80話 にんぎょうのひみつ①
ぼくらはいつでも二人で一つ。
生まれてから死ぬまでずっと一緒。
顔も声も、身長も体重も、髪の匂いも爪の形も、起きる時間も寝る時間も、好きな色も嫌いな食べ物も、喋ることも考えていることも同じ。
水溜まりに落ちた像のようにそっくりな、唯一無二の存在。
だけどそんなの、
ほんとうは全部、嘘っぱちなんだ。
「え?」
抵抗する隙もなく、設定温度を二百まで上げたヘアアイロンが腕に押しつけられる。
一瞬のひやりとした感触の後、わずか七歳の心良の意識は激痛に塗り潰された。
「ひっ……ああああっ!」
石鹸が仄かに香る昼下がりの洗面所に、絹を裂くような子どもの悲鳴が響き渡る。水垢汚れのひどい鏡に映り込んでいるのは同じ顔をした二人の幼い少年。ただし、二人の表情は似ても似つかない。
泣き叫ぶ心良とは対照的に、鏡の中の玲矢は満ち足りたように微笑んでいた。
なりふり構わず手足をばたつかせようとするも、心良の白い腕は壁にしっかりと固定されている。他ならぬ双子の片割れによって。
「あっつ、やめてっ、やめてよぉ!」
無我夢中で体を捩り、今度こそ玲矢の腕を振り落とす。心良はバスマットの上にしゃがんで腕を庇うように抱え込んだ。真っ赤に焼け爛れた患部には大小様々な水ぶくれができており、少し触れただけで無数の針を突き立てられているかのような痛みが走る。
吹っ飛ばされたヘアアイロンはコードがコンセントに刺さったまま宙吊りで揺れていた。玲矢は無言でその凶器を拾い上げると、心良の腕を引っ張り出そうとする。
「や、やだ、やだやだっ、もうやめてってばぁ!」
必死の拒絶も虚しく、玲矢はヘアアイロンの設定温度をもう一段階上げ、躊躇いもなく心良の二の腕を両側から挟み込んだ。ジュッと、柔らかな肉の焼ける音がして、焦げ臭さが辺りに広がる。
「あっ……ぐっ……うう、うううう」
独りでに溢れた大粒の涙が心良の頬をしとどに濡らした。涙は顎を伝って下へ落ち、バスマットに染みを作る。心良は息も絶え絶えに玲矢の服の裾を掴んだ。
「なん……で……っ、なんで、れいや、くん、ひどいこと、するの……?」
「何で、って」
玲矢は意外そうに手を止めて、さらりとした口調で答えた。
「忘れちゃったの? お兄ちゃんがもう、悪いことをしないようにするためだよ」
「……お兄ちゃん?」
お兄ちゃんって、何?
返答はない。玲矢は心良の訴えに微塵も耳を貸さないまま淡々と加害行為を繰り返した。二人だけの洗面所に悲痛な叫びが反響する。
すべての終わりであり始まりであるあの夏の日から、心良の日常は一変してしまった。
鏡は割れ、窓ガラスは砕かれ、水溜まりには石が投げ入れられた。もう二度と「ふたり」は「ひとつ」に戻れない。
終わりの見えない絶望の中で心良は自問する。ぼくはこんなに泣いているのに、どうしてれいやくんは笑っているんだろう?
*
同じ悪夢を何度も見るかのように「お仕置き」は月日を越えて延々と繰り返された。安らげる居場所だったはずの心良の家は、知らない間に地獄へと変じていたのだ。
「お兄ちゃんはぼくのお人形さんみたいだね」と、玲矢は語りかけるように呟く。
心良は玲矢の膝の上で横になって頭を撫でられていた。目の前には鮮やかな血の付いたカッターと未使用の眉毛バサミやホチキスの芯が無造作に置かれている。あれもきっと今日の「お仕置き」に使うのだろう。
まだ生温い刺し傷の残る太腿を両手で押さえて、目に涙を溜めたままぼんやりと見上げる。赤く滲む視界には見慣れたリビングの天井と玲矢の満足げな顔が映っていた。
「にん、ぎょう……?」
「うん。だって、毎日ぼくにハサミとかカッターとかで体を壊されてるんだから」
ふいに飛び出した「壊す」という不穏な単語に、心良の体は凍り付いた。
「ふふふっ。次はどれにしようかな。ホチキスの芯は、まだ使ったことないよねぇ」
玲矢の弾んだ声を「ねえ、れいやくん」と遮る。
「れいやくんは、ぼくのために、ぼくが良い子に戻れるように、わざと痛いことをしてるんだよね? ほんとうは嫌、なんだよね?」
玲矢は何も答えない。ただ黙って、心良の頭を執拗に撫で続けている。
片割れの顔にはぞっとするほど穏やかな笑みが浮かんでいた。こんな状況でなければ至って普通の微笑みが、心良を芯まで恐怖で震え上がらせる。
