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閉塞学級  作者: 成春リラ
10章 二十一グラムの秘密
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74話 二十一グラムの秘密②

 職員室前の正面玄関付近は、昼休みになると喫煙者の教師の溜まり場になっていることが多いのだが、今日は朝から急に冷え込んだという事情もあって閑散としていた。教職員専用のだだっ広い駐車場にも生徒の姿は見受けられない。外で遊ぼうという気概のある人は概ね校庭に出ているようで、少し離れた場所から明るい声が聞こえてくる。


 寒風吹き荒ぶ中、一人で茶色いタイル張りの階段に腰掛けている教師がいた。小ぶりの水筒を両手で持ち、生気のない顔で自分の膝を見つめて、時折ため息をついている。


「こんなところにいらしたんですね。探しました」


 玲矢が静かに近づいて声をかけると、日野先生は数秒遅れてゆっくりと視線をこちらへ向けた。姿を目にするまで生徒が隣にいることにも気づいていなかったのか、頼りなげな肩が驚いたようにびくんと跳ねる。「ああ、網瀬くん」とつぶやいて、担任は土気色の顔に力なく笑みを浮かべた。


「すみませんね、ちょっとぼうっとしてて」

「先生もぼんやりすること、あるんですか」

「ありますよ、それくらい。先生も、人間ですから」


 消え入りそうな声で言って、再び小さくため息をつく。多くの若手教師がそうあることを求められているように、日野先生もまた明るくやる気に満ちた教員として振る舞っていることがうかがえたのだが、最近は生徒の前でも疲労の滲む表情を隠そうとしない。

 緊張しているのか、落ち着かないのか、日野先生は手の中で水筒を転がしている。細い指先は乾燥してガサガサにひび割れていた。


「お疲れなんですね」

「あはは。最近はちょっと、大変なことが続いていますから」

「それって、椎本さんのことでしょうか?」


 口角が引き攣れたように固まって、日野先生の顔から作り笑いが消える。気まずそうに俯くと、先生は水筒を握りしめた。


「網瀬くんも、変だと思いますよね。先週まで普通に学校に来ていた同級生が、はっきりした理由もないまま一週間も休むなんて」

「風邪で休んでいる……というのは、やっぱり嘘でしたか」


 今更な話だ。日野先生が遼の不在を適当に誤魔化そうとしているのは、既に一年C組の生徒の大多数が察している。結局具体的な説明がされなかったことで、クラス内の不信感はさらに高まっているようだ。


「椎本さんが学校に来ない本当の理由、先生は知っているんですか?」


 返事は、すぐにはなかった。責任感の強い普段の日野先生であれば「教えられません」と即答していることだろう。他の生徒のプライベートな情報を個人的に伝えるなど、あってはならないことだ。だが、先生は荒れた唇を噛み、眉根を寄せて黙り込んでいる。考えあぐねている。

 きっぱり断ることもできないみたいだ。誰かに話を聞いてほしいのか、もはや隠し通すことに疲れたのか。

 玲矢はにっこりと微笑んで「秘密は守りますよ」と囁いた。


「ここなら誰も聞いていないですし。あと、クラスで椎本さんの話が出たときに、それとなく話題を逸らすこともできますが」


 瞳が揺れる。観念したような、それでいてどこか安堵しているような複雑な笑みを浮かべた後、日野先生はぽつりぽつりと話し始めた。


「先週――文化祭の当日からずっと、椎本さんと連絡が取れないんです」


 合唱指揮者の遼が学校に来ていないと知るや否や、日野先生はすぐに彼女の家へ電話をかけたらしい。だが、何度試そうとも本人や家族が受話器を取ることはなかった。


「毎日何度もかけているんですけど、どの時間帯にかけても全く繋がらなくて。一度話をしたことがあるので番号は間違っていないはずなんです」


 いかにも心配そうに顔を曇らせて頷きながら、それはそうだろうと玲矢は思った。椎本父娘の死体を解体する前に、部屋にあった電話機のコードを引き抜いておいたのだから。


「もしも椎本さんが教室に居づらくて、学校からの電話を取ることも苦しいのなら深追いはしないのですが」

「それだけではなさそう、と?」

「はい。どうしても心配で、一昨日お家まで行ってみたら……なんだか、人が住んでいる気配がなかったんですよ」


 生徒情報に記載されている遼の住所は、今や空き家になっている彼女の母の家だったはずだ。どうやら本当の住所にはまだ辿り着けていないらしい。しばらく勘違いしたままでいてくれるのなら好都合だ。


