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閉塞学級  作者: 成春リラ
10章 二十一グラムの秘密
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77話 二十一グラムの秘密⑤

 チョークが黒板を叩く音が静穏な教室に響く。五時間目に国語の授業があるのは酷だ。壁掛け時計の秒針の進みが一段と遅く感じられる。『蓬莱の玉の枝』の本文を読み上げる女子生徒の隣では、別の生徒が安らかな寝息を立てていた。教室のそこかしこで同じように居眠りをしている人が見受けられる。真面目な優等生の多いC組では珍しいことだが、日野先生がまるで注意しないのだから無理もない。

 慎は時折手の甲に爪を立てながら密かに理科の宿題を解いていた。内職でもしていないとこの眠気には耐えられない。幸いにも日野先生は板書の最中で、生徒に背を向けていた。


 睡魔に襲われているのは柊も同様のようだ。慎から見て教室の反対側に座っているというのに、首が何度もカックンと落ちているのがよく見える。居眠りをするならバレないようにやればいいのに、どうして奴はこうも要領が悪いのだろう。

 気づいたらまた柊に苛立っている。慎はかぶりを振って問題集のページをめくった。


「あんな鈍臭いデブが幼馴染みとか嫌だもんねえ?」

「ちょっと恥知らずなんじゃない?」


 毒針のような千紗の声が刺さったまま抜けない。普段は無意識に隠している胸の奥の触れられたくない部分を根こそぎ暴き出されたみたいだった。

 そんなはずはない。あれが自分の本心だなんて思いたくはない。柊のことを厭わしく思うことはあるものの、付き合いが長ければ不満の一つや二つはあるのが当然だろう。だって柊が鈍臭いのは今に始まった話ではない。とうの昔に慣れている。千紗のようにはっきりと言語化された悪意を抱くことなんて今更ないはずだ。

 慎は書き損じた記述問題の解答を消しゴムで念入りに消した。紙面に黒ずみが残る。


「仲良いもんね。いつも二人でいるし」


 嘲笑混じりの声がふいに再生されて、手に取ったシャーペンの先が動かなくなる。今の数秒で書こうとしていたことが頭から飛んでしまった。

 慎は苛々とペンを回した。形のない不快感だけが心の底に降り積もっていく。


「渡谷くん?」


 日野先生の咎めるような声に釣られて慎は前を向いた。既に音読をしている生徒はおらず、教室は静寂に包まれている。クラスの視線は一点に集中していた。すなわち、机に鼻先がくっつきそうなほど首を傾けている柊に。

 どうやら柊は音読の順番が回ってきたことに気づかないまま眠っているらしい。


 先生は小さくため息をついてチョークを置いた。カツン、と神経質な音が教室に響き渡る。自分の方へ近づいてくる先生の気配を察したのか、柊は肩を叩かれる寸前で跳ね起きた。寝ぼけ眼が瞬時に見開かれる。


「……あっ、あ、ごめんなしゃっ!」


 ふくよかな顔に焦りが浮かんだ。柊が慌てたように立ち上がると、椅子が派手な音を立てて倒れると同時に大量の文房具が机から落下した。先生の目を逃れて居眠りをしていた他の生徒も音に驚いて次々と目を覚ます。

 柊の真後ろに座る千紗はにこりともしていない。しゃがみ込んで文房具を拾っている柊の背中を黙って見下ろしている。興味がないようにも軽蔑しているようにも見えて、慎は背筋を震わせた。


「他の人も、見てないで拾ってあげてください」


 穏やかな口調ではあるものの、日野先生は声に苛立ちを滲ませている。はぁーいと気の抜けた返事をした千紗が柊の隣で淡々と落ちたものを拾う。当の柊は「あっ、柳井さんごめんね、ごめんね」と何度もしきりに謝っていた。


 ようやく立ち上がった柊は小さな声で『蓬莱の玉の枝』の続きを読み始めた。頻繁に難しい漢字に引っかかりながら覚束ない口調で本文を音読する姿に、数名の生徒が目を伏せて笑いをかみ殺している。柊の口元にも緊張を誤魔化すような笑みが浮かんでいた。


 柊は昔から極度のあがり症だった。慎といるときは流暢に喋っているくせに、人前に立つとろくに話せなくなるのだ。二学期の初めに行われた「将来の夢」の作文発表もそれはそれは酷いものだった。不幸にも柊の順番は最初だったから余計に緊張したのだろう。

