82話 閃く悪意、私の願望
砕けた鏡は二度と元に戻らない。血だらけの両手で一生懸命に破片を繋ぎ合わせても、鏡像は永遠に歪んだままだった。
赤黒く錆び付いたカッターナイフの刃を折りながら玲矢が楽しそうに笑っている。だったら自分も楽しそうにしなければならない。意識を体の外に追いやって幸せなことを想起すると、強ばった口角が吊り上がった。頬の筋肉が痙攣したように震える。
玲矢に合わせて無理に笑おうだなんて、以前は考えもしなかった。心良が笑顔のときは玲矢も笑っていて、心良が泣いているときには玲矢も涙を流している。それが普通だった。
壊れてしまった鏡の中の存在は、きっと玲矢ではなく自分の方なのだろう。
「玲矢、急げ! 校庭取られちゃう」
「ねえねえ玲矢くん、これ書いてくれない?」
同級生が口々に玲矢の名前を呼んでいる。心良が今まで築いていた周囲との人間関係を吸い取るように、玲矢はますます人気者になっていく。学校の友達に囲まれて微笑む玲矢は、家で心良を傷つけているときと同じ顔をしていた。
玲矢はいつも楽しそうだ。誰かに気を遣うことも人の顔色を窺うこともなく自由に羽ばたいているように見える。心良は遠くからただ黙って玲矢の横顔を眺めていた。
伸びやかに生きる片割れと、身動きの取れない自分。全身を鎖で雁字搦めにされた心良を突き放して玲矢は先へ行ってしまう。常に傍らにいたはずの玲矢との距離が加速度的に開いていく。
れいやくん。ぼくを置いていかないで。ひとりにしないで。
夢中で泣き叫ぶと玲矢は笑顔で振り返る。心良の隣へ一直線に駆け寄って、そしてポケットから得物を取り出すのだ。
青い痣が疼くたびに何かを諦めて、赤い傷跡を刻まれるたびに何かを失う。脆い心はほろほろと崩れて形を無くしていった。喜怒哀楽が限りなく引き延ばされて平坦になり、やがて痛みも苦しみも感じなくなる。
それでも残るものがあるとしたら、きっとそれは――
「ねえ……れいやくんは、ぼくのこと、すきだよね?」
朦朧とした意識の中で縋るように絞り出した問いに、玲矢は瞳を爛々と輝かせて答える。
「うん! 好きだよ、お兄ちゃん」
「そっか……そっ、かぁ」
それならいいや。へらりと口元を緩めた心良に顔を寄せて、玲矢もにっこりと笑い、
「お兄ちゃんは人形だから、もう笑ったりしたらだめなんだよ?」
拳が顔の真横から飛んでくる。倒れた拍子に唇の端を切って、口内に鉄の味が広がった。砂を噛むような異物感にむせ返ると、赤く染まった歯の欠片が吐き出される。
その瞬間から心良は笑顔を作ることをやめた。
ぐちゃぐちゃ考えるのは終わりにして、れいやくんの言う通りにしよう、と心良は内心で呟く。その選択は初めから目の前にあって、それ以外にはもう選びようがなくて、けれど確かに自分の意思で取ってしまったものだった。
玲矢の望むままにしている限りはずっと一緒にいられるのだろう。たとえ昔とは違う有り様になったとしても、玲矢は大切な家族だから。
血の味を飲み下しながら、心良は玲矢の背中に向かって掠れた声を上げた。
「あのね、れいやくん。ぼくはれいやくんがすきだから、れいやくんになら、何されてもいいよ」
切っても殴ってもいいよ。腕の皮を剥いでも、足の指を叩き潰してもいいよ。
「でも……でもね。ぼくのこと、お兄ちゃん、って呼ぶのは、やめてほしいんだ」
それはどうしても手放せない、心良から玲矢への最後の「お願い」だった。
玲矢のためなら何だって耐えられる。何だって失える。だけど、自我を分解されて別々のものとして分かたれていく痛みだけはどうしても忘れられそうになかったのだ。
片割れは決死の訴えに耳を貸さなかった。何の返事もないまま、金槌が振り下ろされる。
ささやかな願いすらも聞き入れてもらえないのなら。玲矢には二度と届かないのなら。
もう玲矢にお願いをするのはやめよう。助けを求めて叫ぶのはやめよう。
やめてって言うのはやめよう。
「――やめてっ‼」
金工室の大きな窓ガラスに夕暮れの陽光が反射する。
入らないでと命じられたことはとうに頭から飛んでいた。紙袋を被った男子生徒に無我夢中で駆け寄り、隣の真夜を突き飛ばす。手を離れた半田ごてが床に落ちてガシャンと金属質な音を立てた。
座っている彼の肩に手を置いた途端、妙な違和感が胸を衝く。
「れ、玲矢……?」
もたつきながら剥ぎ取った紙袋の下にいたのは、玲矢ではない、見知らぬ男子だった。口にガムテープを貼られたまま気絶したように白目を剥いている。
玲矢じゃなかったんだ。ほっとしたのも束の間、別の寒気が心良の背筋を走った。事もあろうに自分は無関係の人間を玲矢だと思い込んでしまったのだ。顔を隠されていて、上靴が同じだというだけで。
全然わからなかった。自分が、玲矢のことを?
