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閉塞学級  作者: 成春リラ
9章 私のかわいい生徒たち
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71話 出席番号二十三番

 ねえ、せんせい。今日はわたしのこと、できるだけいっぱい褒めてね。嘘でもいいから。

 うんと背伸びをした少女のささやきが、初夏の風のように耳を掠める。上靴の踵を鳴らして離れていくと、彼女は唇に人差し指を当ててそっと微笑んだ。





 ひょろりとした長身を縮こませ、メタルフレームの眼鏡の奥で遠慮がちに目を細める仕草にどことなく見覚えがあるような気がする。この子の父親とは初対面のはずなのに。稜子の視線も意に介さず、父親は「すごいなあ」と感嘆の溜息をもらした。


「僕が中学生の頃より、ずっと宿題の量が多いんですね。問題集だけでもこんなにあるのに、作文が三つも……(めい)()は全部自分でできる? パパが手伝わなくて大丈夫かな」

「もう、パパってば! 作文くらい一人で書けるよぉ」


 椅子にちょこんと腰掛けた生徒――()(がわ)(めい)()は、背の高い父親の横顔を上目遣いで見つめていた。隣に座っていることが嬉しくてたまらないのか、机の下でつま先を上げたり下げたりしているのが見える。


「ねえパパ、宿題が早く終わったらどこかに連れてってくれる? ナイトプールとか」

「ははは、そうだねえ。(めい)()がもう少し大きくなったら、四人で行こうか」


 やんわりとお預けを食らったようなものなのに、明佳はまったく機嫌を損ねた様子もなく「はあい」と愛想の良い笑顔を返した。手まりがぽんと跳ねるみたいに声が弾んでいる。


 明奈、という明佳によく似た名前の子が、去年の冬に生まれたばかりの野河家の次女であることは、つい先ほど父親から直接聞いた。今日の面談は本来明佳の母親が来るはずで、父親は家で明奈の面倒を見る予定だったらしい。ところが、家を出る直前に明奈が大泣きで暴れ始めてしまい、見かねた母親が交代を提案したのだとか。


「たまには明佳の方に行ったらいい、どうせあなたに明奈の面倒は見きれないんだからと、そう言って追い出されてしまいました」


 ひどく恥じ入ったように事の次第を語る父親にべったりと引っついて、明佳はにこにこと笑っていた。一見いつもと変わりない笑顔の中に他意があるように感じられて、稜子はなんとなく気もそぞろになる。年頃の女の子が実の父親に向ける表情だろうか、これは。


 明佳が父親のことを大層好いているというのは稜子にも伝わっている話で、本人も隠しているつもりはないようだ。美術科の中嶋先生など、「野河さんは絵を賞に出すことすらお父さんに褒めてもらうためだと公言しているんですよ!」と憤慨していた覚えがある。


 どうにも気まずいものがあった。思春期の女の子は父親と洗濯物を分けたがるのが「普通」である――とまでは言えないが、こうして二人揃っているところを目の当たりにすると違和感を覚えてしまう。父親が明佳に対して幼い子をあやすような口調になることも気にかかった。だが、よその家庭の人間関係にまで口を出せることがあろうか。たとえ担任という立場であったとしても。