 気弱で引っ込み思案。のんびりしていてとろくさい。柊の評価はずっと変わらない。


 考えてみればいつだって、柊のせいで自分まで皆に遅れていたような気がする。慎はふと小学生の頃に思いを馳せた。あれは確か、小四の課外学習で山登りをしたときのことだ。

 クラスの列の最後尾をぽてぽて歩く柊の手を引いていたら、二人揃って集団からはぐれてしまったのだ。おまけに深い霧に遭遇してしまって、周りがほとんど見通せなかった。真っ白な登山道に子どもだけで二人きり。ひどく心細かったのを覚えている。


 あのときも柊はお気楽そうにヘラヘラしていた。隣の慎は地図を広げながら順路を確認して真っ青になっているというのに。


「皆に追いつけなかったらおまえのせいだからな!」と半泣きで憤慨する慎の神経を逆撫でするように、柊は「大丈夫だよぉ」と笑った。


「俺は、慎くんが一緒なら平気だよ」


 シャーペンの芯が折れる。


 画面を切り取ったように景色が移り変わる。濃霧の登山道から寒空の枯れ木道へ。足元の冬用スニーカーはそこから動こうとしない。

 ややあって、少し背が伸びた柊の背中を視界の端に捉えた。慎の声に反応して彼が振り返る。薄手のパーカーが風をはらんで膨らんだ。


 だって、四月からまた慎くんと一緒に学校に通えるってことでしょ?

 それなら俺は、そっちの方が嬉しいよ。


「御文、不死の薬の壺並べて、火をつけて燃やすべきよし仰せたもう――」


 女子生徒が教科書を読む声が聞こえる。我に返った慎は手汗で滑るシャーペンを握り直した。


 そうだった。たった今思い出した。

 あのとき慎は初めて思ったのだ。こんな奴とずっと一緒は嫌だと。





 今までどうして変だと思わなかったのだろう。これでは千紗の言う通りではないか。

 進学を契機に柊とは自然と疎遠になるだろうと、自分はどこか軽く考えていたのかもしれない。


 教室にいても部室に行っても柊が隣にいる。お世辞にも運動が得意とは言えないのに、慎がバレー部に入部届を提出するのを見た途端「俺もそこにする!」と身を乗り出してきたのも今にして思えば不自然で不愉快だ。

 そもそも、保育園の頃からの知り合いであるという点以外に慎が柊と馴れ合う理由はない。家族ぐるみの付き合いがあるわけでも家が近いわけでもないのだ。


 拒絶しないのが悪いのだろうか。いっそのこと本人に言ってしまったらいい。おまえと仲良くしていると思われたら困る。迷惑だからベタベタ引っ付かないでくれ、と。だが、今更そんなことを本人に直接伝えるのはさすがに憚られた。


 柊に突きつける言葉を悶々と考えながら、慎は忘れ物を取りに戻るべく校舎の廊下を駆け足で歩いていた。こちらの懊悩など露知らず「ごめん、ついでに俺の国語の教科書も取ってきてくれない?」と頼んできた柊に二つ返事で快諾してしまったことを思い出し、また気分が悪くなる。


 教室の出入り口の前にはクラス委員兼鍵係の(あみ)()(れい)()が立っていて、ちょうど施錠をしようとしているところだった。あ、と視線がかち合う。


(かや)(もり)、忘れ物? 悪いんだけど、教室閉めておいてくれないかな。俺少し急いでるんだ」

「いいけど、ぼくが鍵を預かって大丈夫なのか? 返すときに何か言われないかな」

「うん、平気平気。先生たち、意外と誰が返しに来てるかなんて見てないから」


 ちゃりん、と安っぽい音を立てて鍵が手渡される。九月の頭に盗難騒ぎがあったというのに随分不用心な話だ。あの一件以来盗られて困るものを机に放置する人はいなくなったものの、根本的に危機感が足りていないのではないだろうか。所詮人は二ヶ月も経つと何があったか忘れてしまうものであるらしい。

 もっとも、この二ヶ月間で盗難事件なんてどうでもよくなるほどに大変なことが起こったのは確かだが。


 野河明佳の机の上に置かれた花瓶を横目に、慎は閑散とした教室へ入った。自分の席から手早く筆箱を回収し、中身がすべて揃っていることを確認する。続いて柊の机の中を覗き込むと、頼まれていた国語の教科書は間違えようもないほどわかりやすく目の前にあった。伸ばしかけた手がぴたりと止まる。


