75話 二十一グラムの秘密③
あ、また目が合った。
十和子が反射的に顔を背けても、真っ直ぐな視線は背中から剥がれなかった。彼女が渡り廊下の途中で立ち止まっているのがわかる。あの子はそこに佇んでいるだけで周囲一帯の空気を丸ごと変えてしまえる力があるのだ。
真夜と視線がぶつかる回数は最近になってまた増えた。一日に三回。多いときは四、五回。自意識過剰だと言い聞かせていたけれど、さすがにここまで重なると勘違いではなさそうだ。一体どうしたのだろう。思い出の中の真夜はいつも前を向いていて、あの端整な横顔が十和子の方を向くことなんて滅多になかったのに。
心当たりは全くない。以前真夜から「本を貰ってほしい」と頼まれたことはあったものの、そのときは何の前触れもなく教室で話しかけられた覚えがある。こんなにも長期間にわたって視線だけが送られ続けているなんて異常だ。
「手芝ー、どうしたの? ほんとに遅れちゃうよ」
少し先を行くパートリーダーの新城先輩に急かされて、十和子は「す、すみません!」と自分のトロンボーンを持ち直した。擦れた上靴をぱたぱたと鳴らして後を追う。真夜の気配は遠ざかっていった。
先輩が音楽室の扉を慎重に開ける。吹奏楽部顧問の奥村先生はまだ来ていないようだが、ほとんどのパートが音出しを始めていた。呆れた顔でこちらを見ている部長に新城先輩は苦笑いを返し、忍び足で一番後ろの列まで進んでいった。十和子たち一年生も後に続く。
全体の基礎練習が終わる頃に奥村先生が来て、合奏練習が始まった。
文化祭が終わると、紅黄中学校の吹奏楽部はしばらくの休息期間に入る。実際にはアンサンブルコンテストや地域のお祭りへの出演予定があるのだが、全部員で発表する機会は三月の卒業式まで無い。今日の合奏練習も比較的のんびりとした空気で進んでいった。あくまで比較的には、だが。
楽譜に書き込む振りをしつつ譜面台で顔を隠し、十和子はちらりと指揮者を見やった。先生は滑舌の良い声でフルートパートに指示を出している。指揮棒の尖った先で貫かれているような心地がして、十和子は身を縮こまらせた。
「――それから、ボーン」
前触れなく矛先を向けられて背筋が凍り付く。トロンボーンパートの端から端までぴんと糸を張ったように緊張が駆け巡った。普段はだらりとしている新城先輩も姿勢を正し、真面目な顔つきで先生の方を見ている。
「Dパート十七小節目のスラー、前回の合奏の際にも指摘しましたが、まだ吹き方が揃っていません。ここは適当にしてはいけませんよ。どんな風に演奏するか、きちんとパートで話し合いましたか?」
先生の厳しい問いかけに対して答える者はいない。二年の先輩たちが気まずそうに列の端へ視線を飛ばす。代表として矢面に立たされた新城先輩は「一応、全員で練習していたんですが……」と苦い顔で言葉を濁している。十和子は居たたまれないような申し訳ないような気持ちでいっぱいになった。先生の顔を直接見る勇気はない。
音がずれていると指摘される度に間違っているのは自分だと思い込んでしまう。わたしが先輩や同級生の足を引っ張っていて、パート全体に迷惑を掛けているに違いないと。一度不安に苛まれてしまうと、十和子はなるべくミスが目立たないように小さな音で吹いてその場を逃れようとする。だけどこれも姑息な手段だとはわかっている。
楽譜をめくる音に誘われて顔を上げると、ホルンパートの真ん中辺りで那由が書き込みをしようと前屈みになっていた。色とりどりのマーカーやボールペンが譜面台の上に置かれている。最近の那由は練習に積極的のようだ。以前は部活に向かうのも嫌がっていたのに。どうやら文化祭が明けて心境の変化があったらしい。
