81話 にんぎょうのひみつ②
不思議なことに、毎日のように「お兄ちゃんは人形だ」と言い聞かせられていると、実際に全身が人形になってしまったような気がしてくるのだ。
手足の指先が強ばって上手く動かせなくなり、小さな段差で頻繁につまずくようになった。考えていることが頭の中でまとまらず、学校の友達と会話をしなくなっていった。何かを見て素敵だとかかっこいいだとか感じることがめっきりと減った。
目に見える景色が次第に光を失い、生かされ続けるだけの日々。木に留まる小鳥や校庭の花壇が色褪せて、雲一つない青空が大昔のモノクロ写真のように見えると気づいたとき、心良はようやく危機感を覚えた。
父も母も不在の土曜日のリビングに、昼のワイドショーが意味もなく流れている。玲矢はテレビの画面に背を向けて、勝手に持ち出した化粧品入れの中をごそごそと漁っていた。「あったぁ!」と高らかな声を上げると、顔中に喜色を浮かべて振り返る。
「はい、お兄ちゃん。腕出してくれる?」
ピンセットを携えて差し伸べられた右手を、心良は咄嗟に振り払ってしまう。
玲矢がショックを受けたように息を吸ったのがわかった。
「あ……」
また、この前みたいに怒られる! 咄嗟に目をつむって両手で顔を防いだが、想定していた叱責や追及は飛んでこない。恐る恐る瞼を開く。
黙って手を握ったり開いたりしていた玲矢は、ピンセットをあっさりと投げ捨てた。
「じゃあ、今日は別のことしよっか」
「……えっ?」
こっちにおいで、と手を引かれる。心良が連れて行かれた先は廊下にある納戸の前だった。掃除機や洗濯カゴ、古い家具などがまとめて放り込まれている物置のような場所だ。以前は玲矢とかくれんぼをするときによく使っていたけれど、今はそうやって遊ぶこともなくなってしまった。
玲矢が納戸の扉を開けると、埃が立つと同時に湿った空気が溢れ出してくる。懐かしい匂いに心良は思わず涙を滲ませた。ほんのわずかな間、胸がどきどきと高鳴る。ひょっとすると今日は「お仕置き」はなしで、以前のように二人で楽しく過ごせるのかもしれない。
だが、玲矢は心良を納戸の中へ押し込むと、そのまま勢いよく扉を閉めた。
バタン。無慈悲な音が響く。心良は一人、狭い暗がりに取り残された。
「れ……れいや、くん? え? なにこれ?」
外からテープでも貼っているのか、隙間から差し込む光は少なくなっていく。しばらくして地鳴りのような鈍い音がした。
「お兄ちゃんは、ぼくがいいって言うまでそこにいてね。一言もしゃべらなかったら出してあげる。しゃべっちゃだめだよ」
無邪気な一言を最後に玲矢の気配は離れていく。
咄嗟にがちゃがちゃとドアノブを捻る。押しても引いても開かない。扉の前に積まれた何かが重石になっているのだ。ぴくりともしないドアに痺れを切らして、心良は自分で部屋から抜け出すことを早々に諦めてしまった。
辺りは暗くてほとんど何も見えないが、四方八方を段ボールに囲まれていることは確かだった。窮屈でカビ臭くて息が詰まりそうになる。手探りで電灯のスイッチを探してもそれらしきものは見つからない。
身動きを止めて耳を澄ませると、そう遠くないところ――リビングの辺りから物音がした。どこかへ行ってしまったわけではないとわかってほっと胸を撫で下ろす。
それならここで待っていよう。待つぐらいならかんたんだ。
心良は部屋の中央まで後退し、辛うじて座れそうな空間を確保した。そのまま恐る恐る埃の積もった床にしゃがみ込む。段ボールの山に寄りかかって、箱の表面を指先でなぞる。
こうして納戸の中でうずくまっていると、本当に玲矢とかくれんぼをしているみたいだった。今にも「いーち、にーい」と唱える声が聞こえてきそうだ。
玲矢とかくれんぼで遊んだ回数は数え切れない。あるときは小学校の校舎で、あるときは公園で、またあるときは夏の草原で。どんなときも玲矢は必ず自分を見つけてくれた。まるで魔法みたいに早く発見されるものだから、かくれんぼをする意味がなかったほどだ。
れいやくん、もういいよ。もういいよ。ぼくを探しに来てよ。
祈るように手を合わせ、ただひたすらに玲矢を待つ。
だが、いくら待とうとも玲矢の「もういいかい」は聞こえてこなかった。
見える範囲に時計がないので、今が何時なのかは見当も付かない。扉の隙間はほとんど閉ざされており、外から差し込む光で判断することも難しかった。ワイドショーの音はもう聞こえてこない。わかるのは玲矢の気配があることだけだ。
ずっと同じ体勢で座っていると太腿の裏がむずむずしてくる。心良は何度も立ち上がって座る向きを変えていた。何もすることがないからか、どうにも心が落ち着かない。一人しりとりにも飽きてしまった。
暗くてすることがないなら、寝ちゃえばいいんだ、と思い立つ。だが、段ボールに体を預けて目を閉じてみてもなかなか眠りにつくことができない。少しうつらうつらして、扉の外の物音に期待を抱いて立ち上がり、また座って目を閉じる。その繰り返し。
閉じ込められてからどれくらい経ったのか。今は昼なのか、夜なのか。心良の時間感覚はとっくに使い物にならなくなっていた。頭にあるのは玲矢のことだけだ。
れいやくんは何をしているんだろう。ぼくがいなくてさみしくないのかな。
ほんとうに、迎えに来てくれるんだろうか?