 意地の悪い考えが頭をもたげた。なぜぼくがあいつの頼み事を聞かなければならないんだろう。このまましれっと部室に帰って「自分で取りに行け」とでも言ってやろうか。

 中途半端な悪意はすぐに掻き消えた。そんなことをしたって高が知れている。どうせ柊の奴は気にも留めないに違いない。慎の方が惨めになるだけだ。つまらないことを考えて時間を潰すのはやめよう。


 一息に柊の教科書を抜き取ると、同時に机の中から小さな紙切れがひらりと落ちた。


 床に落ちる寸前で掴み取る。どうやら他の本との間に挟まっていたらしい。何が書かれているかまじまじと見るつもりはなかったのに、表側が視界に入ってしまう。

 見覚えのある文字列と表だった。慎が生徒手帳に挟んで持ち歩いている()()と同じ。

 先月行われた中間考査の得点表だ。


「……え?」


 そこに羅列されている数字の意味を、すぐには呑み込むことができなかった。

 国語九十三点、数学九十一点、理科九十五点、社会九十七点、英語九十四点――総合得点四百七十点。

 クラス内三位。

 慎は四位だった。


「え? ……はっ、え?」


 ヘリウムガスを吸ったような裏返った声が出た。

 慌てて自分の得点表を取り出して二つを見比べる。慎の総合得点は四百五十九点だ。数学の点数だけは慎の方が高いが、それ以外は負けていた。

 きっと何かの間違いだ。そう思って何度瞬きをしても、氏名欄には表情の乏しいゴシック体で「渡谷柊」と印刷されている。裏面に書き込まれている文字も柊の筆跡だった。


 混線する思考の合間を縫って理解が追いついてくる。つまり――つまり柊は、慎よりも中間テストの成績が良かったということだ。そんな単純な事実を受け入れることもできず、ふと気がつくと十五分が経過していた。

 夏休み明けテストから中間考査にかけて、慎のクラス内順位は一つ落ちていた。見知らぬC組の生徒に抜かされていたのだ。それが柊だなんて誰が思うだろう。


「ぼく、中間は学年で九位だったよ。クラス順位は一つ落としてしまったけどね」


 柊の前で得意げに自慢をする自分を思い出して耳まで熱くなる。指先の震えが紙に伝っていく。あのとき柊はどんな顔をしていた? 何を考えて慎の話を聞いていたのだろう。

 あいつの表情が思い出せない。でも、柊はきっと相変わらず「すごいねえ」とにこにこ笑っていたに違いない。慎は何も違和感を抱かなかったのだから。

 この慎があの柊に気を遣われたということだ。本当のことを言ったら慎が傷つくだろうと思って。だが、いつも考えていることがすぐ顔に出る柊にそんな芸当ができるとは信じがたかった。


 なぜ自分の方が順位が上だと言わなかったのか。なぜいつも慎をすごいすごいと持ち上げるのか。なぜ事実を隠したまま笑っていたのか。なぜ慎は柊の変化に気づかなかったのか。疑念は黒煙のごとく膨れ上がり、慎の頭の中に一つの歪んだ回答を導き出す。

 渡谷はまさか、ずっと前からぼくのことを――

 薄っぺらい再生紙の端は握りつぶされていた。しわを丁寧に伸ばして、何事もなかったかのように柊の机の中へしまう。


 ぼんやりとしたまま部室に戻ると、既に他の部員は体育館へ向かった後だった。バレー部のユニフォームに着替えた柊が一人でぽつんとロッカーの前に立っている。わざわざ慎のことを待っていたらしい。


「結構遅かったねぇ。もしかして、場所わかりにくかった?」

「いや……大丈夫だ。すぐ見つけたよ。えっと、その、トイレに寄ってたんだ」


 我ながら見え透いた嘘だ。声に動揺が滲んでいるのが自分でもよくわかる。けれど柊は「そう」と丸顔に笑みを浮かべただけだった。

 微塵も邪気のない笑顔に恐怖心を覚えて、慎は知らず知らずのうちにびっしょりと手汗をかいていた。柊の得点表を見てしまったことは言えそうもなかった。


 もしかすると自分は今までずっと恥を晒し続けていたのかもしれない。ほとんど確信に近い、最悪な可能性が毒素を吐き出して心を蝕んでいく。

 先ほど回収したばかりの筆箱に付いた学問成就のお守りを握りしめる。根付の鈴は素知らぬ顔でしゃらんと軽やかな音を鳴らした。





 体調が優れないので部活を早退したいと申し出ても、先輩に嫌な顔をされることはなかった。離れたところでサーブ練習に参加している柊と顔を合わせないように、体育館から足早に立ち去る。

