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閉塞学級  作者: 成春リラ
10章 二十一グラムの秘密
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73話 二十一グラムの秘密①

 同級生の(ささ)(むら)(かな)()が脚の骨を折ったらしい。そんな突拍子もないニュースが飛び込んできたのは、秋も一段と深まって校庭の木々が色づいてきたある日の朝のことだった。

 湖に投げ込んだ石が波紋を広げるように、一年C組の教室がしんと静まりかえる。


「どうもどうも! 重傷者一名様がお通りでっす」


 唖然とする一同に向かって、星が流れそうなウインクを一つ。アルミ製の松葉杖を器用に使いこなし、軽快なステップを踏みながら教室に入ってくる様には一見深刻さの欠片もないが、学校指定ジャージの裾からは痛々しいギプスが覗いている。

 普段と変わりのないおちゃらけた笑顔を見せる奏斗を中心に、クラスの男子がぞろぞろと集まっていく。心配するような言葉を掛けつつ、実際は面白がっている者がほとんどのようだ。当の本人がこの態度では無理もないだろう。一方で、女子は「また笹村がやらかしてる」とばかりに遠巻きにしている人が大多数だった。


 ()(しば)()()()は他の女子と同様に、少し離れたところから彼らの様子をこっそりと眺めていた。野次馬に加わるかと思われた友達の()()も、奏斗の方を鬱陶しげに見やっただけだった。かと思えば、わざとらしいぐらいに深々と溜息をつく。


「最悪。今日の体育ドッヂなのに。またD組に負けちゃう」

「な、那由ちゃ……ちょっと、声大きいんじゃ」


 十和子が小声で耳打ちしても、那由は顔を背けようとする。胸の奥がズキンと痛んで、十和子はそれ以上何か言おうとするのを諦めた。


 ここのところの那由はずっとこの調子だった。いつも何かに苛々していて、些細なことで不平不満をこぼし、隙あらばクラスメイトの悪口を言う。十和子に対してもトゲのある口調になることが多いので、なんとなく話しかけづらくなってしまった。少し前までは温厚で大らかすぎるほどだったのに。

 発端はわかりきっている。()()一件に違いない。


 環が(たまき)那由の頭を資料集でぺちんと叩き「コラ、十和子に当たらない」とたしなめる。


「あんたさあ、最近何なの? そういうキャラじゃなかったじゃん」

「だって、奏斗だよ。昔から怪我なんてしょっちゅうだったし、気い遣っただけ損だって」


 眉をつり上げて言い返した後、「あいつは学校に来てるんだから、平気でしょ」と低い声で付け加える。含みのある言い方に環も察したのか、険しい顔で口をつぐんだ。


 三人が示し合わせたように一瞥したのは環の机の前だ。かれこれ一週間は空白になったまま、持ち主の現れない座席。机の中には大量のプリントと、動かされた形跡のない教科書が積まれている。

 文化祭当日に姿を消して以来、一度も登校していない(しい)(もと)遼の(はるか)机だった。


「ぜったい、指揮を放り出したのが気まずくて来られないんだよ」


 那由は声に憤りを滲ませている。自分が責められたわけでもないのに、十和子はぶるりと身震いをした。もしも遼が登校してきたら、那由はすぐにでも詰め寄って鬱憤を晴らそうとするに違いない。優しい人は、怒ると怖いのだ。


 課題曲の指揮者が本番直前で変更になったことが、合唱コンクールの結果に関係しているのかはわからない。十和子にはC組の皆が混乱していたようには思えないし、おそらく練習通りに歌えていた。でも、結局C組が学年賞にも引っかからなかったのは事実だ。パートリーダーとして毎日練習に励んでいた那由は、「万全の態勢だったら」と考えずにはいられないのだろう。


「みんなの気持ちも考えないで、ほんと最低。せっかく頼み込んだ智春がかわいそうだよ。本番前だってすごく不安そうだったし」

「でも……椎本さんってそんな人だったっけな」


 那由とは反対に、環は遼を庇うようなことを言った。いつもは陰口を叩いてすらいるのに。


「指揮やりたくなかったんなら、頼まれたときに断るでしょ、あの子。色々言いながらいつも智春にべったりだったし、本番だけ来ないなんて皆の反感買いそうなことするかねえ。なーんか変な感じがするんだよね」

「だって、実際来なかったじゃん! 何、環は擁護するの?」

「はあ? 別に擁護してないし。事情があったのかもねっつってんのよ」


 顔を突き合わせて言い合いを始めた二人に、十和子が口を挟む余裕などあるはずもない。口喧嘩を黙って眺めつつ、頭の半分では別の光景を思い浮かべていた。


 真っ黒な観客のざわめきと放送部のアナウンスに、音のない靴音が溶け込む。十和子の心音がどくどくとうるさく主張を始め、最高潮に達して、息も吸えなくなった辺りで彼女が指揮台に上がるのだ。

 体育館の白いステージライトを浴びる()()(たま)の黒髪。胸元で揺れるリボン。すらりと伸びた背筋。他の子たちより少し丈の長いスカートの裾と、まばゆい脚線美。生徒用のプラスチック製の指揮棒までも、あの子が持つと高級品みたいだ。