真っさらな思考の間隙に、初めて嫌な予感が滑り込む。一度芽生えた悪い妄想は入道雲のように膨らんで頭の中を埋め尽くしていく。「れい、」と思わず名前を呼びかけて、心良はハッと自分の口を塞いだ。
「一言もしゃべらなかったら出してあげる」
心良を納戸の中に押し込んで、玲矢は確かにそう言った。
ほんとうに――ほんとうに?
心良は猛然と上体を起こしてドアに耳をくっつけた。奥歯を噛んで聴覚を研ぎ澄ませる。
物音が聞こえない。玲矢の気配が、ない。
途端に動悸が止まらなくなる。予感は瞬く間に確信へと変わり、心良の精神を磨り減らしていった。
れいやくん。れいやくん。声には出さずに片割れの名を呼ぶ。
れいやくん。ぼくはここにいるよ。ねえ、どうして出してくれないの。なんでここに閉じ込めたの。どこに行っちゃったの。いつになったら帰ってくるの。
絶対に声を出さないようにするために、口の中に片手を突っ込む。極度の不安から喉は乾ききっていた。喋ったらだめだ。喋ったら、もう二度と扉を開けてもらえなくなる。
れいやくん。もういいよ。ぼく疲れちゃったよ。かくれんぼはおしまいにしようよ。
お願いだから早く「もういいかい」って言って!
今にも口から溢れ出しそうになる想いを強引に押さえ込んで、心良は浅い呼吸を繰り返す。光の届かない納戸の中に自分の心音だけが轟いていた。
もしかしてれいやくんは、本当にぼくを置いて遠くに行っちゃったのかな。
「ぼくがお兄ちゃんを壊すのは、お兄ちゃんのことが最初からずーっとずーっと大嫌いだったからだよ!」
先日の玲矢の笑顔が悪夢のように心を蝕む。あれは嘘だと笑っていたけれど、だったら何のために敢えて「大嫌い」なんて言ったのだろう。
もしも玲矢の言葉が、ほんの一部でも真実だったら――
「れい、や、くん……」
老人のようにしゃがれた声が喉から零れ出る。
心良は膝をついて扉をガリガリと引っ掻き始めた。伸びきった爪は割れ、擦り切れた指先に血が滲み、痛いという感覚も薄れていく。顔は涙と鼻水に塗れていた。
れいやくん、たすけて。お願いだから、ぼくを一人にしないで。心良がもう一度玲矢の名前を口にしかけたそのときだった。
重たい何かを引きずるような音がして、納戸の扉が開いたのだ。
外の眩しさに頭がクラクラする。目を開いた心良を待っていたのは、いつもと変わらない玲矢の笑顔だった。
何も考えないまま玲矢の胸に飛び込み、空気を求める金魚のように口を動かす。あんなに玲矢に会いたかったのに、いざとなるとまるで言葉が出てこない。玲矢の腕の中は温かかった。全身から力が抜けて、今度は安堵の涙が溢れてくる。
玲矢は心良を見下ろすと、にっこりと笑って「約束通り、一言もしゃべらなかった?」とだけ言った。心臓が明後日の方向に跳ねる。
小さい声だったと思うし、きっと聞こえてないよね。玲矢から目を逸らしてこくんと頷く。
「う……うん。なにも、しゃべってない、よ……」
瞬間、前触れなく伸びてきた玲矢の手が心良の喉に触れる。気道を絞めるようにゆっくりと親指で圧迫されて、心良は潰れた悲鳴を上げた。
玲矢に感情の高ぶりは一切ない。こちらを責めるような言葉もない。それなのに心良は自分から謝罪の言葉を口にしていた。
「あっ……ああ、あうう……ご、ごご、ごめんなさっ……」
「あのね。お兄ちゃんは、ぼくの人形だからね。いつでも見てるから。うそついたらすぐにわかるよ。ぼくにうそつこうなんて、思っちゃだめだよ」
頭の奥が、肺の中が、玲矢に対する罪の意識と無力感でいっぱいになる。痺れて動かなくなった指先がだらりと垂れ下がる。
「……ぼくは、れいやくんの、にんぎょう」
初めは理解しがたかったはずの役割を、心良は体で受け入れ始めていた。
*
人形に所有主以外との繋がりは必要ない。