「きみの大好きな玲矢はいなかったんだ。最初から」
呆然と立ち尽くす心良を諭すような声がする。真夜は落ちた半田ごてを静かに拾い上げると、電源を切って机の上に置いた。射抜くような視線が心良に向かう。
吐息が感じられるほど接近してきた真夜からは花のような甘い匂いがした。
「私を覚えていること。歌を歌ったこと。きみには玲矢を見つけられないこと」
冷ややかな声が古い記憶をもう一度呼び覚ます。夏の草原から仰ぎ見る空の青さと、納戸の床から見上げる天井の低さが交互に脳裏を過った。頭の奥が脈打つようにずきんと痛む。
見つけられなかった。玲矢はおれを見つけてくれたのに。
「これは全部、私たち二人だけの秘密」
言葉通り、内緒話をするかのように真夜は心良の耳元で囁いてくる。つい先ほどまで青と橙の混ざりあったような色をしていた空は薄墨色に変わっていた。床に落ちた長い影がひっそりと闇に覆われていく。
「玲矢に言えないことが増えていくね。どんな気持ち?」
瞬間、全身に鳥肌が立つ。真夜と話さないように重々言いつけられていることも忘れて、心良はぶんぶんと首を横に振った。
「そ、そんなの、ない……!」
「どうして? 玲矢だって、どうせ心良くんにたくさん隠し事をしているのに」
ほとんど確信しているような真夜の言い方に心良はたじろぐ。思い出されるのはやはり先日の合唱コンクールのことだ。あの日はどうして学校に来なかったの。どこで何をしていたの。玲矢は何も教えてくれなかった。
生じた疑念をそのまま飲み込んで、心良は「べつにいい」と答える。
「かくしごと、されててもいい。おれは玲矢が好きだから。玲矢のきょうだいだから……」
必死で考えてぽつぽつと並べた言葉を、真夜はにべもなく「馬鹿らしい」と一蹴した。
「ねえ、心良くん。『無償の愛』なんて、夏休みの夜の花火みたいなものだよ。縋り付くだけの愛や奪い取るだけの愛を、どうしてそう定義することができる? きみも玲矢も、ありもしない幻想に囚われているだけだ。傍から見ていて馬鹿馬鹿しいよ」
心良は怯んだように押し黙った。無償の愛。花火。幻想――?
