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閉塞学級  作者: 成春リラ
9章 私のかわいい生徒たち
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72話 出席番号十三番

 行儀悪く椅子に寄りかかっていてもなお、稜子より若干目線の位置が高いその女子生徒は、万物に対して興味のなさそうな声で繰り返した。


「だから、来ません」

「き、きき、来ませんって……どういうことですか?」


 目の前の席から軽い舌打ちの音が聞こえてくる。三者面談最終日の最後に一人で教室に現れた少女――(しい)(もと)(はるか)は二度も同じ台詞で聞き返されて鬱陶しくなったのか、じろりと稜子を見据えてきた。野生の肉食動物じみた険のある目つきに自分の生徒であることも忘れて肩を跳ね上げると、当の遼は疲れたように溜息をつく。


「親のことですよね? 来ませんよ。紙渡してないんだから」

「紙――あっ、面談の日程確認票? えっ、でも、ここにお母さんのお名前が」


 遼の提出してきた紙切れをがさごそと取り出して凝視すると、保護者名の欄に記されている名前は確かに遼の筆跡だった。どうして集めたときにちゃんと確認しなかったのだろう。稜子は遼を恨みがましい目で見つめた。


「ま、まさかとは思いますが、最終日以外全部バツで指定してきたのも、別日に変えられないようにするためですか⁉」

「何でもいいでしょ。早く始めてください」

「あのですね、椎本さん。三者面談は生徒さんと親御さんと担任の三人で行うことに意義があるんですよ。成績表も性格検査の結果も、私の前で一緒に見てもらわないと困るんです。もちろん他の生徒の皆さんもそうしています。ですから……」


 稜子の必死の訴えに遼はまるで耳を貸さない。無駄な応酬を重ねている間にも貴重な時間は刻々と過ぎていく。後日振り替えてくださいと引き下がることもできたが、何よりも稜子自身が面談の延長を申し出たくなかった。たった今遼に対してつらつらと並べ立てた「三者面談の意義」にも自分で頭をひねってしまうほどだ。


 なんと言っても最終日である。今日さえ乗り越えたらつらく苦しい面談対応も一旦は終わり、愛おしい日常が戻ってくるはずなのだ。稜子が教師としての義務感と目先の解放の狭間で揺れている間も、遼はつまらなそうにあくびをしている。


 逡巡の末、稜子は無言で椅子に腰を下ろして資料を机の上に出した。


 どう見ても一対一になってしまった遼の三者面談は、始まってからは円滑に進んだ。思えば今までも、話を遮ったり終了間際に新たな話題を出したりしてきたのは大体が親の方だった。二学期の個人面談はもう少し心穏やかに行えるかもしれない。


 遼は片肘をついたまま黙って夏休みの宿題の説明を聞いている。憂いを帯びた伏し目がちの顔を見ながら、どうしてこの子は親を呼びたがらなかったのだろう、と稜子は思いを馳せた。


 クラス委員の小田巻智春が常にそばにいるからか、普段は教師に逆らうような子ではない。怠惰で面倒くさがりな性格に見えて宿題はきちんと提出しているし、生徒指導室に呼び出されるような問題を起こすこともない。部活動の朝練にも毎回必ず参加しているようだ。授業中居眠りをすることが多いのは玉に(きず)だが。


 遼が指示に従わなかったのはおそらく今回が初めてだろう。よほど母親と仲が悪いのか、学校に来てほしくない理由があるのか。忙しい親に気を遣っている可能性もある。パソコンの画面に映し出された生徒情報を頭に浮かべて、遼の家は母子家庭だったなと思い出した。


 幾度読み上げたのかも覚えていない、夏休みの宿題表。稜子が視線を投げかけても聞いていますよと言いたげに無言で相槌を打つばかりだった遼が、初めて声に出して反応を返した。


