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閉塞学級  作者: 成春リラ
3章 夏と救いとお月さま
8/88

7話 きみと私は真夜なかに①

 忘れられない匂いがある。


 照り付ける太陽にじわじわと灼かれた、真夏の湿っぽい空気の匂い。咽せ返るほど重たくて、けれど吐き出すこともできない血の塊。きっとこの人は同じ匂いを知っているに違いないと、私は確信した。


 目を閉じれば全てが鮮明に蘇る。あの空の青さも、茹るような暑さも、心の痛みも。


 肩にそっと触れると、彼はぴたりと歩みを止めた。

 駄目だ、駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ――。

 絶対に駄目なのに、やっぱり私は自分を抑えられない。


 心臓は早鐘を打っていて今にも口から飛び出しそうなのに、頭の半分だけは中途半端に冷静で、これからすることに警報を鳴らしている。話しかけてはならない。言葉を交わしてはならない。もう二度と、彼と関わってはならない。


 そんな警報は煙のように掻き消えた。私は二、三度唾を飲み込んでから、震える声でその名を呼んだ。


「…………心良くん」


 彼はゆっくりと振り向いた。

 会うことはないと言い聞かせていたのに、やっぱり気分が高揚している自分がいた。


 左の頬に絆創膏を貼っているところまで、記憶の中の彼をそのまま成長させたような少年だった。少し眠そうなとろんとした目に、男の子にしては長めの髪。私より背が低いところも変わっていない。何より、胸元のネームプレートに「網瀬」と書いてある。間違いない、心良くんだ。


 心良くんは、紅黄中の夏服を身に着けていた。ここの生徒であるらしい。信じられなかった。


 もしかしたら、とは思っていた。心良くんがいるかもしれないと。しかし、私が彼と同じ中学校に通うという奇跡が起こるとは、どうしても思えなかったのだ。


 今日ほど神さまに感謝した日もないだろう。人生で初めての経験かもしれない。


 私はずっとずっと、彼に伝えたいことがあった。


「あのね、心良くん……」


 そう言いかけて心良くんの目を見た私は、ぷつりと糸が切れたように口を噤んだ。

 何かがおかしいと、私はようやく気が付いた。

 さっきから心良くんの表情がぴくりとも動いていないのだ。まさか、私のことがわからないのだろうか。


「私、真夜だよ。き……さ、早乙女。早乙女真夜。覚えてないの?」


 若干ショックを受けつつ言っても、心良くんの反応はなかった。視線もどこか虚空を彷徨っていて、私のことは全く目に入っていないみたいだ。


「……」


 拭えない違和感を覚えて、私は今度こそ心良くんを注意深く観察した。昔と変わらないと思った瞳はよく見ると暗く澱んでいる。見つめれば見つめるほど、空洞を覗き込んでいるような怖気と寒気を感じた。あの頃健康的に日焼けしていた腕は蝋と見紛うほど青白く、折れそうなほど細い。


 なにより、心良くんからは感情と呼べるものが一切感じられなかった。見覚えのない人に話しかけられて困惑している様子すら無い。


 彼の肩から私の手がするりと滑り落ちる。


「心良くん……?」


 さっきとは違う種類の警報が鳴り始めた。一つ目は禁止の警報。そして二つ目は、異変を知らせる警報だ。


「そんな、はずは」


 おかしい。あり得ない。

 こんな空っぽの人間が、心良くんであるはずがない。

 もし本当に彼が心良くんなら、どうして。

 どうして、私は六年間も無様に生き永らえてきたの?


 まるで、自分の足場が突然無くなって宙に放り出されたよう。信じてきたものが、憧れてきたものが、縋ってきたものが、祈り続けてきたものが、崩れていく。

 ぐるぐるぐるぐる、メリーゴーランドのように視界が回る。

 五感全てが、あの日々を掘り返そうとしていた。太陽の熱、遠雷の音、舌の上のラムネ、眼前に広がる景色、そして脳を攪拌する夏の匂い。


 私を苛み、救済するのは、六年前の夏の記憶。





 七月二十日。

 小学校一年生の夏休み。

 それから、「家族」のいない、初めての夏。


 その日もきっかり七時半に目が覚めて、私はのそりと布団から身体を起こした。


「……ん」


 カーテンを開けると、強い日差しに目が眩んだ。今日も暑くなりそうだなあとか思いながら、私はもう一度布団に転がった。

 暑いのは夏だからじゃなくて、この髪のせいなのかな。布団に広がる自分の長い髪を見てぼんやりと考えた。私の髪は下ろしていると腰の位置を越えるほど長くて、二つに結んでも尚長いのだ。小学校でも私より髪の長い人は一人もいなかったと思う。

