70話 出席番号一番
「えっ、私は玲矢の方と聞いていたのですが……」と開口一番に言い出したのは、いかにも役所の人間といった風貌の清潔感のある男性だった。ぱっと目立つ顔立ちではないが、白い歯を見せて紳士服の広告にでも載っていそうな爽やかさがある。
「玲矢くんの面談は、既に奥様と行いましたが……何もお聞きになっていませんか?」
「えー、えー……あー、すみません、何か行き違いがあったようです」
物腰は柔らかでありながらも、語調にいまいましさのようなものが滲んでいる。稜子は昨日の玲矢の「父さんはまた一本取られた」という発言を思い返した。
「別々の日にとのご希望だったのでそのように調整したのですが、同日に続けて予定を組むことも可能ですので、ご遠慮なくお申し付けください」
「ああ、はい、そうですね、二度手間ですからね。次回からはそうします」
へらりとした笑みからは真意が読み取れない。
父親の隣の席であふ、と小さくあくびをした網瀬心良は、眠そうに両手で目をこすると一点を見つめたまま動かなくなる。彼には帰りの会の後、席に座らせて待ってもらっていたのだが、その間微動だにすることはなかった。今のが初めてのモーションだ。
なんとも言えない微妙な空気が立ちこめる中、「では、面談を始めさせていただきます」と稜子は重々しく切り出した。問題はここからだ。
「まずはこちら、心良くんの期末試験の答案用紙になりますが」
心良の父親は早くも訝しげな顔をした。
「え、三者面談ってそんなものまで見せられるんですか?」
「いえ、これはその、心良くんだけの特例です。ともかくご覧ください」
主要五教科、実技四教科の順に答案用紙のコピーを置いていく。机の上にずらりと並んだ試験の結果を見るなり、父親は驚いたように目を剥いた。
解答記入欄がすべて空白なのである。すべてというのは比喩でも何でもない。文字通りの白紙解答だ。教科によっては名前すら書かれていないものもあった。試験監督の話によると、心良は試験が始まってからの五十分間、鉛筆を机の上に置いたまま虚空を見つめたりすやすやと眠ったりしているらしい。隣に立って注意をしてもお構いなしだとか。
「普段のテストも何も書いていないことが非常に多いです。もちろん解答欄を埋めることだけが大切ではないのですが、せめて少しだけでも解いてもらえないと、こちらとしても心良くんのわからないところを把握することができないので……」
「はあ、そうでしたか」
どうにも煮え切らない父親の返事に、各教科の先生から事あるごとに「C組は優秀な子たちが多いけど、さすがに兄の方の網瀬くんだけはいただけない」と言われ続けた記憶が掘り起こされる。稜子は腰を椅子から浮かせて少しだけ厳しい表情を作った。
「心良くんは宿題の提出率も低い――というか全く出してくれません。自宅学習の時間は取れていますか? 私の方でも度々注意してはいるのですが、この通りいつ話しかけてものれんに腕押しの状態なんです」
本人の目の前でする言い方ではなかったかもしれない、と言った直後に不安を覚えたが、心良はやはり無反応だ。自分の話をされているにもかかわらず全く気にした様子もない。もしかして、会話の内容を認識していないのだろうか。
父親は申し訳なさそうにぺこりと頭を下げた。
「いや、その……息子たちのことは妻に任せきりでして、成績がどうとかは何も。勉強はそれぞれ勝手にやってるものだと思っていました」
あまりにも正直かつ無責任な言いように目眩がしたが、実際のところこういう父親はまだ多いと聞く。建設的な話などできそうもない。稜子は奥歯を噛んで束の間考え込んだ。
網瀬心良という生徒に関して、稜子はもう少し踏み入った心配をしていた。それは、彼が何らかの学習障害か発達障害を抱えているのではないかということだ。心良が人前で言葉を発しないことも、テストの答案が空白ばかりであることもそれなら納得がいく。何も考えていないように見えて、実は心の中で助けを求めている可能性があるのだ。
だが、それこそ三者面談の場でする話ではない。デリケートな問題なので教師の側から検査を勧めることも難しい。ましてや、自分の息子の学習状況を知らない親に耳を傾けてもらえるはずがあろうか。
悶々とする稜子の内心を知ってか知らでか、父親は「やっぱり、あれですかね」と場違いにのほほんとした声で言う。
「塾とかに通わせたほうがいいんでしょうか。確か、玲矢は行ってるんですよね」
「じゅ、塾、ですか」
多少は問題意識を感じてくれたのならありがたいが、答えづらい相談だ。
教師の中には塾を毛嫌いしている人も少なくない。一般的な進学塾の授業は学校よりも進んでいるため、教師の説明に対して「塾でやりました」「塾の先生はこう言ってました」と口出しし、話をまともに聞かない生徒がいるそうだ。
稜子は、塾を利用することも方法の一つだと思っている。智春や玲矢を初めとするC組の優秀な生徒の場合は特に、公立中学校の授業だけで学習意欲を完全に満たすことはできないだろう。彼らは学校の授業も真剣に受けている。ただ、心良は話が別だ。
「あの、塾に通うこと自体は大丈夫ですが、玲矢くんと同じところはやめるべきかと」
「うん? 塾は塾でしょう。何か違うんですか?」
「玲矢くんの通っている塾って、駅前の大手進学塾ですよね」
父親はあからさまにきょとんとした。塾の名前まで覚えていないことはわかった上で訊いたので、気にせず話を進める。
「あの塾は進学校への合格実績を重視するところと聞いているので、学校の勉強でつまずいている子は相手にしてもらえないと思います。心良くんには基礎的な学習をサポートしてもらえる学習塾、あるいは個別指導塾などが合うのではないでしょうか。紅黄市内にもいくつかあったと記憶しています。まずは体験だけでもいかがでしょう」
「ほうほう、なるほどなるほど」
稜子はふうと息をつく。学校教師が生徒の親に通塾を勧めるとは職務怠慢だと冷やかされることも、心良を傷つけることも覚悟していた。しかし、父親は「お詳しいですね」と媚びるように頬を緩めているし、息子は明後日の方向を見て口を半開きにしている。
急に何もかも考えすぎなのではないかと思えてきた。もはや自棄になって「性格検査の結果をお渡ししますね!」と机の中から判定表を引っ張り出そうとする。だが、あるべき場所にあるべきものがない。
「あれ? ……あ、あっ!」
期末テストの結果を伝えることに気を取られていたのですっかり失念していた。心良は四月に受検したYGPIも白紙で提出しており、判定不能と診断された学年で唯一の生徒だったのだ。学年主任に「あなたはクラスの生徒に性格検査一つ受けさせることもできないのですか」と叱られてしばらく落ち込んだことを連鎖的に思い出し、今すぐこの教室を飛び出して校舎の屋上で叫びたい気持ちになる。
「先生、どうされましたか? あの、面談の時間って何時まででしたっけ……」
顔を覗き込もうとしてくる心良の父親にいい加減嫌気がさした。反抗の意思を込めて、稜子は一秒だけ口を開かなかった。