「将来の夢……」


 もはや頷きながら寝ているのではないかと心配になっていた稜子は息を呑み、机に身を乗り出して「そう、将来の夢」と大仰に復唱した。ゴシック体で打ち込まれた「将来の夢」の上に立てた人差し指をくるくると回し、遼は考え込むように眉間にしわを寄せた。


「なりたいものとか、そういうのですよね」

「そうですね。だいたい皆さん、職業名や尊敬する人の名前などを挙げています」

「私、書けません」


 前触れなく飛んできたシンプルな拒絶に、稜子の思考が止まる。


「か、書けない? どうしてそんな、また」

「わざわざ紙に書くようなことじゃないからです」


 吐き捨てるような口調にはっきりとした意思が宿っている。それ以上説明するつもりはないらしく、遼は稜子から目を背けて窓の方を向いた。将来の夢に対して何のこだわりがあるのかは知らないが、とにかく提出してもらわなければ困るのだ。


「書きたくないことは書かなくてもいいんですよ? なりたいものは複数あってもおかしくないですし。ああ、別に『なりたいもの』ではなくても大丈夫です。『やりたいこと』とか『見てみたいもの』とか。『行きたいところ』でもいいかもしれませんね」


 県教委のご機嫌を伺うために出している宿題なので、枚数規定を守って真面目に原稿用紙を埋めてもらえたら何を書いていたって気にしないという本音は飲み込んで、稜子は説得を試みた。煩わしそうに稜子の話を聞いていた遼の険しい目元が、ほんの少しだけ和らぐ。


「行きたいところ、ですか」

「ええ、はい。椎本さんは何かありますか? 先生はですね、長いお休みがあったら沖縄に行ってみたいですね。美ら海水族館のジンベエザメが見たくて……」

「……ル」

「海外だったら、パリのルーヴル美術館かな。まあ、旅行に行くような長いお休みなんてあるわけないんですけど……えっ、あれ? 今何か言いました?」


 目的を忘れて自分が話すことに夢中になっていた稜子は、ほとんど囁くようなつぶやきを聞き逃してしまった。呆れたようにまた舌打ちをして、遼は先ほどよりも声を張った。


「ブラジル」


 少し間を置いて、「に、行きたいかも」と続く。なんだか予想外のチョイスだ。作文の話を長々とするつもりはなかったのだが、突っ込んで聞いてみたくなった。


「リオのカーニバルでも見に行くんですか?」

「何ですかそれ。観光はどうでもいいです」


 微妙に会話の糸口をつかめない。観光目的ではないのなら、何のためにそこまで遠出したいのだろう。物わかりの悪い大人に痺れを切らしたのか、話したくなったのかはわからないが、遼は独り言のように補足した。


「智春が――小田巻さんが、地球の反対側はブラジルだって言ってたんです」


 取るに足らない一言が、心臓の奥深くに突き刺さった。

 稜子の口元が笑みを浮かべた状態で固まる。


 古びた時計の秒針の音も、蝉の喧騒も、生徒の声もかき消えて、辺りは静寂に包まれる。代わりに聞こえてきたのは、どくん、どくんと一定のリズムを刻む自分の心音だった。心音を追いかけるように、輪唱するかのように、()()()()()()()。白いノートの上でシャーペンを動かす音、息を吹き込んだ楽器から鳴り響くピッチの外れた音、チャンネルを変えられないテレビで流れているコメンテーターの笑い声、他人に向けられる賞賛の声、期待の声、失望の声、()()()()()()()()――