 伸ばしている理由は、一応あった。綺麗な髪だねと褒められることも多くて、それが密かに嬉しかったりもした。でも、やっぱりそろそろ床屋さんでばっさり切ってもらおう。


 よいしょ、と立ち上がって部屋から出ると、丁度隣の部屋から出てきた雅さんと鉢合わせてしまった。

 ふぁあ、と大きな欠伸をした雅さんは、私を見るや否や眉を顰め、慌てたように口を閉じた。朝っぱらから嫌なものを見たとでも言いたげに私を無言で睨んでくる。私がふっと視線を逸らして階段を速足で下りると、上から「言いたいことがあるなら言いなさいよ、バカッ!」という声が降ってきた。特に言いたいことはないから無言で通り過ぎたのに、何を言っているんだろうと思った。

 ダイニングでは、巴さんが朝ごはんの準備をしていた。巴さんは私を見ると、タオルで手を拭きながらにっこりと笑いかけてきた。


「あら、真夜ちゃんおはよう。雅ちゃんは?」

「おはようございます。上にいます」


 短く返事をして、私は全員分のコップと箸を食器棚から取ってきた。


「ありがとう。真夜ちゃんはお利口さんで助かるわぁ」

「そうですか」


 全員分の朝ごはんを綺麗に並べてテーブルに着くと、巴さんは私の前に座った。私がコップにお茶を注いでいるのを、張り付いたような笑顔で見てくる。


「真夜ちゃんは、いつもお手伝いを頑張ってくれるわね。まだ一年生なのに偉いね」

「はあ」


 こういう時の巴さんは、大抵何か話したいことがあるのだ。お茶の入ったボトルをことりと置いて、私は自分から尋ねた。


「何かあるんですか」

「あ、えっと……」


 巴さんは少し面食らった後、またわざとらしく笑みを作って話を切り出した。


「真夜ちゃん、今日雅ちゃんがお友達の家に行くの知ってる?」

「知らないです」

「アサミちゃんっていうんだけど、大きな家に住んでるのよ。いっぱいお友達を集めてゲームをするんですって。楽しそうね」


 そんな話を私にしてどうするんだろうと思いつつ「楽しそうですね」とオウム返しに答えると、雅さんは待ってましたと言わんばっかりに身を乗り出した。


「そう! 楽しそうでしょ。真夜ちゃんも行きたいわよね?」

「いえ、別に」

「まあまあ、遠慮しないでいいのよ。アサミちゃんのお母さんにも言っておくから、真夜ちゃんも行ってらっしゃいな」

「遠慮とかしてないですよ」


 そう言って私はお味噌汁をずぞぞ、と啜った。この家のお味噌汁はやたらしょっぱいので、一気に飲むと咽る。なので、ご飯やおかずを食べながらちょっとずつ飲んで、最後にお味噌汁だけが残らないようにしなければならない。三角食べが苦手だった私も、最初の一週間ですっかり上手になった。でも、雅さんはいつも残している。ずるいと思う。


