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閉塞学級  作者: 成春リラ
11章 ぼくら友達一年生
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85話 やさしい友達②

 ひまりと入れ違いに教室から出てきた学ランの生徒とぶつかりそうになる。すんでのところで身を捩ったので正面衝突は免れたものの、相手はこちらを気に留めてもいない。わたしのことなんか見えやしないってか。くさくさした気持ちに拍車がかかったが、相手の顔を確かめたら若干落ち着いた。

 網瀬玲矢のきょうだいの――網瀬心良。下の名前の珍しい読み方を覚えていたのは、小学生のときに何年か同じクラスだったからだ。印象が薄すぎて名前以外はほとんど記憶に残っていない。要するにひまりと同類ということである。

 心良は手に持った紙の切れ端をぐしゃぐしゃに握りしめ、背中を丸めて帰っていく。おそらく期末テストの成績が相当悪かったのだろうが、こちらの気にするところではない。


 気を取り直して教室に足を踏み入れた瞬間、ひまりは軽く身震いした。なぜか体感気温が一段階下がったような気がする。

 明日から十二月に入る。冷房をつけるような時期はとうに過ぎているのに、というか空き教室にエアコンはないのに。元々日当たりが悪い場所とはいえ、どうして教室の中だけがこんなに寒く感じるのだろう。

 思い当たる原因は大分オカルトじみている。この空き教室の隣は旧・一年E組――二ヶ月前に野河明佳が首を吊った場所なのだ。

 だから北校舎の三階には来たくなかったのにと、二の腕をさすりながら席につく。向かいに座る日野先生もひまりの気持ちを察しているのか、困ったように笑った。


「昼休みにごめんなさい。この教室棟しか使える教室がなかったんです」

「あ、いえ……」


 誰も使いたがらないから余っているのだろう。警察の捜査が終わって北校舎の封鎖は解除されたけれど、以前にも増して人が寄り付かなくなってしまったのだ。昼間でも薄暗くて埃臭い廊下なんて、本当に()()が出そうだった。

 日野先生の手元には数枚のプリントが重ねて置いてある。二学期末の二者面談は期末試験の結果を渡して成績について担任と話し合うのがメインで、そこまで時間は取られないはずだ。はずなのだが、一年C組()()一人あたりの時間を他のクラスよりも長く取っているらしい。面談の期間を延ばすことはできないため、こうして昼休みにも呼び出されることになる。


「時間もないですし、早く終わらせましょう。こちらが柏葉さんの期末試験の結果です」


 机の上で滑らせるように差し出されたのは、先程心良が握りしめていた紙片と同じ大きさのものだ。

 特に感慨もなく内容を確認する。テストはほとんど返却されているので、点数は既に知っていた。順位も概ね予想通り。中間試験から上がっても下がってもいない。点数が伸びた科目と苦手教科についての指摘を軽く受けて、試験の話題はあっという間に終わった。


「冬休みの宿題はまだ刷り上がってないので、とりあえず一覧を渡しておきますね」


 続いて出された紙を無言で引き寄せる。ところどころ潰れたゴシック体が敷き詰められているリストを眺めてみても、目が滑るばかりで内容が頭に入ってこない。もうすぐ冬休みだということも実感がなかった。

 結局二学期も何もなかったな、と内心でため息をつく。クラスの中では大小様々な事件が勃発していたけれど、ひまり自身に劇的なことは何も起こらなかった。残りの一ヶ月もどうせこのままだろう。


「何をする予定ですか?」

「……え?」

「冬休み。夏休みよりは短いので、予定を立てないとすぐに終わってしまいますよ」


 数秒だけ考えるふりをして「別に何も」と椅子に座り直す。家族とだらだら紅白でも見ながら年越し蕎麦を食べたり、お年玉をせしめた後初詣に行ったりする。せいぜいそれぐらいだ。


「普通は部活動があると思いますが……結局どこにも入っていないんですよね?」

「はあ、まあ」


 否定とも肯定ともとれない曖昧な返事をする。またその話題か。

 日野先生につつかれるのもいい加減うんざりするが、ひまりとて全く入部を試みようとしてこなかったわけではない。先月の終わり頃、家庭科部の体験入部にまでなんとか漕ぎ着くことができたのだ。ちょうど世間はハロウィンの時期で、パンプキンタルトのデコレーションを手伝わせてもらえたのは確かに楽しかった。

 一方ではっきりとわかってしまった。ひまりは一人でのんびりと気分に合ったものを作りたいように作るのが好きなのであって、みんなとわいわいお菓子作りがしたいわけではないということに。それに、他の一年生に気を遣われている雰囲気だったのも辛かった。

 こう考えていると、自分はぼっちになるべくしてなったのではないかという疑念が頭をもたげてくる。


「多分卒業まで言われ続けますよ。二年の先生は私よりも口うるさいかもしれませんし」


 ひまりが黙り込んでいると、日野先生の小言はどんどん続く。


「今はあまりピンとこないかもしれませんが、内申書の問題もあります。何か一つ頑張りました、と書かれていた方が高校側の心象も良いですよ。県立高校なら特に」


 今度は受験の話か。耳栓でもしたくなってきた。こっちは二学期が終わることも受け止めきれていないというのに、二年以上先のことなんて考える余裕はない。

 日野先生もひまりが縮こまっていることに気づいたのか「お説教はこの辺りにしておいて」と軽く咳払いをした。


「――二学期に入ってから、クラスで色々なことがありましたよね」


 トーンを落とした重々しい語り口に、思わず居住まいを正してしまう。やはり今日の本題は()()なのだと察するには十分だった。色々なことというのが具体的にどれを指しているのかはわからないが、先生も口にしたくないのだろう。


