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閉塞学級  作者: 成春リラ
11章 ぼくら友達一年生
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86話 やさしい友達③

 五限目と六限目の授業中は「愛理に伝え損ねた千の恨み言」がぐるぐると渦巻いていて、脳細胞がどす黒く染まりそうだった。一人で落ち着いて考えてみると、ああ言えばよかったこう言えばよかったと無限に後悔が溢れ出すのに、どうして本人の前では言葉にならなくなってしまうのだろう。

 昔はもっと対等に、気兼ねなく話せていた。いつからか愛理はひまりより一段二段上を行くようになり、ひまりとは全然違うタイプの人たちとつるむようになった。愛理の方が変わってしまったのだ。自分はずっとここにいるのに。


 静寂を蹴破るチャイムで我に返る。結局、午後の授業内容も日野先生からの連絡も頭に入らなかった。

 特に用事もない帰宅部の身だ。さっさと家に帰って嫌なことは忘れよう。晴れない心と一緒に角の折れた教科書をスクールバッグにしまい込む。


 昇降口を吹き抜ける風は肌を刺すような冷たさで、否が応でも冬の到来を意識させられる。頭の中の霧を払うにはちょうどいい寒さだ。少し体を縮こまらせつつ外に出ると、階段の下でたむろしている女子生徒たちが揃ってタイツを身に着けていた。自分だけ穿いてくるのが恥ずかしくて躊躇していたのだが、そろそろ目立たなくなる頃合いかもしれない。

 タイツの色は黒か肌色のみと副担任の前田先生が口を酸っぱくして言っていたけれど、そんなの黒一択しかない。他の人はどれくらいの濃さのものを穿いているのだろう。さりげなく女子たちの脚を見ようとしかけたが、変態みたいなので早々に諦めた。

 誰もいない自転車小屋の通路の端を歩く。引っ張り出した自転車の後輪からきゅう、と情けない音がした。


 木枯らしを顔面に受けながら自宅に向かって淡々とペダルを漕いでいる間はよかったのに、赤信号に阻まれて自転車を止めた途端、油断が生まれてしまった。目の前を通り過ぎる車を目で追って気を紛らわせようとするが、思考の隙間に不快感が滑り込んでくる。

 ――ひまりは優しいから。愛理の声が耳の奥にへばりついていた。似たようなことを本人から直接言われたこともある。ひまりはわかってくれるよね。ひまりなら許してくれるよね。それは仲が良い故の気安さだと、愛理なりに親愛を表しているのだとずっと言い聞かせてきた。

 だけどあるとき気づいてしまった。愛理は他の友達には同じ台詞を言わないのだということに。


 早く横断歩道を渡りたいのに、ひまりの前を行き交う車はなかなか途切れない。跨がったままのサドルから一旦降りた、そのときだった。

 隣に立っていた人がふらりと身を乗り出したので、信号が青に変わったのかと思った。だが、歩行者用の方は相変わらず赤のままだ。咄嗟に右へと視線が吸い寄せられた。

 迫り来る車と眩いヘッドライトに一瞬で視界を支配される。鳴り響くクラクションが鼓膜を震わせる。躊躇している余裕はなかった。

 相手の服を闇雲に掴んで思い切り引き寄せる。ガシャン! という衝撃音に息が止まったが、ひまりの手から離れた自転車がアスファルトに叩きつけられた音だった。

 危うく人身事故を起こすところだった車から運転手が出てくることはなかった。不満げにエンジンを吹かして走り去っていく。


 心臓がまだドクドクと早鐘を打っている。信号が青に変わり、また赤に戻り、もう一度青になったとき、ひまりはようやく隣の人の顔を見た。尻餅をついて、魂が抜け落ちたみたいに真っ白になっている相手の顔を。

 驚きで声も出なかった。車道に飛び出しそうになっていたのは、クラスメイトの笹村奏斗だったのだ。足元には銀色の松葉杖が転がっていた。


「え、えっと……」


 ひまりが当惑していると、奏斗はこちらを見上げて貼り付けたような笑みを浮かべた。


「悪いんだけど、手貸してくんねえかな」





 平日に制服姿の中学生二人で入れる場所は限られている。とはいえ、奏斗が平然とカラオケボックスに入ろうとしたので目を剥いた。奏斗は受付で「オレが払うから気にしないで」と笑っていたが、ひまりが気にしているのはそういうことではない。