「どうして? きっと美味しいお菓子とかたくさん食べられるよ。雅ちゃんだって、真夜ちゃんが一緒に来るって聞いたら喜ぶわ」

「それはあり得ないと思いますよ」


 その時丁度ダイニングのドアが開いて雅さんが入ってきたが、私は気にせず続けた。


「だって、雅さんは私のことが大嫌いじゃないですか」


 巴さんのハリボテの笑顔が、ぴきぴきと音を立ててひび割れた。

 何かまずかっただろうか。正直に答えただけなのに――と不思議に思っていると、横からばあん!と大きな音がした。雅さんがテーブルを叩いた音だった。


「アンタさあ、いい加減にしてよね」

「何がですか?」

「その態度をやめろって言ってんの」

「態度……? 雅さんは、私が嫌いなんじゃないんですか?」

「嫌いに決まってんでしょ!!」


 雅さんが吼えた。私は箸を置いて、膝の上で手を揃えた。相手の話を真面目に聞く姿勢だ。これなら怒られまい。


「雅ちゃん、落ち着いて落ち着いて。年上でしょう、お姉ちゃんでしょう」

「年上だけどお姉ちゃんじゃねえし、そもそもどういう会話の流れよ」

「ええっとね、アサミちゃんの家に真夜ちゃんも行ったらって話で」

「アサミ―――はあ!?」

「雅ちゃんお願い、せっかくだし連れて行ってあげて」

「嫌! 絶対嫌! 何で勝手に話進めてんの!」


 巴さんが話せば話すほど、雅さんの眉間のしわが増えていった。まだ五年生なのにそんなに怒っていたら、中学生になる頃には額がしわくちゃになっているのではないかと思ったが、今言ったらますます怒りそうなのでやめておいた。


「お母さんさあ、何でいつもそうなの、こいつが来るのだって私に何も相談しなかったじゃない。大人だけで全部決めて、最悪」

「それはお父さんが……あ、ごめんね真夜ちゃん、ちょっと向こう行っててくれるかしら」

「はい」


 私は行儀よく返事をした。朝ごはんには全然箸がついていないが、仕方ない。すぐにダイニングを出て二階に上がると、自分の部屋に入った。ドアにずるずるともたれかかってしゃがみ込む。

 一階からは雅さんの大声がぎゃんぎゃん聞こえてくる。夏休み最初の日の朝から元気だなあ、と私は他人ごとのように物思いに耽った。

 こんなのはいつものことなので、別に嫌ではない。でも、溜息をつきたくもなる。

 しょっぱいお味噌汁は冷めたらもっと美味しくなくなるのではないだろうか。そう考えてげんなりした。





「誰? この子」


 花浜小の入り口で待っていたサトミさん――雅さんの友達で、今日は一緒にアヤカさんの家まで行くことになっていたらしい――は、困惑の目で私を見てきた。むくれた顔で雅さんは答える。


「いもうと」


 私は自転車のペダルをくるくる回しながら、地面に落ちた影を見つめた。巴さんに無理矢理被せられた大きな麦わら帽子と、ひらひらのワンピースがアスファルトに黒く映り込んでいる。この格好で自転車に乗るのは、あまり品が良くない気がする。風でスカートがめくれ上がったらどうしよう、と私はふわふわした頭で考えた。


「雅に妹とかいたっけ」

「いないよ」

「は? ……えっと、何で妹? が、来るの?」


 雅さんは私を親指で指して、吐き捨てるように言った。


「こいつが一緒に来たいって言ったから、仕方なく連れてきたの」


 私はさすがにムッとした。言ってもいないことを言ったと言われるのは心外だった。


「違います。巴さんが、雅さんについていけと言ったからです。私は別に来たくなかったです」


 あの後二人でどんなことを話したのかは知らないが、結局雅さんが押し負けたらしい。巴さんはああ見えて自分の要求を通すのが上手い。部屋まで来た雅さんは大層不満そうな目をしていた。でも、私にそんな目を向けられても困る。私だって、今日は一日中図書館で借りてきた本を読むつもりだったのだ。


「じゃあ帰れば!?」

「帰ったら巴さんに叱られます。巴さんに怒られるよりは、雅さんに怒られる方がマシです」

「アンタ……」


 雅さんが顔を真っ赤にして握った拳をぷるぷる震わせると、サトミさんは「まあ、どうでもいいよ」と自転車のサドルに跨った。


「一人増えるぐらいいーじゃん。早く行こう」

「う……」


 サトミさんが私を追い返してくれると期待していたのか、雅さんはしばらく納得できない顔で口をもごもごさせていたが、諦めたらしい。「とろとろついてきたら置いていくからね!」と憎々しげに言い捨てて、サトミさんと同じように自転車に乗ると、地面を蹴って走り出した。私も慌てて後を追う。

 誰にも話していなかったが、実は自転車で誰かと出かけるのはこれが初めてだった。補助輪無しで乗れるようになったのだってつい数ヶ月前のことなのだ。二人に遅れずについていけるか、かなり不安だった。


