76話 二十一グラムの秘密④
誰よりも早く体操服から制服に着替えて席に着くと、茅森慎は塾の問題集を取り出した。
シャーペンの芯を出しながら、もう片方の手で青い付箋の貼られたページを順々に捲っていく。昨日の授業で学習した単元を開いてしっかりと押さえる。半開きの窓から丁度冷たい秋風が吹き込んできて、ページの端がわずかに持ち上がった。
今日提出する宿題はとうに済ませた。次の授業の予習も終わった。あとは間違えた問題の復習を繰り返すだけだ。
マーカーで印をつけた問題文に目を通す。時計を気にしつつ計算式を書き連ねていると、耳障りな笑い声が頭上から聞こえてきた。寝不足の頭にズキンと響く。
「だからさあ、オレは怪我人なんだって! 体育とか当分無理に決まってるでしょ。この痛そうな脚と杖、目に入りません? もしかして節穴?」
「早く治せって言ってんだよ。どうせお前なんだから本気出したら三日ぐらいで治るだろ」
「は? いやいや、何? 骨、折れてんですけど? 給食の牛乳一パックじゃ足りねえじゃん」
脳の足りなそうなことを配慮のない大声で喋り散らしながら、笹村奏斗は松葉杖をついて教室を歩き回っている。肘が当たって慎の筆箱が床に落ちても、不届き者は拾いも謝りもしなかった。そのまま他の男子と教室を出て行く。
ため息を一つ吐いて、慎は渋々筆箱を拾い上げた。ファスナーにつけた学問成就のお守りが揺れる。奏斗の大声はまだ聞こえていた。入れ違いで教室に入ってきた別の男子も人目を憚らず下品な声で会話をしている。
これだから公立の連中は騒々しくてかなわない。一年C組はこれでもおとなしい方だと言うのだから驚いた話だ。中学に進学したら幼稚で話の通じないガキは少なくなると思っていたのに、実際には何にも変わっていないじゃないか。
教室が自主学習に不向きな場所だなんて、全くおかしな話だ。
「慎くん、慎くん。ちょっといい?」
鼻にかかった掴みどころのない声がして、握っていたシャーペンの芯が折れる。やっぱり復習は休み時間にやろう。図書室なら他人に邪魔されることもないはずだ。
「何だ? 渡谷」
「あっ、ごめんね。ここ、教えてくれないかな」
おずおすと両手で差し出されたのは数学のプリントだった。今日この後すぐ提出しなければならないものだ。訊くならもう少し早く持ってきてくれないだろうか。
「ご、ごめん。昨日ずっと考えてたんだけど、全然解き方がわからなかったから」
別にいいよ、と慎は朗らかに答えた。
「えっと、それは点Pが長方形の角を通過する度に計算が変わるんだ。こんな風に、変域別に式を立ててさ」
自分の解答を見せながら説明してやると、渡谷――渡谷柊は目をきらきらと輝かせた。方眼紙に定規でグラフを描きながら納得したように微笑んでいる。
「ほんとだ、繋がった!」
「な? だから問三も間違ってるよ。xが四のときなんだから、代入するのはこっちの式だ」
なるほどなるほど、と柊は本当にわかっているのか怪しい口振りで何度も頷く。
「ありがとう、助かったよ。今日はそろそろ当てられそうだったから、空欄にしたままだとまずかったんだ」
「これ、期末の範囲内だしな。グラフを描く問題で似たようなの出るだろ」
期末という単語を出すと、柊は露骨に悲しそうな顔をした。昔から表情がコロコロとよく変わる奴だ。
「テスト、もうすぐだもんね……慎くんは勉強してる?」
「それなりに、な」
「わあ、偉いなあ。慎くん、もう十分頭良いのに」
「……ぼくは、中間で落ちた順位を取り戻さないといけないから」
生徒手帳に挟んでいる紙切れのことを思い出す。中間考査の採点が終わった直後に配られた点数表だ。慎はこれにクラス順位と学年順位を書き込んで、肌身離さず持ち歩いていた。悔しさを自分の身に刻み込んで忘れないようにするために。
期末試験は来週の火曜日からだ。この日のために日々試験範囲の復習を頑張ってきた。
筆箱につけたお守りを握り込んで、「今回こそ挽回する」と慎はつぶやく。
「俺は順位なんて関係ないと思うけどなあ」
柊は相も変わらずピントの外れたことを言う。慎を励まそうとしているのか、感じたことをそのまま口にしているだけなのか。
「たぶん、頭の良さってそういうんじゃないと思うんだ、俺は。ちょっと順位が下がったぐらい、気にすることなんてないよ。慎くんは本当に賢いんだから」