那由だけじゃない。C組の吹奏楽部員みんなが必死になって練習に打ち込んでいる。まるで何かから逃げるみたいに。目を逸らすみたいに。
十和子だけが何も変わらないままだ。
「一回ボーンだけでDパートの頭から吹いてください」
奥村先生の声で頭の中の霧が晴れる。他の子たちが一斉に楽器を構えたので、十和子も慌ててマウスピースを口に当てた。緊張している余裕もない。
トロンボーンの音が音楽室に鳴り響く。やはり合っていないような気がする。
奥村先生は「演奏を止めて」とばかりに指揮棒で譜面台を軽く叩いた。苛立っているときの仕草だ。
「もういいです。一人ずつ吹いて、新城さんから」
無慈悲な一言に目の前が真っ白になった。心臓のリズムがどくんと乱れる。楽器が手の中から滑り落ちるような感覚に、十和子は意味もなくグリップを握り直した。周りの雑音が瞬く間に遠のいていく。新城先輩の張り詰めた返事だけが薄闇にこだました。
関係ない他のパートの人も下唇を噛んで緊張の面持ちになっている。先生の「一人ずつ吹いて」はそれほどまでに部員を戦慄させる凶悪な命令だった。しかも十和子にとっては四月の入部以来初めての経験だ。
安定した音で吹き切った新城先輩に続いて、他のメンバーが順番にフレーズを奏でていった。誰かが音を外すと先生が眉根を寄せる。十和子はまるで生きた心地がしなかった。
絶対、失敗するに決まっている。こびりついた泥のように固い確信が十和子の心を絶えず苛んでいた。無能であがり症の自分がこんなに大勢の人の前でまともに吹けるなんて、万に一つもあるはずがない。
奥村先生の指揮のテンポがいつもより速く感じられる。絞首刑までのカウントダウンみたいだ。十和子が無い知恵を絞ってやり過ごす方法を考えている間にも、執行の時は刻一刻と近づいてくる。待って、お願い、まだ心の準備が――
隣の席の一年生が息を吸ったときにはもう何も考えられなくなっていた。自分がタイミングを間違えずに演奏に入ったのかも、指定通りに吹いたのかも覚えていない。気がついたら最後の子まで終わっていて、音楽室はしんと静まりかえっていた。
奥村先生は渋面を作ったまましばらく何も言わなかった。やがて口を開くと「まずファーストですが、」とパートごとに指摘をし始める。言葉遣いは丁寧だが、内容はやはり手厳しい。先生のアドバイスをシャーペンで譜面に書き込む音が至る所から聞こえた。
「それから、サードできちんと吹けているのは手芝さんだけですね。手芝さんの吹き方に揃えてください」
……え?
思わず書き込む手を止める。先生はこちらに見向きもせず、何事もなかったかのように「では、Cパート四小節前から」と全体へ向けて言った。はい、と部員の高らかな声が音楽室に響き渡る。十和子は咄嗟に反応することができなかった。
聞き間違いだろうか。でも、今確かに「手芝さん」って、二回も。
不安と高揚から彷徨わせた視線の先で、那由が振り返ってこちらを見ていた。十和子の方へ小さくピースサインを向けてにっこりと笑っている。十和子も釣られて口元を緩めた。胸の奥がじわじわと温かくなっていく。
先生の発言の本意はわからない。慰めかもしれない。さっきの演奏が偶々先生のお眼鏡に適ったというだけで、数分後にはもう変わっているかもしれない。それでも十和子は嬉しかった。自分が今ここにいることを許されたような気がしたのだ。
楽譜の上で自分の書いた字が躍っていた。心も体も宙に浮いていて、トロンボーンまでもが羽のように軽い。十和子はその後の合奏に全く集中していなかった。褒め言葉の十倍くらいの叱りを受けても興奮は止まなかった。
*
「それで、先生にはいつ部活を辞めると言うの?」
水を頭から浴びせられたみたいだった。体の芯が急速に冷えていく。