 幸い二人はあまりスピードを出さなかった。曲がり角で止まったり、ずり落ちてくる帽子を直したり、バランスを崩してよろけたりしながらも、私は必死でペダルを踏んだ。

 アサミさんの家の場所はよく聞いていなかったが、花浜駅や商店街とは反対方向であるらしい。その証拠に、自転車を漕ぐほど周囲から建物が消え、田んぼや整備されていない草むらだらけになっていった。アサミさんは毎日こんな道を歩いて小学校まで来ているのかと思うと、顔を見たこともない上級生のことがちょっぴり気の毒に感じた。


 慣れてくると、片手をハンドルから離してもしばらくはよろけなくなったので、私は持ってきたハンカチで額の汗を拭った。

 七月なので当たり前だが、今日も暑い。外にいるだけで汗をかくのに、自転車を走らせているせいで溶け出したアイスキャンディーみたいにべちょべちょになった。早くどこか涼しい場所に入って冷たい飲み物を口に入れないと、本当に溶けきってしまいそうだ。

 気づくと、雅さんたちとの距離が広がっていた。慌ててペダルを強く踏もうとして――うっかり、踏み外してしまった。


「きゃっ」


 一瞬、ペダルからすっぽ抜けた足が空中を舞って、私は自転車ごと勢いよく転んだ。

 ガシャーン! という派手な音に、雅さんたちも気づいたようだった。十メートル先ぐらいで自転車を止めてこちらを見ている。しかし、そこから動こうとする様子はない。

 もたもたと自転車を押しのけてなんとか立ち上がろうとすると、右の膝に刺すような痛みを感じた。


「あ痛っ」


 地面が砂利道だったからか、膝を擦りむいてしまったようだった。痛みよりも、毒々しい色の血が滲んでいることの方が不気味で、私は思わず息を呑んだ。

 顔を上げると、雅さんたちはとっくに走り出していた。


「……待ってください」


 私の覇気のない声は聞こえたはずもなく、二人はすぐに米粒のように小さくなり、やがて見えなくなった。足手まといは置いていくことに決めたみたいだ。

 背丈よりも高い草むらに挟まれた生温い風が吹く一本道の真ん中に、私は取り残された。周りには誰もおらず、人がやってくる気配もない。それを確認してから、盛大にため息をついた。


「はあ、困ったなあ」


 困ったのは、正確に言うと置いていかれたことではない。冷たい飲み物を飲むことができなくなってしまったことだ。

 アサミさんの家の場所を私は知らないので、二人に頼らずに辿り着くのは不可能だ。かと言って、家に帰ることも難しい。ここまでの道順は覚えていたが、それ以前に巴さんの問題があった。

 今帰っても、多分巴さんは相変わらず笑顔で迎えてくれる。でも、心の中ではきっと焦るはずだ。なぜなら、私が嫌いだから。しつこくアサミさんの家に行かせたがったのだって、家で一日中私と二人きりになるのが嫌だったからだ、と私は確信していた。

 だって、そうじゃなかったら、電話であんな――。


「……あつい」


 私は余計なことを考えるのを止めた。

 とにかく、暑い。喉がカラカラで干上がりそうだった。背負っていたリュックを降ろしてひっくり返しても、出てくるのはお財布と図書館で借りた本だけだ。義姉の友達の家に行くのに水筒を持っていく人はいないだろうが、この時ばかりは後悔した。お財布の中を覗いてみると、自動販売機でお茶を買えそうな程度の小銭は入っている。でも、周りを見渡しても草ばかり。どこまで行けばそんな都合の良いものに巡り合えるかわかったものじゃなかった。

 立ち上がろうともせずに、私は真夏の空を見上げた。太陽は私を馬鹿にするように笑っている。すぐ近くでもくもくと膨らんでいる入道雲が、ちょっと横に移動して日差しを隠してくれたらいいのにと心底思った。


 自転車を起こして自販機を探して走るのも、家に帰るのも嫌。そもそも膝が痛くて、立ち上がることすらも面倒。

 暑さで頭の茹った私が考え付いた解決策は、ひたすら本を読むことだった。

 汗が本に垂れないように頻繁にハンカチで拭いながら、熱心にページを捲った。持ってきていたのは、図書館で順番が回ってくるのを前から楽しみにしていた大人気シリーズ物の第三巻だったが、暑さで朦朧とした頭に内容が入るはずもない。それでも、集中して読んでいれば喉の渇きも気にならなくなると、私は本気で信じていたのだ。