 親子仲が良いのは大変結構なことだ、と稜子は自分を納得させた。気を取り直して意識を宿題の説明に向ける。ええと、どこまで話したっけ。


「……ああ、はい、作文の三つ目は将来の夢について、ですね。こちらは県で募集されているものになりますので、規定をしっかり守ってください」


 将来の夢、という単語に先に反応したのは父親の方だった。


「懐かしいですね、『夢』って。僕も書かされた思い出があります」

「私も書きましたねえ。卒業生の話によると、一年生には数年前から毎年同じ題目が出されているみたいです。作文のテーマとしては鉄板なんでしょうね」


 腑に落ちた顔で父親は頷く。そういえば、と思い出したように娘と目線の高さを合わせて「明佳の将来の夢ってなんだったっけ?」と話を振った。


「やっぱり明佳は絵が上手いし、絵描きさんとかかなあ。それとも漫画家さん?」

「めーかの将来の夢? うーん、めーかはね……」


 少し考え込むように視線を彷徨わせると、明佳は満面の笑みで言った。


「――かわいいお嫁さん、かな!」


 どきりとして言葉を失う。背筋が粟立つのを感じて、稜子は思わず腕を押さえた。まさか、「パパと結婚したい」とでも言い出すのではないだろうな。


「お……お嫁さんにも色々ありますし、えっと、その、具体的に書いてくださいね」


 咄嗟に定型句を並べたはいいものの、そこから先をどう続けたらよいのかわからない。稜子はつい「お父様はどう思われます?」と助け舟を求めてしまった。明佳の父親は意外そうにぱちぱちと瞬きをする。


「どう、とは?」

「ええと、親御さんとしては、寂しいなあとか、嫌だなあとか思うんでしょうか」


 口にした途端にしまった、と思った。完全に訊き方を間違えている。

 ところが、稜子の的外れな問いにも父親は全く動じなかった。


「あはは、それは、僕が父親だからそういう質問をするんですよね?」

「……申し訳ありません」

「本当に明佳が家からいなくなったら、それは寂しいだろうとは思いますけど。でも、僕は明佳が幸せならどんな形であれ嬉しいですよ」


 この子の夢は何だって叶えてあげたいって、僕は思います。目元からずり落ちた眼鏡をかけ直して、明佳の父親は優しげな笑顔を見せた。





 野河明佳の面談は予定よりも早く終わった。自然と早く終わったのではなく、稜子が時計を見て早めに切り上げたのだ。二人からは何も指摘されなかった。父親のシャツの袖口をつまんで教室から出て行こうとする明佳を小声で呼び止める。


「お話があるので、もう少しだけ残ってください」


 訝しむような素振りも見せず、明佳は跳ねるように席へ戻ってくる。彼女は初めから気づいていたのかもしれない。この面談に続きがあるということに。


 稜子が机の中から取りだしたものを見るなり、明佳はきらりと目を輝かせた。


「あっ、めーかが描いたポスター!」


 え、と稜子が固まっている隙に手の中のポスターがぴらりと奪い取られる。こちらから問いただすまでもなく自己申告されるとは思っていなかった。


「掲示板から剥がされちゃってたから、どこ行ったのかなあと思ってたの。りょうちゃんが見つけてくれたの? ありがとうねぇ」


 明佳のあまりの純真さに額を押さえて閉口する。稜子が剥がしてきたのだとは思いもよらないらしい。実際、南校舎の掲示板に貼ってあったこちらのポスターを発見し、職員室に持ち込んだのは生徒指導の福元先生だったのだが。


 カラフルな手描きの装飾が施されたA4サイズのコピー用紙に、エメラルドグリーンの文字で「飛び込み部」と書かれている。タイトルに続けて「紅黄中学校部活動」「興味のある方は一年E組の教室まで」と記述されている以外に、「飛び込み部」とやらのの詳細は載っていない。文字の周りに描かれたイラストと丸っこい筆跡に心当たりがあったので持ってきてみたらいきなりビンゴだった、ということだ。


「ね、ね、めーかの絵かわいいでしょ? おうちで頑張って描いたんだよ」


 明佳は餌を待つ雛鳥のような目で稜子の顔を見つめてくる。褒められると思ったらしい無垢な期待を裏切ることに罪悪感が芽生えたが、いやいやとかぶりを振った。机の上で両手を揃えて「野河さん、ひとまず三つ言いたいことがあります」と大真面目な声を出す。


「うん?」

「一つ、部活の勧誘に関してですが、ポスターを貼ったりチラシを配ったりという不特定多数へ向けた活動をしていいのは、四月の一定期間と決まっています」


 明佳は「あれれ、そうなんですかぁ?」と首を傾げた。正確に言うと規則があるわけではなく、勧誘活動の激化による他の部との衝突を避けるべく慣例でそうなっているというだけなのだが、説明は割愛する。