存在したはずの心良の友達はいつの間にかいなくなっていた。はっきりとしたきっかけはわからない。誰かと喧嘩をしたわけではないし、人を傷つけるようなことを言った覚えもない。今まで仲良くしてきた人たちに遊んでもらえなくなったことは確かだ。
その日も玲矢だけがクラスメイトの誕生日会に誘われて、心良は家に残っていた。
水を飲もうとリビングの扉を開けて、自分以外の人間がいることに肩を跳ねさせる。ソファに座ってだらしない姿勢で新聞を読んでいたのは私服姿の父だった。横には食い散らかしたスナック菓子の容器が転がっている。
網瀬瑛介。心良と玲矢の、二人の父親。平日は夜遅くまで帰ってくることがなく、週末は一人でどこかへ行っている彼と顔を合わせる機会はほとんどない。心良たち双子にとっては他人のようなものだった。心良はぎこちなく父の横を蟹歩きし、話しかけることなく通り過ぎようとする。
「今日はいないの?」
父に話しかけられたことにしばらく気づかず、心良は何拍か遅れて立ち止まった。思わず右手を背中の後ろに隠す。
「え?」
「もう片っぽ。いないのか」
「……う、うん」
玲矢以外の人間と話すのは久しぶりで、心良は軽く咳払いをした。
「れ、れいやくんは、友達の家に、あそびに行ってる。ぼくは、おるすばん」
「ふーん。そう」
それ以上訊きたいことはないのか、水道の栓を捻るように会話が止まった。リビングに気まずい沈黙が流れる。父は新聞に目を向けたままだ。肉親であるはずの父が、別の星の生き物みたいに遠い存在に思えた。
心良はこわごわと後ずさりをして、テーブルの上のコップを手に取った。手のひらに刺すような鋭い痛みが走り、歯を食いしばって手を押さえる。一昨日の夜、玲矢にカッターとピンセットで皮膚を剥がされたところだ。大きめの絆創膏を貼ってはいるが、傷はまだ癒えそうにない。
横目で確認すると、父は相変わらずこちらを見ていなかった。
父も母も、心良が玲矢に「お仕置き」されていることはきっと知らない。このことは玲矢と二人だけの秘密だからだ。玲矢は両親から使ったハサミやカッターを隠そうとするので、心良も傷跡が見られないように気をつけている。
だけど――もし玲矢につけられた傷跡を見せたら、父は何と言うだろう。
助けて、くれるだろうか。
ここに玲矢はいない。今こそ檻の中から逃げ出すチャンスなのかもしれない。心良は静かにコップを置くと、周りを見渡してから父に近づいた。
「あ、あのさ、パパ……」
絆創膏を剥がそうとしかけて、はたと手を止める。
背後に纏わり付くような視線を感じる。心良はもう一度周囲を見回して、玲矢が外出していることを確認した。大丈夫だ。間違いなく玲矢はここにいない。
いない、はずなのに。
「何か言った?」
何も知らないような顔で、父は心良の発言を促す。
玲矢にされていることを全て話しても、父はそれを信じるだろうか。双子の片方がもう片方を人形のように扱っているだなんて、そんなあり得ない話。
仮に信じたとしても、玲矢にそれを伝えてしまうかもしれない。ううん、実はもうとっくに知っていて、父も母も玲矢の味方だったりしたら――
「なにも、言ってないよ」
逡巡の末にそう答えると、父は「そうだよな」とほっと息をついた。そのときになって初めて、心良は父がほんの少し気を張っていたらしいことに気づく。
「お前たちが聞き分けの良い子で助かるよ」
どこか安心しているような父の口振りの意味は、心良にはわからない。
「これからも仲良くしろよ。たった二人の兄弟なんだからさ」
父は手元の新聞に目を落としたまま、最後まで一度も心良の方を見なかった。
水を飲んで子ども部屋へ戻り、父の何気ない一言を飴玉みたいに口の中で転がす。
「……きょうだい」
きょうだい。ぼくたちは、たった二人の兄弟。
自分の身をかき抱いて、ドアの前にずるずると座り込む。
たとえ全てが歪んでしまったとしても。決して変わることのない、変えることのできない事実だけが、心良の前に立ちはだかっていた。