 夏の田舎道のど真ん中、倒れた自転車の横に座り込んで一心不乱に本を読む私は、多分相当滑稽だったのだろう。

 だから、「彼」も気になったのかもしれない。


 ふと顔を上げると、鼻と鼻がくっつきそうなほど近くに、知らない男の子の顔があった。


「………」


 普通なら驚いて飛び退くのかもしれないが、とにかく暑さでまともな思考ができなかった私は、ぼんやりと男の子を見つめた。

 男の子、と私が判断したのは、その子が頬に戦隊ものの写真がプリントされた絆創膏を貼っていたからだ。そうでなかったらわからなかっただろう。彼の髪は女の子にしては少し短めで、男の子にしては長めだった。大きな垂れ目の上の長い睫毛がゆっくり上下するのを、私は「きれいだな」と思って眺めた。

 彼は地面に座っている私の前にしゃがみ込んで、興味深そうに私を見つめていた。よく見ると、首から黒い水筒を下げている。

 私の視線に気づいたのか、男の子は水筒を持ち上げ、にっこりと微笑んだ。


「のむ?」


 空の色が映り込んだガラス玉みたいな、不思議な声だった。


「飲む」


 私は即答した。





 水筒の中には麦茶が入っていた。喉をするする通っていく冷たい感触に、身も心も生き返るようだった。あんまり飲み過ぎるのは良くないと思って、私は早々に水筒から口を離した。それだけで十分だった。


「……ありがとう。喉が渇いてたの」

「どういたしまして」


 男の子はにんまりと得意げに笑って、私から水筒を受け取った。

 私と同い年か、ちょっと年下ぐらいかな、と思った。きょろきょろ動く瞳や舌ったらずな口調からは幼い印象を受けたが、同級生も大体こんな風だったと思う。もっとも、クラスメイトとはもうしばらく話していなかったので、正確には比べられないが。

 男の子は怪我をした私の膝に目敏く気づくと、「わ! 痛い」とまるで自分が怪我をしたみたいに言った。


「ちょっと待っててね、さっきれいやくんに貰ったから……」


 ズボンのポケットの中をごそごそと漁っていた男の子は、「あった!」と何かを取り出した。自分の頰に貼っているのと同じ、戦隊ものの絆創膏だった。


「はい! 貼ってあげる」


 男の子はぷにぷにの小さな手で絆創膏のシートを四苦八苦しながら剥がし、私の膝にぺたりと貼った。絆創膏は小さすぎて患部ははみ出ていたし、少し曲がっていたが、痛みが和らいだような気がした。


「ありがと」

「えへへ。おそろいだね」


 自分の頰の絆創膏をつんつん突いて、男の子は嬉しそうに言った。


「……お揃い」


 慣れない単語を口の中で転がして噛みしめていると、彼は訊いてもいないのに突然ぺらぺらと語り始めた。


「ぼくねぇ、よく転んであざとかすり傷とかいっぱいできちゃうんだ。学校でもみんなから『どじっこ』って言われる。でね、おばあちゃんがぼくとれいやくんに絆創膏を三枚ずつくれたんだけど、ぼくは昨日ぜんぶ使っちゃって。そしたらね、れいやくんが、ぼくはいらないからあげるって三枚ともくれたの。だからまだ二枚あるんだよ」

「そうなの」


 れいやくんとは誰だろうと思いつつ、勢いに押された私は適当に相槌を打った。男の子は語り続ける。


「あ、今はれいやくんと隠れ鬼してるの。ここ、草がたくさんあるでしょ? ぼくたちちっちゃいから、草むらに隠れられるんだよね。今はれいやくんが鬼で、ぼくが逃げてる」

「逃げてるのに、ここにいていいの?」

「……だめだった!」


 男の子はぴょんと飛び跳ねると、「隠れなきゃ!」と右側の草むらに飛び込んだ。

 と思えば、すぐに顔を出して私の手首を引っ張った。


「おいで!」

「え、ちょっと」


 慌てて立ち上がると、引きずり込まれるように草むらの中に入った。男の子は私の手を引いて奥に進み、しばらく歩いたところでしゃがんだ。私もそれに倣って、地面に正座する。