「警察には通報しないんですか?」


 警察という単語を出した途端、担任のやつれた顔はさらに暗くなった。周りに人がいないことを何度も確認してから、声のトーンを落とす。


「その……あのことが、あったばかりでしょう。学校側としては、これ以上事を大きくしたくないみたいで」


 十月に野河明佳が自殺した件か。物分かり良く察した風に玲矢は無言で頷く。事なかれ主義で面倒事を嫌う紅黄中らしい対応だ。老朽化したプールを何年も使用禁止のまま放置しているだけはある。


 喋りすぎたことに気づいたのか、さっと青ざめた日野先生は「というのは、私が勝手に思ってるだけで、学校側の公式見解ではないから」と、追い詰められた政治家の答弁のような台詞を口にした。

 わかりました、と玲矢が答えると同時に予鈴が鳴った。日野先生はわたわたと立ち上がり、声を震わせて縋り付いてくる。


「ほ、ほんとに、今話したことは誰にも言わないでくださいね。絶対、約束ですよ」

「大丈夫です。俺、口は堅いですから。奏斗にだって言いません」

「それは一番言っちゃいけない相手ですよ!」


 心配そうに幾度も振り返りながら、日野先生は走り去っていく。玄関前に一人残された玲矢は雲一つない晩秋の空を見上げた。


 ひとまず真実がすぐに公になるというのはなさそうだ。とは言え、学校側もさすがに遼が単なる不登校でないことには薄々気づいているらしい。困ったものである。大人もただの馬鹿ではないということだ。

 死体を投棄した場所は現場からそう遠くはない。遅かれ早かれ見つかるだろう。保って二、三ヶ月というところだ。あるいはもっと早いかもしれない。

 悪事とは必ず暴露されるものだ。二時間で犯人が発覚するサスペンスドラマのように。


「うーん、やっぱり殺人ってコスパ悪いなあ」


 大きく伸びをして、玲矢は悠々と歩き出した。

 さて、()()()()()()か。





 あの日からずっと、違う世界で違う人間を生きている。目線の高さも手足の重さも変わったような気がする。小田巻智春の魂は本体から抜けてしまって、数十センチ離れたところから身体を動かして生活しているような――そんな感覚。

 自然とそうなったのか、意識しているのかはわからない。ただ、自分を切り離していないと正気を保てないのは確かだった。今だって大勢の前で何もかもを(さら)け出してしまいそうになる。喉を掻きむしって死んでしまいたくなる。

 それとも、人を殺しても平然と学校に通っている自分は、既に正気ではないのかもしれない。


 自室の机で国語の宿題を解きながら、智春は考えた。「正しい」の対義語は「悪い」で、「善い」の対義語も「悪い」だ。ならば、「正しい」と「善い」は同義なのだろうか。

 たぶん、違うんだろうな、とかぶりを振る。反対の反対は同じとか、敵の敵は味方とか、そんなにシンプルな話ではないはずだ。何を基準軸とするかによって反対の意味も異なるのだから。

 だったら、自分は正しくありたいのか、善くありたいのか、どちらなのだろう。自分のしたことは、これまでにやってきたことは、一体どちらだったのだろう。


 筆箱につけたイルカのストラップを手の中で転がしながら、金曜日の放課後のことを思い出す。珍しく玲矢の方から智春を呼び出してきたのだ。


 吹奏楽部のパート練習が始まる前の、人のいない視聴覚室。玲矢と秘密の話をするときはいつも口頭だった。LINEやメールは履歴に残るから避けたいそうだ。

 玲矢は日野先生から聞き出した内容を共有してくれた。学校はしばらく遼の所在を突き止めるつもりはなさそうだということ。遼の父親の家は知られていないということ。初めは智春の方が探りを入れにいくつもりだったのだが、玲矢が「あんた絶対失言するよ」と交代を申し出てきたのだ。