 同級生と、しかも男子と二人でカラオケに来たのは初めてだ。というかカラオケ自体も小五の春休みに愛理や彼女の友達複数名と入ったのが最後のような気がする。あのときは初めから終わりまで部屋の隅でジュースを啜っているだけだったな、と余計なことを思い出した。


 指定されたカラオケルームに奏斗が入っていくので、恐る恐る後に続く。部屋の中は予想以上に狭かった。二人で定員いっぱいだ。染みだらけの天井に取り付けられた小さな電球は照明として心許なく、むしろ部屋の圧迫感を上げているように思える。

 奏斗は固そうなソファの真ん中に腰掛けると、松葉杖を放り出しながら「オレ先に曲入れていい?」などと訊いてくる。まさか本当に歌うつもりだとは思っていなかったので、ひまりは後ずさりながら狼狽えてしまった。そういえば奏斗は受付でわざわざカラオケの機種を選んでいた。


「ハハハ、じょーだんじょーだん」


 奏斗は愉快そうに笑った。ソファの端まで移動して隣の座面をバンバンと叩いている。ここに座れということらしい。陽キャの近すぎる距離感に怯えつつ、ひまりは鞄一個分のスペースを挟んで座った。

 隣の部屋からは軽快なポップスが漏れ聞こえている。どうも壁がかなり薄いらしい。

 てっきり奏斗の方から話を切り出すのかと思ったが、相手は無責任にも視線を泳がせるばかりだ。もしかしてこちらから話題を振らないといけないのだろうか。それはひまりにとってかなりの苦手分野だ。

 奏斗と同様に部屋中を見回していると、隅に放られたアルミ製の松葉杖に目が留まった。


「……あの」

「あっハイ」


 奏斗は背筋を伸ばしてかしこまった声を出した。やりづらい。


「まだ、治ってないん……だよね? 脚」

「ああ、うん」

「えっと……い、痛い?」

「いや、別に……」

「そ、そっか」


 会話終了。沈黙。

 ()(れん)に腕押しとはこのことか。特に話すことがないのならこんな狭くて居心地の悪い場所に連れてこないでほしい。今すぐ奏斗を置き去りにして部屋から飛び出したい衝動を抑え込んで、ひまりは「あの!」と珍しく声を張り上げた。


「さっき、何してたの?」

「何、って」


 きょとんとした顔の奏斗に「だから……!」と詰め寄ろうとした途端、


「車道に飛び込もうとしただけだけど」


 一息に吐き出された言葉に唖然とする。周りの酸素濃度が下がったような気がした。


「飛び込む、って」


 瞬時に頭をよぎったのは空き教室の異様な寒さだった。次いで、葬儀場に立ち込める線香の匂いと棺の中で眠る野河明佳の顔を思い出す。


「あの、笹村くんは、し、し、死にたいの……?」


 戸惑いながらかろうじて口にした問いかけは震えていた。

 赤いクレヨンで塗りつぶされた作文と奏斗の本当の夢を聞かされて以来、彼と個人的に会話をしたことはなかった。ふざけている奏斗を見るたびに居た堪れなさを感じてはいたけれど、あの中庭で道化の内面を垣間見たに過ぎないただのクラスメイトにはどうすることもできなかったのだ。

 そもそも奏斗にとってのひまりは「クラスメイト」ですらないかもしれない。モブの女子生徒。通行人A。きっと彼には悩みを打ち明けられる人がいる、自分に何かできるなんて思い上がりだと、自嘲気味に言い聞かせてきた。

 まさか、奏斗がそこまで思い詰めていたなんて思いもしなかった――


 狭苦しいカラオケルームの空気がより一層深みへ沈んでいく。

 陰鬱な灰色の空気を突き破ったのは、意外にも奏斗の笑い声だった。


「ないない、ないわ! オレまだやりたいことあるし。死ぬわけねえじゃん」


 ひまりは目をしばたかせた。テンションの変化についていけない。


「えっと……」

「もう片方の脚も折れたらいいのにって思ったら、うっかりやっちゃっただけだって」


 さらりと穏当でないことを口にして、奏斗はまたケラケラと笑った。空元気なのか本気なのか、涙を滲ませながらお腹を抱える奏斗を見ていると、おかしいのは自分の方であるような気がしてくる。突っ込みどころが多くて何から指摘したらいいのかわからない。