 背が低くて良かったと、十和子は心底思った。ソプラノパートの最前列からは、上下する睫毛の一本一本までよく見えていた。

 いつもは苦手な学校の体育館なのに、あの日はまるでコンサートホールのようで――


「――十和子なんて、鬼城(きじょう)さんが指揮やった方が嬉しかったんじゃないの?」


 思考を読まれたように突然話を振られて、十和子はハッと現実に引き戻された。会話の文脈を掴みかねて「えっ」と瞬きしていると、「十和子はそんなことないよね?」と那由の声が被さるように続く。

 那由のじっとりとした目と、環のニヤニヤ笑いに挟まれる。なんだか、答え方を間違えると後に響きそうな雰囲気だ。


「え……えっと…………えと……その」


 十和子は回転の遅い頭を必死で回して考えた。()()が目の前に立っていると顔が真っ赤になってしまってろくに歌えなかったのは事実だけれど、嬉しいとか楽しいとか感じている余裕もなかったような気がする。でも、真夜がステージの端から現れたときに幸福感と高揚感でいっぱいになったのは事実だった。

 そんな風に言ったら、那由ちゃんは嫌がるかな。

 すぐに何か答えないと、と焦っても、十和子が思いつく返答はますます那由を怒らせそうなものばかりだ。言葉は喉の奥の方でぐるぐると旋回するだけで形になってくれない。

 人の機嫌を損ねない、当たり障りのない穏当な一言で場をやり過ごすには、一体どうしたらよいのだろう。


「お、噂をすれば」と環が面白がるように声を上げた。心臓がとくんと音を立てる。


 登校してきたばかりであるらしい真夜が、丁度自分の席に座ったところだった。流麗な動作で鞄から教科書や筆箱を取り出し、黙々と一限目の準備をしている。大騒ぎしている奏斗たちにはまるで目もくれない。


「とりあえずあんた、鬼城さんに嫌味言うのは絶対やめなよ。むしろ感謝しないとでしょ」

「そ、それぐらいわかってるよ……」


 二人の会話はもう耳に入らなかった。十和子は真夜の背中をぼうっと見つめながら、指揮をする彼女の姿を再び脳内で上映し始める。タクトを操る細い指先が、機械的にノートを捲る手に重なっていく。

 真夜ちゃんはやっぱり、みんなと違ってどんなときも落ち着いているなあ。


 ノートに目を落としていた真夜が、ふいに顔を上げた。背中に真っ直ぐ垂らされた長い髪が静かに揺れる。とくとくと小刻みに素早く脈打っていた心臓が、一際大きく躍った。


 振り返ったのだ。いつも前だけ見つめているあの子が。

 しかも、十和子の方に向かって。

 一瞬、ほんの一瞬だけ、真夜と十和子の視線が交差した。


「はいはい、皆さん、席に着いてくださいね」


 担任の()()先生が足早に十和子の視界を遮る。先生が通り過ぎた後にはもう、真夜は前を向いていた。乱れた心音はゆっくりと元のペースを取り戻していく。


 多分――ううん、間違いなく気のせい、だけど。

 たとえ白昼夢だとしても、もっと見ていたい夢だった。





 日野先生が出欠を採る抑揚のない声が教室に響いている。決して暗くはないのに、聞いていると段々不安になってくる声だ。最近の先生は出欠確認の時間も苗字しか呼ばなくなった。以前は「朝ぐらいしか、下の名前を言う機会はないですからね」と微笑んで、どんなに時間がないときでも必ずフルネームで呼んでくれていたのに。


 笹村さん、という淡々とした声に、怪我人の奏斗が松葉杖を持ち上げて「へいへーい」と適当な返事をする。注意の一言はない。

 名簿を指で追っていた日野先生は、数秒考え込むように黙った後、「……(そめ)(びし)さん」と続けた。だらしなく椅子にもたれかかっていた(そめ)(びし)(はや)()がびっくりしたように姿勢を正して「は、はい!」と答える。


 あ、飛ばした――と、おそらく教室にいた全員が気づいた。


 十和子は左隣の席をそっと盗み見た。未だに机と椅子が残されたままの、()(がわ)(めい)()の席。彼女の名前は、告別式の次の日にはもう呼ばれなくなっていた。明佳と同時に学校に来なくなった()()(やま)(りん)は、確か二週目に入った頃からだ。


 穏やかで和気藹々としたクラスだったはずなのに、いつの間にか人が少なくなっている。那由がいらいらしているのも、教室の雰囲気が薄暗いのも、根本の原因はこれかもしれない。とは言っても、どうしてC組の生徒ばかりがこうも立て続けに減っているのかまでは十和子にもわからないのだが。