「玲矢くんだって、どうして教室であんなこと言ったのよ。わざわざ話題にするなんて、関係者だと自白してるようなものじゃない」


 全員の前で遼の休みについて言及したことを指摘すると、玲矢は事もなげに笑った。


「もう皆とっくにおかしいと思ってたさ。それなら、先に言っておいた方がかえって怪しまれないだろ」

「それは、そうかもしれないけど……」


 どうしても玲矢の一言一句にハラハラしてしまう。何かとんでもないことを突然言い始めるのではないかと思うと、授業中ずっと落ち着かないのだ。玲矢が危険な思想を持つ人間だとわかっている以上、彼を信じ切ることは難しい。

 今だってこんな異常事態だと言うのに、玲矢は世間話でもするみたいに朗らかに笑っている。玲矢と同じ空間にいるだけで背筋が冷えていくのを感じる。

 眼鏡の奥の瞳を細めて、玲矢は壁に手をついた。


「そろそろ、人を殺した後の世界には慣れた?」


 腕の皮膚が一気に粟立つ。咄嗟に「ばかっ……!」と玲矢の口を塞ごうとして、ここが視聴覚室であったことに気づいた。二人の声は部屋の中に響き渡ることなく、白い防音壁に吸い込まれる。

 突進した智春を躱して、玲矢はからからと愉快そうに笑い声を上げた。


「今更。そんなので大丈夫? いい加減、現実に適応した方がいいんじゃない?」

「そんなの……すぐに慣れる、わけ……」

「殺人とか、人殺しとか、日常生活で耳にする機会はいくらでもあるよ。その度にびくびく震えるつもり? これから先の十年、二十年、ずっと隠していかなきゃいけないのに」


 軽やかな声色で真っ直ぐ問い詰められ、理由のない悔しさにじわじわと涙が浮かぶ。わかっている。玲矢の発言が正しいことぐらい。


「まさか、そんな覚悟もなく殺したんじゃないよね」


 覚悟なんてあるわけがない。遼を助けたかった。誰も失いたくなかった。あのとき智春を突き動かしたのはそれだけだ。


 遼の父親を殺したときの感覚は今でもはっきりと覚えている。饐えた空気の匂いも、空のビール瓶の冷たさも、頭を殴ったときの感触も。だけど当時何を考えてあんな恐ろしい行動に及んだのかはほとんど思い出せなかった。

 いいや、思い出したくないのかもしれない。あの行動が自分の確かな殺意によるものだと認識してしまったら、きっともう二度と自分を信じられなくなってしまう。


「しっかりしてよ」という玲矢の声で、ハッと我に返る。


「一蓮托生の身なんだからさ。俺たちは共犯者、でしょ?」

「ご、ごめんなさい……ほんとうに。とんでもないことに、巻き込んでしまって。何と言って謝ったらいいか……あなたは、無関係なのに」


 玲矢は肩をすくめると、「謝ってほしいわけじゃない」と呆れたように嘆息した。


「ちゃんと約束、守ってね」


 用は済んだとばかりに身を翻し、視聴覚室の扉を開ける玲矢を「ねえ」と追いかける。


「連絡は……ない?」


 玲矢は立ち止まった。誰からの連絡とは言わなかったが、彼には伝わったようだった。


「小田巻のところに来ていないなら、俺のところにだって来ないよ」

「……そう、よね」


 少しして、今度こそ去っていく背中を見つめながら、智春は結局訊けなかったことを頭の中で反芻した。

 一番知りたいことをずっと訊けないままでいる。どさくさに紛れて手を借りてしまったけれど、どうして玲矢は文化祭を休んでまで自分と遼を助けてくれたのか。

 そしてこう考えてもいる。この得体の知れない怪物に大きすぎる貸しを作ってしまったことは、果たして正しかったのだろうか、と。


 左手でイルカのストラップを弄るのをやめて、智春は自分の机に突っ伏した。

 考えることが多すぎて頭の中がぐちゃぐちゃだ。塾の宿題にもまるで身が入らない。土曜のうちに多少は進めておかなければまずいのに。


「ねーえ、ちぃちゃん」


 舌っ足らずな声に、色々な文房具を落としながら慌てて背筋を正す。

 全然気づいていなかった。いつの間にか部屋の入り口に三歳の妹の(つゆ)()が立っている。ぬいぐるみと塗り絵のセットを大事そうに抱え込んで、智春をじっと見つめていた。