間接照明で仄かに照らされた手芝家のリビング。清潔感の保たれた空間には母と十和子の二人しかいない。革張りのソファに腰掛けた母は、手元の文庫本を閉じて十和子を見上げている。「あ、あの」と十和子は薄いフリースパジャマの裾を掴んだ。
「だ、だから、今日は合奏で先生に褒められて……」
「今聞きました。それで、部活動はいつ辞めるの?」
有無を言わせぬ母の頑とした言い様に口を封じられる。十和子とは似ても似つかない、雪女のごとくつり上がった目に串刺しにされる。言いたいことがまとまらず、十和子はただ無言でうなだれた。握りしめた両手から力が抜けていく。
大きなため息をつく母に十和子は肩を震わせた。胸に灯った火が吹き消される。母にも褒めてもらえるかもしれない、考えを改めてもらえるかもしれないと少しでも期待したのが間違いだった。
「あのね、十和子。そんな見え見えのお世辞を真に受けてどうするの。あなたのような無能の役立たずがどんなに練習したところで上手くなるわけがないでしょう? 出来の悪い子がふてくされてやる気をなくさないように、先生も気を遣ってくださっているんですよ」
言い返せるほどの自信はとうに残っていなかった。これ以上怒らせないためにはい、はいと頷いているうちに、段々と本当に全部母の言う通りなのではないかという気がしてくる。実際のところ十和子が無能なのも役立たずなのも否定することはできなかった。
一度疑念を抱いてしまうと、喜びはあっという間に萎んでいく。そうか、やっぱり気遣いだったんだ。そもそも先生は十和子を褒めたつもりなんてなかったのかもしれない。何でもないことでいちいち舞い上がって馬鹿みたいだ。
「だから公立の中学校なんて入らなければよかったのよ。最初から葵ヶ原に受かっていたら、十和子に向いている部活がもっとたくさんあったのに……」
心の奥の古い傷がチクリと痛んで、十和子は機械的に「ごめんなさい」と返した。
中学受験に失敗した話を蒸し返されると謝ることしかできなくなってしまう。試験の問題が微塵もわからなかったのも、面接で顔が真っ赤になってろくに話せなかったのも、母の期待に応えられなかったのも十和子自身なのだから。
どうして自分は母の理想の子として生まれてくることができなかったのだろう。
「これが最後ですからね。期末テストでクラスの平均も取ることができなかったら、お母さんから顧問の先生に退部届を提出します」
十和子は黙って頷く。これまで以上に非情な宣告を受けても特段の感情は浮かんでこない。一喜一憂したところで結局は母の言うことを聞かなければならないのだから、十和子が何を思っても無駄だった。
「お母さんは十和子よりずっと長く生きているのだから、お母さんの方が正しいんですよ。十和子は私の言う通りにしていたらいいの」
母は冷たい笑みを湛えて十和子の頬をするりと撫でる。
「さあ、今日はもう歯を磨きましょう。こっちに来なさい」
正座をした母に子ども用の歯ブラシを渡して、十和子は膝の上で横になった。小さく開けた口の中に柔らかい毛先が侵入してくる。ここは家の中なのに、知り合いが窓の外からこっそり見ていたらどうしようと心配になる。
中学生にもなって毎晩母親に歯を磨いてもらっているなんて、学校の友達には絶対に言えない。那由に知られたらきっと大笑いされるだろう。
歯磨きだけじゃない。お風呂に入るのも布団で寝るのもいつも母と一緒だ。
手芝十和子は何一つ、自分一人ですることができない。
*
目の前を飛び交う白いバレーボールをぼんやりと見つめる。昨日母と話をしてからずっと十和子は上の空だった。頭の中は部活と期末試験のことでいっぱいだ。