「不安になったり、学校に来ることが嫌になったりしたことがあると思います。柏葉さんも何か悩んでいることがあったら、遠慮せず話してくださいね」


 どこか堅苦しい声に引っ張り上げられるようにして、ひまりは今日初めて日野先生の顔を見た。

 抱え込んだ苦労を厚化粧とかりそめの笑顔で覆い隠している。決壊しそうな感情に蓋をして押さえつけている。そんな風に見えた。四月の入学式で対面したときはもっと溌剌としていたのに。

 居たたまれず俯くと、日野先生のひどくかさついている手が目に入った。無数の痛々しいささくれや伸びきった爪を、先生は不安げに弄っている。

 担任クラスから自殺者が一人と不登校者が数名出たら、誰でも日野先生のようになるのかもしれない。


「柏葉さん?」

「……あっ、いや、わたしは何も、ないです」


 一瞬思い浮かんだ愛理の軽薄な笑顔を記憶の底へ押し込む。日野先生の苦労を増やしたくないとか、迷惑をかけたくないとか、そんな殊勝な理由ではなくて。

 他の皆に比べたら、自分の悩みはなんてちっぽけなのだろうと思ったのだ。

 絶望も孤独もありふれていて、自ら死ぬ勇気も意志もない。ただ寂しいだけ。食べ残したグリーンピース一粒ぐらいに大したことのない苦みを、大人の前でわざわざ打ち明けるのは恥ずかしい。

 所詮自分は周りが当たり前のようにやっている普通のことができないだけなのだと、思い知らされるばかりだ。


 早々に話題の尽きた二者面談はものの五分で終了し、ひまりはがらんとした廊下に出た。廊下の窓越しに薄汚れた空をぼんやりと見上げる。面談の後どうするか何も考えていなかった。昼休みも終わっていないし、図書室で寝るか。

 南校舎に繋がる渡り廊下へ足を踏み出したとき、聞き馴染みのある声を耳が拾った。


「それ、絶対言い返した方がいいって!」


 思わず北校舎へ引き返してしまう。愛理だ。友達と一緒にいるのか、複数の賑やかな足音と共にこちらへ近づいてくる。男女の耳障りな笑い声が渡り廊下いっぱいに響き渡っている。愛理の友達のああいう空気も苦手だったな、と今更になって思い出した。

 どさりと紙束が落ちるような音に「やべ」と男子の焦った声が重なる。


「ごめん、踏んじゃった」

「いいよいいよ」

「よくねえだろ、愛理のじゃねえんだろ」

「ああー……これはいいの!」


 愛理のカラッとした声とは裏腹にひまりの心臓は跳ねた。何、どういうこと。今何を落としたの。何を踏んづけたの。嫌な予感が喉元までせり上がってくる。咄嗟にこの場を離れようとしたが、愛理は待ってくれなかった。


「ほら、ひまりは優しいから」


 軽々しい言葉が酷薄な刃になって体を刺す。「何それ、ひっどぉ」と甲高い笑い声が追い打ちのように降り注ぐ。震える脚に力を込めて、ひまりはどうにか膝をつかずに済んだ。愛理が来るまでに逃げないといけないのに、一歩も動けない。

 ひまりは優しいから。ひまりは優しいから。ひまりは優しいから……


「あ、ひまりじゃん。ちょうどいいところに」


 曲がり角に立ち尽くしていたひまりを見ても、愛理は平然としていた。周りの友人たちは気まずそうに顔を見合わせているというのに。


「今返しにいくところだったんだ。ありがとぉ、超助かった!」


 無邪気な笑みを顔いっぱいに広げて、愛理は表紙の角が少し折れ曲がった数学の教科書を片手で渡してくる。相手は絶対に自分を受け入れてくれるという自信に満ちた眼差し。自分の存在価値に疑いを持ったことがない人の目だ。

 ひまりが今の話を聞いていたかどうかは愛理にとって些末なことなのだろう。あるいは、聞かれていたと承知の上でひまりの出方を窺っているのかもしれない。

 試されている。愛理にとってひまりがどういう「友達」なのか。

 教科書を奪うように受け取って、文句の一つでも言ってやろうと口を開く。だが、怒りは形を成さずにゲル状になって胃の底へ落ちていった。


「……うん、また、いつでも」


 かろうじて絞り出せた言葉はそれだけだった。少しずつ後ずさりし、北校舎の突き当たりにある階段に向かって走り出す。聞こえない嘲笑に背中を叩かれる度に速度は上がった。涙が零れないように唇を噛む。

 だって仕方ないじゃん。言い訳と泣き言が全身を巡っていく。愛理にまで見捨てられたら、わたしは本当にひとりぼっちになるんだから。

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