「日野先生?」


 視界がぱっと晴れたように明るくなって、教室の風景が元に戻る。遼は怪訝そうに眉をひそめて稜子のことを見ていた。


「ああ、すみません、ちょっと考え事をしていました。それと、椎本さん。日本の裏側がブラジルというのはデマです。本当は、海があるだけなんですよ」

「は? あいつ……」


 嫌悪感を露わにした遼は深々と息を吐いた。


「じゃあもう、イタリアでもオーストラリアでもどこでもいいです。遠くだったら」

「それなら、英語を真面目に勉強しなければなりませんね。海外に行くのであれば当然です。椎本さんの成績だと、まだまだ難しいかと思われますが」


 意地悪く微笑みながら一学期の通知表を開いて見せつける。遼はますます鬱陶しげな顔つきになって、すみませんやっぱ今のなしで、と早口でまくし立てた。





 一つのことに対して熱意も興味も続かない子だと、周りからしきりに言われてきた。


 中学はソフトテニス部、高校は吹奏楽部、大学はボランティアサークル。どれ一つとして面白さを理解することができないまま引退してしまった。楽しくなかったわけでもひどく苦しんでいたわけでもない。活動に取り組んでいる間はきっと満たされていたのだろう。


 けれど、隣にいる仲間が夢中になっている顔を見るたびに思うのだ。私は多分、みんなと同じ分だけは入り込めていない。感情を分かち合えていない。常に頭の斜め上の辺りから自分を俯瞰して、観察することでしか「充実」を認識することができないのだと。


 友達は多かった。彼氏がいたこともあった。一般的な家庭に生まれた人間が()()に生きていたら()()に経験するような友情や恋は一通り触れてきた。なのに、やっぱりどれも続かない。誰かと話しているときには別の誰かのことを考えているのに、その「別の誰か」に会うと今度は最初の「誰か」について考えている。


 私の居場所はここではないのだと、常に頭の隅で考え続けていた。


 兄は私とは正反対の人間だ。趣味の話を始めると相手に止められるまでずっと続けるし、読書やゲームを始めたら話しかけても返事をしないぐらい集中する。妹の私どころか人間全般に対して興味を示さない兄のことを、私はずっと見下していた。


 両親も、人付き合いの悪い兄より私を贔屓していた。兄は小学生の頃から理系科目に秀でていて、私はどれをとっても今ひとつぱっとしなかったのに、親は私の人当たりの良さをしきりに褒めるのだ。何か一つだけができる人より、満遍なくほどほどに上手くやれる人が最終的に幸せになれるのよ。そんな風に言い聞かせながら。


 ほどほどに、は両親の口癖だ。ほどほどに生活して、ほどほどに働いて、ほどほどに幸せな人生を送るのが安心安全。だから、稜子みたいに生きるのが一番正しいの。そう言われ続けてきたから、私は正しいのだろうと思っていた。世界の幸福を世界人口で割ったら、私が味わっているぐらいの幸せになるんだろうと、根拠もなく信じていた。


 疑問を抱き始めたのは、中学校に進学した頃だったろうか。


「稜子ちゃんってさ、いっつもつまんなそうだよね」


 本当はぜんぜん、楽しくなんかないでしょ。他に好きなものないの? もっと笑おうよ。


 何を言われているのだろうと思った。平均的な幸福に勝るものなんてないはずで、私はどう考えても幸福を享受している側の人間だ。お母さんやお父さんが私を幸せな子どもだというのだから、「楽しくない」ことなんてあるわけがなかった。


 複数の人間から似たようなことを言われて初めて、もしかすると両親の言う「ほどほど」は大して適切でも幸せでもないのかもしれないと私は気づいた。


 気づいた途端に、そのときまで何とも思っていなかったものの全てが息苦しくなった。お小遣いの額が人より少ないこと。勉強を頑張ってテストで良い点を取っても褒められないこと。かわいい服や帽子を買ってもらえないこと。休日の外出がなかなか許されないこと。見たいテレビ番組を見られないこと。そもそも見たい番組というものが存在しないこと。


 当たり前のように暮らしていた紅黄市という町のことも、私は鉄格子の檻のようだと感じていた。駅前の商店街は何年経っても代わり映えがしなくて、いつ見ても同じ人が同じものを売っている。近所のおじさんやおばさんは、どこの家の息子がどこの大学に行ったとかあそこの家の夫婦が離婚したとかいう話を延々としている。給食のメニューも、バスの時刻表も、夏に行われるお祭りのプログラムも変わらない。誰も変えようと思わない――