そんなわけないだろ。受験だって結局順位で決まるんだから。とは言わず、慎は「そうだな」と努めて明るい笑顔を返した。
「ちょっと、そこ邪魔なんだけどぉ」
針で刺すような甲高い声に、柊が慌てて「わわわ、ごめんねっ」と慎の方へ飛び退く。慎の心音も跳ねた。体温がほんの少し上がる。
机と机の間を通ろうとしていた柳井千紗とその友達だった。千紗は当然とばかりに慎と柊の横を通っていく。シトラスみたいな甘酸っぱい香りに慎は軽く息を呑んだ。
「わわ、だって」と、少し離れたところから取り巻きの嘲るような囁きが聞こえてくる。こちらをちらりと見やった千紗の横顔には悪意のある可憐な笑みが浮かんでいた。
「なんか、バカっぽーい」
慎は思わず姿勢を正した。自分の心の声が映し出されたのかと思って、妙な汗をかいてしまった。
*
クラスのアイドルと再び出会ったのは清掃のときだった。彼女は中庭の掃き掃除を終えてちりとりの中のゴミを運んでいた慎に「ねえ」と声を掛けてきたのだ。
千紗の周りに他の生徒はいない。別に慎を待ち構えていたわけではなく、偶々通りがかったらクラスメイトを見つけたので軽く話しかけてみたという雰囲気だった。それでも慎の思考回路は都合良く辻褄を合わせようとしている。
小汚いゴミ捨て場の前に立つ美少女は明らかに周りから浮いていた。気圧された慎が無意識に一歩後じさると、千紗はもう二歩分距離を詰めてくる。短いスカートと眩しい脚から目を逸らしつつ、慎は声が上ずらないように「何?」と答えた。
「詩央から聞いたんだけど、茅森くんと渡谷くんって保育園の頃からずっと一緒なんだって?」
「え、えっと、うん。まあ、そんな感じ」
同じ紅黄小出身とは言え詩央はなぜそんなことを知っているのだろう。何度か同じクラスになったことがあるというだけで、今までろくに話したこともないのに。
「へー、本当なんだ。仲良いもんね。いつも二人でいるし」
いつも二人でいるつもりはないが、傍目にはそう見えるらしい。同じクラスに柊がいるのが当たり前だったから、特に変だとは思っていなかった。
「幼馴染みってやつ?」とさらに詰め寄られて、「違う」と慎は反射的に否定した。
いや、違わない――のか。言われてみれば確かに、柊との関係を一言で表すと「幼馴染み」になる。だけどそれを自分から認めるのはなんとなく気が引けた。特に柳井千紗という少女に向かっては。
「腐れ縁だよ、ただの」
「あはは。照れてる照れてる」
千紗は口に手を当ててきゃらきゃらと笑った。可愛らしい仕草にまた頬が火照ってくる。慎は視線を左斜め下に落とし、釣られたように乾いた笑い声を上げた。
「でも、そうだよね。あんな鈍臭いデブが幼馴染みとか嫌だもんねえ?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
遅れて内容を理解して、言いようのない気恥ずかしさに心と体がじわじわと侵食されていく。さっきまでとは別の意味で顔が熱い。
「腐れ縁の茅森くんなら知ってるかな? これも詩央から聞いちゃった噂なんだけど、渡谷くんってうちのクラスで一人だけ給食費免除されてるらしいよ。それであんなに毎日ガツガツ食べてるとか、ちょっと恥知らずなんじゃない?」
頭の中は真っ白だった。何か言おうとして口を開いたものの、喉の奥で言葉が固まって出てこない。
ま、あたしにはどうでもいいけどぉ。千紗の気怠げな声に覆い被さるように予鈴が鳴った。言いたいことは言ったのか、千紗はくるりと踵を返して近くを歩いていた女子生徒に駆け寄っていく。それっきり振り返りもしなかった。
取り残された慎はしばらくその場で呆然としていた。せっかく集めたゴミはちりとりから零れ落ちており、風に乗ってさらさらと流されていく。
千紗の言ったことは本当だ。小学校の頃から有名な話だったし、もちろん慎だって本人から聞かされている。事実を否定することはできない。
でも、柊は慎の「友達」だ。ならば庇うのが普通だろう。
「ぼくは、恥知らずなんて思わない」
呑み込んでしまった台詞を自分に言い聞かせるように口にする。心の入っていない言葉は慎の想像以上に空虚だった。
言い返せなかった。ううん、きっと言い返さなかったのだ。