 妹は何やら浮かない顔でもじもじしている。


「ど、どうしたの? おトイレ空いてるよ」


 ねえ、ちぃちゃん、と露花は甲高い声で繰り返した。


「今日もめーかちゃん来ないの?」


 ズキン、と忘れかけていた古傷が痛む。露花は度々家に来て構ってくれる明佳によく懐いていたのだ。


「この前も言ったじゃない。明佳はもうお家には来ないって」


 いつまでそんな話をしてるのよ、と言いかけて気づく。明佳が亡くなったのはほんの一ヶ月前のことだ。既に遠い昔の出来事のように感じられるのはなぜだろう。

 露花は納得のいかない顔で智春を見上げてくる。


「なんで? なんで来ないの? めーかちゃん、おこっちゃったの? つゆかがクレヨンかしてあげなかったから?」

「それは……あたしにもわからないよ」


 他に答えようがない。露花は不満げに頬を膨らませると、ぬいぐるみを持つ手に力を込めた。そのまま引き下がってくれるかと思ったが、「じゃあ」と口を開く。


「じゃあ、はるかは? はるかはなんで来ないの」

「……は、遼は」


 智春は思わず口ごもった。遼の一件はもちろん家族の誰にも説明していない。遼が学校に来ていないということも、母にはまだ知らせていなかった。下手に口を滑らせると何か勘付かれるかもしれない。


「遼は……いつか来るよ」


 当たり障りのないことを、智春は半ば自分に言い聞かせるように言った。

 いつか来る。いつかきっと、遼は帰ってくる。


「いつかって、いつ?」

「わからない、けど……」


 尚も言葉を濁す姉に痺れを切らしたのか、露花は涙目で眉を吊り上げた。ぬいぐるみが飛んできて、智春の脛にボフッと当たる。


「ちぃちゃん、わかんないばっか! だいきらい!」


 当てつけのようにドタドタと足音を鳴らして露花は廊下を走っていった。どっと疲れが噴出して、智春は椅子の背にもたれかかる。一体いつまでこんなにも緊張の解けない日々が続くのだろう。

 何も――何もわからなかった。玲矢の真意も、遼の行方も、明佳の想いも。


 机に転がったイルカのストラップは、照明を反射して銀色に輝いている。遼も今どこかで同じお守りを見つめているのだろう。そう信じることが唯一の心の支えだった。


 指先でイルカに触れていると、何かが心に引っかかった。頭の奥深く、自分でも探りきれない場所に、抉り出したくない何かが埋まっているような気がする。

 もどかしい既視感は記憶の底をたゆたうばかりで、表層に浮かび上がることはなかった。





 マイクの繋がる音がしないときは、すぐに行くという合図だ。逆に音がするのは、少し時間がかかるとき。

 家の奥から話し声が聞こえる。内容は聞き取れないが、声音は穏やかだった。朝っぱらから母親と喧嘩しているというわけではなさそうなので安心する。

 慌てたように家の中から出てきた凛は、相変わらず長身を猫みたいに丸めていた。


「おはよう。待たせてごめんね」

「おう。……大丈夫か?」

「うん、平気」


 頬を掻き、凛は照れくさそうにはにかんだ。大樹もぎこちなく笑みを返す。

 凛の再登校、二日目の朝だった。また二人で一緒に学校へ行けることを、大樹は心底嬉しいと思った。


「ほんとに平気か? 無理しなくていいんだぞ。しんどかったら、今日は保健室でも」

「もう、大樹は心配性だなあ。きついときは、自分で何とかするから大丈夫だよ」


 ちらりと横目で見やると、凛はにこにこと笑っていた。何なら、()()()()()が起こる前よりも元気そうな笑顔だ。この一ヶ月で随分痩せ細ったようだけれど、これから部活に復帰して毎日学校の給食を食べるようになったら徐々に戻っていくだろう。