 相変わらず人の気配はなく、草が風に吹かれて擦れ合う音だけが聞こえていた。男の子も息を潜めている。私は小さな声で尋ねた。


「ねえ、れいやくんって誰?」

「れいやくん!」


 男の子は私の方にくるりと向いて、待ってましたと言わんばっかりに喋り倒した。小声で。


「れいやくんはね、ぼくの弟なの。いつも一緒で、ずっと一緒。とってもとっても仲良し! 今日もねぇ、朝から二人で遊んでる。お昼になったら帰るの。おばあちゃんがホットケーキを焼いてくれるんだぁ。れいやくんはブルーベリーのジャムを塗るって言ってたけど、ぼくはまだはちみつといちごのジャムで悩んでるんだよね」

「なるほど」


 一を聞いたら十返ってきた。


「どっちがいいと思う?」

「……二枚焼いてもらって、両方塗ればいいんじゃない?」

「それだ! あったまいい!」


 男の子は左右に身体をゆらゆら揺らしながら、弾むような声を上げた。


「早く食べたいな、食べたいな。あ、でももうすぐお昼だから、ぼくがれいやくんに捕まったらおしまいかな」

「草むら、こんなに広いのに、本当に見つかるの?」


 ここから首を伸ばしても端まで見渡せないほどにこの草原は広いし、草は男の子と私の頭まで覆い尽くすほど高い。しらみ潰しに走り回る以外に、私たちを探す方法はない。到底見つかるとは思えなかった。

 しかし、男の子は自信満々に言ったのだ。


「見つかるよ!」


 零れ落ちそうなほどの満面の笑みに、きらきら輝く大きな瞳で、男の子はきっぱりと言い切った。


「れいやくんだから、絶対ぼくを見つけられるよ!」


 その時私は、脊髄をやすりにかけられたような震えを感じた。


(………あれ)


 なんだろう。

 どうしてか、寒い。さっきまで風は生温かったのに、今は氷が肌に突き刺さるみたいに冷たい。


「ぼくとれいやくんは、考えてることがなんでもわかるから」


 男の子の笑顔は、目が潰れるほど眩しいのに、何故か私はそこに真っ黒い空洞を幻視した。

 暗い、黒い、苦い、

 怖い。


「どうしたの?」


 ハッと気づくと、男の子は怪訝そうな顔をしていた。

 訳の分からない寒気と怯えは、知らぬ間に消えていた。


「……きみは」

「ん?」

「きみは、誰?」


 ばくばくと鳴り止まない心臓を押さえて、私は尋ねた。

 男の子は首を傾げた後、「あ、言ってなかったっけ」と納得したように言った。


「ぼくは、うらら。網瀬心良、だよ」

「……心良、くん」


 全身に血が戻っていくのを感じながら、私は復唱した。うららくん。心良くん。


「あっ、女の子みたいな名前って言うのはなしだよ。ぼくだって、れいやくんみたいなかっこいい名前がよかったもん」

「……? 女の子っぽいかどうかはわからないけど、私は好きだよ」


 正直な感想を述べると、むすっとした顔から一転、心良くんは頬を赤くして照れた。


「……そ、そう? えへへ」


 声に乗せてみると、歌うような響きだ。素敵な名前だと思ったのだ。

 すると、心良くんは期待のこもった目で身を乗り出した。


「ね、ね、あなたの名前は?」

「え」


 私は一瞬、固まってしまった。そうだ、相手の名前を聞いたのなら自分も名前を言わなければならない。

 でも――。


「私、は」


 口ごもっていると、心良くんは突然元来た道の方に向き直った。真剣な顔で遠くを見つめている。


「どうしたの?」


「れいやくんが来た」


 嬉しそうな声。

 私は耳をそばだててみた。確かに、誰かが草をかき分けて走ってくる音が聞こえる。しかも、一直線にこちらに近づいてきていた。


「嘘、ほんとに……?」


 心良くんとその弟には磁石でもついているんじゃないかと私は驚愕した。


「いい? れいやくんが来たら一斉に逃げるからね」


 心良くんは立膝をついた。走り始める態勢だ。

 いつの間に私も参加していることになったんだろうと首を傾げながらも、素直に従った。隠れ鬼というゲーム自体したことがなかったので、ルールはよくわかっていなかった。が、鬼にタッチされる前なら隠れた場所から逃げてもいいらしい。私が走る準備をしたのを確認すると、心良くんは徐にカウントダウンを始めた。