 ブレザーとシャツに包まれた十和子の腕に、ぞわりと鳥肌が立つ。なんだかすごく変だ。朝起きたら喉が痛かった、みたいな異物感がある。


 出欠確認が終わって日野先生が名簿を閉じた途端、間隙に滑り込むように話題の口火を切ったのは十和子の左隣に座っている生徒だった。


「椎本さん、最近ずっと休みですよね」


 椅子を引きずる音だけが響いている朝の教室で、声は妙に大きく聞こえた。


「体調不良ですか? インフルエンザなんかは、まだ流行っていないですけど」


 存在感のある明朗な声音で、クラス委員の(あみ)()(れい)()はそう言った。文化祭以降、クラスで遼についての様々な憶測が流れていても「まだ何もわからないだろ」と笑っていた玲矢だったが、とうとう全員の前で尋ねることにしたようだ。


「……椎本さんは風邪をこじらせていて、しばらくお休みするそうです」


 あらかじめこう言うと決めていたのだろう。日野先生は感情の薄い声で答えた。


「えーっ、ただの風邪にしては長いでしょ」と、甲高い声で玲矢に追従したのは(やな)()()()だ。遼の話が公になることを今か今かと待ちわびていたのかもしれない。十和子は思わず身を(すく)ませた。


「椎本さんが来るまで、机退けといてよくないですか?」


 千紗の一言を皮切りに、教室はにわかに色めき立つ。


 何かと波風を立てる発言が多い千紗も、以前は先生やクラスメイト全員の前でここまではっきりと悪意のある言葉を発することはなかった。ここC組において、和を乱す言動は基本的に煙たがられるからだ。空気が変わったのは、やはり文化祭がきっかけだろう。


 十和子と同じ吹奏楽部に所属している()()(まき)()(はる)の方へちらりと視線を向ける。同学年の間でも次期部長候補と名高い優等生のあの子は十和子の左斜め前に座っていて、ここからでも横顔が見えた。

 遼の友達であるはずなのに、智春は何も言わない。唇をかたく結び、思い詰めたような表情でじっと俯いている。合唱コンクール以降の彼女はすっかりこの調子だった。那由から聞きかじった話によると、智春も遼が学校に来ない理由は知らないのだと言う。

 誰にでも分け隔てなく親切に接し、クラスを先頭で引っ張るリーダーだった智春の背中が、今は随分と小さく感じられた。元々友達の多い子だったとはいえ、一番仲の良かった遼と明佳がクラスにいないのだ。きっと心細いのだろう。

 十和子だって、もし那由がいなくなったらどうなるか――


「せんせえー、うちも柳井さんに賛成です」

「使わない机はまとめて教室の後ろに置いておけばいいと思いまあす」


 千紗の友達が調子を合わせるように次々と声を上げる。智春に元気がない今、このクラスの女子で最も発言力があるのは千紗のグループだった。


「そんな寂しいことを言わないでください」と先生は疲れたように苦笑した。

「まだ一週間しか経っていませんよ。心配しなくても、椎本さんはすぐ帰ってきますから」


 目の前にいる生徒ではなく、自分に言い聞かせるような口調だ。

 十和子はそのときになって初めて、日野先生の目元に化粧で隠しきれない隈があることに気づいた。入学式の頃には常にぴっしりとアイロンがかかっていたジャケットも、糸がほつれてよれよれになっている。明佳の一件以降ずっと体調が悪そうではあったが、最近になってさらに悪化したようだ。あまり眠れていないのだろうか。


「うーん、確かにそうですね!」


 と、千紗は場違いに明るい声で答えた。

 周りの生徒は見るからに拍子抜けしていた。存外早く引き下がったものだ。日野先生も不思議そうに目をぱちくりさせている。

 だが、千紗の攻撃はこれで終わりではなかった。


「じゃあ、()()()来てない人たちの机は下げていいですか?」


 毒をはらんだ声に怖気が走る。

 ああ、違う。本命はこっちの方なんだ。


「特に、野河さんは()()()()()()()()でしょう? 未だに机の上にお花置いてありますけど、あれ机運ぶとき邪魔なんですよね。誰が水入れ替えてるのか知らないですけどお」


 智春がびくんと肩を強張らせた。花瓶の水を毎日替えているのは智春だ。千紗もわかった上で言っているのだろう。

 他の生徒が千紗の意見に賛成なのか、反対なのかは定かではないが、クラスのざわめきは彼女に煽られてますます大きくなっていく。


「千葉山くんだって、もしかしたら戻らないかもしれないし――」


 ガラリ。


 愉しげな千紗の声を断ち切るように、教室の後ろのドアが開く音がした。


 先生を含むC組一同の視線が一点に集中する。十和子も釣られて後ろを向いた。

 出入り口から遠慮がちに顔を覗かせたのは男子生徒だった。確か、堤大樹(つつみひろき)という子だ。そういえば、先ほどの出欠確認のときにも返事がなかった。どうやら遅刻だったらしい。


「……すみません、遅刻しました」


 大樹は半分怯えたような低い声で言った。教室の異様な空気から、入るタイミングを間違えたことに気づいたらしい。それでも、眉をキッと上げて大股歩きで教室へ入ってくる。

「あ」と、入り口付近にいた生徒が間の抜けた声を出して、すぐに目を伏せた。


 廊下から差し込む日光を遮りながらも、背の低い大樹の後ろに隠れるように。一ヶ月ぶりに一年C組の教室に姿を見せた千葉山凛は、貼り付けたような笑みを口元に浮かべていた。

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