 ずっと見られていることが不思議なのか、凛はきょとんとした顔で首を傾げている。

 何か話を振らなければ、と焦った声は上ずっていた。


「最近、凛のお母さん……は、どうだ?」


 どこまで訊いていいものかわからず、曖昧な言い方になってしまう。「ああ」と凛は興味のなさそうな低い声を出した。しまった、話題を間違えたか。


「部屋からは出てこないけど、ドアの前にご飯置いておいたら勝手に食べてるみたい」

「そ、そうか。ちゃんと食ってるならよかった」

「あっ、いつもお惣菜、持ってきてくれてありがとう。すごく助かってる。この前のラザニア美味しかったよ」

「あー、あれ。あれは確かに、我が母の飯ながら美味かった、うん」


 今までどんな話をしていたっけ。何しろこうやって落ち着いて会話をするのは久しぶりのことなのだ。凛の少し後ろを歩きながら、大樹はテスト中のように頭を回転させる。


「いっぱい迷惑かけてごめんね」


 と、凛は申し訳なさそうに言った。おそらく深い意味はないのだろう。凛が申し訳なさそうにしているのはいつものことだ。


「迷惑なんてことねえよ」


 けど、と続けそうになって、上手い言い回しが思いつかず黙り込む。言いかけた言葉を飲み込んでしまったせいで、なんとも言えない微妙な間が生まれた。

 迷惑なんてこと、あるわけがない。自分は凛の親友なのだから。

 ただ――色々と大変だったのは確かだった。


 野河明佳が北校舎の空き教室で首を吊った日。どうして凛を家まで迎えに行かなかったのだろうと、大樹は今でも後悔している。あのとき自分から行動していたら、少なくとも凛のことは守れたかもしれなかったのに。


 凛は再び学校に来なくなった。全員参加が義務づけられていた明佳の告別式も、凛だけは不在だった。でも、きっと行かなくて良かったのだ。あの場には、明佳の自殺を凛のせいだとする空気が漂っていたのだから。


 どちらにせよ、明佳が死んだ直後の凛は家の外に出られるような精神状態ではなかった。同じように不登校だった小学生の頃だって、あんなに荒れていることはなかったと思う。


 部活が終わると、大樹は必ず凛の家に寄って学校の宿題やプリントを届けていた。一度家に帰ってから晩ご飯の残りをタッパーに詰めて持って行くこともあった。別に渡すものは何でもいい。ただ、凛が生きていることを確認したかった。

 凛は玄関にもほとんど出てこようとしなかったので、紙類は郵便受けに入れて、食べ物はドアノブに掛けていた。数日後に訪ねたときに、置いていったものがそのまま残っていたこともあった。


 インターホン越しに話しかけようとすると、この世の絶望を塗り固めたような金切り声が返ってきたり、何かが割れる音が響いたり、母親と言い合いをする罵声が聞こえてきたりするのだ。会話を成り立たせることも困難だった。


 ところが、ある日を境に凛は憑き物が落ちたようになり、急速に情緒が安定していったのだ。それから段々と会話が増えて、玄関にも顔を見せるようになった。何が原因なのかは今もわからない。

 そろそろ学校に通いたい。凛がそう言ったのは、先週月曜日の放課後に家を訪れたときのことだった。


「もうすぐ期末テストだよね」


 歩きながら、凛は大樹を振り返って言った。大多数の生徒にとって憂鬱なテストの話題とは思えないほど明るい声だ。


「だな。中間が終わったのなんか、ついこの間なのに。オレ数学が低くってさあ」


 何の気なしに返答してしまったが、凛が平坦な声で「中間……」と復唱してはっと気づく。中間テストが予定されていた日の翌日に野河明佳は自殺したのだった。

 ばくばくと心臓が早鐘を打ち、冷や汗が止まらなくなる。凛はどんな顔をしているだろうか。向こうを見るのが怖い。


「反比例までだよね?」

「はっ?」


 おそるおそる顔を上げる。凛は相変わらず感じの良い笑みを浮かべていた。


「期末の、数学の範囲」

「……そ、そうだったか?」

「大樹が持ってきてくれた範囲表に書いてあったよ。グラフを描く問題も出るのかなあ。休んでる間に問題集をいくつか解いていたんだけど、双曲線がうまく引けなくて」


 そういえばね、最近ハマっているアプリゲームがあるんだけど、大樹も好きだと思うんだよね。そんな風に話題は移り変わって、大樹はほっと胸を撫で下ろした。安堵はしたけれど、動悸は収まらなかった。


 大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら、大樹は凛の隣で一歩一歩を踏みしめた。凛はすっかり元気だし、空はこんなに晴れているし、心配することなんか何にもない。

 大丈夫だ。きっとまた、前みたいに戻れる。

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