれ合う二人が視界に映って、智春はハッと我に返った。
――ううん、でも、やっぱりあの頃とは違う。
欠けた人間の代わりを見つけることはできない。二人が座らなくなった座席は空白のままだ。幸せだった頃を思い返して誰もいない場所へ手を伸ばしてしまうのは、きっとこれからもやめられないだろう。
勝手に比べて寂しくなるぐらいなら、一人でいた方がいいのかもしれない。自分にとっても、気を遣ってくれる菜々海たちにとっても。
無性に申し訳なくなって、二人から数段後ろを歩いていると「そういやさあ」と菜々海が振り返った。何かを訝しんでいるような目つきで智春の耳元に顔を寄せてくる。
「智春と玲矢って、最近どうかした?」
「え――」
瞬間、遼のアパートが脳裏に浮かんで全身に緊張感が走った。
冷や汗が背中を伝っていく。何か勘付かれたのだろうか。まさか、玲矢との会話を聞かれた? 密談のときには細心の注意を払っていたはずだったのに。
菜々海の目は懐疑から好奇へと移り変わっていった。
「その顔を見るに……ははーん、やっぱり何かあったな! これは大事件ですよ向さん、ねえ?」
「ほえ……噂はほんとだったんだなあ」
「ちょ、ちょっと待って。う……噂って何? 二人は何を知っているの?」
智春はますます青ざめながら小声で二人を問い詰めた。クラス中に話が広まっているのなら玲矢から何かしらアクションがないとおかしい。
「ずばり、玲矢と付き合ってるんでしょ!」
「は?」
優等生らしからぬ間抜けな声が出て、自分で自分に驚いた。思わず階段を踏み外しそうになり、あたふたと体勢を立て直す。
「つ、付き合ってる!?」
あまりに縁のない単語に声が裏返る。階段中に声が響き渡って、智春は慌てて自分の口を押さえた。
何がきっかけで、いつからそんな話になっていたのか。クラスメイトが噂を立てている場面を想像するだけで顔が真っ赤になる。
「前から怪しいと思ってたんだよねー、同じクラス委員って言ったって、最近一緒にいすぎだし? 二人でよくこそこそしてるし、学級会のときもやたら距離近いし」
「いや、いやいやいやいや」
菜々海が並べ立てた論拠の前半は真実だが、最後のは言いがかりだ。
「違う、本当に違うの! 玲矢くんとはその、個人的に話すことが多いだけで、そういうのじゃ全然ないから!」
「えー、嘘だあ。智春だって玲矢のこと好きなんじゃないの?」
「いや、そんなわけ……」
ない、と言いかけて、全否定するのもおかしいかと踏みとどまる。表向きは仲の良いクラス委員なのだ。友達として、同じクラス委員として信頼していることを落ち着いて伝えなければならない。
でも――本当のところ自分は、玲矢のことをどう思っているのだろう。
九月に盗難事件の真相を聞いたときは、到底わかり合うことのできない恐ろしい存在だと思った。双子の兄に暴力を振るうことが「愛」だなんて智春には受け入れ難い価値観だし、一生関わり合いになりたくないとさえ思っていた。
だが、遼の一件では助けられてしまった。玲矢の真意は未だわからないが、彼がいなければどうすることもできなかったのは確かだ。智春が今学校に通えているのは紛れもなく玲矢という恩人のお陰なのである。
返答に迷って黙り込んだせいか、菜々海はますます勝ち誇った顔になった。
「あ、ほら、いいところに! おーい、そこの男子ども!」
「え」と智春が視線を向けると、タイミングが良いのか悪いのか、話題の中心である玲矢と複数名の男子がちょうど三階から下りてくるところだった。階段を軽やかに駆け上がっていく菜々海の手首を慌てて掴んだが、興味津々な彼女は止まらない。
「ねえねえ、智春と玲矢って付き合ってるって聞いたんだけど、本当?」
「ちょっと、菜々海ちゃん!」
その言い方ではまるで智春が言い出したみたいではないか。
関係のない男子たちは気まずそうに顔を見合わせている。恐る恐る玲矢の方を見やると、意外にもきょとんとしていた。玲矢も初耳なのかもしれない。
智春は必死になって「違うって言って!」とアイコンタクトを送った。こちらの顔を不審げに見つめていた玲矢の表情が次第に明るくなる。意図が伝わったのだろうかと安堵したのも束の間、
「うん、実はそうなんだ」