 それでもひまりは「いや、でも」と遠慮がちに割って入った。


「車に撥ねられたら、普通は即死だと思う、けど……」


 奏斗は「確かに」と唐突に笑うのをやめた。仮面が剥がれ落ちたようだった。ひまりの発言で正気に戻ったのだろうが、あまりの変貌に背筋がぞっとする。


「階段から落ちても平気だったから、オレは大丈夫だと思ってた」


 隣の部屋の音楽より小さな声でぽつりと呟く。奏斗はソファの背にもたれかかると、再び沈痛な面持ちで黙り込んでしまった。窓の外の陽光が雲に遮られたのか、部屋の中が一段と暗くなる。ますます逃げ場がない。

 どうしたらいいの、これ。誰か教えてよ。心の中で祈っても助けは来ない。

 きっとここにいるのが自分ではなく愛理だったら、気の利いた励ましの一言を投げかけて場を和ませていただろう。ひまりにはできない。奏斗のような経験をしたこともないから、共感することさえ難しい。

 何もないひまりには何も言えない。


 カラン、と溶けた氷がぶつかり合う場違いな音がする。ドリンクバーで取ってきたメロンソーダはほとんど減っていなかった。泡立つ水面を意味もなくストローでかき混ぜると、時折自分の強張った顔が映り込む。

 隣から聞こえる曲はいつの間にかヘヴィメタルに変わっていた。容赦なく壁を貫通してくる下手くそなデスボイスとノイズ混じりのギターに、頭のどこかがぷつんと切れた。

 もうやってられるか。

 ひまりが「あの!」ともう一度声を張ると、奏斗は虚ろな目で顔を覗き込んでくる。


「こ、この町に、隕石が落ちたらいいのにって、思わない……!?」


 時折ふと考えることがある。たとえば、授業中に自分が脈略なく机の上に立って他人の教科書やノートを踏み荒らしたら、皆はどういう反応をするだろう。全校集会の最中に壇上の校長先生のマイクを奪って演説を始めたら、どんな惨状になるだろう。平凡な中学生ならきっと誰もが持っている、退屈をぶち壊すための幼稚で後先を考えない衝動。

 ()()が今、決壊した。


「一瞬でっ、何もかもなくなったら、みんないなくなったら、学校にも行かなくてよくなるし、嫌なこともしなくてよくなるって、笹村くんは思わない? そりゃ、わたしも死にたくはないけどっ、でもそうなったら生も死も関係ないっていうか、全部が一瞬で終わるなら大歓迎っていうか……別に今すぐ消えてなくなりたいってことじゃないんだけどっ」


 どんどん支離滅裂になって、自分でも何を言っているのかわからなくなる。奏斗が怪訝な顔をしているのは明らかだった。


「だから、笹村くんも……な、なんか、喋ってよっ!」


 吐き捨てるように言い切る。言いたいことは何もまとまらなかった上に、最後の方はほとんどキレ気味になってしまった。

 奏斗の瞼がピクピクと痙攣している。笑っているのだ、と少ししてから気づく。


「な、何?」

「いや、この人何言ってるんだろうって思って」

「な……」


 後悔と羞恥が大波のように押し寄せてきて、顔から火が出る。やらかした。思いつくままに口走ってしまった。今すぐ部屋のドアを開けて走りながら叫びたい気分だったが、奏斗の「はは、でも、言えてる」という声に引き留められた。片頬で笑う奏斗の瞳は先ほどよりも穏やかになっている。


「全部、なくなっちまえばいいのになぁ……」


 言葉こそ悲壮感が漂っているが、奏斗は笑顔を見せていた。教室で見る大仰な表情とは違う、照れくさそうな微笑み。もしかして、こちらの方が素なのだろうか。


「オレ、柏葉さんの前でカッコ悪いことしてばっかだな」

「そ……そうかな。そんなことないと思うけど」


 偽りない本心だった。少なくとも今はひまりの方が醜態を晒しているし、今日の奏斗は見ていてハラハラするけれど、格好悪いとは思わない。

 一呼吸置いて、奏斗は自分の持ってきたソフトドリンクにようやく口をつけた。ひまりもメロンソーダを啜った。乾いた舌の上で炭酸がわずかな痛みを伴って弾ける。甘いような酸っぱいような不思議な味がした。


「九月の作文のこと、誰にも言わないでいてくれたんだな。ありがとう」


 心音が跳ねる。覚えていたのか。奏斗の記憶の中にひまりの場所は残っていたらしい。

 ありがとう、なんてクラスメイトに言われたのはいつ以来だろう。


「えっと……うん。あの……今日のことも、他の人には言わないから」


 話す相手もいないし、と内心で付け足す。

 奏斗はほっとしたように息を吐くと、ソファにきちんと座り直した。改まったように「頼みがあるんだけど」と言うので、ひまりは思わず身構えてしまう。この期に及んでまだ何かあるのだろうか。


