78話 二十一グラムの秘密⑥
慎が恐れていたその時は試験二日目に訪れた。
教室の熱を帯びた空気と、息が詰まるような緊張感。黒板には白いチョークで「十一時五十分~十二時四十分」とだけ書かれている。既に美術と国語の試験が終わり、最後に社会のテストを解けば今日の日程は終了だ。
試験監督の山谷先生がちらりと時計を見て、あくび混じりに「残り時間五分です」と言う。慎は危うく舌打ちをするところだった。他の先生なら終了十分前に告知してくれるのに。
既に解き終わって目視確認をしている者、諦めて机に突っ伏している者もいる中で慎はまだ問題を解いていた。今回は完全に時間配分を間違えた。前半の穴埋め問題で深読みして時間を食ってしまったのだ。焦りから手が震えて頭の中が真っ白になる。元より癖のある字がさらに醜く歪んでいく。
最後の記述式問題に差しかかったところで手が止まった。問題文の横に印刷されている平安時代の資料に見覚えがある。学校のワークに載っていたものと丸ごと同じだ、と慎はすぐに気がついた。
サービス問題だ。慌てず落ち着いて、模範解答をそのまま書けばいい。だが、今の慎にとっては出題者の親切さがかえって煩わしかった。
確かこんな感じだったような。記憶を頼りに書いてはみたものの、今ひとつ自信がない。解答欄の広さに対して字数が少ないような気がする。細部の表現が間違っているように思えてくる。他の生徒が必死で問題を解いているのを見ると、いっそう迷いは深まっていった。自分ももっとたくさん書くべきなのではないか。でも、余計なことを書いて減点されたら本末転倒だ。
配点は三点。三角で一点。ここは皆確実に取ってくるはずだ。間違えるわけにはいかない。一日目の数学でケアレスミスをして大問を一つ落としてしまったことを思い出し、慎の額を汗が伝った。
問題冊子を捲る音。シャーペンを走らせる音。時計の秒針の音。音の嵐が静寂を割って教室に吹き荒れている。解答用紙の一箇所を見つめているうちに、書いた文字がぐにゃりと崩れて判別も難しくなっていく。
慎は頭を掻きむしった。今まで何度も復習したはずなのに、どうして完璧に思い出すことができないのだろう。いっそのこと、模範解答を見ることができれば――
そこまで考えてはたと気づく。
見ることは、できる。昨日の夜、確かに書いた。
眼球だけを動かして辺りを見渡す。山谷先生は窓際の方をぼんやりと眺めており、クラスメイトは試験に必死。慎のことを見ている人はいない。
これは保険のつもりだった。躊躇はある。罪悪感もある。だけどもう迷っている余裕はない。
制服の袖口から鈴の音を鳴らさないようにお守りを取り出す。
息を止めて、疚しさから目を背けて、慎は素早く白い紐を解いた。
*
最初は故意ではなかった。本当に偶然の出来事だった。
小学生の頃に通っていた進学塾では二ヶ月に一度模擬試験が行われており、長兄の母校である木立高校の中等部を志望していた慎も小四の後期から受験していた。なかなか思うような合格判定が出ないことによる焦りもあったのだろう。あの日の慎は一点でも多く点を稼ごうと必死になっていた。
国語のテストのときだったろうか。文章問題の最後の問いに答えられず唸っていると、ちょうど斜め前に座っている男子生徒の解答が見えてしまったのだ。不幸にもそれは慎が書こうとしていた内容と全く違っていた。幾度考え直しても彼の解答が頭から離れなかった。
どうしよう。いや、どうしようも何もない。このまま自分で考えた答えを書くべきだ。あいつが合っているとも限らないのだから。だけど、考えれば考えるほど向こうが正しいような気がしてくる。前回のテストではあいつの順位の方が高かった――
模試の残り時間が三分を切ったところで、慎はとうとう見えた答えを書いてしまった。真似をしたことがバレないように、一部の表現や文末を変えて。
後日届いた答案用紙を引っくり返すと、件の解答には丸がついていた。ほっと胸を撫で下ろすと同時に胃液がせり上がるほどの後ろめたさが慎を襲った。
結果としては正解でも、やったことは間違っている。そんなことは慎もわかっていた。大丈夫、もう二度としなければいい。こんなのは今回でおしまいだ。
だが、塾の講師の何気ない一言が慎の動揺を誘った。
「小説の最後の問題、難しかったけど皆正解していたな」
こういうのをしっかりと落とさないことが合格に繋がるんだと、講師は機嫌の良さそうに力説した。周りの生徒も「お前合ってた?」「楽勝」などと談笑している。慎だけが教室の隅っこで冷や汗をかいていた。
あのまま自分の答えを書いていたら他の皆に後れを取っていたのだ。危うく順位を落とすところだったと思うと、何が正しくて間違っているのかわからなくなった。
それから慎は試験中の覗き見を繰り返した。何度も何度も。
きっとどこかで順位や合格判定のランクが上がっていたら辞められたのだろう。ズルをしてまで良い点を取りたいという気持ちは微塵もなかったから。
だけど、慎の成績が大幅に向上することはなかった。ということは、普通に解いているだけでは順位が下がっていたのかもしれない。それはだめだ。これ以上今の位置から落ちるわけにはいかない。ただでさえ自分は両親から見放されているのに。
自分は優秀な兄たちと比べて頭の出来が悪いということも、誰からも期待されていないということも知っていた。受験勉強だって別に強制されているわけではない。兄の背中を追って慎の方から言い出したことだ。志望校に受かっても両親はさほど喜ばないだろう。