 柊に対する後ろめたさと、他の部員より早く帰ることへの罪悪感がどろどろに混ざり合う。具合が悪いのは嘘ではなかったが、半分は精神的なものであることも自覚していた。

 せめて塾に行って自習でもした方がいいだろうか。しかしそれだと万が一見つかったときに面倒なことになる。結局のところ慎は真っ直ぐ家に帰るしかなかった。


 自転車で延々と坂道を上り続けて二十分。紅黄市内で最も地価の高い閑静な住宅街の真ん中にそびえ立つ邸宅が慎の家だ。慎の身長の倍ほどもある玄関扉の前に立ち、綺麗に磨かれた銀色のドアノブに手を伸ばす。ゆっくりと開けた扉は鉛のように重かった。


 成人男性の靴が複数並んでいることに気づく。柔らかなラグの上に足を乗せて、慎は「ただいま帰りました」と廊下に向かって投げかけた。返事はない。

 リビングからは家族の談笑する声が漏れ聞こえてくる。とりわけ内容がはっきりとわかるのは父の声だ。多忙な父がこの時間から家にいるのは珍しい。


(せい)(いち)は何も心配要らないな。その調子でこれからも精進しなさい」


 心臓がキュッと縮み上がる。やっぱり帰ってきているんだ、誠一兄さん。

 慎の八つ上の兄である茅森誠一は現在県外で暮らしている国立大の医学部生だ。家に帰る暇もないほど忙しいと聞いていたが、久しぶりに顔を見せに来たらしい。


 足音を立てないように廊下を進んでこっそりと二階へ上がろうとしたが、丁度リビングの前に差しかかった辺りでドアが開いた。

 柔和な笑顔の父と鉢合わせる。お気に入りの息子と話すことができて嬉しくて仕方ないというのが一目見てわかった。慎を一瞥するや否や、父の明るい表情は一瞬で冷めていく。


「お、お父さん。お帰りなさい。早いですね。誠一兄さんも、」


 話すことはないとばかりに無言で階段を上がっていく父の背中に向かって、慎は懸命に声をかけ続ける。


「誠一兄さんも、家にいるんですね。こんなに賑やかなのは久々だなあ。今日は稔兄(みのる)さんも遅くならないと言ってましたし、家族みんなで――」

「用件は何だ」


 強ばる慎の声を遮って父が振り返る。険のある目に思わず足が(すく)んだ。


「くだらない世間話はよせ。私はお前と違って忙しい。何か頼みがあるのなら母さんに言いなさい」

「……えっと」


 背中を汗が一筋伝う。慎は小さく息を吸った。


「よっ、用件、というほどのものではないんですが。来週の火曜日から期末試験が始まります。今度は、頑張ります。前回の中間のときよりも隅々まで念入りに復習をしたので、その」


 一体何に対する言い開きなのだろう。しどろもどろになった末に言いたいことはまとまらなかった。

 父は慎を小馬鹿にするように鼻を鳴らした。ちょうど昼間に柊を笑っていた人たちと同じように。


「私がお前に何を言った? 何を要求した。貴様の学校の成績などどうだっていい。こんな田舎の公立で何番を取ろうと同じことだ」


 慎は下唇を噛んだ。父はいつもそう言うけれど、慎には幼い頃の記憶が残っている。同じく紅黄中に通っていた誠一は定期テストで学年一位を取る度に父に褒められていたのだ。


「いいか、慎。お前はこれ以上、私に恥をかかせなければいい」


 ――茅森家の恥晒しも同然だ!

 遠き日の叱責が耳鳴りのように頭を揺さぶった。喉の奥が詰まって上手に息が吸えなくなる。大股歩きで階段を上っていく父のことを、慎はそれ以上追いかけられなかった。


「お父、さん」


 耳鳴りは止まない。鞄を持つ手に力が入る。どうすればよいのかもわからないまま、慎は階段の途中に立ち尽くした。

 無関心な父の目と、千紗の悪魔のような笑み、心配そうな柊の瞳が同時に慎の方を向く。慎は頭を掻きむしって雑念を振り払った。

 だめだだめだ。気を取られるな。今一番しなければならないことは何だ。自分にできるのはもっと勉強してテストの順位を上げることだけだ。それしかあり得ない。それ以外に――思いつかない。

 壁にかけられた振り子時計が固い音を鳴らす。秒針の進みが速く感じられる。期末試験の日は刻々と迫っていた。

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