「偶に、こうやってオレの話を聞いてくれないかな」

「……いや、でも」

「LINEとかでいいから! 放課後の少しの時間だけでいいからさ、オレにもらえないかな……」


 息遣いまで感じられるほどの至近距離から、曇りのない双眸が真っ直ぐにひまりを射抜いてくる。こんな目で頼み込まれたらどんな内容でも断れない。

 正直なところ、話し上手でも聞き上手でもない自分より相談相手に適している人は他にいるのではないかと思う。だけど、友達でも何でもないひまりだからこそ話せることはあるのかもしれない。


「わ……わたしでいいなら、いいけど」


 半ば押し切られるように承諾すると、奏斗の顔に花が咲いた。相手は素早い手つきでスマホを取り出し、傷だらけの画面に指を滑らせる。


「柏葉さんとはLINE交換してなかったよな。えっと……」

「ちょ、ちょっと待って!」


 奏斗が一年C組のグループらしき一覧を目で追い始めたので、慌てて止める羽目になった。まさかメンバーに入れてもらえていませんとは言えない。家族と企業の公式アカウント以外に誰もいない友だち一覧を見せるわけにもいかず、ひまりは四苦八苦しながら出したQRコードをへっぴり腰で差し出した。

 初めてのLINE交換が無事に済んだところでちょうど三十分が経過し、その場はお開きとなった。奏斗が「延長しよう」などと言い出さなかったので安堵する。いわゆるお調子者ではないことを知っているとはいえ、狭い部屋に長時間二人きりでいるのは気まずい。


「じゃあ、またな」

「う、うん。また明日」


 ぎこちなく挨拶をしてカラオケを出る。外はすっかり暗闇に包まれていた。

 奏斗が松葉杖を駆使して帰っていくのを見送ってから、そそくさとアプリを開いて友だち一覧を確認する。奏斗のアカウントには「笹村奏斗」と存外シンプルにフルネームだけが表示されていた。アイコンに設定されているサッカーシューズの写真に少し胸が苦しくなる。

 スマホをポケットにしまって自転車の鍵を開ける。手首がベルに当たって軽やかな音を鳴らした。





 翌朝の昇降口はいつもと少しだけ景色が違って見えた。まだ誰のものでもない冷たく澄んだ空気も周りの生徒たちの不揃いな足音も普段と変わらないはずなのに。

 下駄箱から上靴を取り出していると「おはよっ」と背中を軽く叩かれた。経験したことのない事態に体が硬直する。咄嗟に何も返せなかった。

 数拍遅れて、相手が奏斗なのだと気づく。


「――お、」


 ひまりが口を開いた頃にはもう奏斗は階段の方へ向かっていた。一連の流れを見ていたのか、ちょうど下駄箱で靴を脱いでいた同じクラスの女子がにこりと笑いかけてくる。


「柏葉さん、おはよーっ!」

「……お、おはよう!」


 今度はなんとか返事をすることができたが、逆に罪悪感が湧いてきてしまう。結果的に奏斗の挨拶だけ無視をした形になってしまった。今わたし、感じが悪いやつみたいになってなかった?

 明日は自分の方から奏斗に挨拶しよう、必ず。

 大きく深呼吸して、ひまりは陽光の差し込む校舎の中へ一歩踏み出した。


 



 膝丈スカートのポケットには、生徒を取り締まるルールが入っている。しかしそれは今や何の効力も持たない紙束同然と成り果てていた。

 小学生のとき、()()(まき)()(はる)には様々な夢があった。プロフィール帳の「将来の夢」の欄は書く度に内容が変わっていたと思う。あるときはお花屋さん。あるときは学校の先生。またあるときは水族館のダイバー。警察官と書いたこともあったような気がする。

 あの頃は――いや、ついこの間まで、自分は何にだってなれると信じていた。二本の脚の下にあるレールは果てしなく遠くまで続いていて、希望の未来へ幾重にも枝分かれしていると思い込んでいた。

 盤石であるはずだったレールが一日にして血塗られた一本道になるだなんて、一体どうして想像できるだろう。

 夢見る無知な少女だった智春は今、パトカーのサイレンに怯えて物陰に隠れている。

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