 なんて矮小で醜くてつまらない世界だろう。


 つまらない世界。つまらない町。つまらない学校。つまらない家族。つまらない私。

 ()()()()()()()()()に行けば、変えられるのだろうか。


 高校まで紅黄市から出ようとしなかった私が都内の大学を受験することを、両親は猛反対した。兄は中学から全寮制の学校に入っていてとっくに家にはいなかったというのに。兄より私が可愛がられているという自意識も、結局は虚構だったのだろう。


 私の居場所はここではない。私の欲しいものはここにはない。駅から電車に飛び乗って、新幹線に乗って、ずっと遠くにある今より広くて綺麗な世界に一人で辿り着いたら、私の何かが変わるはず。違う私になれるはず。


 期待に胸を高鳴らせて脇目も振らず紅黄市から逃げ出したことは、おそらく正しかったのだと思う。両親の庇護下を離れて、私は自由を手に入れた。選択すること、失敗を恐れないこと、一人で生きていくことの難しさを知った。


 けれど、それ以上に思い知ったのが――狭くて小さな世界の外には、また別の狭くて小さな世界があったということだ。


 私の信じる「ここではないどこか」はどこにもなかった。私が今立っている場所がいつだって「ここ」になるというだけで、「ここ」は見通せないほど遥か彼方まで続いていた。


 居場所はどこか遠い世界にあるという幻想から覚めて、ただ闇雲に走ることをやめたとき、私はなりたい自分を見つけたのだ。





 遼の面談を終えて職員室に戻ると、「三者面談帰りですか?」と冷やかすような声を浴びた。一年C組の副担任を務めている前田先生だ。どうやら稜子を待ち受けていたらしい。見慣れた優しい先輩教員の顔に涙腺が緩みそうになる。


「日野先生は初めての三者面談でしたよね。どうでしたか? なかなか疲れたでしょう」

「はい。ようやく肩の荷が下りました」


 稜子の正直な感想に前田先生はくすりと笑い、「今日はゆっくりできるといいですね」と離れていく。自分の机に面談の資料をどさりと置くと、本当に憑き物が落ちたような気持ちになった。ちょうど一番上に重ねられていた夏休みの宿題のリストが目に入って、稜子は一年C組の顔触れを思い出す。


 この五日間、理解しているつもりだった生徒たちの知らない表情をいくつも見てきた。


 稜子の目からは見えないだけで、まだまだ数え切れないほどあるのだろう。彼らの卒業を見届けるまでに全てを知ることはかなわないかもしれない。それでも、担任にできる限りのことはしてやりたいと思う。


 自分は今、「夢」を叶えてここにいるのだから。


 中学生のときの稜子は、「将来の夢は何?」という質問が嫌いだった。

 お母さん。ケーキ屋さん。服屋さん。ニュースキャスター。看護師。編集者。なぜそう口にしたのかはすっかり忘れてしまったけれど、どれ一つとして本気でなりたいと思ってはいなかった。訊かれることさえ馬鹿らしいと感じていた。中学生のときに抱いていた夢なんて、稜子にとってはその程度のものでしかなかったのだ。


 だけど、見つけることができた。自分にとっての天職。私が夢中になれるもの。

 中学校教諭という職を選んだこと、その結果嫌いだった小さな世界に帰ってきたことを、稜子は一つも後悔していない。

 私のかわいい生徒たちも、いつか見つけられますように。そう強く願う。


「日野先生、二学期からの転入生についてお尋ねしたいことが」

「あ、はい。今伺います」


 稜子は慌てて自分の席を立った。職員室のエアコンから吹き出す風が、机の上に置かれた夏休みの宿題表を引っくり返す。茹だるような長い夏が始まろうとしていた。

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