それでも今よりさらに状況が悪くなるのはごめんだ。これ以上家で居場所がなくなるのも、父の冷たい目がいっそう凍り付いていくのを見るのも嫌だ。
中途半端な器用さが幸いしたのか、災いしたのか、誰にも見つかることはなかった。バレていないという慢心から試験の度に他人の答案用紙を盗み見るようになった。家族にも友達にも話せない慎の秘密は風船のように際限なく膨れ上がり、
やがて最悪のタイミングで弾けることとなる。
「君、ちょっと教室の外に出なさい」
渋い顔の試験監督に肩を叩かれたのは、理科のテスト中。
本命校の受験のときだった。
瞬く間に慎の不合格は確定した。どこからか噂が広まったのか、当時受験を済ませていた滑り止めの学校からも内定取り消しの通達を受けた。
「お父さん、お母さん、本当にごめんなさい……」
膝をついて咽び泣く慎に両親は冷淡な眼差しを浴びせた。
母はため息をついていた。慎を叱るでもなく慰めるでもなく、ただ呆れ果てていた。なんて馬鹿なことをしたの。だからあなたは無理して良い学校に行かなくていいと言ったのに。
父は額に青筋を立てて「貴様など茅森家の恥晒しも同然だ」と一喝した。怒られたのはその一回きりで、以降は話しかけても相手にされなくなった。許されたのではない。見限られたのだ、もう自分のことはどうでもよいのだと慎は身に染みて実感した。
きっと殴られでもした方がマシだった。
今ではもう家族の誰も慎の話をまともに取り合わない。家という空間が、家族という環境が、慎がそこに存在することをちくちくと刺すように責め立てている。慎が入り込めない空気を家中に満たして息が吸えないようにしているのだ。
当然の報いだ。自分はそれだけのことをしたのだろうと思った。
金輪際こんな過ちは犯さないと、あのとき誓ったはずなのに。結局父の信用を取り戻すために慎は同じことを繰り返している。抜け出せない悪循環に囚われている。
どうしたら辞められるのだろう。どうしたら父に見てもらえるのだろう。
暗闇に向かって問いかけても答えはなかった。
*
ゴミ箱の蓋がしっかりと閉じられたことを確認してその場を後にする。
試験直後の中庭には人っ子一人いない。今は皆給食の準備をしている頃だろう。素知らぬ顔で戻れば特に問題ないはずだ。柊に何か訊かれたら「先生にわからないところを質問しに行っていた」とでも答えればいい。
意外にも心は凪いだ海のようだった。起こってしまったことは仕方がない。今は明日の試験に集中するべきだ。そう自分に言い聞かせながら昇降口へ向かう。足取りが重くならないように、頬の筋肉が強ばらないように注意しながら。
「あの」と呼びかけられているのが自分であると、最初は気づかなかった。いいや、気づかない振りをしていた。けれど「あの……茅森くん」と続いたら足を止めるしかない。おそるおそる肩越しに振り返る。
同じクラスの女子生徒だ。小学校も同じだったような覚えがあるが、名前は思い出せない。少し遠くて名札はよく見えなかった。
「えっと、ぼくに何か?」
怪しまれないように自然な笑みを作る。大丈夫、ちゃんと笑えている。
女子生徒は握り込んだ両手に力を込めると、ぐっと距離を詰めてきた。陽光がきらりと中庭に差し込んで、銀の丸眼鏡と胸元のネームプレートが視界に入る。手柴十和子。
十和子はなぜか目に涙を溜めていた。慎を睨みつけているようにも見えた。さらにもう一歩踏み込んで、慎の耳元に口を寄せて、
「さっきの社会のテストで、か、カンニングしてたよね」
と一言。
目の前で火花が弾けて、景色が一瞬ブラックアウトした。
一度に消えた光と音が徐々に戻ってくる。小柄な丸眼鏡の少女は耳まで真っ赤になっていた。小さな拳はぶるぶると震えている。
「わ、わたし、斜め後ろから見てたよ。ててて、テストが終わる、十分前くらい……!」
しどろもどろになっている十和子を見ているうちに頭が冷えてきた。ああ、こいつもぼくが怖いんだ。慎は咳払いをして「言いがかりだ」と威圧するように答える。
「ぼくは誓ってそんなことはしていない。おまえの見間違いだ。証拠もないのによくそんな失礼なことが言えるな」
相手は「ヒッ」と軽い悲鳴を上げて子鹿のように縮こまった。なんだ、弱いじゃないか。慎が安堵したのも束の間、十和子は再び猛然と顔を上げた。
「さ、さっきあそこのゴミ箱に、これ捨ててたでしょ」
さしもの慎も二の句が継げなかった。今度こそ詰みだ。
突きつけられたのは、慎がお守りの中にしまっていたカンニングペーパーだった。くしゃくしゃに丸めてゴミ箱の中に捨てたはずなのに、ご丁寧に広げてしわを伸ばされている。特徴的な筆跡からも慎が書いたものであることは明らかだった。
崖の縁に立たされたような絶望が頭を蝕んでいく。
「……だったら、どうするんだよ」
もはや慎にできるのは、十和子が黙って回れ右をしてくれるように祈ることだけだった。だが、眼鏡の少女は一歩たりとも引こうとしない。膝はがくがくと震えているのに。
「先生や皆にバレたら困る、よね?」と、十和子は小さな声で言った。
「おまえ――脅しているのか、ぼくを」
この、小柄でひ弱な女子が?
肩がびくんと跳ねる。十和子は「ごめんなさい、ごめんなさい!」と何度も頭を下げた。
「ごめんなさい……でも……あの、お姫様のお願いだから」
涙を浮かべながら、しかし熱に浮かされたような目で少女はへらりと笑った。