「二つ、校内の掲示板にポスターを貼る際には、どんな目的であっても生徒会の承認印が必要です。勝手に貼ったら今回のように剥がされます」

「えーっ、そんなあ。掲示板くらいみんなで自由に使ってもよくないですか?」

「よくないから問題になっているんですよ。校内掲示板は学校や外部の施設からのお知らせを貼るところです。生徒の皆さんが好きに使ってしまったら、大切な情報が埋もれて伝わらなくなってしまうでしょう」


 そして三つ、と稜子は三本指を突きつける。


「紅黄中に、飛び込み部なんて部活はありません!」

「あります!」

「プールは使えない、顧問はいない、部活として登録されてもいないのに、どうしてそう言えるんですか?」

「わたしが部員だからです!」


 間髪入れず言い返されて、稜子と明佳の間に沈黙が流れる。

 明佳の目つきは至極真剣だった。とても冗談を言っているようには見えない。紅黄中には飛び込み部が存在していて、自分は飛び込み部の部員であると、明佳は本当に信じているのだ。一体何のごっこ遊びをしているつもりなのだろう。


 稜子は深く息を吐いて、「ともかく、ポスターはだめです」と念押しした。


「せっかく野河さんが作ったポスターなんですから、貼ってもいいところに貼ってください。校内は禁止です。今回はたまたま剥がされただけでしたが、次は捨てられますよ」


 明佳はしばらく釈然としない顔で無言を貫いていたが、「学校の中に貼らなければいいんだよね?」という言葉と共に首肯した。納得してくれたのだと思いたい。


 明佳の言う「飛び込み部」が何なのかはついぞわからなかったが、稜子はそれ以上追及しなかった。生徒の個人的な趣味にあまり突っ込むのも良くないだろう。


「あの、先生。わたしからも一つ、いいですか?」


 柔らかな声に引き寄せられるように顔を上げた。向かいに座る少女は、相も変わらずふわりとした微笑みを浮かべている。稜子は無言で発言を促した。


「将来の夢、やっぱり違うのにしてもいいですか」


 可愛らしくおねだりをするように、明佳は両手の指の腹を合わせる。


「さっきはお嫁さんって言ったんですけど、やっぱり違うのにしようかなぁって。まだ書いてないし、いいですよね? だめですか?」

「はあ、そういうことですか」


 どういう風の吹き回しだろう。つい先ほど父親の横であんなに顔をほころばせて宣言したばかりだというのに。しばし考えてから、稜子は慎重に言葉を選んで答えた。


「作文の内容のことでしたら、面談で言った通りにしても、しなくても大丈夫ですよ。自由に変えてもらって構いません」

「よかったぁ。パパが言ってたみたいに、絵描きさんとか、絵本作家さんとかいいかも。わたし、ご飯作るのも好きだから、料理人さんもありだなあ」

「これから、も」


 指折り数えていた明佳の手が止まる。大人としてのお節介から言いかけた言葉にブレーキがかかったが、勢い余って最後まで吐き出してしまった。


「これからも、なりたいものは自由に変えていっていいんですよ。夢を見ることは、誰にだって許されています」


 あれは、三者面談が始まる直前のことだった。

 父親に先んじて教室に入ってきた明佳は、背伸びをして稜子の耳元に口を寄せると、誰にも聞こえないようにお願いを囁いたのだ。そのとき稜子が答える時間はなかった。


「嘘なんて吐かなくても、野河さんには良いところがいっぱいあるんですから」


 明佳の表情から一瞬、すべての感情の色が抜け落ちたように見えたのは気のせいだったのだろうか。二度瞬きをして目を開くと、明佳は甘い笑顔を取り戻していた。

 触れたら消えそうな、ホイップクリームのような声で少女は笑う。


 ありがとう。せんせいは、優しいね。

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