「さあん、にいいい、いいいち……」


 ぜろ! と心良くんが叫んだ瞬間、私たちの背後の草がぱっと開けて、人影が飛び込んできた。

 心良くんの「にっげろー!」という声に合わせて私も走り出した、つもりだった。


「どーん!」

「ひゃあ!?」


 後ろから誰かに両肩を掴まれた私は、そのまま覆い被さるように前に押し倒された。本日二回目の大転倒だった。


「つかまえた! つっかまっえたー!」


 ついさっきも耳にしたような声が頭の上から聞こえた。ぐいっと首を反らして上を向くと、私の上に乗って上機嫌に大声を上げている男の子と目が合った。


「ん?」

「あれ?」


 お互いに、動きが止まった。


「うららくんじゃない?」と、男の子。

「……え、心良くん?」と、私。


 私の発言は、もちろん「心良くんって誰?」という意味ではない。

 草陰から飛び出してきた男の子は、私の前を駆け出していった心良くんと、寸分違わず顔立ちがそっくりだったのだ。

 男の子はきょとんとした顔で束の間硬直すると、無言で私の上から退いた。唖然とする私には目もくれず、感情の灯らない声で「まちがえましたー」と言い、去ろうとする。


「ま、まままま、待って!」


 私は慌てて男の子――「れいやくん」の服の裾を掴んで呼び止めた。

 れいやくんは鬱陶しそうに振り返ってこちらを向いた。

 顔どころか、何から何まで全く同じだった。服装も、体格も、髪の長さも、肌の白さも。違うのは、心良くんの頬にあった絆創膏がこちらには無いということぐらいだ。


「きみが……れいやくん?」

「……? そうだけど。ぼくが、玲矢」


 玲矢くんは心良くんと同じように首を傾げた。その角度まで同じだった。


「心良くんと、そっくり」


 私が呟いた途端、訝しげな顔つきだった彼の表情が、散歩に連れていってもらえることを理解した柴犬みたいに明るくなった。うってかわってはしゃいだ声で、玲矢くんは私に詰め寄ってきた。


「そう! そっくりでしょ!」

「心良くんと玲矢くんは、双子なの?」


 こうして正面から全身を見てみると、そうとしか思えなかった。前に立った感じもさっきの心良くんと全く変わらない。心良くんは、玲矢くんのことを弟と言っていたけれど。


「うん。双子の兄弟! ぼくが弟で、うららくんがお兄ちゃんなの」


 玲矢くんはなぜか胸を張って誇らしげに言う。


「で、あなたも隠れ鬼やってるの?」


 目をきらきらさせる玲矢くんにたじろぎつつ、私は頷いた。


「ええと、多分」


 玲矢くんはにこりと笑って「そっかそっか」と言い、私の肩をぽんと叩いた。


「え?」

「鬼。こーたいね。三分数えて!」


 ひらりと手を振った玲矢くんは、静止する間もなく草に紛れていなくなった。


「ええ……」


 一人取り残されるのも、本日二回目だ。

 だけど不思議と、悪い気持ちはしなかった。





 私はちゃんと百八十秒数えた後、二人を探すために走り出した。

 たった三分の間に二人は随分遠くまで行ったらしく、私はだだっ広い草原を駆け回る羽目になった。しかし、彼らを見つけ出すまでに思っていたほど長い時間はかからなかった。遠くからでもわかるぐらい、二人が大きな声で和気藹々と話しているのが聞こえたからだ。自分たちが隠れていることを忘れているのかな、と私は内心首を捻った。