期末テストは来週の火曜日から始まる。相当勉強を頑張らないとクラスの平均点を取るのは無理だ。かと言って、普段の授業すらついていけていない十和子に今更何ができるというのだろう。自分が何を理解していないのかもよくわからないぐらいなのに。
ピピーッとホイッスルが鳴って、体育の先生が「そこまで!」と叫んだ。片方のチームが疲れた顔でコートから出てくる。次の試合には参加しなければならない。十和子が渋々立ち上がると「ちょっといい」と女子の一人に声をかけられた。
「このボール空気抜けちゃってるから、取り替えてきてくれない?」
「あ、うん……」
受け取ったボールは確かにふにゃふにゃしていた。なんだかわたしみたいだな。
体育館の端にある大きなドアを開けて雑然とした暗い倉庫に入る。出入り口を開けたままにしておけばわざわざ電気をつけるまでもない。
バレーボールの入ったカゴを探していると、背後の扉がひとりでに閉まった。十和子はぴたりと動きを止める。どうして? 勝手に閉まるようなドアじゃないのに――
スイッチを入れる音と共に体育倉庫の明かりが灯る。照明の下で相手の姿を見た十和子はうっかり足を滑らせて腰を抜かしてしまった。
閉ざされた鉄扉の前に体操服姿の真夜が立っていた。普段と変わらない透徹した双眸で、倉庫の床に腰を打ちつけた十和子をじっと見下ろしている。
もう勘違いでは済まされなかった。明らかに真夜は十和子に用があってここにいる。
「ま、真夜ちゃん……? な、何? どうかしたの?」
十和子の質問には答えず、真夜は淡々と言った。
「前から思っていたけれど、手柴さん、私のことを見ているよね」
背筋を汗が伝う。まるで覗き見の現場を暴かれたかのような罪悪感と羞恥が体を蝕んでいく。十和子は冷たい床に手をついて力なく首を振った。
「き、気のせいだと思うよ」
「いいえ。何度も確認したから間違いない。きみは九月からずっと私のことを見ている」
十和子と同じ目線の高さまでしゃがみ込んで、真夜は容赦なく距離を詰めてきた。あまりにも顔が近い。真夜の体からは初めて話しかけたときと同じすみれの花の匂いがした。だけどあのときよりもいっそう芳醇で濃厚だ。
真夜の「どうして?」という声が耳朶を脅かす。白い首と鎖骨が文字通り目と鼻の先にある。顔も耳も頭も全部が沸騰したみたいに熱い。
「ま、真夜ちゃんは……」
あの子の顔が近づいてくる。綺麗、なんて言葉が安っぽく感じるほどの美貌。わたしを狂わせる絵本の中の少女。
もう限界だった。
「真夜ちゃんは、お姫様だからっ!」
言ってしまった――とうとう。
走り終えたばかりのように肩で息をしている十和子とは対照的に、真夜はどこまでも冷静なままだった。倉庫の外でバレーをしている男子の笑い声だけが聞こえている。
一ミリも表情を動かすことなく、真夜は「そうなんだ」と答えた。
頬の熱がすうっと引いていく。真夜の眼差しからは「興味がない」よりももっと透明な「眼中にない」という事実しか感じ取れなくて、それがひどく心地よかった。この子はきっと十和子が目の前で真っ赤な血を撒き散らしながら死んでも「そうなんだ」と言って元の生活に戻るのだろう。それでいい。真夜はずっとそれでいい。
醜く愚かな十和子のことなど、一生視界に入れないでほしい。
用事は済んだはずなのに、真夜はまだ立ち上がらなかった。何を考えているのか読み取れない瞳で真正面から見つめてくる。まともに目を合わせられない。
ふいに、十和子の震える右手が強引に持ち上げられた。
真夜の白い両手で包み込むように。
「じゃあ、お姫様からきみに、頼みたいことがある」
狭くかび臭い体育倉庫に、高潔なあの子の声が響く。
「私の願いを聞いてくれたら、きみの願いを何でも一つ叶えてあげる」