真夜の口から飛び出す単語が咄嗟に頭に入ってこない。だけど、こちらを根本から揺るがすようなことを言われているのは本能的にわかった。このまま真夜の話を聞き続けていていいのだろうか。不安と警戒が満ち潮のように膨れ上がる。
恐る恐る距離を取ろうとすると、真夜は出口のある側へ回り込んで心良の行く手を塞いだ。逃げられない。
「きみの言う『好き』には何の根拠もない。空っぽだ。それが本当に大事に抱え込まなければならないほど大切なものなのか、きみは考えたことがある?」
「え……?」
顔がカアッと熱くなる。今、ひどく何かを侮辱されたような気がする。
横で気を失っている男子生徒を見下ろし、それから剥き出しの腕に残る火傷の跡を注視する。真夜が嘘をついてまで自分を金工室に連れてきた理由を、心良はようやく理解した。彼女は玲矢と心良の「好き」を否定して、二人を引き裂こうとしているのだ。
「ど……どうしておれたちの、じゃまをするの?」
散らばった想いが、どうにもならない感情が、映画のスタッフロールのように心中を去来した。いつもそうだ。いつだって真夜は自分たち兄弟の邪魔をする。二人だけの楽園に土足で立ち入ってきて、美しい花畑を無遠慮に踏み荒らしていく。まるで花畑が初めから存在しないとでも主張するかのように。
背中に刻まれた切り傷が不快感を訴え始める。体を捩って背中を掻きむしると、電流が流れるような痛みに貫かれた。声も出せないほどの衝撃で視界がぐらぐらと傾く。絶対におかしい。「痛い」なんて感じること、最近はもう滅多になかったのだから。
今まで保たれていた均衡が崩れていく。何も不自由なことはなかったはずなのに、そう思っていたこと全てが間違っていたように思えてくる。それは背中の疼きよりもずっと深い、自己を八つ裂きにされているような痛みだった。
自分では抑えようもなく、とうとう涙腺が決壊する。
「おれは、平気だよ。しあわせ、だったよ」
間違いなく自分は幸福だと思っていた。神経毒に侵された停滞の箱庭の中で、玲矢といつまでも一緒にいられるのならそれでよかった。痛みも苦しみも思い出したくはなかった。
大粒の涙が止めどなく溢れて心良の頬を伝い、金工室の床に落ちていく。
「真夜、ちゃんが」
初めて彼女の、元凶たる少女の名前を呼ぶ。
「真夜ちゃんがいなければ、おれたちはずっと幸せなままでいられたのに!」
「私は、きみの幸も不幸も祈らない」
間髪入れず返ってきたのは遥かに強い信念だった。
「きみに前進も後退も求めない。私はただ、きみに笑ってほしいんだよ」
不屈の少女に心良の嘆きはまるで響かない。あっという間に心が折れてその場にへたり込む。真夜はこちらに手を伸ばすと、白く細い指で心良の下瞼に溜まる涙をそっと拭った。
「あのね、心良くん。怒りも恐れも喜びも、元々は一つの情動から分化してできたものなんだ。だから、泣けるのなら怒れると思う。怒れるのなら喜べると思う」
少女の口元にぞっとするほど艶やかな微笑みが浮かぶ。
「きみの中にある感情を全部曝け出して、私の前で笑ってみせてよ」
「いやだ!」
反射的に叫ぶ。心良はしゃくり上げながら幾度となく首を振った。彼女の願いは玲矢の願いと真逆だ。そんなものを受け入れられるわけもない。玲矢の願いより優先されることなど、この世に一つとしてあってはならない。
それなのに、なぜ自分は真夜の前でこんなにも涙を流しているのだろう。
「……っく、おれは、人形なんだ! 人形は泣いたらいけない。怒ったらいけない。笑ったり、したら……いけない!」
「人形じゃない」と、揺るぎない眼差しで真夜は言う。
「心良くんは人形なんかじゃないし、玲矢でもない。心良くんは心良くん」
「違う……違う違う違う! ぜんぜん違う!」
耳を塞いで感情の赴くままに泣き喚く。玲矢の言いつけも願いも、今ばかりは頭になかった。
何も知らないくせに。「ふたりでひとつ」を取り上げられたらおれがどうなってしまうのか、真夜ちゃんには絶対わかりっこないのに、どうして今更そんなことが言えるんだ!
「もう、嫌……やめて、おれはそんな言葉、いらない……!」
「そうだろうね。私はそれでも構わない」
真夜は心良がいくら拒絶しようとも決して動じなかった。一点の迷いも曇りのない瞳の中に、ぐちゃぐちゃになった自分の顔が映り込む。
「だから、これは私のエゴだよ、心良くん」
少女の声は少年の耳朶を震わせた。閉じた扉が今、叩かれる。