 草をかき分けて進んでいると、不明瞭だった二人の声が段々はっきりしてきて、会話の内容が聞き取れるようになってきた。


「あついね」

「あついねえ」

「お腹すいたね」

「すいたねえ」


 二人は草むらの真ん中に座り込んで、身を隠しているようだった。近くまで来た私はすぐに飛び出そうとはせず、その場で立ち止まって様子を伺った。巻き込まれたとはいえ、一応隠れ鬼だ。心良くんも玲矢くんも間違いなく私より足が速いので、隙を見て襲い掛からなければ逃げられてしまうだろうと考えたのだ。


「今日のお昼ごはんなんだっけ?」

「ホットケーキだよ。ほら、おばあちゃんが焼いてくれるって」

「あー、そうだったそうだった。うららくんは何ぬる?」

「んーっとね、はちみつといちごジャムで迷ってたんだけど、さっき、二枚焼いて両方ぬればいいって教えてもらったんだあ」

「へえ、だれに?」

「……だれだっけ」


 心良くんのとぼけた声。


(えええええ!?)


 あまりにも早過ぎる忘れ去られっぷりに、私は柄にもなく「私! 私です!」と飛び出しそうになった。会話はまだ続いている。


「いいこと思いついた! 三枚焼いてもらって、ブルーベリージャムといちごジャムとはちみつをぬって、半分こすれば全部食べられるよ!」

「それだー! それにしよう!」

「早く食べたいねえ」

「ねー」


 飛び出るタイミングを完全に見失ってしまって、私は二人に聞こえない程度に溜息をついた。その時、ようやく二人が隠れ鬼のことを話題にした。


「あれ、何でこんなところに隠れてるんだっけ」

「ええと、隠れ鬼をしてて、それから……」


 しばらくの沈黙の後、ポンと手を打つ音が聞こえて、両方が口を開いた。


「おしまいかな?」

「おしまいだね」


(ああ、おしまい、なんだ)


 自分で思っていた以上に、私は落胆していた。

 忘れられるのも一人取り残されるのも、慣れているのに、いつものことなのに――この時だけはどうしてか、すごくがっかりしたのだ。

 そう、「がっかり」した。一本道の真ん中で、私のことを見つけてくれた人。眩しい笑顔を向けてくれた人。その人に忘れられているということは、少なからず私を落ち込ませた。

 落胆は次第に焦燥と不安に変わり、私の胸を焼き焦がしていった。


「隠れ鬼はおしまい」

「かえろっかー」

「かえろかえろ」


 行っちゃう。私のことを忘れたまま二人が帰ってしまう。

 それでいいの? このままでいいの? と誰かが尋ねる。追いかけなよ。もう二度と、会えなくなってしまうかもしれないよ――。

 私は心の中で「よくないよ」と答えて、二人の前に飛び出していた。


「わ!」

「えー?」


 歩き出そうとしていた二人は驚いた様子だったが、頰に絆創膏を貼ってる方――心良くんは、すぐに私を指差し口を大きく開けて笑った。


「さっきの女の子!」


 誰、と言われなかったことに安堵した。玲矢くんも「あー……」と少しバツの悪そうな顔になった。


「あの」


 私はどきどきしながら、その時初めて名乗った。


「……私、真夜。真夜中の、真夜。早乙女……早乙女真夜って言うの。それで、えっと」


 それで、何だろう。私は何がしたいんだろう。二人にあと何が言いたくて、ここにいるんだろう。

 無計画に飛び出したせいで心に言葉が追いついていない私に、心良くんは優しく微笑んできた。


「食べたい?」

「……え?」

「まよちゃんも、ホットケーキ食べたい?」


 なんともピントのずれた問いかけだった。


「ち、ちが……」


 そうじゃない、絶対そうではないんだけど、じゃあ何なのだと言われると言葉にできなかった。

 仕方なく私は煮え切らない思いを飲み込んで小さく頷いた。単にホットケーキが食べたいだけの人みたいになってしまったが、とりあえずそういうことにするしかない。


「いいよね?」

「うららくんがいいならいいよ」


 玲矢くんの了承も得たところで、ふいに心良くんは私に手を伸ばしてきた。

 その意図がわからず差し伸ばされた手を見つめていると、心良くんは私の右手を取った。なるほど、手を繋ごうという意味だったらしい。


「ほら、行こう!」


 心良くんは大きな目を細めて、光り輝く笑みを浮かべた。


 瞼の裏には彼の笑顔だけが焼き付いていて、それ以外は、何も見えていなかった。

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