「ど、どうして笑ってるの? れいやくんも、痛いんじゃないの?」
心良は手を振り払って猛然と起き上がった。太腿の引きつれるような痛みに顔を歪めながら、未だ楽しげな表情を崩さない弟を正面から見つめ返す。
「ねえ、なんで笑ってるの? どうして何も言ってくれないの?」
「お兄ちゃんの方こそ、なんでわからないの?」
質問に質問が返ってくるとは思わず、指先までぴたりと硬直する。
「え……」
「わかってくれないなら、どうせ言ったってお兄ちゃんにはわかりっこないよ」
拗ねたように唇を尖らせる玲矢に、心良は激しく首を振った。
「そ、そんなわけない! れいやくんのことがわからないなんて、そんなわけ……」
「そっか。わかんないか。じゃあ、教えてあげる」
半ば呆れたような一言と共に、両手で力強く肩を掴まれる。
「ぼくがお兄ちゃんを壊すのは、お兄ちゃんのことが最初からずーっとずーっと大嫌いだったからだよ!」
拒絶しようもないほど単純明快な言葉が脳天を一直線に貫く。
心良は知らなかった。鏡写しの存在だと信じていた片割れの瞳が、こんなにも禍々しく爛々と輝くということを。
「お兄ちゃんの好きなもの、ほんとうは全然好きじゃないんだ。いちごジャムのホットケーキもはちみつのパンも、たこ焼きも焼きそばもわたあめも、お兄ちゃんが好きなだけなんだよ。ぼくは違う。ぼくは嫌いだった。今までずっと我慢してた!
学校の友達だってそう。ゆうたくんもやすひろくんもけいかちゃんも、ぼくは嫌い。あの子たちのことが好きなのはお兄ちゃんだけ!
ねえ、知ってた? 知らなかったでしょ?」
声が、叫びが、怒りとも憎しみともつかない感情が、津波となって頭に流れ込んでくる。心良は完全に言葉を失って濁流に呑まれていた。何かを言い返そうとする意思は瞬く間にすり潰された。
そもそも心良が玲矢に反論することなど、初めからできるはずがなかったのだ。生まれてこの方玲矢と言い合いをしたことも喧嘩をしたこともないのだから。鏡の像が実体に逆らわないのと同じように。
玲矢は依然として微笑みを湛えたままだ。
「二人で一つなんてばっかみたい。ぼくはあみせれいやで、お兄ちゃんはあみせうららだよ。どっちがどっちでもいいはずないでしょ。ぼくとお兄ちゃんは、別のひと!」
「……っ、やめ、て……おねがい、もう、やめて」
もはや玲矢に縋り付いて懇願することしかできなかった。許容を超えた衝撃は涙となってぼたぼたと零れ落ちていく。早くこの場を終わらせて、暖かい布団に潜り込みたいという気持ちでいっぱいだった。
だが、玲矢は心良の肩から手を放そうとしない。
「――なあんて、ね!」
玲矢は普段通りの、心良にそっくりな笑顔を作った。
「あはは、ごめんね。うそうそ。お兄ちゃんが面白いから、ついからかっちゃった」
軽やかな微笑みも明るい声音もどこか嘘くさくて、心良を突き放しているようにしか感じられない。玲矢がますます遠い存在になっていく。自分とは違う誰かになってしまう。
「だから、ぼくのほんとの気持ちはね、」
尚も話を続けようとする玲矢に被せるように、心良は「もういい!」と叫んだ。
「わかった、もういい。れいやくんごめんね。ほんとのことは、言わないで……」
もう聞きたくない。「ほんとうのこと」を知って玲矢が離れていくぐらいなら、聞かないままでいい。そんな想いは上手く言葉にならず、心良はただ玲矢にしがみついた。
「うん、そうだね。ほんとうのことなんて、お兄ちゃんは知らなくていいよ」
赦すような、宥め賺すような、優しく甘やかな声音。
「お兄ちゃん、大好きだよ。ずっとずっと大好き。お兄ちゃんがどんなに悪い子になっても、ぼくだけは許してあげる。ぼくだけは一緒にいてあげる」
「わるい、こ……」
玲矢に抱き留められながら「ぼくはどうして悪い子なんだっけ」と考える。何かとんでもないことをしてしまったという自覚はあるものの、きっかけが何だったのかはもうとっくに思い出せなくなっていた。
ずきん、ずきんと太腿の傷が収縮する。果物の中身を掻き出すように傷口を抉りながら、「お兄ちゃんはぼくの人形」と玲矢は繰り返す。
「ずっとずっと、ぼくだけのお人形でいてね」
全てを曖昧にするがごとく、片割れの囁きは痛みと共に脳髄まで染み渡っていく。
それは未来永劫解けない契りであり、醒めない呪いであった。